反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

「こんなに外れちゃってダメかしら」 高橋源一郎の競馬名コラム。中京チャンピオンズカップ。W~このレースは競馬ギャンブルとして一つのパターンに嵌っている~

     こんなに外れちゃってダメかしら  高橋源一郎

 引用

この前、映画監督の安藤桃子 - Wikipediaお話をしたW注①W注②0.5ミリ - Wikipedia。俳優奥田英二W注③さん

の長女で同じ俳優の安藤サクラさんのお姉さん。

奥田さん一家とは、十年ほど前、偶然同じマンションのすぐ隣に住むことになり、家族ぐるみでお付き合いをすることになった縁もある。

それから桃子さんは、監督した作品現場でもある高知へ移住。

結婚、出産、離婚を経てシングルマザーとなり、今も活躍中だ。

 その桃子さんから高知がいかに住みやすいか、、どれほど人情に厚いか力説された。

食べ物がおいしいそうだ。妻は結構本気で移住を考えている。確かに僕の場合、どこにいても仕事はできる。

 桃子さんとの話が終わって、しばらくたって突然気づいた。「おおそうだ!高知には高知競馬もある!」いかんいかん、すっかり忘れていた。ご存じのように、高知競馬は地方競馬の常として経営も苦しく一次廃止の危機にあった。ところが、IPATなどを活用して、一転、売り上げ増加に転じ、長年全国最下位だった売り上げがぐんぐん増加。

近年では、多い、川崎、船橋、園田、に続く全国4位だそうだ。凄いぞ高知。移住するかな。

チャンピオンズカップ

そういえば、ココに出てくる連中は地方競馬にも参戦している。

ダートのチャンピオン決定戦だが、

◎は昨年の覇者チュウワウィザード。

昨年と同様のローテーション、力の衰えもなく、ココは勝ちたい。

⓭の単。

相手は中京得意の

〇オーベルニュ

テーオーケインズだが

注目はもちろんソダシ。

初ダートで、圧勝もあるが惨敗もありそう。ワクワクするね。」 

              サンケイスポーツ連載競馬コラム引用終わり

             ~このコラムの連載も相当長い、20年以上?~

ヘミングウェイ、良い文章を書きたければデイリーレーシングフォーム - Wikipediaに学べ。

高橋源一郎の本に大橋巨泉の競馬コラムと専門誌のメイン予想コラムを比較した文体論が載っている。高橋さんはそのつもりで書いている。名競馬コラムで鳴らした

寺山修司 - Wikipedia

塩崎利夫の哀愁競馬コラムとは程遠いが、我らにもっと光を!と。

>心大きく、目を見開いて地場を広げよう、と想う。

@知らないことが多すぎる。

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W注①。ナルホドな。介護経験を客観視できた!

引用

「自身の介護経験をもとに着想を得て書き下ろした[W。母方安藤の祖母介護経験かな?確か料亭の女将柳橋~名画「流れる」の舞台。隅田川の左岸下流、今は柳橋芸者もいないよ。~犬養毅の愛人。

W注②

2014年に同名タイトルで映画化された。題名の意味は「静電気が起こるくらい近い、人と人との距離感が0.5ミリ」と本人が語っている。W。私見だが介護は1対1,同じ屋根の下介護が一番厳しい!

W注③奥田英二はこの映画しか見たことがない。他には遠島先の島の出来事と脱出のはなし、意味不明な映画だった。

極道記者 - Wikipedia

主人公、作者、塩崎利雄 - Wikipedia

~~日刊ゲンダイJRA中央開催の毎週土曜日「止まり木ブルース」を長年(35年目)にわたって連載中の競馬小話兼今週のメインレースの予想。登場人物、背景の時間が止まっている、こんな連載小説は稀有~~の長女で、同じ俳優の安藤サクラhttp://映画『かぞくのくに』~W,写真を見ただけだが役柄にしては本人が上品すぎる。演技は旨いのだろうが?~

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 日本の競馬はダート競馬を主体すべきというのが昔からの持論。

速い時計の出る軽い馬場でいわゆる手先の軽い走法の馬が活躍しソレを褒めたたえている日本競馬界に疑問を抱いてきた。先ほど引退したコントレイユなどその典型!

春夏秋冬、天変地異、降雨量多し、一競馬場の開催日数多すぎ。これらの日本的な気候、環境は芝のレースよりもダート(端的にい合えば砂)のレース条件の方が適合している。馬場整備、維持費もかからない。競馬スポーツとしても競争条件の公平性が担保できる。

 そもそも、数百年にわたって競馬目的で淘汰されたサラブレッドと云えども、所詮、人間が乗って草原を駆け回っていた四つ足の動物の使役動物。ヨーロッパの競馬はその辺のことを考慮していると思う。アメリカのダート競馬はギャンブル条件の公平性や馬場整備維持費のコスト面を重視。

乗馬文化の有る無しも大きく影響している。

ヨーロッパ競馬は乗馬文化を捨てていない。

アメリカ競馬は乗馬文化はあるが、ギャンブルと経済動物としてのサラブレッドの価値の公平を期するために乗馬文化の徹底否定の上の成立した競馬をしている。

日本は何をやっているのかわからないが、はっきりしているのは官製競馬!

先の人工的なタータントラックと程多い日本的な馬場状態故に(内側が荒れていますとか雨が降って馬場状態悪化して走れなかった、内外の7芝の刈り込み具合が違うなど)馬力のないサラブレッドに特化していくような日本競馬はギャンブルとして公平な施工条件が担保されていない。

@もっとも大橋巨泉さんの至言。

@競馬はいい加減なモノ。

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13番、チューワウィザードが単勝3番人気で

2番人気がテーオーケインズ

1番人気が白毛馬でアイドル的人気の雌馬1番ソダシ。

>このようなレースは競馬ギャンブルとして一つのパターンに嵌っている。

 

葛西善蔵に拘る。おせいさんは路傍の神様だった。<私小説は一つの読みのモード>読者の置かれた境遇によって共感度は違う。私小説を再評価する時代がやってきた。

twitter.com

  葛西善蔵に拘る。

 いわゆる私小説の評判はガタ落ちになって今に至っているが、再評価の動きもある。私小説を日本文芸の悪しき傾向のように批判したのは、戦後の近代文学に代表される戦前の統制下、不遇を囲って敗戦とともに一気に世に出た非共産党系の人たちであり、その徹底的な批判(正論も多し)に菊池寛などが中心に形成された文壇(結局、出版大手資本+有名作家による権威付け各賞受賞システム~個人の才覚を旨とする文芸社あるまじき縦社会!)が小説など読み物を大量に提供する手前、最大限に同調したことで、私小説はその中身や日本的特性を検討することなく文字通りスルーされるようになった。

 もっとも、戦前型の私小説は作者自体が実体験の裏打ちのある(フィクション、アドリブは本体の物語の展開と作者の信用を損なわない程度にタガは目)貧困、鬱屈、孤独、悲惨の日常を小説の上で提供し同じような境遇に落ちる可能性のある読者の共感を呼ぶ必要に迫られているわけだから、最低の物的生活が底上げされた高度経済成長以降は、その存立基盤そのものが否定されたのか?

>この時代基調の変節に対する読みが大事だ!格差拡大の指摘はあるが他方で、まだ日本の社会風潮と心根は日本バブル崩壊後、冷戦体制崩壊時点に留まっている(正確に言えば2000年ぐらい)。長期にわたる社会風潮と心根の空白期間中に世界はエポックメーキングな時代に変節した~~~東アジア諸国の急速な経済発展は日本の汎用品生産を完全に凌駕する一方、日本の生産的資本は世界市場における相対的地位を低下させたが、付加価値力のある生産品は自動車産業だけのまま、金融寡頭制社会に完全移行しその経済社会の停滞性を露にした~。日本の社会風潮の目は外を気にしすぎるほどだが、心根は完全な内向きになった。コレは心の分裂症状で自画像を間違って描くケースだ日本は今後、自国は素晴らしい国、と国民全般が言いつのって時節が永遠縁に経過する国に堕するだろう。

時間不足で前後の脈略を省略して言えば、世界の先発国の人々に最も身近な時代基調は格差拡大だ。アカデミー賞受賞韓国映画パラサイト半地下」は格差問題をエンタメ的に主題にした作品だ。(あんな機械的なコンセプトと演出の駄作がアカデミー賞を取るなんて、よほどこの問題は興行化できない主題なんだろう)

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W。参考資料 ナルホド参考資料だ。なぜ半地下物件に低所得者層がすんでいるのか。

半地下 - Wikipedia

1968年北朝鮮朝鮮人民軍のゲリラ部隊が当時の朴正煕韓国大統領の暗殺を計画し、潜入した青瓦台襲撃未遂事件が発生。大統領官邸が襲撃された。以降も武装した北朝鮮工作員が韓国に侵入するテロ事件が相次いだ。そのため、1970年建築基準法改定では新築の低層住宅には国家非常事態のための防空壕として地下室を設置することが義務づけられた当初は貸し出すことは禁止されていたが、1980年代ソウルを中心に住宅不足危機になると貸与が解禁された[1]

今日に至っても、特に家賃急騰が続くソウルでは20代の平均月収が約200万ウォン19万1,873円で月々の家賃は約54万ウォン5万1,819.円と収入のうち家賃が占める割合は高く(W、東京並みということ。違いはこの物件ができた経緯!新築の低層住宅には国家非常事態のための防空壕として地下室を設置することが義務づけられた。~~W。パラサイト半地下はこの南北分断のリアルな背景によって出現したという事実を知らなければ本当の映画鑑賞はできないな!駄作呼ばわりしてすまないきもちでいっぱいだ!!」~韓国は東アジア戦争体制の最前線であった。一方の日本列島は効能兵站基地のまま。しかし、冷戦体制崩壊で局面は大きく変わった。北朝鮮の国家的存立基盤は冷戦体制であり、それが取っ払われると、綱渡り的軍事優先外交が必要となる一方で韓国は対アメリカ対中国、対ロシア、対日本の多面的外交の道が開けた。日本は兵站から前線基地により近くなり、経済的な東アジアとの緊密度を増す一方でアメリカ核軍事力に一層従属する経済と軍事のまた裂き状態になった。現状の日本経済MMT論者の云う供給力はあるが需要が足りない状態ではなく、国内において既に供給力が海外依存によって不足現存していない状態である。こういう時に金をばらまくとインフレになり庶民が苦しむ。)

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貧困層にとって半地下物件は重要な選択肢の一つになっている。日光が届かず薄暗く、夏には蒸し暑く、湿度が高いためにカビが発生しやすい。天井が低く、頭をぶつけないように両脚を思い切り広げるうように立たなければ頭をぶつけてしまうような物件もある[1]。韓国国内では半地下は有名だが、ポン・ジュノ監督による映画『パラサイト 半地下の家族』によって、国外での認知度が上昇した。

                  参考資料終わり

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 であればこそ労苦する人々の在り様を直に表現する文字、言葉、音楽、映像、コミュニケーションが一層必要だ

現実から一時的に逃れられる取って付けたようなフィクションも良いだろう。しかしそれだけでは心の需要は満たされない。各分野で労苦している人々の本能が赴くところを表現できる形式が必要だ。

 日本型私小説の徹底否定の上に大量生産された小説などの文芸作品が各種の情報過多、グローバル化の渦中で埋もれていくと様相が変わってきた!

@そもそも、戦前や戦後のある時期まで重宝がられた小説群のレベルを中身で上回る小説が創作されたのかどうかというクォリティーの問題がある粗品をつかまされて満足していてはだめだ。もっといいものを探さなければ(批評)、作らなけらば(作家)。

 端的にいえば、何かしら高級小説感を醸し出し、圧倒的な販売数の村上春樹さんの小説群私小説とは全くかけ離れたフィクションだ!)と戦前から戦後のある時期までの文学史上に残る作品を比べてみると私見では後者のクォリティーは無機質極まりない。(春樹さんで面白いのはノンフィクションもの違うかな)

シュチュエーションは精緻に描かれているが、そこに肝心な生きた活きた人間が不在。村上さんの小説を読んでわかったつもりのトレンディーな自分が大事ということではないのか。⇒であれば私小説時代と現代の違いは読み手の経済環境の違いだけになる、と想うのだが、時代基調は螺旋階段を上るように元に戻っている。

私小説が威力を発揮し、読者の共感を得ていた時代環境とは全く違うが、貧困や悲惨は絶対的な次元から相対的な次元に移行し社会風潮も全く様変わりした。

さらに先に指摘したように世界がエポックメーキングしていた時代に日本の社会風潮は空白、統合神経失調症発症の時代であった

心根に鬱屈、孤独が巣くう様になっているが直視たくない。

 一般的に若者文化といわれている、アニメや一部のJポップにチラッと接すると、若者たちの悲鳴を目の当たりにしているようで息苦しくなる。あのようなルートで心境を解き放ったら、人畜無害人間の集団が完成する。それはあくまでも対自的枠に収まったもの同士の共感レベルだ。市場操作(シンボル操作、統合)に都合の良い砂浜の真砂かな?

コロナ渦の結果、成人以下の各世代に現金給付や意図不明の金券給付をするなんて、社会の衰弱の象徴のような気がするのは自分だけか?そこまで気を遣わなければ子育ての環境が厳しくなっている、ということではないのか。悪く言えば高齢者を捨ててでもコレからの生産人口を守る、という二者択一しかできない。隠れた命の選別政策。

先の現金給付も必要ではなかった。一時金などよりも持続性のある政策だ。医療介護業界の点数アップの方が先だ!安心があれば労働創造力が増すのはヨーロッパを見ればわかる。日本は歴史上コーポラティズム社会なのだから、アングロサクソン国家、特に新大陸国家のやり方を真似たら、向こうにある対抗システムや対抗精神は日本にないのだから歯止めの外れた鬱屈格差社会が進行する。

 紙出版業界の売り上げは下降したままだ。

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 葛西善蔵の方法~「蠢くもの」を中心に~橿原修

縦書き論文形式 ワークペースでは上手く記事の枠に載らない。コピーぺーストもできない。

この論文?の趣旨は葛西善蔵私小説批判なのだが、ちっとも批判になっていない。逆にその評価すべき点を具体的に教えてくれている。

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/21403/20141016140904166107/kokubungakukou_176-177_27.pdf

>結局、当時(今も)私小説とは

引用

「コレまでの通説に反し

<対象指示上、主題上、形式上、の何らかの客観的な特性によって定義できるようなジャンルではないのであり>

私小説一つの読みのモードとして定義するのが最も妥当である>

冒頭に引用した宇野浩二葛西善蔵論もそうした読みモードの形式によった論である。

   宇野浩二葛西善蔵

>日本人の描いたどんな本格小説でも葛西善蔵心境小説で到達した位置まで行っているものは一つもないと思われる。

>小説もこの高さこの境地まで立ってみたなら多くの他の小説は何らかの意味で通俗小説と云えないだろうか。

                      宇野浩二、引用終わり

その後の葛西論の多くは~~読みモードを反復補強した。⇒Wこの論文も批判になっていない!

>今必要なのは葛西論の方向を転換することである⇒W。通読したが、方向転換はできず、葛西の小説の中身を詳細に検討する読みモードを開陳しているだけである

@なお、この論者の本論の内容を利用して、この記事全文に( )付きで留意点を付け加えた。

アドリブ、フィクションを加味して私小説の読みモードコンテンツのクォリティーを上げるのは小説家の常道手段である葛西の場合は孕ませたおせいが流産したことになっているが実際は産院で元気な子を産んで葛西との相変わらずの日々を送っていた、という周囲が鼻白む創作をやってのけた偽作者ぶりの一面もあったということだ。

葛西の作品は単なる鬱屈、貧困、悲惨、孤独の生活の綴り方ではない。実生活を彩り小説として掬いとる才を評価する良い小説の価値を見つけるためには駄作に接しなければならない。

 Wは葛西が宇野浩二の云う小説家だとは言っていない。

今において私小説的手法の意義が大切になってきているといいたいのだ。

 

 少し昔、小林多喜二の「蟹工船」の単行本が売れたことがあった。

蟹工船は小林が当時のプロレタリア文学の路線に沿って、わざと分かり易く書いた小説である。あんなものがプロレタリア文学の代表作のようにいわれているのはそれほど良い小説がなかったということだ。

本来の小林多喜二志賀直哉に私淑する散文を徹底して吟味した至高の表現を目指す人でアリ、出発点は小樽の詩人であった。

何が言いたいか

>「蟹工船」を今の人は読んでも心の底で違和感を覚えるだけだ。

>それよりも葛西善蔵

  • 椎名麟三(1911年生まれ)の戦前非合法共産党時代(姫路、山陽鉄道駅員の破天荒な活動ぶり、一種の悪漢小説)やその後の逃亡生活、
  • 徴兵検査の日、煙草を大量に煮詰めてがぶ飲みし、兵士失格の烙印を押された帰りによっためし屋で同じような手口で徴兵逃れをしたらしき男と目がぱったり合って、お互い合図したはなし、など枠組みで固められたプロレタリア文学よりも、読んでいてスカッとし面白い。
  • 『赤い孤独者』(1951年)河出書房 のち旺文社文庫 

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ameblo.jp

春の朗読会~時代の言葉と女優たちの声と~

構成・演出 小西優司

426日(木)~429日(日)

 

26日木曜日

14:30 

『淫売婦』葉山嘉樹山辺恵)

『椎の若葉』葛西善蔵(よしざわちか)

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元祖「働いたら負け」――葛西善蔵『哀しき父・椎の若葉』書評|元祖「働いたら負け」――葛西善蔵『哀しき父・椎の若葉』書評|NOVEL DAYS

   引用開始

妻が夫に愛想を尽かして実家に逃げ帰ったのではなく、金策のために葛西が妻子を帰らせたというのだから、すごい。そして、自分は東京を離れ、鎌倉の建長寺塔頭たっちゅう宝珠院を借りて移り住む。

一人暮らしのため、三度の食事は宝珠院裏の茶店招寿軒の娘に毎日運んでもらうことにした。この数え年十九の少女が、葛西作品の中で「おせい」として描かれた女性である。当時三十四の葛西は、十五歳も年下の彼女と同棲を始めてしまうのだ。もうリア充を通り越して、犯罪者の域に踏み込みつつある。

このおせいをモデルにした「蠢く者」では、自分の肺の病が進行していく中、おせいと取っ組み合いの喧嘩をするという悲惨な地獄絵図が描かれている。「作家案内」にあるように、「蠢く者」の描写のあまりの迫真性に、友人の作家広津和郎が心配して葛西を訪ねたすると事実は全く逆で、葛西は相変わらず昼間から酒を飲み、献身的なおせいに対してわがまま放題だったと言う……。
 これなどは、私小説の事実とフィクションの問題を考える上で貴重な資料と言えよう。

葛西には、病と貧困に苦しみ、道半ばで逝った悲劇の作家というイメージがあるが、それは一面の真実でしかない。鎌田は次のように指摘する。

 たしかに短かすぎるのに難があるとはいえ、『新潮』『改造』『新小説』などの月刊誌に、月一本の割り合いで小説を発表していた。不遇どころか、順調な創作活動といえる。

 生活力ゼロの、「超」がつくダメ男のくせに、いつも傍らには尽くしてくれる女性がいて、貧窮貧窮と言いながらなぜか酒は飲めている。遅筆でありながら、雑誌からの注文は途絶えない。実は葛西は、大正文壇における紛れもない人気作家の一人であったのだ。

哀しき父・椎の若葉』は、出世作「哀しき父」、初期の名作「子をつれて」から最晩年の「酔狂者の独白」、「忌明」まで収録し、葛西文学の代表作を網羅している。

 椎の若葉に光りあれ、僕は何処に光りと熱とを求めてさまようべきなんだろうか。

 これは、畢生の傑作「椎の若葉」の一行である。
 最初から破滅というゴールを設定し、それに向かって突き進んでいったような葛西善蔵四十二年の生涯は、予定調和を好む現代人に衝撃を与える。しかし同時に、実生活のマイナスの全てを、たった一つのプラスに転じたその文学の「光り」に、強烈な魅力を覚えずにはいられない。」  

   長い引用終わり。 ネット上で唯一、葛西善蔵の背景が簡潔、公平にまとめられている記事。

 

 葛西が生きた時代、小説でめしを食っている者は憧れの存在

ここが解っていなければ葛西の生活や行動、その周辺の人々の在り様もいまいちピンとこない。年取ったおせいさんの肖像写真を見ると意外にも上品なインテリ風。小説家葛西善蔵を認められる人でなければ、とっくに離別していた。

https://www.plib.pref.aomori.lg.jp/top/museum/sakka/sakka13_kanren/kasaKRJ_03.html

浅見ハナ(第二の妻)

引用

大正8年12月下旬、善蔵は鎌倉山ノ内建長寺内の宝珠院の一室に住んだ。建 長寺内半僧権現下の茶屋[招寿軒]の娘、浅見ハナ(当時20歳)が、高い石段 を登り降りして三度の食事を運び、晩酌の相手をし、善蔵の長男(小学生)の 世話をみたりした。「鶩のやうに」他を経て、大正11年作「おせい」の可憐な モデルとして登場するが、善蔵との困窮生活は、「蠢く者」等に凄惨に描かれ た。女児二人を産んだ。「われと遊ぶ子」に、郷里と東京の妻子への思いを、 善蔵は深々と語る。善蔵から「お前のおかげで小説が書けた」と感謝されたこ とを、ハナは長く心の支えにしたと、伊藤ゆう子(善蔵三女、ハナ長女)は語 っている。平成4年、東京で死去。」

椎の若葉に光あれ 葛西善蔵の生涯 鎌田 彗 - 愛に恋

引用

「生活の辛酸は苛烈な記録の酵母菌として、望むところであった」

葛西の余りに無頼派的な生き方には流石に首を傾げる。

妻の実家から援助を受け、妻子は郷里に残し、誰彼構わず借金を頼み首も回らず。
太宰は「悲しみは、金を出しても買え」と言っているが、それにしても度の過ぎる飲酒と貧困。
宝珠院に住むことになったきっかけは、建長寺正門前にあった龍王館からの紹介。
3度の食事は龍王館の親戚茶屋、招寿軒の娘、「おせい」が365日岡持ちを提げて運び、毎夜12時頃まで葛西の酌にも付き合ったとある。
そしてそこは男女の仲。
田舎に妻子を残したまま、おせいとの間に2人の子供を作ってしまった。
年若い石坂洋次郎はこんなことを書いている。
 
「ああ・・・文学とはかくも深刻な体験なしには生み出せないものなのか」
「人にキンタマもみせられないで、そんなことでキミ、いい小説が書けますか」
 
と嘯(うそぶ)いてる。
葛西の言う芸術とは、
 
果たして小説は妻子を路頭に迷わせても成立しうるか
 
その石坂洋次郎は葛西に散々振り回わされてやっとの思いで逃げ出すが、後世に生まれた私としては哀れさを誘うばかりで同情心が湧く。
おせいと葛西は喧嘩三昧の日々で、ある時、友人が葛西宅を訪ねてみると二人は取っ組み合いの最中。
ぼろぼろの丹前を着た葛西はおせいを殴ろうとするが、
 
「この糞ったれおやじめ、死にぞこないの業つくばりめ、さあ殴るなら撲ってみろ」
 
といいながら葛西を布団の上に押し倒そうとしていたとか。
14歳年下で背の低いおせいであったが既に結核と喘息に侵されていた葛西は、おせいに組み伏せられてしまう。
友人が割って入ったが何かその場の情景が目に浮かぶようで物悲しい。
それでも終生、葛西の元を離れなかったおせい。
宇野浩二は精神を病み、有島、芥川、そして牧野信一も自殺して葛西は結核に斃れる。
もう一度喀血したら最後と医者に言われ熱が38度あっても酒だけは愛した葛西。
芥川が死んだ翌年、7月23日永眠、享年41歳。1887年(明治20年)1月16日 - 1928年(昭和3年)7月23日)
おせいこと、浅見ハナ葛西の死後60年以上も存命し、晩年は痴呆症を患っていたが、時折娘の家を抜け出し、タクシーに乗って建長寺へ、そして宝珠院の階段で蹲っているところを発見されたこともあった。
W。浅見ハナさんは葛西善蔵の19歳年下。⇒1906年生まれ~亡くなったのは平成4年(1992年)。86歳まで生きた。
斯くも男女の間は物悲しい
二人の人生、偲びて何をか思わん。」

平成3年に亡くなった<おせい>さんは葛西善蔵にとって路傍の神様だった!

  引用 

葛西善蔵と私と椎の若葉と | 演劇集団アクト青山の活動紹介Blog

「彼を語る上で欠かせないのは
 
《おせいさん》
私が読む『椎の若葉』にも出てきます。
本名は浅見ハナさん。
この人は葛西が鎌倉にいた時の下宿先の娘さん。
 
故郷津軽に妻子がいる葛西は、《おせい》と良い仲となっています。
不倫というものですね、、
 
二人の間には子供もいました。
彼女は、いろんな作品に出てきます。
《おせいシリーズ》なんて呼ばれるくらいにたくさん出てきます。
 
そしてよく喧嘩し、泣いたりと感情が豊か
 
 
本当の二人も喧嘩ばかりしていたそうですが、
 
 
葛西が亡くなり自分も年を召し少し痴呆が入ってきた時におせいさんは娘の家を飛び出し葛西との思い出の鎌倉の宝珠院でうずくまってるところを見つけられたりしました。
単純に『愛がある』なんて言葉で言い尽くせない二人の縁を感じます。
 W。路傍の神様とはリアル極まりない存在である。
W。路傍の神様を大切にできない自分を攻めていたと思うヨ。もちろん本妻と子供への想いもある。酒を飲まずにいられなかった。自分で緩慢な死の道を選択し、それを書いた。
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You Tube

をよく見るが、つくづく私小説的精神で己を演出した動画をアップしている方が多い、と感心する。素人You Tuberは映像で私小説している。

日本版はそんな動画が多い、とおもう。よく見飽きないものだと感心する。私小説に対する読者の読みモード発動による思い入れと同じ次元で視聴モードの想い入れがあるのかも知れないが、昔の私小説作家の方がはるかに作品を苦労して紡ぎだしている

>ここにも私小説はもとより小説、もっと言えば散文全般が流行らない絶対的な環境がある。

@散文で伝えたい何かを表現する時代は過去形になってしまったのか。

@しかし、楽な表現形態の獲得は至高の作品を生み出さない!

『人間晩年図巻』(著:関川夏央)。されど~~「晩年」がなかった人たちのことを想うと身が引き締まる~~

最初に以下の記事が目に留まった。

「月収はせいぜい20万」「絶対に仕事なんかじゃない」東大中退のパチプロが明かすギャンブラーの“生活実態”とその“最期”(文春オンライン) - Yahoo!ニュース

国民的スターから市井の人まで、個性豊かな晩年を匠の筆で描き出し、彼らが世を去った〈現代〉という時代を浮かび上がらせる――山田風太郎が著した『人間臨終図巻』の衣鉢を継ぐ21世紀の新たなる図巻シリーズ『人間晩年図巻』(著:関川夏央が各方面で話題を呼んでいる。」ということらしい。

最近では珍しくすんなり読み進められた記事であった。流石作家上手く書けている。

>ニュースの下段に載っている関連記事数本を読んでみた。

特に気になった文藝春秋」編集部 source : 文藝春秋 2015年3月号

bunshun.jp文藝春秋015年3月号に掲載された編集部作の長文にもかかわらず、関川さんの記事に響くものがあった。

その記事の寂聴さんは私生活でも半ば公人を常に意識し演じているように思える。私生活において演じるヒト(私小説的人生を常に意識)への想いはストレートだ。共感の如何に尽きる。瀬戸内寂聴さんの演じる私小説的人生の対極にいるのが、葛西善蔵 - Wikipedia

1887年明治20年)1月16日 - 1928年昭和3年)7月23日)は、日本小説家である。自身の貧困や病気といった人生の辛苦や酒と女、人間関係の不調和を描き、「私小説の神様」と呼ばれた。」⇒W。ずいぶん評価が上がったものだ。<神様>だけは余計だよ!葛西の小説の良さは、同流の川崎長太郎 - Wikipediaを読めばわかる。文学ではないと思う。1901年11月26日 - 1985年11月6日[1]

W。時代背景は全く違う。

葛西の生きた時代は文筆で食える作家は上流階級出身の白樺派作家たちを除いてほんの一握りの超有名作家だけという時代であった(反俗日記は志賀直哉のファン。「クマ」を全文掲載した)。

 葛西は文筆で食える作家のボーダーライン上にいて、自らの私生活を小説の題材にしていた。元より本性の無頼が文学のため野放図に放置されているのだから、家庭や金銭、道徳的トラブルは絶えることなく、それを逆手に取って、というか自らをトラブル発生源とするかのような日常を文学的に掬いとって一種、飄々と描く才があった。

ただの悲惨や残酷な日常を有りのまま描いているのではなく、文学として昇華しているところに読者は惹きつけられる。読んでいると描かれたシーンがリアルに身近に感じ、何とも言えないやるせない気持ちにさせるパワーが簡潔な文体に刷り込まれている。あまりにも周囲と違うハチャメチャぶりに一種のユーモアも醸し出す。あるいは、誰しもがここまで無頼で堕落したいという願望が心の片隅にアリ、そのリアルな実行者がここにいる。文士という造語に何やら納得するものがある。

傍迷惑極まりない男にもかかわらず、妻や子とも、愛人は健気に生活できているから不思議。徹底すればこうなるのか。

W。子供と夫を捨てた寂聴さんも葛西の時代に作家を志していたら、大変なことになってただろうが、多分そのまま夫と子供一緒に暮らしていた、とおもうこの違いは大きい。時代を超えた文学的評価につながるのかもしれない。

寂聴さんの生き様は敗戦後の「日本解放」がもたらしたものであるそのことを中国北京生活や帰国後知った全国主要都市無差別爆撃による実家の戦災、母の焼死、夫子供との別れ、作家志望と成功までの道のり、の実体験を作家らしく大事にしていたからこそ、半ば公人として生きた出家後があった、と想う。

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冒頭に挙げたニュース記事関連『人間晩年図巻』(著:関川夏央で調べていたら、

独特の視点からの批判的な評が目に付いた。身が引き締まる思いがした。

hon-bako.com

引用

魔女の本領
彼らに「晩年」はなかった…『人間晩年図巻 1990-94年』

山田の本はたしか死んだ年齢で集められていたような記憶があるが、関川の本は同じ年に死んだ有名人が集められている形態をとっている。この形式の違いは以外に大きいと思う。現代史として書かれるのであれば、背景としての政治社会状況との関係があるのかないのか。どうしてもそれへの記述が欲しい所だ。

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しかし、個人の死というものは、ほとんど社会性を提示できないそれを示しうるのは、有名人の少数の死の記述では不可なのである。この点、山田風太郎が時間軸が長大とはいえ600人も歴史上の人物の臨終図巻を書いたのは、歴史を描こうとしたのではなくだれもかれも平等であると常に言われる死が実はめちゃくちゃ個性的で、平等でもなく、かといって格差で優劣がつくものではないと言う、このアンビヴァレントな実相のあわいを見せてくれた

wacwacにはこのようなアンビバレント感はない。

宇宙的地球的物質の自己展開の果てが今ここにいるだけ、砂浜の真砂の一粒だ。

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「晩年」という時間は、死んでから決められる時間だ。その長短さえ測れない。長命が晩年を長くしているとも限らない。

~~~~

山田風太郎が「臨終図巻」をタイトルにした秀逸さを、関川が「晩年図巻」をタイトルとしたことで何かがこぼれおちてしまった気がする。それは死そのものを徹底して見つめながら人の生を浮かび上がらせた山田の小説家として(医者であったという期本理解があることも無視できないと思うが)の力量と、関川がノンフィクシャンの名手であることの質的な違いかもしれない。関川がこの時代のまだまだ忘れられない死者を徹底的に集めて、調べて、本の重さで人が殺せるほどの本を書いてくれたら、そこにはじめて彼のねらう「現代史」が書けたはず。それを期待している。

なぜ、私がこのような不満を持つかを最後に書いておくと、この時代を後世に引き継ぐべきは政治的な多くの若者の死があったということが決定的に欠けていると言う点なのだ彼らには「晩年」はなかった。その悲しみを強く感じているからなのである。

                           魔女:加藤恵

W。最後の言葉に身が引き締まった。

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hon-bako.com

人間臨終図巻 - Wikipedia

W.人間臨終図巻

なのだから死んだ年齢で整理するのは当たり前なのだが、それにしても膨大な数。

>外国の有名人だけを眺めてみると、山田風太郎の関心の在り様がよくわかる。

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pione1.hatenablog.com

燐家の漏水修理して3000円もらってがっくりした件。

11月**日。

      燐家の漏水修理して3000円もらってがっくりした件。

 突如としてGemeinschaft(ゲマインシャフトGesellschaftゲゼルシャフト)という用語が浮かんできた。そして互酬というポランニーの概念を想いうかべ納得した次第だったが、関連して様々なこと記事にしてみた。

 

 社会学関連の本など今まで1冊も読んだことがない。多分高校時代の教科書で習ったのだろう。無理やり教室の机に座らせて教師が一方的に教え込むと柔らかい脳に傷跡を残す、ということかな。Wなど、高校時代のまま、というかそこに回帰している感がある。そこから先の教育は教室でほとんど受けていないも同然だが、ハッとしたことはあった。難解な日本語訳の本(原書はドイツ語)の英訳で読むと実に簡素、論理的で文脈にイラナイものがくっついていないのでスッキリ実に分かり易い。

もっとも、フランス語やドイツ語なら英語のように分かり易い、ということではないが。

 引用 Google

ドイツ語では、Gemeinschaft(ゲマインシャフト)は概ね「共同体」を意味しGesellschaftゲゼルシャフト)は概ね「社会」を意味する。 ... ゲマインシャフトでは人間関係が最重要視されるが、ゲゼルシャフトでは利益面や機能面が最重要視される。」

>安富さんがいっていたな。共同体という邦訳は欧米文化や(キリスト教の影響が強い)、日常生活習慣で育まれた用語の意味を普通に反映できず、それらとかけ離れた学問用語だ、と。用語の中身に日常的な生活習慣や感覚が詰まっていない。

日本列島の稲作文化やムラ社会は人間存在の生きんがための本能がそのまま放置されているようで共同体と重なる部分があるが、精神性という面で次元が異なるところが大いにあるようだ。 

 それで安富さんは儒教など東洋文化を研究している。回り道をして終いには迷子になるよりも、漢字や和文のルーツを研究したほうが良い、ということかな。

>Wは高校時代の漢文の授業で徹底した中国嫌いになり(表現が大げさ繊細さがないと)、漢文の受験を放棄したほどだったが、その後中国に注目し批判的ではあったが、毛沢東の本を読みこみ、そのスカッとした解放感と、欧米思想を中華思想に見事に熟している様に魅かれた。

 とどめは大きな図書館で表紙がボロボロになった中国史のエポックを各々の研究者が綴った本を何気なく手に取って読み込んだとき、中国の歴史の底流が解った気がした。

 韓国朝鮮に対しても理会はなかったが、韓国の高校歴史教科書(分厚く精緻、日本の教科書の1,5倍分ほど)を読んだり、自分の独自視点から本や情報を仕入れて、最終的に、韓国民主化闘争を理会した。日本の嫌韓的韓国観はここが抜けている。帝国主義戦争敗戦後の日本のGHQ民主化の意義と限界に向き会わなければ、当然にも韓国民主化闘争もスルーできる。

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ge•mein, [ɡəmáIn ゲ]

[形]

❶ (-er/-st) *1 いまいましい,腹立たしい

Das ist ja gemein.\それはほんとにひどい

Mir ist gemein kalt.\私はひどく寒い.

(付)普通の,平常の,並の

ein gemeiner Mann\平凡な男

ein gemeines Jahr\(うるう年に対する)平年.

❹ (付)公共の,一般的な

das gemeine Wohl\公共の福祉.

❺ (付)(述)(gemeinsam)*2(…3と)共通の,共同の

Diese Eigenschaft ist ihnen gemein.\この特性は彼らに共通している.

et4 mit j3 gemein haben\…4を…3共有する.

sich4 mit j3 gemein machen\…3つきあう.

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ドイツ語でよく「○○シャフト」という単語が耳に付くのですがどういう意味合いなん... - Yahoo!知恵袋

引用

シャフト;schaft

名詞・形容詞・動詞などの語尾について、
性質や状態が集まって大きな1つとなったような意味合いをもちます。

たとえば、
●友達Freund + schaft = Freundschaft 友情

●知識Wissen + schaft = Wissenschaft 学問

●名人、チャンピオンMeister + schaft = Meisterschaft 選手権試合 などなど。」

「ありがとうございます。ドイツ語って音がかっこいいですね。英語で言う○○SHIPですかね・・。

お礼日時:2008/11/5 12:31

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引用

テンニエス(1855‐1936)人間の意志をA本質意志とB選択意志に区分し、この二典型に対応してA社会を実在的有機的生活としてのゲマインシャフト

B観念的機械的構成体としてのゲゼルシャフトに区別して社会生活の根本問題を分析する。19世紀における合理主義と歴史主義の対立の克服綜合を試みた社会科学における不滅の書。」

W。人間の意志をA本質意志とB選択意志には区分できない。学問上の区分にすぎない。従ってゲマインシャフトゲゼルシャフトの区別もが机の上での便宜的区別に過ぎない!

   W。注目すべきは

ge•mein, [ɡəmáIn ゲ]の多元的な意味と

シャフト;schaft

名詞・形容詞・動詞などの語尾について、

>性質や状態が集まって大きな1つとなったような意味合い

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時間不足で先に進む。当時のテンニエス(1855‐1936)は「合理主義と歴史主義の対立の克服綜合を試み」

てはいない。まったく!

自由放任資本の強蓄積の結果、20世紀に突入し金融寡頭制の世界的な成立と他方における労働力商品群に貧困を蓄積させ、世界市場において先発資本制国と後発資本制国の世界戦争によってしか解決できない対立を生み出した。

この時代のトレンドは帝国主義世界戦争(ヨーロッパ戦争)と革命であった。

 この時代の最先端の政治ー思想の究極の形は、社会主義コーポラティズム - Wikipediaであった。

アメリカ流の民主政はまだこの時代、世界化する条件はなかった。それが世界化するのはアメリカが世界戦争で荒廃する西側諸国唯一の資本、資源、そしてイデオロギーや制度の供給国になって以降のことだ。

 ワイマール憲法は当時の資本制に変わる社会主義制度への道が多少なりとも盛り込まれ、同時に資本制を守る奥の手である政治家個人とその政党の独裁が明記された国家基本法憲法であった。

 当時の社会主義社会民主主義をそれぞれ自称)には3つの政治潮流があった。

1つはイギリス労働党の徹底したイギリス市民革命によって成立した伝統的議会尊重と穏健労働運動擁護の社会主義(伝統的な議会~貴族、地主、資本、労働層~で構成)が政治を差配していたので社会民主主義を自称する必要がなかった。

2つ目は独仏の社会主義(イタリアもその一種)<社会民主主義>。

ここではイギリス的議会の伝統がない~遅れた暴力市民革命=王政打倒~ことから、戦闘的な労働運動の権利拡張を議会主義的社会民主主義政党が応援するという形をとっており、それら政党内部に労働者社会主義革命を原理原則とする勢力と伝統的な労働運動で培われた労働貴族層に寄る労働官僚層を抱え込んでいた。~なお、労働貴族とは日本の今に照らし合わせると、トヨタなど大企業の正規社員の状態を指す。労働官僚とは、労働貴族層の労働組合の幹部。金融寡頭制の支配層の利害と一致する不労的所得と特権に依拠する労働貴族層を形成し、その政治幹部は率先して帝国主義戦争推進の旗振りをする。

その3の潮流。

資本制国同士の戦争の危機が深まると、ヨーロッパの労働層がお互いに銃をもって殺し合う事態がリアルに現出する。ヨーロッパの社会民主主義政党は相互に、こういう事態に陥ったときに連携する原則と国際会議の場での討論を約束していた。

>ところが各国議会で国民徴兵と戦時特別予算の審議が日程に上ると、

@戦争に身構える各国の支配層と一体となった労働官僚とその政党の主流派は戦争体制の一翼を荷い、戦争に反対する国内の政治勢力を潰そうとする。

>この社会民主主義陣営内の2つの政治潮流の分岐は社会民主主義の政治目的が一国において遂行されるのか、国を超えた協調によって達成される本質を持っているのか、という根本問題を提出している。

>金融寡頭制の創り出す格差の拡大傾向とそれが生み出す国内経済対立、政治矛盾がはっきりしてくると支配層は外国勢力の脅威によって自国民が困難に陥っていると国民の目を外にそらす。ヨーロッパの国民国家の成立はこのような排外主義を根拠に達成されら側面がある。だから、国民国家と排外主義の相関関係は根深い。

@一国内の社会民主主義政党の最大の政治経済眼目は進行する政治経済格差の改良である。ところが目の前で起こっている事態は真逆、格差拡大の大本の金融寡頭制支配層と一緒になって各国の労働層同士が戦争する政治体制を担っている。

ここに当時の社会民主主義政党の政治綱領的矛盾が集約された。

@この政治綱領的矛盾をイデオロギー的に解消する理屈がコーポラティズム - Wikipedia

である。

引用 

ーポラティズムCorporativismoCorporatism)とは、政治経済分野における共同体の概念の1つで、国家や社会などの集団の、有機体的な関連性と相互の協調を重視する[1][2]

コーポラティズムの概念は19世紀ヨーロッパで、当時の個人主義的自由主義による個人主義的な社会観に反対する形で発生し、共同体を人間身体のように見做し、個人の間における有機体的で社会連帯的で機能的な特質と役割に基礎を置いた。

20世紀にはベニート・ムッソリーニなどファシストがコーポラティズムを主張し、国家組織に経営者労働者の代表を組織し、統制経済を行った。これは「国家コーポラティズム」や「権威主義的コーポラティズム」とも呼ばれる。

また第二次世界大戦後は、北欧などの民主主義諸国における政府利益集団のパートナーシップに基づく政策立案・政策運営・利害調整もコーポラティズムと呼ばれる。これは「ネオ・コーポラティズム」(新コーポラティズム)や「社会コーポラティズム」、「民主的コーポラティズム」、「社会民主主義的コーポラティズム」などとも呼ばれる。」

W。以上を読み込むと、グローバル資本制の今、「国家や社会などの集団の、有機体的な関連性と相互の協調を重視する」統制経済の「国家コーポラティズム」や北欧などの民主主義諸国における政府利益集団のパートナーシップに基づく政策立案・政策運営・利害調整もコーポラティズムと呼ばれるネオ・コーポラティズム」(新コーポラティズム)や「社会コーポラティズム」、「民主的コーポラティズム」、「社会民主主義的コーポラティズム」は機能を有効に発揮できない、と解る。

国際的に流動するマネーの力(個々人と言い切って良い!)があまりにも大きすぎて、国家や社会、ましてや所謂共同体を飲み込んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:英)mean卑しい,卑劣な:下品な,野卑な

ein gemeiner Kerl\卑しいやつ

eine gemeine Verleumdung\卑劣な中傷

gemeine Redensarten\下品な言い回し.

❷ (述)(副)((話

*2:j-et3

2021年、11月26日。心室期外頻拍と判明。見守りケアの人。夜の様子伺いに訪ねると、嶮しい顔。初めてヘルパーさんとトラブった。

心室期外頻拍は装着した心電図ホルダーの波形図で説明してもらった。今更何も言うことはない。

 今までの生活スタイルを見直す必要がある。

心電図ホルダーを24時間装着していた感触ではキーボードで込み入った事を入力しだすと、変調を自覚した。ぐ~と交感神経を集中させると、具合が悪くなる。

 反俗日記はもっと気楽な記事を載せることにした。

一番簡単なのは、資料を揃え、読み込まなくて済む記事を書くこと。

>路傍の神様を大切にする。

@夕方のヘルパーさんは、一種の介護拒否にあって、一端退去し、Wが見守りケアの人とベッドに座って事情を時系列で聴いているとき、またやってきた。気になっていたのだろう。神様は食事は済ませていたが、薬は飲んでいなかった。

@ま、あの女(中年)の人はお転婆少女がそのまま年を取ったようなひと、と想っていた。Wと一緒で角が取れていない。何回か、何だこのヒトは、という場面があった。

>当たり前のあいさつをしない、のには違和感。

眠剤の眠の一本線が抜けていると指摘されたときはびっくりした。

@仕事は一所懸命やるが自分流儀を押し付ける所がある。

訪問介護のヘルパーさんの中には他所の仕事で通用しない我流が許されている人がいる。利用者は弱い人がほとんど。上司も人手不足で止められたら困るから、誤りを指摘しない。

*当然にも現場スキルは我流のまま、放置。

*要するに上司は利用者の立場第一ではなくヘルパー雇用維持第一。

@今回のトラブルも事情を聴いてみると

@ヘルパーさんは自分のやり方がいつもより説明不足でもコレまでの交流で解ってもらえることとおもって、冷蔵庫からおかずを次々と出して、「ハイ食べて」「薬を飲んで」という段取りが進行するものと想っていた。

@ところが認知症の本人にとって、当のヘルパーさんは初対面(2回/W)

>6人が入れ代わり立ち代わり、30分程度しかないないのだから、覚えきれない人も出てくる。覚えていても忘れる。忘れていても思い出す。それで最後にはみんな忘れるのだよ!

>一方、当のヘルパーさんはいつものやり方を何かの事情でちょっとぶっきらぼう

会話なく、行動で行き成り介護目的を達しようとした記憶障害、見当識障害の人へのコミュニケーション不足、ということだ。

@症状がその時、悪化していたことも考えられる。以前の見守りケアの人は安定ペースで情緒を維持できていたが、ケースバイケースで混乱することが多くなった。

>変化し非現実的になるのだから、対応する側も柔軟性が必要になりWなど面倒なので途中省略し迷惑をかけた後で反省し落ち込んでいる。

*しかし、尊敬の念にいつも返る。

*自分があの人のように高齢で一所懸命、品性を保ち規則正しく生きられるか。

*徹底的にひねくれ切ったWと違って本当に気の良いヒトでもある。

*足元にも及ばない!

@だた、職業として時間内で仕事する立場のひとは見守りケア程度の気の良いヒトには、これを教訓に柔軟対応してほしい。そうでないと見守りケアの人は立つ瀬が狭くなる

@自分は解ってもらえるつもりでコミュ不足で行動しても、相手にとって見知らぬ人。

何を行き成りやっているのかということになって、その行為を拒絶する。

ジェルソミーナ!路傍の神を大事にしなければ。

 

新庄剛志新監督就任前の日本ハムで何が起きていたのか。~~NPBで最先端のMLBサイバーメトリックス導入フロント差配と地域密着型球団運営の成功と限界の果てに中田翔暴行事件は発生、2021年日本シリーズオリックスVSヤクルトの底流にMLB流セイバーメトリクス導入の威力、日ハム、2軍監督経験をみる。中島、高津両監督のマネージメントは今の選手には最適合。

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 北海道日本ハムファイターズ新庄剛志新監督就任以降、ネット方面では関連のニュースが出回っている。Wも何かそこに斬新なものを求めて、一杯記事を読んだ。

 過去の記事日ハム札幌ドーム運営権問題を取り上げ、その際には、サッカーコンサドーレ札幌との本拠地共有問題について、野球グランド⇔サッカーグランドへの転用時の大掛かりな、グランド<移動>整備問題を具体的に検証した。確かにあのような大掛かりな転用をこのままズット続けるわけにはいかない。野球選手のコンデション維持にも影響してくる。運営権の問題は何か日ハム側の虫が良すぎる感がした。骨のある自治体は断る。札幌ドームは大阪ドーム横浜スタジアムとは事情が違った。

 以上を勘案して折り合いがつかなかったら日ハム側が出ていくしかないと、結論付けていたら、かなり離れた郊外に開閉式のドーム建設中としって、大したものだと感心した。ただしコレは経済的リスクを伴うことも確か。この記事を仕上げてから編集している言っ時点の感想を言えば、新ドーム建設決定、着工のころより、日本ハムファイターズの球団運営、チーム事情がそれ以前と違う段階に至り、球団経営側に力みが生れ、それがヒトの要素満杯の現場の事情にない成す要因として働き続けた、と考える。

注目のドラ1高校生指名は素人ながら無謀に思えた。素材が悪すぎ育てようがない。

反面、今年の大海さんは大当たりだった。言行一致の魅せる素晴らしい投手だが、その活躍を予測できたことに感心する。

 おそらく、日本プロ野球2リーグ分裂以降、大毎(大映永田オーナー)が東京球場を荒川区南千住に新築したことに端を発し、ダイエー福岡ドームや周辺の整備して以来の巨大設備投資である。

前者の東京球場は球場込みの引き取り手がなく、廃墟放置から解体更地になった(兵どもの夢のあと!)系譜から言えばファイターズの前身のはず。

後者はソフトバンクが引きついだ。ダイエーの中内さんは高度経済成長時代の消費革命の寵児だったが、孫さんはグローバル資本制の日本における先駆け的存在だった。ダイエー的不安定要素もあるが。

 

>今回の日ハムの巨大な設備投資の行方がどうなるのか?

>2005年以降のMLB的フロントシステム導入の成果と限界のなかで発生した中田翔暴行事件の顛末MLBの暴行事件への対処を横にらみに、先進的なMLB方式を踏まえた日本的なフロントシステムや現場マネージメントはどうあるべきか、を最終結論として考えていきたい。

sp.baseball.findfriends.jp

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     W。収集した参考資料多数を列記する。

1  https://javelinmitsu.com/yoshimurahiroshi/

日ハムの前進を生み出してきたフロントの経歴

   W.注目点をピックアップする

1999年から3年間デトロイトタイガースのGM補佐などを3年間務める。

>Wの記憶では当時のデトロイトタイガースは阪神タイガースと業務提携していたはずだ。 

          ↓            ↓

で、経験と知識をもって帰国すれば、こういうことになる。

2002年から阪神タイガースの総務部に3年間在籍 

このヒトは元々スポーツ紙の記者。阪神タイガースに取っ掛かりを掴み業務提携先のデトロイトに行った、とみなすことができる。当然、帰国後は阪神タイガースのフロントに努めるが、肝心なことは

>このころの阪神がどういう状況にあったかだ!

 

1984年 安藤統夫 4位

1985年 吉田義男 1位

1986年 吉田義男 3位

1987年 吉田義男 6位

1992年 中村勝広 2位 準優勝なる用語を編み出した。新庄剛志亀山つとむ。ヤクルト僅差優勝。

1998年 吉田義男 6位

1999年 野村克也 6位⇒W。この時にY氏はデトロイトへ留学。GM補佐などを経験。ポット出にできるわけがない。阪神は野村を選んだことによって自ら変わろうとしていた。

2000年代

2000年 野村克也 6位

2001年 野村克也 6位

2002年 星野仙一 4位⇒W。Y氏帰国。今の阪神ファンの中核はこの強い阪神時代に形成された。阪神の球団経営戦略がそれまでの巨人戦依存のスタイルから元々あった関西マスコミ地域密着型+甲子園と球団史をプラスした全国性をさらに目的意識的に追及し、あっと言う間に成功した。

Y氏の日ハム北海道球団経営戦略は阪神時代に体験した事を形振り構わず徹底したもので、人気のないデトロイトタイガースの必至のやり方にまねたものと思われ。

2003年 星野仙一 1位 たった一度の準優勝以外15年間見事にAクラス維持。

2004年 岡田彰布 4位

2005年 岡田彰布 1位

2006年 岡田彰布 2位

2007年 岡田彰布 3位

2008年 岡田彰布 2位

2,

日本ハム日本一の陰に吉村GM有り 共闘3人が語る - 野球 : 日刊スポーツ

3 このヒトは食肉業界、日ハムに就職した人で日ハムが主導するセレッソ大阪社長経験者。ここで抑えておくべきことは、楽天Jリーグ所有。パ・リーグ経営資本は経営体力があるということ。

藤井純一 - Wikipedia

4 この記事のコメント欄を読み込んでいた途中で今回の連載記事の着想を得た。

新庄ビッグボスはどう思う? 日本ハムが西川、大田、秋吉を自由契約選手に 来季の契約提示せず(東スポWeb)のコメント一覧 - Yahoo!ニュース

 

5,暴力事件現場や試合前円陣差別事件のYou Tube映像や具体的な内容を記した記事は「反俗日記」に載せないことにした。

他人の心を傷つけたりスキャンダラスな方向に流れるのは反俗日記の趣旨に反する。人はみんな死ぬ、失敗する。偉そうなことは云えない。

>ただし、大きな疑問点がある!

>あの円陣はいじめを含むどうしようもない内容であったが、動画にアップしたのは日本ハム、広報の公式サイトに端を発するのもであり、これを見た視聴者が「あまりにもひどい差別問題」だと指摘しだした経過がある。

@日ハム広報はこの円陣動画が差別を含むどうしようもない内容だと認識し、告発をするつもりでアップしたのか、それともコレが日ハム普通の試合前の円陣くらいにしか認識していなくてアップたのか!

@結果的にこの円陣で声出しをする新人選手に牢名主のような態度をとった含む数名は移籍、契約時のバイアウト措置になったが、同調者を処分すれば野手の主力がいなくなるのではないか。お山の大将には追従者がいる。立て直すには星野仙一的劇薬がいる。現場の新庄やヘッド山田さんフロントの稲葉さんでは無理なんじゃないかと思う。本部長は成功体験の柵から抜け出せない過去の人だと思う。会社プロパーの人でないので新球場を横にらみに成績不振が続けば、進退を掛けた責任問題が発生する。

天才みたいに云うヒトがいるが、この事態を積極的にしか型のであれば、本当の意味での策士。ま、MLB流+阪神地域密着型を北海道で実践した稀に見る人物にしか見えない。ヒトモノカネに力のあるパリーグ球団の中で勝ち抜いていくというのも厳しい。

 

6,一理はある。日本的な手続き、禊、の問題を提出している

中田翔 巨人移籍で日ハムに言いたい!中畑清のモヤモヤが爆発【キヨシの超本音解説】 - YouTube

 

7,MLB一流選手=良いヒトではない。人によって基準は違う。単なるスポーツエンタメ職能人(監督でさえ)。野球を離れたボランテァ活動など側面を評価する賞を特別に設置している職能性と人間性を分離する大人の考えがある。

プロスポーツで大金を稼ぐ人なんて人間性が普通でなくなるのは当たり前だろう!

なお、アメリカは銃規制の緩い、暴力的風土の国家。文化習俗アメリ個人主義変な考え方の人いっぱいいるよ~、日本は集団主義MLB選手同士も個人主義的関係、上下関係は薄い。監督と選手関係も日本とは異なる)の違いも大きすぎる。

 だから、MLBの対処がNPBに受け入れられるかといえば違う。日ハムの対処は、日本野球特有の上下関係の中で発生するいじめ的問題に対して日米の段差をドライに消去しようとした側面もある。吉村GMの限界ちがうかな?(謹慎⇒巨人即トレード。ただし日ハムでは中田は無理な状況。日ハムは今後、暴行事件はなくてもまた同次元の問題は起こる。球団経営方針がアメリカ流儀だ。気やの大地にMLB流の球団がある。

中田翔の暴行騒動はMLBだったらどうなった? ボンズやラミレスらの“有名事件”を例に考える | THE DIGEST

引用

2019年9月にはパイレーツでこんな事件が起きた。クラブハウスでかける音楽をめぐって、クローザーのフェリペ・バスケスと中継ぎのカイル・クリックが殴り合いの喧嘩に発展。結局、後者が右手人差し指を骨折し、残りシーズンを欠場する羽目になった。⇒W。パイレーツはナ・リーグ中地区底辺を続けている。

 言うまでもなく「みっともない」の一言に尽きる一件だ。だが、いずれも球団から特に処分は受けなかった(というより、直後にバスケスが児童性的虐待で逮捕されたため、それどころではなくなった)。

 この手の事件はMLBにおいては、かなりの頻度で起きている。そのため、しばらく経てば忘れ去られてしまう。だが、なかには今も多くのファンの記憶に残っているものもある。
 

 その代表格が、2002年に起きたバリー・ボンズとジェフ・ケント(W。新庄選手SFジャイアンツ在籍時、リーグ優勝。ケントは白人至上主義者。)という2人のスーパースターによる試合中の大喧嘩だ。


 ともにMVP受賞者で、ジャイアンツでは3、4番コンビを組んでいたボンズとケント(W。殿堂入りを狙う大選手。2塁手のHR記録保持者)は、犬猿の仲でも有名だった。派手なプレースタイルで"オレ様"ぶり全開のボンズと、自他ともに認めるオールドスクールのケントはまさに水と油の関係だったのだ。



 事件が起きたのは6月25日。試合中に守備でミスを犯したチームメイトをケントがダグアウトで叱責しているところに、ボンズが割って入り、激しい口論に発展。小突き合う2人の姿はテレビカメラにもしっかり収められた。

 当然、メディアでも大きく取り上げられたが、当時のダスティ・ベイカー監督は「こういうことは大抵、強いチームで起きる。弱いチームはいつも馴れ合いだからね」と涼しい顔。2人に何の処罰も下さなかった。⇒W。パイレーツのケースとは次元が違う。

 ベイカー監督の言葉通り(?)、チームはこの年、サンフランシスコ移転後44年目にして初のリーグ優勝を達成。試合中に公衆の面前で揉み合ったのは、大人げないとしても、その後の対応は大人そのものという不思議な一件だった。

 ボンズとケントの事件から遡ること10年前には、シンシナティで監督とクローザーがクラブハウスで大乱闘を繰り広げた。

当時、シンシナティ・レッズのクローザーを務めていたロブ・ディルは、100マイルに迫る剛速球を武器としていたが、コントロールも性格も大荒れで、何度となく乱闘事件を起こしていた"札付き"。一方のルー・ピネラ監督も瞬間湯沸かしとして有名だった。

 ある試合でディブルを起用しなかった理由を報道陣に聞かれたピネラ監督は、「肩が痛いと言っていたから」と回答。その直後、ディブルが「そんなことは言っていない」と反論。面子を潰された指揮官は激怒し、報道陣の面前でディブルに襲いかかったのである。周りにいた選手たちに引き離されるまで、ピネラ監督とディブルはプロレスの場外乱闘さながらの揉み合いを続けた。

 翌日、2人はオーナーのマージ・ショット女史に直接謝罪(このショット女史も、ヒトラーを称賛する発言をはじめ数々の放言で知られた人物だった)。特に処罰は下されなかったが、ピネラ監督はその年限りで辞任した。

 ディブルとピネラ監督の一件は、トラブルとはいってもどこか笑える要素がある。だが、レッドソックスの主砲として活躍し、ユニークなキャラクターでも人気を博したマニー・ラミレスが起こした事件は趣が違う。

 08年6月にクラブハウス職員に関係者用チケットの手配を頼んでいたラミレスだが、手に入らないと伝えられて激怒。チームの古株で、当時64歳になっていた職員を突き飛ばした
 

ラミレスはすぐに謝罪し、球団からも特に処分は下されなかった。ただ、気まぐれだがどこか憎めないキャラクターだったラミレスの"ダークサイド"に多くのファンがショックを受けた。騒動の1か月後、ラミレスはロサンゼルス・ドジャースへトレードされるのだが、この一件が遠因になったと言われている。」

W。現職大統領のアジ演説で鼓舞された大集団が開催中の国会議事堂に突入する国柄。

W。野球界で適者生存の仕方を徹底した野球観や方式を日本でストレートに導入すれば、他球団の先を行けることは確か。しかし、そこで問題が発生する。過去の実例では外国人監督導入は半分ぐらいは短期間で実績を得ている。

www.news-postseven.com

高津臣吾 - Wikipedia

W.MLB。韓国、台湾、海外野球の(独立リーグも含めて)経験値は新庄の比ではない。

高津臣吾「二軍監督の仕事 育てるためなら負けてもいい」感想 | まぶたはともだち

www.nenzop.net

高津臣吾 2020ヤクルト 高津流スワローズ改革! 第4回「二軍監督を経験した強みは 一軍指揮にどのようなプラスをもたらすか」 | ビジネス | アルファポリス - 電網浮遊都市 -

池山隆寛二軍監督との連携

引用

高津 さっきも言ったように、会社員でもプロ野球選手でも、どんな仕事でも「働きやすい職場、やりやすい環境」が本当に大切だと思っています。それは、一軍もファームも一緒です。僕自身もやりやすい環境が必要だし、選手たちにもそういう環境を与えたい。それはファームの選手に対しても一緒です。そのためには、池山二軍監督とは密に情報を共有しています。とは言え、現実的にはさまざまな難しさがありますけど。」

――実際に、高津さんが二軍監督時代にはブルペン捕手を急遽、支配下登録するなど選手不足に苦しんだこともありました。

高津 僕がファームの監督だったときに選手不足に苦しんだことは確かにありました。それでも、二軍監督としては「わかりました、大丈夫です」と言うしかない。今度は自分が一軍監督となって、池山さんにそういう思いはしてほしくない。その思いは強いです。これは、自分が二軍監督を経験したからこそ、強く感じていることだと思います。

――では、「環境を整える」ために、一軍監督としては何をしたらいいのでしょう?

高津 常にフルメンバーで戦えるようにすることです。スワローズの場合、支配下、育成選手が潤沢にいるわけではないので、選手が一人欠け、二人欠けると、そのダメージは他のチームの何倍にもなるんです。現実には不測の事態による避けられないケガ人も出るわけだから、ただの理想論なのかもしれないけど、できるだけ全員がグラウンドでプレーできるようにしなければならない。

――そうなると、選手のコンディショニングがとても重要になってきますよね。

高津 そうです。たとえば、練習量を減らすことで防げるケガもあると思うんです。これまでの経験から言っても、実際に「練習量を落としていれば……」とか、「どこかで休養を与えていれば……」と思うような故障もあるんです。疲れがたまっているときに無理やり練習することは必ずしも正解ではない。それは肝に銘じています。担当コーチにも、トレーナーにも、しつこく言っていますし、選手のコンディションについては、僕自身も常に目を光らせています。

――ペナントレースでも、ベテランの青木宣親選手、坂口智隆選手に休養を与えつつ、若手選手をスタメン起用する試合が何度もありますね。

高津 選手によっては、休憩、休養が必要な選手は絶対にいます。ケガ人が減るためならば練習量は減らすし、離脱者が減るのならば休みを作るのは全然アリだと思います。ただ、現状では想定外の故障者が出ているのも現実なんですけれど……。

中嶋聡 - Wikipedia

引用

1969年3月27日 - )は、秋田県北秋田郡鷹巣町脇神(現北秋田市)出身の元プロ野球選手捕手)。右投右打。オリックス・バファローズの監督。

1987年昭和62年)に阪急ブレーブスへ入団してから、西武ライオンズ横浜ベイスターズ北海道日本ハムファイターズでプレー日本ハム時代の2007年から2015年まではバッテリーコーチを兼務していた。(W。2003年~2015年日ハム現役選手。その間にコーチ兼務。ヘッドハンティングされてオリックスに帰った。日ハムの球団運営、現場マネージメントはハイクオリティーだった!!)

2015年に現役選手としての一軍実働年数が29年に到達し、工藤公康と並ぶNPB最長記録を達成」

現役引退後

>引用

2016年日本ハムのチーム統括本部としてゼネラルマネジャー特別補佐に就任し、日本ハムの業務提携球団に当たるMLBサンディエゴ・パドレスに派遣[12]アメリカへの滞在中には、コーチとしてマイナーリーグの傘下球団を巡回する一方で、外国人選手のスカウティングにも携わっていた[13]

2018年日本ハムの一軍バッテリー兼作戦コーチとして3年ぶりに現場へ復帰した[14]が、シーズン終了後の10月19日に退団。

2019年オリックス・バファローズの二軍監督に就任[15]ブルーウェーブの捕手時代にバッテリーを組んでいた小林宏二軍投手コーチと共に、榊原翼K-鈴木などの投手を一軍に定着させた

2020年、二軍監督を務めていたが、一軍監督の西村徳文8月20日の対西武戦京セラドーム大阪終了後に辞任したことを受けて、翌21日から一軍監督代行に就任。この異動に伴って、二軍投手コーチの小林が二軍監督代行を務めている。シーズン終了後の11月12日、一軍監督に就任

正式な監督就任初年度となる2021年オリックスの25年ぶりのリーグ優勝を果たす。阪急・オリックスの球団史上、チームで選手としてプレー経験のある監督がリーグ優勝を達成するのは中嶋が初となる。」

                      引用終わり

           予想 

     新庄監督はいばらの道。

長いブランク、外から野球を見た経験も足りない。現場の勘が鈍っているのではないか。セリーグなら何とかなるがパは相手チームが強い。

投打に選手が足りない。長打力不足。打では若い野村。外国打者で余程優秀な人材を見つけなければ下位低迷。投では伊藤大海。アマチュア時代から動画をアップしており、探求心旺盛。進学先に駒澤大学ではビジョンが描けなくて中退、浪人し地元の大学への球歴も一過言アリを証明している。よく1位指名したものだ。キレのある変化球を投げ球威制球力もある。2021年五輪出場。最後まで故障なく投げ切った。宮城投手と新人王争い。いずれにしてもチーム成績は期待できない。

      広島カープ 鈴木誠也ポスティングMLB

 スイングは日本向き。バットに乗せて運ぶ感じメジャーAランクの速さに達していないとみる。打者としては筒香の最盛期の方が迫力があった。メジャーの外野なら打つ方では普通の選手。しかし、選手不足のMLBでは需要があるが、コロナ渦で経営体力をなくした球団も多い。金満球団の評価次第で契約金は決まる。

 

    2021年日本シリーズ オリックスVSヤクルト

 ヤクルトが1つ2つ勝てれば御の字。

ヤクルトは先発投手陣が手薄。川は未知数(奥川こけたら皆こけたになる可能性大)だが、2番手の左の若手程度のストレート程度では、パ打者は苦にしない。CSではスライダーのコントロールはイマイチ。ということで狙い球を絞られて撃ち込まれる。それ以外の先発投手は平凡で勝ち星が計算できない。

打撃陣も塩見以外はCSでは調子が良くなかった。外国人打者もシーズン中の元気がない。

 オリは投打とも柱が何本もあり実力派ぞろい。もともと最下位を続けてきたころより、セに来れば常時CS争いをする総合力があったが、投打に数人若手の急成長があった今年は序盤から一気に首位争いに加わり走りぬいた。

両チームに力の開きが相当ある。

 

世の中にあまりにも多い悲惨な事実。 救いようのないものの中に神がいる。路傍に神がいる。

  こんな日々が続く。1日の中身がいっぱい詰まっているので年月の経つのは遅い。

 おかず9品買って、用事を済ませてやっと帰ると、見守りケアのひとに2回目のトイレ漏水発生中。半年以上前のような階下の住宅へのダダ洩れではない模様。本人に聞けば近所に助けを求めたという。事情を聴いたが要領を得ないので近所対応は後回しにして、前回買ってきたスポイトで何回も排水管に詰まった取りレットペーパーを押し出して完了。

    階下の人(中年女性)

に連絡して老衰の有無を確認。

その人は新聞の折込チラシで上手に小銭入れを折ってくる。折り方を知りたくて分解してみたが想像以上に複雑だったので大したものだな、と感心した

珍しくこちらの話をよく聴いてくれるヒトで、話しているうちに自治会長の役が抽選で回ってきた当時のことを語ってくれた

葬式があったときは仕事を休んで受付をした、近所の人が用事で頻繁に訪ねてくるので表のガラス戸に目張りをしたことがある、円形脱毛症になった跡は今でも残っている、とか。確かに図太いところは全くなかった。かといって弱弱しいところもなかった。ここまで話してくれるのは自分のはなしにどこか共感したからと、勝手に想像していた。入居年月が経っていないまま、集合住宅全体の公益費を集めるのは事情を知らないだけにまずはこちらから話しかけてみることだと思ったが、やっている途中で皆自分が想っている以上にしっかりした人たちばかりだと分かった。

最後にまた抽選で回ってくるとどうしますか、と尋ねたら「またやるよりしょうがないでしょ。」と。ここでまた感心した。腰の据わり様が違う。

後日、同じ階の町内会長に何をしているヒトなの?に聞くと看護師だった。

前回の大漏水の時に対応したヘルパーさんは「いいヒトだった」といっていた。

前回、謝りに行ったときに玄関に結構念入りに仕上げられた額入りの油絵が何枚もかかっていた。

Wは浮世絵展でたまたま見た東洲斎写楽の大首版画に魅せられて東洲斎写楽の古い画集から切り抜いて貼っている。それを毎回見ていたので話す気になったのかもしれない。

 あと一人、わざわざ東洲斎写楽の版画を飾っている理由を聞いてきた高齢の女性がいた。ばっちり化粧をいつも決めてくる人だった。1年後に道端で出会った時、ふらついていたので少し立ち止まって声をかけた。「今にも主人が部屋から出てきそうな気がする」といっていた。「その気持ちはわかります」などとあの時はこたえたが、すぐ口先だけだと想い返した。自分にはそのような情緒はなかった。

その2年後、膝を患たのか階段を後ろ向きに下りていた。その後、車いすに乗って鼻に酸素チューブを挿入していた。「買い物しますよ」といえば「ケアマネージャーさんがやってくれる」と。今は名簿を見ると籍は在宅のままのようだが本人がいるかどうかわからない。

 ヘルパーさんに時々、スポイトで押し出しくれるように張り紙をした。自分だけが気づいたときの処置では間に合わない。

 部屋で対処していると、近所の人が駆けつけてくれた。

前回の漏水も含めて対処経過を説明し、

 自分の体調不良の現状もできるだけ客観的に説明した。

理解できる範囲で状況を知ることで納得し悪い事態に備えることができる。

前回の5Hの手術前、勇気をもって臨んだ。大勢の患者さんいる待合室の前をベッドに乗せられて通り過ぎる時、手を振ってやりたい気分だった。そんな術前患者がいてもいいじゃないかという訳だ。

数字を勘定しながら点滴に混入された麻酔薬が0、数秒の単位で効く感覚は、病院での多くの死はこんな状態なのだと、後から想った。

医学の発達によって死(病院死が圧倒的多数)は身近なものではなくなったが、逆に病院死は身近で簡素なものになった

 無理やり自分で自分を殺す必要はなくなった。緩慢な死という選択肢もある。

 朝このままズット横たわっていたいと思うことが時々ある先日暗くして寝床にいたら、見守ケアの人が訪ねてきた。そこで己をさしおいて相手にアレコレ介護的説明を繰り返さなければならない状況だった。起き上がると体調が悪かった。説得が効を奏さないのは常識なのにやはり説得してしまう。それでトラブって悩む。

 トラブっても次の日、あっけらかんとやってくる。

落ち込んでいる自分に救いの手を差し伸べてくれているものとばかり思っていたが、その日はいくら何でも、と思ってわざわざ訪ねて行って聞いてみた。

そこで判明したのは、前日のトラブルのことは記憶から削除されているということ。

毎朝、果物をもって様子を見に来てくれるものが来ないので訪ねてきただけであった。 

ハードボイルドタッチが徹底されているのだ。

あっけらかんぶりにがっかりしたあと、風呂を入れてくれとまたやってきた

仕方がなく湯を調節し入れるうちに、もうなんだかあきらめの境地のような感情が浮かんできて、「いつもの足の薬を塗ってあげるよ」といった。拒絶はできないのだ。

 自宅に帰って突然「ジェルソミーナ」邦題「道」の物語が脳裏をよぎった。そうかそういうことだったのか。神々しい存在とは見守りケアのような人なんだ!そこに無垢なる絶対性がある。どのように認知症が法則的に展開しようともその絶対性は崩れない。

 自分が実習でそのような究極系のヒトを恐れ何もできなかったのは、路傍に実在する神々しい存在を予め拒絶し神を見出そうとする心根がなかったからだ。

ジェルソミーナを失って号泣する男は路傍に実在する神々しい存在に気づいたのだ!自分は最後まで全うしようと思った常々想っている諦めることの人間的な大切さ頑張ることではなくあきらめ境地を徹底すること。浜の真砂の一粒の運命に身を任そう。

  ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、流れに浮かぶ泡沫はかつ消えかつ結ぶ手留まりたるを知らず。⇒路傍の神々たちも流れ去っていくよ。

       災難に合う時節には合うがよく候

       死ぬる時節には死ぬがよく候

       是はこれ災難をのがるる妙法にて候

 5Hの手術が終わって全身麻酔から覚めたとき、このまま目覚めなければよかった、と傍らの看護師に言った。

 

 その半月後、隣の認知症の独居老婆は介護してきた夫が人工透析からがん転移で長期入院中に焼死した。

火災事故を受けて駆け付けてきた中年の長男は脳に血が詰まって杖を突いていた。

遠く離れて普段行き来のない次男だけが無傷だった。

救われるものが救われない。

世の中にあまりにも多い悲惨な事実に対して、事実の指摘や嘆きよりも逆転の発想が要る。

救いようのないものの中に神がいる。路傍に神がいる。見いだせないのは主体の問題だ。

 この消火活動で階下の部屋が水浸しになり、小学生の子供を含む一家が浸水被害を受けた。

同時に騒動の最中に認知症の老妻の夫が布団の中で急性心不全で亡くなった。後日近所の知り合いの訪問で発覚したことで、妻は夫の死を知らずに数日を過ごした。子供たちは福祉事務所勤務と消防署勤務と伝え聞く取り残された老妻は、数か月後に施設に入った。

*この記事を仕上げて訪ねていくと、ベットにおかしな布団の敷き方をしていた。

聞いてみると冬の支度だった。

記事を書いた効果で考えがまとまったせいなのか、自然な気持ちで毎年着る重い昔布団を掛けて横になって「大丈夫か」ときいた。OKだった。見守りケアの人は目にうっすら涙を浮かべていたので湿っぽいのが嫌いで記事に書いた主旨をかみ砕いて伝えようとしたが、語っている傍から白々しくなった。まだまだだな。

 

瀬戸内寂聴さんが亡くなった。99歳。

@親戚のおばさんの娘が寂聴さんと女学校の以来の親友で、ずっと長く付き合っていた。おそらく死ぬまで。気前の良いヒトで高価な和服をもらったりしていた。噂話は子供のころ聞いた記憶がある。役所勤めの叔母さんも瀬戸内晴美さんと同じ境遇を実践していた。最後は高校教師と一緒になった。同年代のうちの美人でハイセンスを自覚していたおばさんも飛んだ人でお互い気心があったか、うちによく来ていた。戦前の日本文化否定、アメリカ文化の受容者だった。

子供の私を同等に扱うところがあったので影響を最も受けたヒトかもしれない。プロ野球中日ファン美空ひばりが大っ嫌いだった。

戦争に青春時代を送った、気位の高い小市民家庭の同世代の男は戦場の最前線士官として大量に玉砕、戦病死しているという現実。戦地最前線傾向のある地方ではその傾向が都会より強かったのではなかろうか。残った女世代が同等の?の結婚相手を見つけられないというギャップがある。

寂聴さんは若くして作家を志し才能によってなるべくして流行作家になったひと。瀬戸内寂聴全集の中の故郷と人性を描いた私小説はリアルに迫ってくるものがある。一気に読んだ。有名な仏壇仏具製造販売の店の娘、瀬戸内晴美は身近な存在だった。寂聴さんになってからも云わんとすることは解った。バイタリティーと才覚溢れるひとだった。

    私の母も飛んでいるヒトだった

今頃納得できた偉大なヒト。介護、野良仕事、仕事で不在の夫と鬱陶しい家庭環境。子供の世話が後回しになったのは当たり前だ。母のことが今頃になって解った。いかに自分が未熟人間であったか。

 父は頭がよく手先が器用なヒトだった。ほんとうは学校教師になりたかったのではないか。妹の嫁ぎ先の高校教師と同学年の成績を口にしたことがあると母は言った。地方銀行の幹部で終わった。しかし彼の人生は「家庭生活を放擲した仕事」に尽きる。長男だが家を出るべきだった。一人ひとりの人間は死んでいく存在。最低限度のモノカネがあれば生きて行ける。ましてや子供たちの幸福はカネのあるなしではない。無いものの中で生きていくのが本当の才覚だ。流石銀行員、何もわかっちゃいなかった。若くして認知症を患った。

祖父は男子を最高学府に行かせなかった。理由はある。自らの挫折に学歴無視の理由を見つけた。長男の父の弟は神童と云われていたそうだが、上に行かせなかった。結局、地方財務局の幹部で早死にし妻は田舎の女医をしていた。とにかく、地方の典型的な小市民の家庭ばかりが親戚だった。何処を向いても教師、公務員。その他固い職業。本家というのは戦前に地方の大地主から資産家ブルジョアジー成長し地元資本家と親戚関係を築いていた。

もう一つの分家の当主は大卒後の地方公務員をレッド・パージで追われ家屋敷は大きいが細々とした生活を営んでいた。

 わたしは勉強しろとは一切言われない生活環境で育った。中学生時代、さすがに一切勉強はしないのはまずい、というか成績表が張り出されるの試験前に勉強していると爺さんに早く止めるように諭された。このヒトは1地方に1つの高等師範学校の出で若くして近隣の小学校の校長をやっている途中で肺結核にかかり職を辞し野良仕事に精を出し、引退後もいつまでも<センセイ>と呼ばれる名誉職に就いていた。明治男のご多分に漏れず外面が良く内ずらが悪いタイプだった。教職の立身出世街道の挫折は精神の在り方を鬱屈させた。

そのじいさんが私をかわいがった。学校の成績はぼさーと黒板を見つめているだけでよかった科目がとくいで5を通した。足が速く、小学校の運動会でダントツの1着を繰り返したが釈然としなかった。ただ走るだけだったからだ。通信簿にボール競技に特殊な才能があると書かれたほど野球は得意だった。高校の野球部の投手のストレートを振り遅れながらもライトオーバーのヒットを打ったことは今でも覚えている。軟球の速い球はキチンと振り切り芯に当たれば振り遅れてもライトオーバーの長打になる。練習ではよく左打席にたった。長打は出なかったが芯に当たった。アッパー気味のスイングがなかった、とはそのころから自覚していた。小学校3年ぐらいでカーブが投げられたがポジションはサードだった。長嶋茂雄のつもりだった。徹底的に深めに守って打球を処理しアウトにするつもりだった。どんな打球でも処理できる自信があり、特に遠投は狙わなくても投げただけでよかった。そうやっているうちに早々と遊撃にまわされ試合に出るよようになった。このポジションで上手くいかなかった記憶が今でも残っている。一番難しいのは正面足元を襲うハーフバウンドの強烈なライナーだ。これを処理できずランナーを許した屈辱感!SSの難しさは試合でやったものでなければわからない。スコアリングポジションを守るのはショートだ。投手-捕手間の配球打者の動きがリアルでよく見えるのでポジショニングというか、次を予測し重心の掛け方など特殊技能が必要。捕手の肩に問題があれば盗塁はバンバン来る。小学校5年程度で小さな庭で真上にノックフライを打って、バットを捨てグラブに持ち替えフライアウトにした。ガラス窓の下、50センチのコンクリートに思いっきりストレートや変化球を投げてガラスに当てることはなかった。

 ところが中学時代、突然スポーツにまったく興味が失せた。家庭環境が悪かったこともある。きっかけは同じクラスの成績もよく似て席もまじかだった同級生に興味を持ったことからだった。授業中何かをやっている。見ると戦艦や戦闘機を鉛筆で丁寧に描いていた。抜群にうまいと思った。北京放送やモスクワ放送の愛聴者ではがきを送っては返信が来るのを見せてくれた。当時。雑誌月刊誌「丸」の熱烈な愛読者。少年マガジン、ジャンプは戦記物のイラスト付きに特集を毎号やっていた。それらを見ながら鉛筆画を書いて、北京放送を聴くという異次元の世界が開けてきた。次の年は推理小説に凝った。創元社文庫は徹底的に読んだ。最後まで読み切れなかったのは「月長石」ぐらい。学校の成績は急降下したが偶にやる実力テストは急上昇するので自分でも不思議だった。

家庭環境は最悪だった。高校受験の前夜、夜遅くまで家族内の大げんかをすると始末。

中学時代一貫してハードルのある勉強をする家庭環境保障されず、ついマニアックな趣味の方向に走った。

目指す高校に行いけない、といわれたときは納得し難かった。

実力テストで最優良クラスの席順を決める時に後ろの席順から望む高校受験資格を教師から言われる人が数人いたのは不思議だった。

 しかしいった先の高校は良かった。明るく自由な校風に初年度は馴染めなかったが、慣れると自分にピッタリだった。面白ろ真面目な生徒と先生がいた。もっとも生徒より教師が優秀だったのではないか。親友はジャンポールベルモンド気取りで頭が切れて不良ぽくクラスの女生徒の人気投票で第一位だったが女に無関心をいつも装っていた。

学校カバンは弁当だけ入れてくるのでいつも薄っぺらだった。教科書は全部ロッカーに入れているので持ち運びする手間が省けるというモノだ。こういう生徒は理数系を苦手とするものだが、成績は適度の良かった、授業の中で理解しているようだった。

そいつがなぜか自分に関心を持った。こうと決めたら強引な奴で自宅に遊びにいってもいいか、と突然机の前に両手をついて正面に向いて聞いてきたので、勢いに押されてOKというしかなかった。

来てみると隠遁者風の趣味に驚いたのではないか。そのころ、サリンジャーの「ライ麦畑でとらわれて」の日本語版を修学旅行の自由時間に神田の古本市に一人で探しに行ったり、ウィリアムフォークナーのミシシッピ州オクスフォードの隠遁生活にあこがれ、で修学旅行の小遣いなどをためて買った秋田犬を飼っていて、綿の上下の作業服で飼い犬との日向ぼっこが趣味。フォークナーは力強く粘着質の描写力に感心した。原文で読めばもっとスッキリすると思う。その後でカミユに魅かれた。サルトルVSカミユ論争はカミユの方に一理があると思っていた。サルトルの論法は徹底的に相手をやっつけるスタイルで当時は受けた。その時代にキーワード、アンガージュマンを除くとカミユを上回るものは提起していない。2年の時に「世界の歴史全集」や人「間の歴史」を試験期間中に勝手に学んで、解った気になった。この辺は当時の高校生の定番の教養パターンだった。テストの点数が悪すぎると担任の教師に事情を聴かれたので正直に話した。苦笑いを軽くして試験前にはちょっとは勉強するモノだよとだけ言って、それ以外何も言わなかった。中学時代と違って勉強しなければ成績が急降下する。頭の限界である。若い教師は60年安保ブントで、図書館の静けさに学問生活に目覚め、大学に残るつもりが資金不足で教師になったヒトで古典ギリシア語を朝早起きして学んでいる、といった。

同僚で教師生活の傍ら学問をする教師の噂を何度も授業の中で話した。書庫が凄い、と。その教師が後に大学教授になっているのを古本屋の書棚で知った。担任の教師は前の赴任校の女生徒と結婚していた。ここぞというときに、アジってクラスのモノをやる気にさせる。学生時代もあんな調子だったのだろうか、どこか明るくすかっとさせる気分でクラス中を一杯にした。クラス対抗などで抜群の効果を発揮した。ただし、何かと反抗的な生徒が多く、陰でどうしていたんだろうか。あまり心配をかけるなよ、などと時折言っていたが。放課後の素行不良で校長室に親友と呼び出され、友がビンタされた仕返しに職員室に一人でいって、あんたこそその時赤信号無視で渡っていたではないか、などと言いがかりをつけたので、その後化学の授業では見せしめを受けたが意気揚々としていた。いじめられるのは選ばれししもの気どりだった。

交換留学の若い女性教師の英作文では、クラスのモノが一致して後ろの黒板に英文で今すぐベトナム戦争中止!と大きく書いた。アイルランド系の若い女性教師は「OH!グッドアイデア!」といった後、わたしを前に呼び出し、からかった。アメリカ帝国主義ベトナム戦争反対、解放戦線支持、中国文化大革命支持とかいたのだ。民青は数人いたが目指すものが身近になかったので、活動家ではなかった。昼の休憩時間に誰となく集まって大勢になり喧々諤々、学生運動、安保条約、自衛隊憲法の討論をした。

歴史教科書の書きっぷりや試験問題の出し方を見たときは激しい疑問を抱いてきた。歴史年評を超えた歴史推進の軸を探っていたのは間違いない。

 現役大学入学が至上命令だった。政治の季節の最期に間に合わないからだ。そのためだけに受験勉強をしたが入学後、活動の場を保障できそうな大学の合格ライン到達を確認してから現状維持に切り替えた。もうひっつの大学の試験はキャンセルしその足で合格掲示板を見に行った。父親に初めて勉強のことで叱られた。キャンセルした大学が格上と想っていたのだろうか。クラスのモノは私が大学に行って活動家になるものと思っていた、という。その風をいつも吹かせていたのか。高校3年になると学校や教師は眼中になかった。自分独自の世界があった。私立大学に行くものは相手にされない雰囲気だった。地元の大学にでも行こうか、と親友に相談すると、「ガキ相手に仕事して何が面白い」と一蹴された。侮蔑とニヒルを気取るが彼の特徴だった。確かに教師だらけの親戚筋をみていた。

 入学したとき、男子学生が多く、受験勉強の名残があって高校と全然違う暗い雰囲気にびっくりした。しかし不思議なもので同じように手抜き受験勉強した人間ばかりが周りにいると感じた。一発合格受験制度はあれはあれで有効な選抜手段だったのだ。

大学闘争もその延長の感は今でもぬぐえない。

 入学後、厳しかったのは所謂、内ゲバかな。

相手を殺す論理、意味が見いだせなかったので断った。このままいけば殺すところまで覚悟しなければならないのは自明の理だった。確信がなく殺しておいて取り調べで陥落するのは目に見えていた。殺す方にも確信と訓練がいる。しかし相手のことを認め自分たちの欠陥も解っていた。高校時代に一杯乱読し、政治と理論を相対化する癖が身についていた。あそこで一念奮発し飛躍していれば、どうなっただろうか?強制はされなかった。やる気のあるのは手を上げろ、というだけだった。ハードルを越えると立ち位置が変わってくる。

内部の位階制はある。高卒したばかりのモノがいきなり上になれば、その位置に自分がつくものと思い込んでいた本人は急にやる気をなくす。転向もしないで出てきて人望もあり良いヒトだったけど最初の脱落者になった。都会の小金持ち資産家の息子という出目もある、とおもった。

文学もかじって頭もいいのにそのままいった同級生もいる。話し合った時に理論に必死に純化しているようにみえた。優等生は肝心なところでピュアになる、自己克服力が悪い方に向かう。とみた。

 しかしあのままやって行って長期投獄され転向すれば、その後の活動の持続はなく、今こうしていなかったかもしれない。そういう巡り会わせはある。日和見主義者が最も後まで活動を続けることもある。しかしあんな抜け穴だらけの理論に日和見は当たり前だ。途中からまともじゃないと確信した。

ただし、倫理と状況が許さない。あの時代、あの状況でやってはいけないことはあった。後付けではなく当時、そう判断した。経済学の本は好きだった。中学時代に東洋経済会社四季報に興味をもった。当然株式中継のテレビ番組も長く聞いていられた。資本論も念入りに読みこんだ。

 

  恋愛関係は絵にかいたような敵対関係の中で続いた。

相手の言い分が大局的であると認めた。そこには政治がある。他方の政治は間違っている、とわかった。そのいみで反省を口にしたが、活動をするに至らなかったが、相手の意思を尊重し応援はした。なかなかの美貌のヒトで大人しく素直なヒトだったが大胆なところもあった。高校三年で逮捕されていた。赤軍派時代の森恒夫の手配写真が格好いい、というのでアホ違うか、というと笑っていた。そいういう時代、そう云うヒトもいた。いまより自由な時代だった。

活動を止める根拠がなかった。ある日突然、活動家になった訳ではない。ずっとその価値観を注視し築き上げてきた。一人の中に戦う根拠があるのだから、一人になっても戦うということだ。

 

@自分の関わる人は89歳。来年で90歳。前々から当面90歳を目標に見守ると云っている。その前は集合住宅の金集めの仕事が終わるまで。両立は難しすぎた。手術をしたのはその間だった。白内障が進行し数字の勘定や記録に苦労し間違いが一杯出た。書き直しを1から求められても素直に従った。それでも休まなかったよ。5hの術後、3日ぐらいで病院の階段を上り下りした。本も読んだ。記録もとった。仕事に文句も言わなかった。全うしようとした。あの年は住宅で5人なくなった異例の年だった。

結局自分の場合、運動をしながら肉体的に追い込んでいく習性が抜けきれないことが症状を悪化させる原因なのかもしれないがこれこそが自分流。気が付けば困難な方に一人で向かっている。

あのころも温水プールで4000メートルノンストップで泳ぎ切った。できるだけ速く長く、体が悪くても研究すればできるが、身体によいはずがない。

今回も似たような状況。性だな一種の。

生きるも死ぬも一緒だ。