反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

1980年、光州抗争以前、と以後。日本の研究者の弛緩した見方と現地の緊迫感ある評論。

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5·18民主化運動記録館

全斗煥 - Wikipedia

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死者への追悼と社会変革――韓国民主化闘争を振り返る

                       真鍋祐子

                               2018年6月2日

真鍋祐子私は韓国の民主化運動についてずっと研究をして参りました。それで1987年から88年にかけて、一年間ソウルに留学をして、1991年から93年にかけて2年間、大邸(テグ)にある大学で日本語教員をやっておりまして、その間、民主化運動はまだまだ激しい時期でした。ちょうど大邱にいた時分に民主化運動の現場で抗議の焼身自殺というのが一ヶ月で11件も続いた、そういう時期を過ごしました。それは1991年のことです。4月にソウルにある明知大学の一年生がデモのさなかに機動隊に殴り殺された事件をきっかけに、抗議の焼身自殺が全国に広がったのです。

在職していた大学のエントランスホールには、どこかで抗議の焼身自殺者が出る度に焼香台が設置されて、その台の上に亡くなった学生なり労働者なりの遺影と、ときには黒焦げの遺体の写真、あるいは燃えているさなかの写真が飾られていて、お焼香ができるように線香が立ててある。これが4月から5月にかけて約ひと月、10人以上も亡くなっているので、非常に私にとってもハードな経験でした。

その時に、なぜ自分自身が信ずる正義を主張するために死ねるのだろうかと疑問に思いました。しかも、そこで亡くなっていく学生というのは、韓国は兵役制がありますので、男子学生だと復学生といって、自分とほぼ同年代なんですね。その同年代の韓国の学生・労働者たちの感覚というものに、どうしても共感できなかった。なぜなのかということを、知りたいと思いました。

あと、焼香台が設けられているところにいて、これは社会運動ではあるんだけど、宗教ではないかとも思いました。以前、韓国の漁村でシャーマニズムの調査をやってきましたので、伝統的な死生観という観点で、韓国の民主化運動の問題をやってみようかなと思いました。

この遺族会はもともと「民主化運動遺家族協議会」という名目で1986年に発足するんですが、90年代の半ばあたりに「全国民族民主遺家族協議会」と改称されます。それはなぜかというと、学生運動の争点が民主化を求める運動から民族統一を求める運動へじょじょにシフトしていくからなんです。

この遺家協という団体の元祖というか、烈士の始祖にあたる人というのが、1970年11月に労働者の生存権を主張して焼身自殺をした東大門(トンデムン)市場の裁縫工だった全泰壹(チョン・テイル)という人物です。その死をきっかけにして、全泰壹のお母さんと東大門市場の衣料工場で一緒に働いていた労働者たちが、なんとか彼の遺志をついで労働者のために闘おうと運動を始めるわけです。

この人たちのやり方というのは、労働災害が起きて誰かが亡くなったりとか、どこかで機動隊に殴り殺された学生がいるとか、抗議の自殺をした学生がいるとかすると、相手の遺族のもとを遺家協のお母さんたちが訪ねていくんですね。そこでその悲しみを同じ立場の者として共有しながら、半分カウンセリングのようなことをしながら、あなたの子どもの死は無駄ではないことを証すために私たちとともに頑張りましょう、というような、いわゆるグリーフワークをともにするという、悲哀の作業といいますけれども、そういう働きかけのなかで、働きかけていく自分自身もその途上にあるわけですから、自分自身も癒やされ、相手も運動することによって悲しみというものを力に変えていくというような、そういう取り組みが世代を超えて今に至るまで続いてきた、これが遺家協という団体になります。

 W??

「恨(ハン)という言葉を言っていただいたんですが、韓国では結婚前に亡くなったとか、横死・客死など正常な死に方ではない、そういった死者に対しては、伝統的な儒教的な葬儀を行うこともできないし、法事を行うこともできない、お墓も作れない、死体は裏山にそのまま犬とか猫の死骸を埋めるみたいに埋めて墓標も作らずそのまま放っておくとか、あと火葬にして全部骨粉にして山や川に投げちゃうとか、それで終わりなんです。また親よりも先に死んだとか、ましてや運動の最中で死んだとかいうと、親不孝者という儒教的な価値観でも負のレッテルを貼られ、なおかつ政治的には「アカ」というレッテルを貼られ、学生運動のなかで亡くなったなら「暴徒」というレッテルを貼られと、何重ものレッテルを貼られて、親自身も鬱々としたやりきれない思い、そしてどこにそれを吐き出せばいいのかわからない、そういう自分たちのなんともモヤモヤとした、そういう思いをなんとか力に変えていくというのが、韓国の恨。恨みつらみを抱きつつ復讐するという意味の日本語的な「恨み」とは全然違う概念になります。」

 

その期間にビラでまかれた作者不詳の詩「光州市民葬送曲」というのがあります

こういう詩が1980年5月にビラでまかれ、この詩は5年後に地下で、非合法に学生運動家たちがつくった「光州よ、五月よ」というカセットテープのなかにメロディつきで歌になるんです。W。ファンソギョン自伝「テープの制作にかかわっている)

「光州市民葬送曲」のなかの2番目の2行目に「民主魂が生きている」というくだりがあるんですが、1985年版では「民族魂」に書き換えられる

3番目の「三千万同胞よ」以下のフレーズがそっくり切り落とされるんですね。

これが何を意味するかというと、1980年から80年代なかばの間にイデオロギー闘争というか、光州事件をどのように理念化するかということが地下で進んでいくんですね。光州事件の渦中にある市民たちは最後はアメリカが助けてくれるだろうと待ち続けるんです。ところが実際は、アメリカは、韓国を分断地帯というか冷戦構造の緩衝地帯にするという国益のために全斗煥政権を支える立場に立って、空挺部隊の投入を韓国軍に認可するんですね。当時の韓国軍というのは、アメリカ軍の許可なしには動けなかったんです。蓋を開けてみれば、自分たちを虐殺するために韓国軍をアメリカ軍が影で操っていたわけです。空挺部隊が来て、27日に壊滅状態に陥れられることになります。

この光州事件の経験を通して、ようやく民主化ということにもまして、反米的な民族志向的な理念が生まれてきます。

これは光州事件の市民軍を率いた尹祥源(ユン・サンウォン)という人が、韓国ではというか、光州を中心にした南西部では若くして亡くなった男女を死後結婚させるという風習がありまして、この尹祥源も事故死した同志の女性と死後結婚をした、その婚礼に寄せて作られた詩です。

もうひとつ挙げておきましたのは、「朴寛賢(パク・クァンヒョン)鎮魂祭-海東人が書き、ノレ・クッを行なう」です。

これも光州事件で有名な、光州事件の導火線となる14日の「民主大聖会」で名演説をした全南大の総学生会長が、1982年に獄死するんですが、この人の葬儀のときに作られた詩です。

最初に死者の来歴を語り、あの世に行く道はどれだけ険しいかということを延々と語っていくやり方というのは、シャーマンが死者儀礼を行うときに歌う歌というか、その形式に沿ったものであるし、自然の森羅万象のなかに彷徨って行き場のない死者の魂があらゆるところにさまよっているという状況が、この「復活の歌」にも朴寛賢の鎮魂祭の歌にも表れています。

こういったシャーマニスティックな下地のうえで、死者の死を悼む詩というのがたくさん光州を起点として作られてきたということがあります。

W。言っていることが解らない。現時点で。ファンソギョンの活動家としての文化面での仕事は自伝でよく出てくるがおそらくこういうものだったのではないか。

W。三島由紀夫の「愛国」小説で神道神主が出席者を前に祝詞をあげて2,26事件に決起した皇道派青年将校昭和天皇を霊感で呼び出し「呪う」シーンも、この一種。朝鮮半島シャーマニズムとか、この女性東大教授をわかったように言っているが、半島を最初に統一した新羅の初期の各氏族の寄り合いで祭政一致する儀式や共同体貴族のヒエラルキーの象徴~最高位紫だったか?~が古代日本列島の古代貴族の下に持ち込まれ、同じようなシャーマニズムをやっている。日本の神道と朝鮮の土俗習俗(両班の身分が大衆化するとともにその儀式も大衆化したものだろうか?)は似ている。抵抗運動に土俗を取り入れたのはファンソギョン等の文化人の功績である。

  しかし、下記の記事からはその種の気配が感じられない。

民主化闘争の活動家は自分たちの戦いを肯定的にとらえる物語性を共有し、ある意味、楽観的なところがある。運動基盤から沸き起こる自然発生が常にあり、活動家は動けば答えが返ってくるという暗黙の信頼がある。近代化の途に就いた矢先に日本帝国主義の植民地支配を受けて、分断下の国民国家形成が始まったのは朝鮮戦争が終わってからだった。国家と国民、文化政治が若く自分たちが短期間に成し遂げてきたことを肯定的にとらえている人が多い。民主化を戦った知識人がその目を通した国の歴史を解りやすく書ける、ことには感心する。      

「僕の韓国現代史」ユ、シミン著下の評論ではない

 この評論も戦いと<死>というテーマにかぎっての物語である。この手の物語性がどうしてできるのだろうか?という疑問への抽象的な考えは上に示したが、リアルに解っていない。

韓国は<文>の国柄である、ことは間違いない。

東大女性教授の話の内容はいかにも日本的曖昧さがある。間違ってもいる。

<死>に絞った物語はかなり強引だが論旨が一貫している。

徴兵制での入隊経験生と死のハードルを低くする要因になっているともう。

韓国社会は同質性が高い、との指摘はよく聞く。<死>という衝撃的な事実は同質社会では伝播性が強い。一種の政治死は解ってもらえる、伝播性がある、という気持ちがどこかになければ実行しない。言い換えると絶望しきっての死ではない。自爆テロに次元は似ている。

      ↓

光州民衆抗争と死の自覚 | 季刊 『創作と批評』

「光州民衆抗争と死の自覚 韓洪九

 1.はじめに 
5・18光州民衆抗争は、韓国の民主化運動史において、最も重要な位置を示す事件である。

>光州以前の運動と以後の運動とでは、様々な面で明確が違いがある

@1970年代の運動は、少数の知識人・宗教人・大学生エリートを中心に展開されたが、

Wファンソギョンが1987年の6月抗争以降の運動の波に乗れなかった要因は結局、ココに尽きる。かれは光州事態以前の活動家だった。

光州の虐殺と抵抗を経験した後の80年代の民主化運動には、

@それ以前と比較できない程、多くの人々が参加した。参加者の数とその幅のみならず、闘争に参加する人々の態度も大きく変化した

虐殺者の全斗煥が大統領という座についていたこと自体が、若い人々の魂には、耐えられない屈辱であった。光州の殺人魔を処刑するためなら、相手がどのような人であっても手をつなぐことができたし、どんな急進的な理論でも受け入れることができた

光州が、その後の民族民主運動に与えた影響力は、絶大であった。

80年代の民族民主運動の源泉は、他ならぬ光州であった。

惨めに敗北した戦いであった光州が、なぜ、韓国の民主化運動史において、独歩的な規範力を持っているのだろうか。

その答えは、「死」にある。

光州を通して、死が、われわれの周りに来たのである

光州での死が80年代を生きてきた人々の中に、入ってきたからであった
しかし、光州だけで、人が死んだわけではない。

ところが、なせ、光州の死は、特別に思われてきているのか。

なぜ、光州の記憶が、韓国の民族民主運動に、広い範囲で、持続的に、また、根本的な影響を与えたのであろうか。

何が、光州を特別な事件としたのだろうか。

光州の死を記憶した人々の人生は、また、彼らの理念と闘争の態度は、どのように変化したのか。光州以前と光州以後の運動は、どのように異なっていたのか。

 

   2.死を殺した韓国現代史
    ~補導連盟虐殺事件~
光州以前の韓国現代史は、

いくら身近な仲であっても共産主義というイデオロギーと関わった政治的死に関しては、追悼することも記憶することもできなかった。

数多くの人々が、死んだことに関しては、遺族すらも話すことができなかったし、よく見る追悼碑も建てることができなかった。

>数多くの人の死を言及することすらできなかった韓国現代史は、「死ぬことすら殺してしまった」残酷な歴史であったと言える。

   W.補導連盟事件のことをいっている。
 大韓民国の軍警や右翼団体が実行した虐殺を直接見たことも聞いたこともない彼等は、持続的に左翼や人民軍が行った虐殺と残酷な行為に関する教育を受けた。こうした注入式教育の結果、朝鮮戦争前後の民間人虐殺に関することは、すべて左翼と人民軍の仕業として描かれた。

極右反共体制のイデオロギーが大衆に内面化されるのには時間が必要であった。長期間の軍事独裁を経て、韓国の初等・中等・高等学校の学生らの反共意識は、1950年代の青少年に比べ、「もっと反理性的で、非人間的な」 ソ・ジュンソク、前掲、726頁。   ものに変わっていく。

ベトナム派兵で、約5000名の軍人が死亡したが、メディアは、死亡者が300名を超えていくと、死に関する話を取りやめ、「越南から帰った金上士」と始まる歌だけを楽しく放送した。1960、70年代には、ベトナム戦の死亡者を除いても、韓国軍で、1400~1500名の死亡者が発生する時代であった。戦争を行っていなくても、韓国軍では、2年ごとに1連隊以上の兵力を失っていった。しかし、人々は、ただ軍隊だから仕方がないと無関心であった。

朝鮮戦争以後、死に対する記憶が極端に抑圧された韓国社会においては、死に対する「感受性」は発達しなかった。

玄基栄(ヒョン・ギヨン)の『スニおじさん』が象徴しているように、死に対する恨みと悲しみは、他人とは分かち合えないものであったために、内部の方へ染み渡っていった。⇒W.女性教授の意見とはちがって、独裁に抵抗する戦いによる死は独裁によってあってはならないものとされてきた。補導連盟事件による死者は100万人ともいわれている。運動側が犠牲者追悼と鎮魂、たたかいの共有のために創意工夫した。


      3. 実感できない死と近づいてくる死の影
朴正熙政権は、分断という時代状況や民間人虐殺という行為により、すでに、滅菌室レベルに近い程の反共(意識・運動)が行われた土台の上で出発した
>言い換えると、独裁権力が処理すべきと思う人々はすでに処理され、ともかく、多い人々が除去された状況の中、その権力を取ったことである」。
韓国の独裁権力がコントロールすべき大衆は、相当、飼い慣らされた人々であった

国家権力は、監視網で、大衆を統制した。武装闘争が日常化された他国と比べた時、韓国の抵抗勢力が動員する暴力とは、空手か、小石と火炎瓶であった。

それも、過激行動という批判を受ける状況において、抵抗運動が、銃や爆弾を持つことなど、想像し難いことであった

衆が一定の線を守り、抵抗暴力をほとんど動員しない状態で民主化運動を展開したのにもかかわらず

朴正熙の執権期間の戒厳令は、すべて3回実施され、総31ヶ月間継続され、「衛戍令」も3回実施され、総5ヶ月間持続された緊急措置は、すべて9回にわたって発動され、69ヶ月間持続された。

朴正熙が執権した220ヶ月中、105ヶ月間は、戒厳令、衛戍令、緊急措置など、非常手段が常時化していたことになる。 

学生や労働者に向けて発砲・集団虐殺は敢行しなかった。これは、この軍事政権では、先に発砲を敢行するほど、状況が緊急に展開しなかったという側面もあるが、朴正熙政権が、大規模の流血事態を避けるために、それなりのコントロール力を発揮したことを意味する。


しかし、1970年代になると、また、死の影が現れる。
1970年11月13日、ジョン・テイル(全泰壹)は、「我々は機械ではない」と叫びながら焚身した。
1973年10月19日、ソウル大学法大教授の (チェ・ジョンギル)は、中央情報部の中で、変死体で発見された。
中央情報部は、 崔鍾吉教授がスパイ行為を自白し、自ら投身したと発表したが、この発表を信じる人はいなかった。このように、死の影が徐々に現れるようになったが、光州以後と比較すると、民主化運動勢力が、まだ死を実感しているとは見られない。

人民革命党事件関連者7名と民青学連事件関連者7名に、死刑を求刑した(『朝鮮日報』、1974年7月9日、11日)。
@「光栄です」。この言葉は、民青学連事件で拘束されたソウル大学商学大3年生の金炳坤(キム・ビョンゴン)が、死刑を求刑された後に残した最後の陳述での冒頭にある。

金芝河(キム・ジハ)は、「栄光です」という言葉が、「死に勝ったこと」 金芝河「苦行:1974」『東亜日報』1975年2月26日。 と高く評価した。
@維新の法廷に響いた「光栄です」という言葉には、そのような側面もある。

@しかし、22歳のキム・ビョンゴンが、堂々と「光栄です」と言えたのは、ある一方では、死を実感していなかったことを意味する

死刑を宣告された民青学連関係者の皆が控訴を諦めた。

1審の死刑判決から10日後の7月20日、非常軍法会の管轄担当であった国防部長官のソ・ジョンチョルは、民青学連と人革党の繋ぎとされたヨ・ジョンナムを除いた6名の刑を死刑から無期懲役減刑した(朝鮮日報』、1974年7月21日)。もし、キム・ビョンゴンなどが朴正熙政権が自分たちを本当に殺すと思っていたら、そして、その死の影が近づいていることを実感していたら、「光栄です」と言えなかったのかもしれない

ホーチミン陥落が秒読みに入った1975年4月9日、維新政権は、人革党再建委事件の関連者8名の死刑を電撃的に執行した。

朴正熙経験が、「司法殺人」という非難を受けながらも、死刑を執行したことは、政権に対する恐れを失った学生たちに、何か脅かすものを見せる必要があったからである。

しかし、朴正熙の脅かし戦略は、あまり効果を見せなかった。死刑者の中に、人革党再建委所属ではない慶北大生のヨ・ジョンナム(呂正男)がいたにも関わらず、学生たちは、処刑された人々は、自分たちとは無関係である「赤」という考えた。

スパイや「赤」の死は、反共規律社会であった韓国では追悼してはいけない死、殺しても殺したことにはならない非人道的な死であった。統革党事件のような組織事件や工作員事件と関連した死を、わが社会は悲しむことなく、そのまま受け入れていた。

1970年代の学生たちは、1980年代の急進的な学生活動家たちとは異なり、自身の実践が理念的な面において「純粋な民主化運動」という線引きをしたことが多かった。

ソウル大学生の金相鎭(キム・サンジン)が、人革党事件関連者処刑直後である4月11日に割腹自殺したが、当時の学生たちは、金相鎭の死には、衝撃を受けたが、人革党関係者の処刑には、直接的な反応を見せなかったのである。


1979年8月9日YH労働組合の女性労働者187名は、会社の偽装閉業に対する抗議として新民党社に入りデモを始めた。政府は、デモ開始2日目の8月11日、大統領の裁可を受けて、電撃的に強制解散を断行するが、この過程において、YH労組大委員の金景淑(キム・ギョンスク)が死亡したまま発見された。

この事件が、導火線になって、政局は、金泳三新民党総裁の除名、釜馬抗争の勃発、10・26事件勃発へと急速に展開していった。

急措置期間には、学生たちを学内から出られないようにしていたが、学生たちと一般市民の「合勢」は現実となってしまった。

>しかも、中央情報部長の金載圭(キム・ゼギュ)は、釜山の現場を直接見てから

このデモは、「文字通り、民乱」であるとし、ソウルを始め、5大都市へ拡散されるかもしれないと予想した。

朴正熙は、この報告を聞いて、急に怒り出し「

これから、釜山のような事態になったら、僕が直接発砲命令を下す」とした

また、同席した警護室長の車智澈(チャ・ジチョル)は、「カンボジアでは、300万名を殺しても問題なかったから、私たちも、デモ隊員を100万名~200万名くらい殺しても問題ありますか」と言ったという。

金載圭は、誰よりも朴正熙については、よく知っている人物だったが、「このような朴大統領の反応は、ただ口にしただけには済まない」ことであると加えた。

  金載圭 「控訴理由補充書国民の皆様!民主主義を満喫してください10・26再評価のための資料集』10・26の再評価と金載圭名誉回復推進委員会、

@控訴理由補充書」は、 金載圭自身が書いたもので、弁護人団が作成した「控訴理由書」に比べ、彼の考えがより生々しく書かれている。
@ 金載圭は、4・19のような流血事態を防止するためには、朴正熙を銃撃する以外、「他の方法は、全くなかった」と裁判中に何度も強調したのである。

 

@金載圭の朴正熙射殺は、維新政権の終焉をもたらしたが、軍事独裁の終焉をもたらしはしなかった。
@彼が投身して防ごうとした大規模な流血事態も、発生時点が半年ほどの遅れて、他の場所になっただけで、結局は現実となってしまった。

@1980年5月、全斗煥をトップとした新軍部勢力は、自分たちの不法的政権奪取に合わせ、民主主義を訴える光州市民相手に、虐殺を敢行したのである

     4. 光州、そして、死との出会い
軍事独裁時代の韓国政治史は、基本的に過大成長した国家機構対過小成長した市民社会の対決であったと言える。
@国家機構の中においても、最強だったのは軍部であり、@市民社会内で国家権力と対決できた集団は、学生たちであった。
軍と学生の対決は、5・16軍事反乱以後、20年間の現代史において基本軸を成している対立関係であったが、
>その対立が直接的な流血事態へ発展したことはなかった

   しかし、光州では違った。
全南大に進駐した空輸部隊は、学生たちを残虐に鎮圧した。街でも空輸部隊は、学校や劇場などまで行って、若い学生たちを手当たりしだいに殴ったり連行したりした。
  

   当時、高校生の市民軍として参加したカン・ヨンジュ
その時、すでに何人かが死んだという噂が出回っていたが、カン・ヨンジュも友人と集まり、デモに行く前に、髪と指の爪を切っておいたデモ現場では、自分たちが死ぬかもしれないことを気づいていたからであった。

    ガン・ヨンジュのインタビュー

>空輸部隊の酷い目にあった光州市民が、死に直面することになったのは、5月21日、道庁の前で、空輸部隊が市民に向けて発砲してからである。
隣にいた人が銃に打たれ、倒れていく光景を、市民は見守っていた。
@カン・ヨンジュによると、銃に打たれていく人をみて、怖いというよりは、怒りの感覚が沸いてきたという。
カン・ヨンジュは、倒れた人を、他の青年と一緒に車に乗せて病院へ向かったが、病院に到着して看護師さんに聞いたら、その人は、すでに死亡していた。その看護師は、カン・ヨンジュの手を見て治療すると言ったが、
@その時に、カン・ヨンジュは、自分の両手が全部破れて血だらけになっていることに気付いたという。生と死が分けられるその瞬間は、皆、気が動転していた。

 光州の人々が、こうしたカオス状態において、死と対面しながらも、その死を実感できないでいた時に、新軍部側は、光州の死を再び殺そうとした。

当時、光州は、徹底的に孤立状態であった。光州の外側では、光州が暴徒たちに掌握され、暴徒たちはスパイに操られていると噂を立てた。実際に、5月23日には、光州事態を扇動するために、南派された北朝鮮工作員のイ・チャンリョンをソウル駅で検挙したという根拠のない警察の捏造工作員事件の発表があった。   「デモ扇動南派工作員1名検挙」『朝鮮日報』1980年5月25日。 このような新軍部の試みは、光州においての抗争と死が持つ意味に、「赤」を色づけることであった。しかし、光州市民は、それに惑わされず死と真正面から向き合おうとしていた。

   最終日が近づいてきたその日も、道庁を守ろうとした人々は、明らかに存在していた。

全南大の復学生であったチェ・ヨンシク(仮名)は、25日、道庁に向かった。
>銃を使ったことがある人がおらず、戦警として軍の服務を終えた彼が、小隊長になり警備責任が任せられた。
>小隊員は、全部で18名であったが、26日になったら16名はどこかに行ってしまって、朝鮮大の医学科に通っていた学生と彼の2人だけで残ったという
@チェ・ヨンシクは、26日の朝から、1人2人いなくなることをみて、死が恐ろしいものであることを実感した。
彼は、死ぬ覚悟をしたつもりではなかったが、死ぬかもしれないという状況におかれていたこと、
@隣の人が死んでいくことを見ても、逃げなかったことが、これから我々が考えるべき課題であると回顧した。

   チェ・ヨンシクは、なぜ、その場を去っていかなかったのか?という質問に対しては、
>恥ずかしさのためであったとし、そのような状況で、この国に残り、誰かが死ななければ、(我々の現実が)どうなるのかと問い返した。
>しかしながら、彼は、もしも、戒厳軍が27日の明け方ではなく、28日の明け方に来ると思っていたら、自分も家に帰ったかもしれないと言い加えた。
@人間としての品位を失わないために、銃を持って、その場に残っていたが、正直、とても恐ろしくて、帰りたかったという。
特に、マスクをしている彼を、息子であると気付かない母が、彼を探している姿を見た時には、本当に心が揺れたと語った(チェ・ヨンシク、2009年1月22日、財団)。

   

高校生のカン・ヨンジュは、26日の夜、夕食をした後に、「教錬服」(訳注:教錬の時間に着る制服)を着た。
母に「クンジョル」(お辞儀)をした後、道庁を守りにいくと言った。当然、母は、びっくりして息子を止めようとしたが、息子は母に「だったら、この国の民主主義は、誰が守るのですか?」と食ってかかったという。

母は、泣いた後に、「お前がやりたいようにやりなさい」と言った。

また、しばらく待ってと言って、煙草2箱を買ってきた。

カン・ヨンジュが、クンジョルをして「じゃ、行きます」と言うと、母はずっと泣いたという。

その時、カン・ヨンジュと母は、生きて再会することはないと思ったという(カン・ヨンジュ、前掲のインタビュー)。

その日、光州は、死ぬことと生きること、勝つことと負けることを考える余裕などない状況であった。
>どうしたら、良く戦えるのか?それだけが、人々の頭の中を支配していた

 

当時、高校3年生であったキム・サンホは、以下のように回顧している。

今、考えるみると、人々が、どうして、あんなに献身的に動くことができたのか不思議です。皆、自分の命がかかっている状況だったのにも関わらずですよ。不思議にも、頭の中が空っぽで、何にも考えることができませんでした。まるで、現実ではないような気がしたのです。
>死ぬかもしれないということよりも、前に進んで戦うしかない、ということしか考えてなかったと思います。   イ・ジョンファン「市民軍の尹祥源と光州民衆抗争が我々に残したもの」

歴史は時々、最も平凡な人の中から、最も意志の強い闘士を作り出せるのだ

その日、彼らがいなければ、我々の歴史にも、光州というのは存在しない。

収拾対策委では、武器を返納し、軍当局と妥協すべきであるという主張が強まっていた。軍隊と最後まで戦っても、勝算がないということは、誰もが判っていることであった。対策委は対策委なりに、市民は市民なりに武器を返納し、「事態を収拾」すべきか、最後まで戦うか、について激論した。

生きている人々を一番に考える者は、銃を降ろそうとし死んだ人々を考える者は、銃を降ろそうとはしなかった結局、対策委から去っていく人は去っていき、残る人は残った。

@このまま、降伏できないとした人々、空っぽになった道庁を戒厳軍に渡すわけにはいかないとした人々、「死ぬことで、彼らの声を伝える」べきだと考えた人々だけが残った。
戒厳軍が道庁に攻めてきた時に、皆が逃げて、誰もいないと考えてみてください。歴史が1980年の光州をどのように記録したのでしょうか

サンウォンさんを始め、道庁に残っていた人々のお陰で、5・18が、暴動ではなく、民衆抗争として記録されることができたのです。

きちんと戦えず、死んでいくことを知っていながらも、最後まで、道庁を守った人々なのです。    ハ・ジョンガンのHP「ハ・ジョンガンの労働の夢」(www.hadream.com)から再引用。

   勝算が見えてこない戦いで、人々を支えた力は、どこから出てきたものであったのか。
光州の最後の夜と、明け方には、勝利を確信する遊撃隊の力強い進軍ラッパの音は、鳴らなかった。

そこには、歴史において、負ける戦いから逃げなかった人々の凄然さと寂しさが存在した

光州はこうして、我々の傍に、いや、我々の心の中に入ってきた

光州の話を聞きながら、同時代を生きていた人々は、死と対面しなければならなかった。これ以上、死というものは、遠い所の話ではなかった。光州を経験して、すべてが変わってしまった。「生きることと死ぬことの境界が無くなり、もちろん、死ぬ覚悟をした人々だけが、闘争に参加することはないが、人々は、自分が戦う政権が殺人政権で、自分も死ぬかもしれないという事実を平然と受け入れていた」。    韓洪九、

      5.死を抱きしめて
 

光州が鎮圧されてから1年後である1981年5月27日、ソウル大の学生らが、校内で、光州抗争犠牲者の慰霊祭を行おうとすると、警察が阻止、これに1千名余りが、沈黙デモを行った。この時、図書館の6階で勉強していたキム・テフンは、「全斗煥は、下野しろ」と3回叫んで、自ら投身した。キム・テフンはこの日、慰霊祭を準備した側でもなく、事前に投身を準備したこともなかった。彼は、光州出身ではあったが、いわゆる「運動圏学生」ではなかった。

1981年3月19日と4月14日の2回にわたって、ソウル大の学内デモを主導したユ・ギホン(柳基洪)は、学生運動を主導した運動圏学生たちは、光州抗争の便りで隠れてしまったのに対し、むしろ一般の学生たちが、もっと抵抗的になったと証言した。彼は、キム・テフンのような大人しい学生が身を投げるほどの雰囲気を作らせたこと、まさに、それが光州の底力であったと回顧した(ユ・ギホン、2009年1月19日、平和博物館)。


     6. 死の文化
 人々は、なぜ、警察の阻止を破ってまで、望月洞を訪ねたのか。

必ずしも5月18日ではなくても良かった。光州の人々は、時々、望月洞を訪ねた。

ある人は、生きる事が大変で、欲が出てきた時は、望月洞を訪ねると、少しでも気持ちが良くなったとし(ジョ・ゲソン、2009年1月22日、財団)、

また、ある人は、1980年6月に、初めて望月洞を訪ね、先輩の身元を確認したりして、心では、「2度と来ない、仕事をせねば。戦わねば。2度と来ない」と決心しながらも、辛い時は、ここに来て涙を流した。

毎回、望月洞を訪ね、もっと仕事を頑張らないと、と決心することが、強迫観念のように自分を支配していたということであった(イム・ナクピョン、2009年1月22日、財団)

1980年5月、当時、朴寬賢の護衛隊員だったチェ・ジョンギは、抗争勃発以後、田舎の親戚のところに身を隠し、この抗争期間を「安全」に過ごすことができた。そのために、彼には、生き残った者としての負債という感覚を持っていた。
@彼は、光州で死んでいた人々の中で、家族の保護を受けた大学生はほとんどいなかったとし、
>「仲の良い友だちの中には、死んだ人がいない。だから、結局、僕の友だちとは、皆、親から保護される連中だからね。
>親が保護する人々は死なない。僕みたいに、田舎に身を隠させられたり、家から出させなかったりするから」と言った。
>彼は、大学院に進学した後、修士論文を準備している最中、カトリック教会から、5・18を主題としたアンケート調査に参加することを依頼された。この作業に参加すると、準備している修士論文を書けなくなるという状況であったが、結局、修士論文を諦めて、そのアンケート調査作業に参加した。彼は、勉強をしている人には、色んな誘惑があるが、光州の体験が、「最低、こういうことは、してはならない」のような、良心的な基準になったという。2000年、彼は、韓国では初めて、「非転向長期囚」の問題で、博士学位を取得したが、1992年、論文の準備をスタートした頃の状況では、このようなテーマで論文を書けば、将来、大学に就職する可能性が全くなかったと語った。にもかかわらず、彼は、このテーマを選択した。「打算的になりたくなかった。やるべきことだったから。正しいと思ったことだから、やった」。

その日、道庁に入った人々、そして、彼らを記憶する人々は、皆、頭の中の「計算機」が止まった(打算しない)時代を生きたのである。」

 

 運命の5月18日の午前10時、抗争が始まった全南大の校門の前では、デモ隊を率いてきた総学生会長のパク・グァンヒョンの姿は見えなかったパク・グァンヒョンは、新軍部の行動があるかもしれないという雰囲気に気づき、麗水まで身を避けていた

それから、ほぼ2年が経って、逮捕された。

後輩のイム・ナクピョンは、パク・グァンヒョンが逮捕される直前に彼に会ったことがあるが、彼の中では、その日、市民・学生たちと共に行動しなかったが、大きい罪悪感として残っていたという。

朴寬賢は、獄中で、断食を繰り返した。光州の死に対する抗議として、「看守たちの暴力が乱舞し、不正腐敗が横行する刑務所の中で、すべての在監者たちが、非人間的な状態で生きて」いく現実に対する抗議として、何回も断食を繰り返した。2週間の断食で、彼は、骨だけが残ったようなその身体で、法廷に出てきて、最後の陳述を行った。

そして間もなく、朴寬賢は、光州刑務所で、命を絶った。光州の息子と呼ばれたパク・グァンヒョンが死んでから、光州では、80年以後最大のデモが行われた。しかし、市民たちは、彼の葬儀をすることができなかった。当局が、遺体を奪取し、故郷であるヨングァン(霊光)に送り、家族で葬儀を行わせたのである

全南大の社会学科教授であるチェ・ジョンギは、80年5月当時は全南大の1年生で、朴寬賢を護衛したが、彼は、軍隊にいる時に、従弟の手紙を通じて、朴寬賢の死を知った。「朴寬賢が死んで、大騒になった」と。手紙を読む瞬間、「だけど、この人は、最後まで、守り抜いた」と思った。涙が止まらなかったが、同期たちと「朴寬賢が死んだよ。だから、今日は、一杯しよう。弔意を表さなければ」と言いながら、お酒を飲んだという。同期たちのお陰で、朴寬賢の死を哀悼することができた。チェ・ジョンギは、そうした殺伐とした5共和国の時代の軍隊で、朴寬賢を逝かせてあげた

     続きは冒頭にあげた<批評と創作>の記事に載っている。長い!

黄 晳暎(ファン・ソギョン)自伝。朴正煕暗殺事件1979年10月26日前後。~緊迫した攻防が短期間に集中し、独裁体制を転換させる一連の歴史的事件が立て続けに起こる~

「W。緊迫した情勢が続き、韓国史を転換させる一連の歴史的事件が立て続けに起こる。朴正煕暗殺事件1979年10月26日。

 

globe.asahi.com

引用

金載圭(1926年3月6日 - 1980年5月24日は、朴正煕暗殺のその日も移動の車中で日本の詩吟のテープを聴いていたほど、青少年期から日本文化に浸っていた。日本の武士道精神の崇拝者でもあった。満州軍出身の朴正煕も、日本の軍歌「麦と兵隊」を愛唱した。」⇒W。明智光秀織田信長を討った謀反のようなもの鎌倉幕府内の御家人同士の暗闘とも似ている

****

W。資料

元KCIA部長を追って | 取材ノート | 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)

W.

1973年8月8日金大中訪日中、東京ホテルから拉致、秘密船で渡韓、軟禁事件⇒なぜ殺されなかったのか?

アメリカと日本が圧力をかけたことと(W。日本とアメリカの当該機関の監視下にあり、拉致すればすぐ察知は承知の上で実行した。最初から殺すつもりはなかった。金大中氏は米国東アジア戦略の手駒、キーパーソン、日本の飛行機が彼を運ぶ船の上を旋回して牽制したからだ。奴らがなぜこんな馬鹿なことをしたのか僕には分からん(W。上記の意味があって馬鹿な事と元CIA長官は言った)想像に任せる」という答えを引き出した。」

 

②金元部長の贅沢な暮らしのもとは在任中に隠した2千万ドルの秘密資金だという噂。ニューヨークでの豪華な暮らしを目の当たりに見てびっくり。

金元部長がヨーロッパからニューヨークの空港に着いたところで逮捕されたというのだ。 何でもドルの札束を大量に身体に巻き付けて、 よちよち歩きで税関を通り抜けようとしたため御用になってしまったらしい。」

もう一度金元部長に会って、いつか必ず話すと言っていた日韓間の秘密政治資金の流れを聞きたかった。」⇒W。カネとヒトの流れ。日本、韓国、米国、台湾。

 

④「金元部長がヨーロッパに金を取りに出かけたまま行方不明になり、殺されたかもしれないというものであった」「2005年5月KCIAの生まれ変わりである韓国国家情報院の「過去事件の真相究明委員会」が「金炯旭氏は79年9月頃パリにおびき出され銃殺された。これを指示したのは当時の金戴圭中央情報部長であった」という調査結果を公表した。」⇒実行の指示者は大統領に評価されなかった。明智光秀の心境も暗殺の動機にあった。

 作者は言う

「18年に及ぶ長期独裁によって窒息しそうな状態だったが、風船が割れたよが解消された気持ちになった⇒W。ファンソギョンの自伝によれば民主活動家は暗殺によって活気ずく。

>一方、多くの国民は心底悲しんで涙を流した。18年間熱心に国家を建設してきたCEOが亡くなったように感じた人が大半だった。

 

W。原作本は翻訳され図書館に所蔵されている。原作者は当時、東亜日報の記者、時系列はドキュメンタリータッチで臨場感があり、暗殺前後の様子(取材)もリアルに描かれている。

   ファンソギョン自伝に戻る

 「1979年の4月。世の中がひっくり返る事件が起こった。運動資金強奪失敗事件(金南柱たち。

私はそのころ、ひどく動揺していた。おそらく長期新聞連載小説と設立したばかりの現代文化研究所がなければ、自分の金南柱と同じ道をたどっていたかもしれない。

金大中、金泳三(W.釜山、馬山出身政治家、議員職はく奪によって地元で暴動。そのご1987年6月民主化化抗争による初の大統領選挙で民間大統領に選出)ら野党政治家も次第に急進的な政治闘争へ踏み出し、学生は拘束や逮捕を恐れず中心街に飛び出すようになった。知識人や宗教家からも拘束者が増えてきて、現場では労働者の闘争が激しくなった。(W。大衆の自然発生的な闘争であり、結果的に大衆実力闘争の大きなうねりが朴正煕独裁体制にぶち当たっていたさらに独裁は国際的にも孤立気味であったベトナム戦争終結1975年。天安門事件(第1次)1976年4月。ジェームズ・アール・カーター1977年~1981年米国大統領。) 

 8月にはYH貿易の女性労働者187名が、親民党の講堂で座り込みを開始した。警察は2000名の警察官を動員し若い女工らの座り込みを排除した。その過程で一女性労働者が死亡したが屋上からの投身自殺死であると発表した。

~~金総新民党裁は「私たちが女性労働者の保護と支援をします」と約束した。

すると政権は女性労働者幹部を拘束し、総裁に議員職まではく奪した。この事件が維新政権没落のきっかけとなった。

 カトリックプロテスタントなどの宗教界と在野の人々は対策員会を構成し枢機卿を先頭にデモ行進を行い、「国家保衛に関する特別措置法」の即時撤廃を主張した。

>光州でもYMCA講堂で宗教界と在野の人々の抗議集会が開かれ、私は声明文の作成を依頼された(W。ファンソギョンは活動拠点をソウルから光州に移している。結果的に翌年1980年の光州事態の当事者になるが当日、偶々ソウルに用事があって出張中で、潜伏することに決めた)

この声明文の朗読はほかの牧師がすることになっていたが本人が参加できなくなったので私が代わって読み上げることになった。コレは明白に特別措置法に違反する行為だったが、逃げるわけにはいかないとおもった

 行事が終わって帰宅すると、警察が訪ねてきて「上部から別途指示があるまで自宅から動かないように」と警告された。事実上の自宅軟禁である。

**からきいたところでは私の作成した声明文が他のものより最も過激だったので、ソウルでは私が拘束されると予測していたらしい。

~~

 私は鬱屈した気分になり、金南柱のいう韓国民主化闘争国民委員会の「作戦」に参加したい気持ちが高まった。

そして悩んだ末に**牧師を訪ね謄写版の借用を申し出た

かれはそれを一体何に使うつもりかと尋ねたので、若者たちの文集を出すつもりと答えた。私は妻に自分の考えを示して原稿を作成した。

内容は「朴独裁と戦おう!」と主張する一種の決起文だった。

妻と夜通し刷ったビラを押し入れに隠して寝ていると、朝方になって**が訪ねてきた。

「先輩!昨日牧師にあいましたが、心配していましたよ」と告げるのだった。

**牧師は光州の聖職者のうち最も親しい間柄だった。その言葉に私がこらえられずにいると、彼は問い詰めてきた。

謄写版を借りたそうですね。何をするつもりですか。」

私はやむなく最近の心境を話し、情けなくてこれ以上耐えられそうにないと打ち明けた。いっそ懲役でも食らって監獄入りした方が自分の小説の読者にもいさぎよく映るのではないかと告白した。

彼はビラをジックリ確かめると深いため息をついた。

「先輩はそれで気が晴れるのですか?ここに韓国民主闘争国民委員会と書いてますが、金南柱にあったのですか?」私が会ったというと

「今その辺りがうわさになっています。僕らの直ぐ近くで、よくご存じの華夏型の名前が挙がっています。」

わたしがホ、スル方聴いた話をするとうなづいて(W。合同出版会には近づくな、当局が大掛かりなでっちがげ事件を目論んでいる~人民革命党事件~)

「みんなも警戒しているでしょう」というのだった。

彼はこうして闇が深いことを見て取ると、夜明けも近いだろうから、そういうときこそ沈着冷静に行動しなければならないと重ねていった。

さらにビラの束をつかみ振りかざしながらいった。

「先輩!すぐこれを焼却します。なかったことにしましょう!」

妻は黙って座っていたが、すぐ牧師からビラの束を奪い取り立ち上がった。

「私が燃やします」

彼女はブドウの枝が垣根に伸びている花壇ですぐビラを焼却し、土の中に埋めて上がってきた。

 そのころ、現代文化研究所のドアは固く閉ざされていた。私服警官が我が家の周辺を徘徊し近くの路地の入口にも見知らぬ男たちが歩き回っているのだった。

 

 1979年10月9日内務省南朝鮮民族解放戦線関係者の検挙を発表した。

もともと、「韓国民主闘争国民委員会」だったものが「南朝鮮民族解放戦線準備委員会」となっていることからも「お前たちの最終目標はこれではないか、この準備委員会だな」と判断したのだろう。

政府はこれによって北朝鮮共産集団の対南戦略に従って国家転覆を画策した事件」と大々的に発表した。

 

 >この事件が発表されても、YH貿易事件で、金泳三が国会議員職から除名されたので釜山の民心は混乱していた。

1979年10月16日(W。朴正煕暗殺事件1979年10月26日)

釜山大学の学生5千名が維新撤廃を叫んで街頭に繰り出し、釜山大学、東亜大学の学生と市民らがともに派出所など公共施設を破壊すると政府は

1979年10月18日釜山一帯に非常戒厳令を布告した。

戒厳令を恐れなくなっていた釜山市民は深夜まで闘争をつづけた

馬山大学と慶南大学

の学生たちは馬山市内に集まり、これに輸出自由加工地域の労働者も加わり、さらに多くの市民も加わったこの事件は釜馬民主抗争 - Wikipediaと呼ばれた。

引用

釜山馬山でデモが発生した背景には、経済的、政治的な原因がある。

経済面では、韓国では1978年から付加価値税が導入され、一般市民の日常における納税負担が高まった。また、当時の釜山一帯は食品繊維産業といった軽工業が発達した地域だったが、第二次オイルショックの発生で原油価格が高騰したため、輸入原料加工貿易に依存していた地域経済は大打撃を受けた。この二重苦によって釜山一帯は韓国内でも特に景気が悪化した地域となっており、1979年不渡り発生率はソウル特別市の3倍に達していた[1]。そのため、当時の釜山一帯は広範囲な社会階層から政府に対する不満が集まりやすい環境にあった。⇒W.ナルホド!地元選出の大物議員の資格はく奪という政治的な理由だけでは唐突感があった!馬山は自由貿易地域に指定されていた。のちに台湾や中国がまねをする。

1979年10月20日

政府は昌山戒厳令を布告し、

24日には大邱にまで範囲は広がり啓明大学の学生もデモに参加した。

 しばらくすると**が連行され厳しい拷問を受け現代文化研究所と南朝鮮解放戦線の関係を追い詰められたとの知らせが入り、大きな組織的事件になるとの見方が広まった。活動家の**をはじめ農民会の人々も解放戦線の名簿を根拠に拘束され、南道全域に大きな検挙のあらしが吹き荒れた。

 私は妻と話し合い、簡単に荷物をまとめて家を出て身を潜めた。

>ある日、夢うつつの耳に何やら差し迫った声と操縦な音楽が切れ目なく流れ、ニュースが反復されている。もうこれ以上耐えられないと歯ブラシを加えて中庭に出てみると

家主の少年が上ずった声で、話しかけてきた。

「韓国で戦争が起こったらどうなるのでしょう?」

私は彼がなぜ突拍子もないことを言うのかと、寝ぼけ眼でみかえすと、彼は

「朴大統領が銃に撃たれて亡くなったそうです」とおしえてくれた。

私は聞き違いではないか、ラジオのそばに座って耳を傾けた。

文化広報部長官の泣き出しそうな声は、確かに大統領の事故死を伝えていた。

私は茫然と突っ立っていたが、やがて身震いするとすぐに部屋に戻り、カバンに荷物を詰め込み光州に向かった。

 朴正煕の死で世の中は完全に変わっていた。

テレビは終日、事件の報道と追悼番組を流し、

>それまで身を隠していた人々が一人歩たちと研究所に集まり、緊急事態措置法違反組も時期に姿を現す妥当と期待が高まった

@維新政局の暗雲が晴れたその日、**、**と青年数人らとともに、無等山でビール4箱ほどを空けたことが思い出される。

 現代文化研究所のメンバーになった学生は、その後、光州周辺の農村や工場現場へと講演活動の場を拡大し

ソウルの在野の人々と野党政治家は、新軍部が大統領代行を大統領に選出しようとする動きにたいして、

大統領直接選挙制度の実施、維新憲法撤廃、拘束者の釈放と一日も早い民間への政権移譲に向けた政治日程の繰り上げを要求した。

そして戒厳令の下では集会及びデモが認められないと知ると、YMCA講堂で結婚式を挙行すると発表した。

長老、野党政治家、宗教者、大学教授、免職記者、文化関係者、青年活動家らが集まり、新郎新婦の入場とどうじに声明文を読み上げると、警察機動隊が突入し、無差別に参加者を殴打し逮捕していった。

 人々は国家保安司令部に連行され、厳しい拷問を受けた

**は髪を抜かれ::はこの時受けた拷問で、以来ずっと健康を回復しないまま80年代を過ごした。

小説家の**は在韓アメリカ軍司令部の軍事統治下で起こった

済州島四・三事件 - Wikipedia

を題材にし小説を執筆した作家であると解ると逮捕され、軍の捜査官から酷い拷問を受けしばらくその後遺症に悩まされた。

  光州でも宣言文の作成に着手した。

声明文は私が作成したが解職教授協議会の**教授が読み上げた。

宣言文発表を終えて無事家に帰ると夕刻警察が私を逮捕しにやってきた。そして私はしっかり着込んで連行された。宣言文に署名した人々の多くも連行された。

警察の留置所で一夜を過ごし、翌日身柄を保安司令光州支部に移された。ソウルとは方針が異なっていたのかかなり侮辱されたが拷問は加えられなかった。

 私たちは戒厳令違反などの嫌疑で起訴された。

私は監獄においては若い憲兵から注目された。

彼らの多くが入隊するまで小説「張吉山」の読者だった。

義賊「張吉山」を書いた、作家黄晢暎の思いとは… | 嶋村初吉のブログ

W。1974年-1984年にかけて日刊紙「韓国日報」に連載。

編集長は若い作家(31歳)ファンソギョンの力量を高く評価し執筆を要請し原稿料や資料の収集の援助した。この作品によって作家として自立できた。韓国で有名な義賊を描いた大衆歴史小説である。執筆当初の事情は自伝に詳しく載っている。

ファンソギョンには日本の文学的作家にありがちな観念の先行は全くない。

 現実状況にリアル密着して物語を創作するタイプの作家である

その意味で大江健三郎万延元年のフットボール - Wikipediaとは対照的な作家である。⇒書き出しの部分からこの小説は読めない、投げだした。

ファンソギョンの出獄後1998年(アジア金融危機IMF管理下の民主大統領時代に対する態度がそれまでの経歴からすれば毀誉褒貶しているようにいわれているが、

国家保安法違反の獄中1993年~1998年にヒントがあるように思える。

その箇所は自伝で明らかになっている。

金芝河の晩年とは目線の方向が違うが、韓国の土俗性に還ったという点では同じである。よくあるパターンだが仕方がない。それに金日成以降の北朝鮮の王朝継承的変貌に民族統一の夢絶たれ失望したのではないか。北と南は日本人の想像以上に歴史的地理的民族的接近性と相互反発性がある。

 作家はいつまでも前線に立つことはできない

大江健三郎が反原発10万人集会で魯迅がどうとかこうとか壇上で言っているのを動画で見て見苦しい説教をしているな、と実感した。

文藝者としては本来あり得ないエリートの砦に閉じこもったままの大江と自分は阿Qなのだ、とするWの魯迅の読み方に決定的な違いがあるようだ

阿Qは、あんなおりこうさんの集会はうんざりする。10万人集められるのだったらもっと早くやれと。事故発生直後、沈黙していて様子を見て出ていく。この手法が間違い。

最初、やれば大衆運動は力を持つ。後からやれば何人集めようがカンパニアだけになる。

大集会の壇上からの有名人の説教は見苦しい。聞き苦しい。しかも自分は大したことが言える訳ではない,とわかっていない。自己過大評価だ。これを知らないのは自分にとって他者にとって大衆行動の威力を知らない、いということ。啓蒙の同心円的拡大で世の中がかわったためしがない。

大衆運動の参加者はある意味、阿Q的存在なのだ。ファンソギョンの自伝で描かれている人士はある意味阿Qだった。阿Qに説教はイラナイ。山口二郎とかいう政治学者も己を知らなすぎる。自分は運動の中に入ると無能なのだということがいい年をして知らなすぎる。学窓の政治学なんて通用しない。

 ファンソギョンは作家であると同時に民主活動家であった過去において、活動家の部分を捨てた、ということである。戦ってきた「成果」が目の前に出現したときにそれは違うと情熱が冷めていった。サークル主義的な人脈優先の運動段階の作家兼活動家の限界だったかもしれないし、彼にとって政治活動は政治的論理の問題ではなく感情文化の問題であった。作家ってそういう存在なのでは?

 

W。参考資料② 韓国の労働排除的政党体制と第16代総選挙~「制度政治圏」と 「非制度圏」という独特の概念が存在。政治の制度化 した領域がきわめて制限的で、包括できない政治的、社会的空間が広く存在。下からの運動を通 して民主化を達成 し 、下からの運動が強い伝統と して機能 しているにもかかわらず、冷戦反共体制の構造とイデオロギ ーは現在のような政党体制が維持できた社会的基盤。

韓国の労働排除的政党体制と第16代総選挙

           高麗大学政治外交学科 : 教授 崖, 章集
           高麗大学アジア問題研究所 : 研究員 朴, 常勲

引用

「80年代初には男性労働者たちを主軸とする大規模工場体制へと転換した。 さらに、 これら労働者たちは1980年代中葉以降、 大々的な民主化闘争に続いて爆発的な組織化と集団的動員の経験をもっており、 この過程で理念的急進性と強い戦闘性を特徴とする労働運動のリ ー ダー シツブの傾向がつくられ、現在まで労働運動の主流としての影響力を維持している。

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W。大胆にいえば、韓国の世界に向けて誇るべきは、

>民衆が長い苦難を通して勝ち取った民主化過程

>世界に類を見ない戦闘主流派的労働運動

>文の国、韓国の文化芸術、学術、宗教

@文藝、政治理論書は日本よりも韓国のものが状況に対してリアリティー、切迫感がある。

@他は特徴がない。

李王朝時代のあまりにも長すぎる文治政治イデオロギー固執儒教支配政治の党派争いなど外からは理解できない)が東アジアの帝国主義到来にフレキシブルな対応を拒絶させた日本の封建軍事政権はその点、変わり身が早かった。封建軍事貴族にとって戦場の勝敗が価値判断の基準でありイデオロギー固執はない。実際に戦って負けたら次はどうしたらいいか,学ぶ。李王朝はコレがなかった。

>しかし歴史は不思議なもので帝国主義時代の<文治>政治の敗北(植民地化)がグローバル資本制の時代の<文>の優位性に変わろうとしている。

>旧統一教会問題が噴出しているが、日本人の極一部が韓国の土着新宗教オルグられている根っこにはグローバル資本制時代における<韓国の文、優位>という現実がある。韓国を本当の意味で知らなすぎる、言い換えると日本を知らない人たちが教義の根本的欠陥(典型的な宗教形而上学の導き出す結論と出口が異様~後ろから読めば解りやすいのではないか。~)によって急進的な行動に没入し我を忘れることができる。

@韓国を内からみる見方と外からの見方は違う。

~~~

@日本の特性は平安末期から中世中期にかけての文藝。和食文化。緻密な現場労働習慣。原爆を投下された被ばく国。

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組織化した社会勢力としての労働運動の政治的影響力は、1997年1月に政府を事実上の機能麻癖状態に追い込んだゼネストの事例によって、 克明に見ることができる。

 すなわち制度化された政治領域の内外で、 韓国労働運動の位相と影響力は大きな格差を見せているのである。
比較政治の観点から見ても、 韓国の労働排除的政党体制の継続は注目すべき問題である。

民主化以降実施された諸選挙において、 進歩的理念あるいは労働者たちの階級的利害を動員しようとした諸政党が獲得した支持率は平均1.1%に過ぎず、 時間とともに支持票の増大が見られるような成長パタ ーンを示すこともなかった。 1.1%の支持率というのは、 組織労働者の10分のlにも満たないのであり、 労働組合として組織可能な全体労働者の50分のlにも満たない大きさである。 

 産業社会的特性が高度化し、 労働者たちが中心的な社会階級あるいは社会勢力として機能しているにもかかわらず、

韓国ではどうして労働排除的な政党体制を持続することができたのであろうか。

韓国の労働排除的政党体制

「米国例外主義(American exceptionalism) ならぬ

韓国例外主義の新しい説明体系を必要とするのであろうか。⇒W。日本列島住民には韓国固有の戦闘的労働運動の現場と激烈な政党間競争の展開される共同政治幻想空間著しい分離状態は理解しがたい面がある。

@政治は政治分野だけに働く<慣性の法則>があるなどという抽象的な説明では判らない。具体的な政治過程を辿らなければ、ピンとこない。

    

形成期政党体制の持続的効果

W。書いていることの半分しかわからない。韓国固有の事情があまりにも強すぎる。

 

 W。まず大前提。

北朝鮮対峙下の国家保安法(戦前の治安維持法を想起)、独裁体制に抵抗する政党政治活動米国流リベラル中道政治路線の枠内でしか行えなかったという現実がある。

 

そういう既存の反政府=反独裁政党に参与することのない急進民主主義的(1972年平和市場焼身自殺烈士)あるいは社会主義的な政治思想を抱いた政治意識分子が(大学生、知識人)職場、現場レベルに入り御用組合に抗して、

あるいは治安警察、暴力団と戦いながら労働者を組織していった戦闘的労働運動の間にはもともと人的組織的物的イデオロギー的大きな開きあったという、事実である。

  引用

「韓国において 1987年6月の民主化闘争以降(W、6月民主化抗争へのリアル政治過程⇒全員解雇女子労働者野党本部籠城事態⇒党首国会議員職はく奪⇒出身地、馬山釜山反独裁暴動⇒朴正煕側近KCI長官~~米国流民主主義の思想(自由のため!)によって射殺~~大統領射殺!軍部新大統領。大統領射殺がなければ6月民主化抗争はなかった?それほどに政治世界は労働現場とかけ離れている

ネトウヨ的山上、アベ射殺がなければ、自民党統一教会の癒着は一般化していなかった。日本は民主政国家である、というのは国家」共同政治幻想おしゃべりな独裁国家である!

***

12月の大統領選挙を経て88年4月国会議員総選挙までの約 10ヶ月の時期は、 民主化以降の韓国政党体制の形成期として特徴づけることができる。

この時期は市民が国家権力をめぐる選挙競争で投票できる権利を回復したのみならず、 大々的な大衆動員が行われた

さらに、 この時期の大衆動員は2つの方向に分岐した。

>1つは、1987年7-9月に集中した労働運動の爆発的動員とその組織化であり、

>もう 1つは、 同年 10月以降本格化した選挙競争ある

@注目すべきは、 大衆動員におけるこの2つの流れは時間的には連続しているものの@完全に分離した2つの領域において進行したという事実である

労働運動の大衆動員は職場に限られ 都市中産層と保守的マスコミが主導する市民社会からは隔離された。
一方、 選挙競争において大衆動員を主導したのは既存の政党であった。 少なくともこの次元で労働の政治的動員は事実上機能できなかったのである。

さらに、 6月の民主化闘争を主導した運動勢力(大衆的実力闘争であり街頭集会、デモ⇔職場の組合組織化は関連)も既存政党に対して「選択的支持」を表明することによって分裂した。 その結果、政治の空間は既存の勢力によって先取りされ、 労働者たちは一般有権者へと解体された。 この時期の選挙競争が「労働なき民主化と定義されるゆえんで、ある。」

しかし、 彼らが基盤を置いている政治的支持市場の分画構造は過去のそれとは大きく異なるもので、あったo 韓国ではこれを「地域政党体制Jと呼ぶ。

これは、 全国的に四党体制が成立したにもかかわらず、

地域においてはそれぞれ一党支配体制の特徴をもっていることを指している。

すなわち、 政党と有権者の連合の構造が「地域Jという地理的分割線によって区画されたのである。 そしてこのような政党体制は、 以後7回の全国的選挙競争においても変化することがなく、 新しい政党の実験も継続して挫折した。 それほど、 形成期政党体制の類型的特性は強い持続性、 変化に対する強い免疫性をもっていたのである。」

  

   韓国政党体制の社会的基盤

W。理解できない。別途に調べる必要がある。

「韓国において地域政党体制が続いているということは、冷戦的国内秩序と権威主義産業化が形づけた国家中心的で垂直的な社会構造に政党体制が結合されていることを意味している。

韓国の諸政党政治権力に基づいた受恵 一 後援関係に依存して、 地縁、 学縁のような一次的連帯によって政治エリー ト を充員し、 ボス中心の位階的決定構造を特徴とする権威主義期の政党構造を持続させてきたことがその一例である。

 韓国の政党体制は偏狭な理念的範囲内での垂直的連携W?に基づいて結束し、 それが水平的機能利益の動員と組織化を絶えず垂直的に分解させる力学として働くことによって、 変化に対して抵抗力をもっ類型的特性を帯びるようになったので、ある。

「韓国は権威主義的構造の上で政治競争のルールと制度のみが民主化 し た一種の
混合体制 (mixed-regime) をもつようになったので、ある。
権威主義的国家の存在 垂直的社会構造 冷戦一 反共イデオロギ ーの構造において、 民主化移行期の競争的選挙が労働運動の政治勢力化という結果を生み出すと期待するのは難 し い。」

    

  V民主主義の社会的基盤と韓国の政党体制 

「政策と綱領を発展させることを期待するのも難 しかった。

冷戦反共主義の裏返 し でもある自由民主主義を唯一の理念と し て採択することを強要 し 、 自分が急進主義者ではないことを証明 し なければならない政治社会的条件が、 偏狭な理念的代表体制と政党体制を生じさせたのは自然の成り行きであった。

権威主義的国家の存在

垂直的社会構造、

冷戦一 反共イデオロギ ー構造が、

諸政党に対し てきわめて限られた開拓(hunting ground) のみを開放 した時、選挙競争が地域政党体制をもたら したのは必然的であった。

 

  VI 脱冷戦と韓国政党体制変化の展望

韓国には「制度政治圏Jと 「非制度圏Jという独特の概念が存在する。

言い換えれば、 政治の制度化 し た領域がきわめて制限的で、

それが包括できない政治的、社会的空間が広く存在 しているということである。

 それは、 市民社会の多様な要求と変化にもかかわらず

@政治的代表体制が冷戦体制下で形成された偏狭な理念的、階層的基盤の上に立っているということを意味する。

⇒W。この傾向は韓国だけではなく日本も似ている

東アジアの米国主導ハブの冷戦構造が議会圏の支配政党、マスコミを一定の理念的枠に閉じ込めている

そのことによって市民社会の基本的な要求は分散され支配体制に収斂される。

従って何回選挙をやっても国の将来ベクトルは修正することはできない(個々人が実力行使できるわけがなく、投票行為は抵抗権のようなもので駆使すべきだが)

個々人の政治意志は萎え、経済基本動向が行く末を決める政治関与の範囲は限られている

>「制度政治圏を構成する諸政党のもっとも大きな特徴は、互いに区別される排他的支持基盤をもっていないという点である。⇒W.一種の逆説!区別がないがゆえに、地域性に拘り特色を出したい政治家。政策的に差異がない。人口規模の小さな国はみな似たような傾向にあることも確かだ!

「、 政党問の政策的、 理念的違いが政治競争を分画する対立ラインを形成することを難 しくしている。

その結果、 一方で、政党間競争を通 し て参与の包括性が保障できない労働排除的政党体制が続き(スクラム組んで労働排除、翼賛体制から外される)、

他方、 政党聞の支持市場が地理的にのみ分かれる地域政党体制も持続するようになっ
たのである。⇒W。ようやく韓国議会圏の政治事情がぼんやりとわかってきた。

 

 IMF危機の衝撃が第16代総選挙で階層的対立と して表出できなかったという事実は(Wそういう理念の政党は国家保安法で目が出ないうちに潰されてきた)、 韓国政党体制の変化のためには偏狭な理念的代表体制と垂直的社会構造を主導し てきた冷戦的囲内秩序と権威主義産業化の遺産を共に変化させる必要があることを暗示 し ている。

「冷戦が南北朝鮮の分断と戦争という形で展開 し たため、

>南北が今まで見せてきた政治体制とは異なる何ものかがもたらされることを期 待するのは難 しかった。

@韓国が下からの運動を通 して民主化を達成 し 、

@また下からの運動が強い伝統と して機能 しているにもかかわらず、

@冷戦反共体制構造(W戦争マシーン)とイデオロギ ーは

>現在のような政党体制が維持できた社会的基盤の1つであった。」

「そ の後 そのよ う な 政治構造が産業化 と民主化の衝撃 に も耐え ら れた土台 は 、 国 内化された 冷戦的政治、 社会構造で あ っ たとい う 事実で あ る 。

W。何もかも冷戦構造に収斂するのは間違い。

W。韓国経済の急速発展は戦闘的労働運動を許容する経済基盤だったことも確か(労働現場の外部からの政党の政治介入、組織化は禁止されていた~国家保安法~)

W。現代財閥系など財閥企業にも民主労総の組合が浸透している。

 

 韓国の労働排除的 一 地域政党体 制 も 一種の均衡状態で ある。
IMF危機の衝撃 に も こ の均衡状態 は崩れる こ と がな かっ た 。

しかし、 IMF危機の衝撃が外部か ら加え ら れ、主に経済的次元に限 ら れたのに対 して、

脱冷戦化が及ぼす衝撃 は よ り 構造的で全面的で、 ある」

 

政治学者や労働政党の活動家た ち の多 く は次の2 点 を 指摘 し ている。
1 つは、 現行の小選挙区制 を 政党名簿式比例代表制へと変えな け ればな ら な い と い う こ とである。 地域区で 1 位得 票者のみが当選す る 現行の選挙制度の下では、 労働者の階層投票が現実化す る の は難 し い と い う のである。」

「韓国の非制度圏進歩勢力は、 制度政治圏の特性はその 「保守性」にあるとする。

「このよう に進歩と保守の理念が経済的基礎による区別ではないため、 保守の概念は 「北朝鮮の脅威Jという 誇張された 「仮想の敵」に基づいた反共安保主義に依存している。

進歩の概念も経済的基礎が弱いのは同じで、 既成体制に対しての反対あるいは道徳的イメージが際立つ て強調される。」

IMF危機以後、韓国労働運動が抱えている内部の問題

企業別組合体制の制度的条件は、 失業と賃金下落に対する労組の抵抗を個別企業の労使関係の次元へと分解した。

国際的脱冷戦化が、 グ ローバリ ゼー シ ョ ンのよう に、労働市場において労働運動の影響力を弱める巨視的変化をともなっているという 事実も重要

 

過去ケインズ主義や社会民主主義が果たしたよう な、労働運動の現実的基礎をもっ理念的、 マク ロ経済的代案を組織することが、 きわめて難しい世界史的条件が今日あるという 事実である。

黄 晳暎(ファン・ソギョン)自伝。韓国労働運動の原点。1972年11月。「今でも私たちの周囲で社会運動にかかわる多くの人々が、「全泰壱(チョン テイル)ショック」で自分の人生が変わったと告白するほどである。」民主化の流れに軍が再介入したという80年の経験から、労働者・大学生・青年層が、労働現場に入っていった。

ameblo.jp

「  1970年の初冬11月13日

空はどんより曇っていた。私はラジオのニュースに大きな衝撃を受けた。

労働基準法の遵守を訴える活動をしていた平和市場(「韓国最初の総合衣類市場で約1,700の店舗が入店しています。もともとは朝鮮戦争時に朝鮮半島北部(現在の北朝鮮)から非難してきた人々が衣類を売る市場でした]

労働者

全泰壱 - Wikipedia

が、ついに戦いに行き詰まり、労働条件の悲惨さを世に訴えるため、わが身にガソリンを振りかけて自殺と遂げたのだ。(ファンソギョン27歳、1969年ベトナム派兵から帰国27歳。)月刊誌はその後次々と彼の生涯に関する逸話を紹介した。「親友よ。僕を知っているすべての僕よ。僕の知らない全ての僕よ」に始まる遺書の内容と、「僕に大学生の友人が一人いればよかった。そして彼から難しい労働法について教えてもらえばよかったのに」という独白は、多くの人々の心を打った。

特に炎に包まれて最後の絶叫となった「労働基準法を遵守しろ!」「俺たちは機械じゃない!」という叫びは、当時の知識人と大学生に大きな衝撃を与えた。

>今でも私たちの周囲で社会運動にかかわる多くの人々が、「全泰壱(チョン テイル)ショック」で自分の人生が変わったと告白するほどである⇒W。日本の50年代中期以降の労働運動経緯⇒総評⇒連合に対して韓国の労働運動は長期独裁政権下の圧迫と戦いながら労働組合が作り上げられていった経緯があり異質な側面がある。

***

***************************************

W参考資料①

韓国の労働運動 磯崎 典世

http://www.seikatsuken.or.jp/monthly/hikaku/pdf/200805.pdf

W。参考資料② 

韓国の労働排除的政党体制と第16代総選挙

           高麗大学政治外交学科 : 教授 崖, 章集
           高麗大学アジア問題研究所 : 研究員 朴, 常勲

引用

「80年代初には男性労働者たちを主軸とする大規模工場体制へと転換した。 さらに、 これら労働者たちは1980年代中葉以降、 大々的な民主化闘争に続いて爆発的な組織化と集団的動員の経験をもっており、 この過程で理念的急進性と強い戦闘性を特徴とする労働運動のリ ー ダー シツブの傾向がつくられ、現在まで労働運動の主流としての影響力を維持している。

組織化した社会勢力としての労働運動の政治的影響力は、1997年1月に政府を事実上の機能麻癖状態に追い込んだゼネストの事例によって、 克明に見ることができる。

 すなわち制度化された政治領域の内外で、 韓国労働運動の位相と影響力は大きな格差を見せているのである。
比較政治の観点から見ても、 韓国の労働排除的政党体制の継続は注目すべき問題である。

民主化以降実施された諸選挙において、 進歩的理念あるいは労働者たちの階級的利害を動員しようとした諸政党が獲得した支持率は平均1.1%に過ぎず、 時間とともに支持票の増大が見られるような成長パタ ーンを示すこともなかった。 1.1%の支持率というのは、 組織労働者の10分のlにも満たないのであり、 労働組合として組織可能な全体労働者の50分のlにも満たない大きさである。 

 産業社会的特性が高度化し、 労働者たちが中心的な社会階級あるいは社会勢力として機能しているにもかかわらず、

韓国ではどうして労働排除的な政党体制を持続することができたのであろうか。

韓国の労働排除的政党体制

「米国例外主義(American exceptionalism) ならぬ

韓国例外主義の新しい説明体系を必要とするのであろうか。⇒W。日本列島住民には韓国固有の戦闘的労働運動の現場と激烈な政党間競争の展開される共同政治幻想空間著しい分離状態が理解しがたい面がある。

@政治は政治分野だけに働く<慣性の法則>があるなどという抽象的な説明では判らない。具体的な政治過程を辿らなければ、ピンとこない。

  E形成期政党体制の持続的効果

W。書いていることの半分しかわからない。韓国固有の事情があまりにも強すぎる。

W。まず大前提。北朝鮮対峙下の国家保安法(戦前の治安維持法を想起)、独裁体制に抵抗する政党政治活動は米国流リベラル中道政治路線の枠内でしか行えなかったという現実がある。

そういう既存の反政府=反独裁政党に参与することのない、急進民主主義的(1972年平和市場焼身自殺烈士)あるいは社会主義的な政治思想を抱いた政治意識分子が(大学生、知識人)職場、現場レベルに入り御用組合に抗して、あるいは治安警察、暴力団と戦いながら労働者を組織していった戦闘的労働運動の間にはもともと人的組織的物的イデオロギー的大きな開きあったという、事実である。

  引用

「韓国において 1987年6月の民主化闘争以降(W、6月民主化抗争へのリアル政治過程⇒全員解雇女子労働者野党本部籠城事態⇒党首国会議員職はく奪⇒出身地、馬山釜山反独裁暴動⇒朴正煕側近KCI長官~~米国流民主主義の思想(自由のため!)によって射殺~~大統領射殺!軍部新大統領。大統領射殺がなければ6月民主化抗争はなかった?それほどに政治世界は労働現場とかけ離れている 12月の大統領選挙を経て88年4月国会議員総選挙までの約 10ヶ月の時期は、 民主化以降の韓国政党体制の形成期として特徴づけることができる。

この時期は市民が国家権力をめぐる選挙競争で投票できる権利を回復したのみならず、 大々的な大衆動員が行われた

さらに、 この時期の大衆動員は2つの方向に分岐した。

>1つは、1987年7-9月に集中した労働運動の爆発的動員とその組織化であり、

>もう 1つは、 同年 10月以降本格化した選挙競争ある

@注目すべきは、 大衆動員におけるこの2つの流れは時間的には連続しているものの@完全に分離した2つの領域において進行したという事実である

労働運動の大衆動員は職場に限られ 都市中産層と保守的マスコミが主導する市民社会からは隔離された。
一方、 選挙競争において大衆動員を主導したのは既存の政党であった。 少なくともこの次元で労働の政治的動員は事実上機能できなかったのである。

さらに、 6月の民主化闘争を主導した運動勢力(大衆的実力闘争であり街頭集会、デモ⇔職場の組合組織化は関連)も既存政党に対して「選択的支持」を表明することによって分裂した。 その結果、政治の空間は既存の勢力によって先取りされ、 労働者たちは一般有権者へと解体された。 この時期の選挙競争が「労働なき民主化と定義されるゆえんで、ある。」

しかし、 彼らが基盤を置いている政治的支持市場の分画構造は過去のそれとは大きく異なるもので、あったo 韓国ではこれを「地域政党体制Jと呼ぶ。 これは、 全国的に四党体制が成立したにもかかわらず、 地域においてはそれぞれ一党
支配体制の特徴をもっていることを指している。 すなわち、 政党と有権者の連合の構造が「地域Jという地理的分割線によって区画されたのである。 そしてこのような政党体制は、 以後7回の全国的選挙競争においても変化することがなく、 新しい政党の実験も継続して挫折した。 それほど、 形成期政党体制の類型的特性は強い持続性、 変化に対する強い免疫性をもっていたのである。」

  韓国政党体制の社会的基盤

W。理解できない。別途に調べる必要がある。

「韓国において地域政党体制が続いているということは、冷戦的国内秩序と権威主義産業化が形づけた国家中心的で垂直的な社会構造に政党体制が結合されているこ
とを意味している。 韓国の諸政党が政治権力に基づいた受恵 一 後援関係に依存して、 地縁、 学縁のような一次的連帯によって政治エリー ト を充員し、 ボス中心の位階的決定構造を特徴とする権威主義期の政党構造を持続させてきたことがその一例である。

、 韓国の政党体制は偏狭な理念的範囲内での垂直的連携に基づいて結束し、 それが水平的機能利益の動員と組織化を絶えず垂直的に分解させる力学として働くことによって、 変化に対して抵抗力をもっ類型的特性を帯びるようになったので、ある。

「韓国は権威主義的構造の上で政治競争のルールと制度のみが民主化 し た一種の
混合体制 (mixed-regime) をもつようになったので、ある。
権威主義的国家の存在、 垂直的社会構造、 冷戦一 反共イデオロギ ーの構造において、 民主化移行期の競争的選挙が労働運動の政治勢力化という結果を生み出すと期待するのは難 し い。」

    V民主主義の社会的基盤と韓国の政党体制 

「政策と綱領を発展させることを期待するのも難 しかった。

冷戦反共主義の裏返 し でもある自由民主主義を唯一の理念と し て採択することを強要 し 、 自分が急進主義者ではないことを証明 し なければならない政治社会的条件が、 偏狭な理念的代表体制と政党体制を生じさせたのは自然の成り行きであった。

権威主義的国家の存在

垂直的社会構造、

冷戦一 反共イデオロギ ー構造が、

諸政党に対し てきわめて限られた開拓市(hunting ground) のみを開放 した時、選挙競争が地域政党体制をもたら したのは必然的であった。

  VI 脱冷戦と韓国政党体制変化の展望

韓国には「制度政治圏Jと 「非制度圏Jという独特の概念が存在する。

言い換えれば、 政治の制度化 し た領域がきわめて制限的で、

それが包括できない政治的、社会的空間が広く存在 しているということである。

 それは、 市民社会の多様な要求と変化にもかかわらず

@政治的代表体制が冷戦体制下で形成された偏狭な理念的、階層的基盤の上に立っているということを意味する。⇒W。この傾向は韓国だけではなく日本も似ている。東アジアの米国主導ハブの冷戦構造が議会圏の支配政党、マスコミを一定の理念的枠に閉じ込めている。そのことによって市民社会の基本的な要求は分散され支配体制に収斂される。従って何回選挙をやっても国の将来ベクトルを修正することはできない。経済基本動向が行く末を決める。政治関与の範囲は限られている。

>「制度政治圏を構成する諸政党のもっとも大きな特徴は、互いに区別される排他的支持基盤をもっていないという点である。⇒W.韓国の特徴さろう。人口規模の小さな国はみな似たような傾向にあることも確かだ!

「、 政党問の政策的、 理念的違いが政治競争を分画する対立ラインを形成することを難 しくしている。

その結果、 一方で、政党間競争を通 し て参与の包括性が保障できない労働排除的政党体制が続き、

他方、 政党聞の支持市場が地理的にのみ分かれる地域政党体制も持続するようになっ
たのである。⇒W。ようやく韓国議会圏の政治事情がぼんやりとわかってきた。

 

IMF危機の衝撃が第16代総選挙で階層的対立と して表出できなかったという事実は、 韓国政党体制の変化のためには偏狭な理念的代表体制と垂直的社会構造を主導し てきた冷戦的囲内秩序と権威主義産業化の遺産を共に変化させる必要があることを暗示 し ている。

「冷戦が南北朝鮮の分断と戦争という形で展開 し たため、

>南北が今まで見せてきた政治体制とは異なる何ものかがもたらされることを期 待するのは難 しかった。

@韓国が下からの運動を通 して民主化を達成 し 、

@また下からの運動が強い伝統と して機能 しているにもかかわらず、

@冷戦反共体制構造(W戦争マシーン)とイデオロギ ーは

>現在のような政党体制が維持できた社会的基盤の1つであった。」

「そ の後 そのよ う な 政治構造が産業化 と民主化の衝撃 に も耐え ら れた土台 は 、 国 内化された 冷戦的政治、 社会構造で あ っ たとい う 事実で あ る 。

 韓国の労働排除的 一 地域政党体 制 も 一種の均衡状態で ある。
IMF危機の衝撃 に も こ の均衡状態 は崩れる こ と がな かっ た 。

しかし、 IMF危機の衝撃が外部か ら加え ら れ、主に経済的次元に限 ら れたのに対 して、

脱冷戦化が及ぼす衝撃 は よ り 構造的で全面的で、 ある」

 

政治学者や労働政党の活動家た ち の多 く は次の2 点 を 指摘 し ている。
1 つは、 現行の小選挙区制 を 政党名簿式比例代表制へと変えな け ればな ら な い と い う こ とである。 地域区で 1 位得 票者のみが当選す る 現行の選挙制度の下では、 労働者の階層投票が現実化す る の は難 し い と い う のである。」

「韓国の非制度圏進歩勢力は、 制度政治圏の特性はその 「保守性」にあるとする。

「このよう に進歩と保守の理念が経済的基礎による区別ではないため、 保守の概念は 「北朝鮮の脅威Jという 誇張された 「仮想の敵」に基づいた反共安保主義に依存している。

進歩の概念も経済的基礎が弱いのは同じで、 既成体制に対しての反対あるいは道徳的イメージが際立つ て強調される。」

IMF危機以後、韓国労働運動が抱えている内部の問題

企業別組合体制の制度的条件は、 失業と賃金下落に対する労組の抵抗を個別企業の労使関係の次元へと分解した。

国際的脱冷戦化が、 グ ローバリ ゼー シ ョ ンのよう に、労働市場において労働運動の影響力を弱める巨視的変化をともなっているという 事実も重要

 

過去ケインズ主義や社会民主主義が果たしたよう な、労働運動の現実的基礎をもっ理念的、 マク ロ経済的代案を組織することが、 きわめて難しい世界史的条件が今日あるという 事実である。

 

 

  韓国の労働運動 磯崎 典世 の要点を引用する。

      ↓

     朴正熙政権(61 - 79 年)

「60年代の工業化は労働集約的な軽工業、(繊維・衣服、雑貨などが外貨獲得)中心でしたが、70年代に大統領の独裁を強めた維新体制の下で重化学工業化が推進されていきます。⇒63年に改正した労働法で、複数労組の実質的禁止(政権コントロール下の韓国労総公認)労働組合の政治活動禁止などを定め、労使協議会による労使紛争の解決を義務づけました。他国とは異なり、労働運動は政党との関係を断絶されたところで活動せざるを得なかったのです。

 公務員や国公営企業、国民経済に重大な影響を与える企業の労働者には、団体行動権を制限もしくは認めなくとも良い

     60-70年代の労働組合と労働運動

78-79年(W。朴正煕大統領CIA長官に射殺される。その前のKCIA長官は亡命先のパリで行方不明!)においても軽工業と重化学工業の輸出シェアが各々53.2と36.3

重化学工業化を支えたのは低賃金に依拠した軽工業の輸出+(Wベトナム特需+賠償金)

当時、その産業を支えていたのは、若年の女子労働者で、彼女らによる労働争議が社会問題化(W。日本の新聞も賑わしていた。)

>その背景には、悲惨な労働環境の改善をめざす宗教団体(都市産業宣教会やカトリック労働青年会)の支援や、労働者に自らの権利を説いた労働夜学の存在(学生たちは偽装就職し労働現場にいった)、

@かつら輸出会社YH貿易の女子労働者が、会社の廃業通告に抵抗して野党・新民党党舎に籠城⇒党首国会議員除名⇒出身地の馬山、釜山暴動⇒対応を巡り朴大統領側近CIA長官に射殺。

   全斗煥政権(80W光州事態-87 年)の弾圧と抵抗

 明確な反体制志向をもつ運動が登場民主化の流れに軍が再介入したという80年の経験から、労働者・大衆を中心とする体制変革の必要性を認識した学生・青年層が、その実現のために労働現場に入っていったことがありました。

   6月民主抗争 - Wikipedia

>ここに労働運動は組織的に関わっていませんでした。新たに登場した体制変革的な労働運動は弾圧で地下活動を余儀なくされ、一般的な労働運動は企業単位に封じこめられていた。

野党を中心とする穏健な民主化勢力は、労働運動の過激化が軍の介入を招くのではないかと恐れて協議のペースを速め、年内に憲法改正、新憲法の下での大統領選挙が実施されます。「複数組合禁止の原則」を明示し、既存の運動を逸脱する組織に対する法規制を強化

 盧泰愚政権(88-92 年)の労働政策

法的には認められない組織であっても、新しい組織が現場で影響力を行使する状況も現れ、こうした「民主労組」勢力が、御用組合の韓国労総に代わる新たなナショナルセンターをつくる運動も進めていきます。

しかし、あまりにも現場での闘争が激しくなり、経済的にも大きな支障をきたすとの理由で反労働キャンペーンが起こり、90年代になると大きな紛争に公権力が介入する動きが再び現れました。

  民主労組運動内の路線対立とナショナルセンター結成

強硬派は、大衆を基盤として体制変革、

他方の穏健派は、民主化を徹底化していく方針

W。韓国社会への見方の違いが横たわっている。

 穏健派が中心になって、自律的な活動を保障されるよう労働関係法を改正する必要を
掲げ、勢力結集のための民主的なナショナルセンター設立運動が展開され、

1995年に「民主労総」が結成される。

Wこの労働組合の全国団体は下から作り上げたもので日本の総評(朝鮮戦争によるレッドパージに乗じた官公労大企業組合民主化同盟=民同が母体)⇒連合の結成過程と次元が違う。

   金泳三政権(93-97 年)期の労働法改正をめぐる動き 

1991年にILOに加盟し、OECD加盟を目指す韓国政府にとって、労使関係の転換は国内的問題にとどまらない重要性があったのです。さらに、経済のグローバル化が進む中で、国家主導で開発を行ってきた韓国に対しても外からの自由化圧力がかかり

> 大量解雇を可能にする整理解雇制が、派遣労働制などとともに、労働市場を柔軟化して経済的な効率性を高める制度として導入が議論の対象

二大労総<韓国労総と民主労総>を中心としたゼネストによって、政府与党の意図した労働法を押し戻し、過去の規制は即時またある程度の猶予をもって撤廃されることに確定しましたが、同時に、新自由主義的な制度の導入の流れも明らかになってきました。そして、この流れは外からの衝撃によって加速します。

3.IMF通貨危機・労使政委員会から 民主労働党創設へ

実施が2年延期された整理解雇制も、すぐに導入しなければいけない状況に至りました

金大中政権の経済政策は、市場原理を貫徹することが至上命題だったので、労使政委員会に参画しても、労働勢力がそこで影響力を発揮することはできませんでした。

民主労総は、労使政委員会を通じた政策形成過程への参加の実効性に疑問をもつようになり、99年2月に委員会から脱退します。

  4.労働勢力の隆盛と失速盧武鉉政権(2003-07 年)

民主労総を労使政委員会などに復帰させて協議しようとするよりも、政府主導で対応していこうとしますその間、民主労総は着実に加盟者を増やし、2006年4月には、韓国労総を抜いて最大のナショナルセンターとなりますが、その機関が政府との協議チャンネルをもたない状態が続いています。

    経済状況の変化と労働運動 ~の背景には、非正規雇用労働者の急増~

2000年代になると全体の55%を超える。

社会保障制度が確立した後、その財政的な負担が新自由主義的政策への転換を促した先進国とは異なり、韓国の場合は、新自由主義的な経済政策が推進される時期に、社会保障制度の「創設」も課題となったという、一見すると矛盾する特徴

 

  民主労働党の問題

民主労働党は80年代の急進的な民主化運動勢力が結束したもので、当時の2路
線の潮流があります。1つは、非民主的な体制を打倒するには、韓国内の労働者など疎外された階層が中心となった変革を行うべきだとするPD(民衆民主)派で、もう1つは、体制変革のためには冷戦構造を止揚して民族統一をするのがより重要だというNL(民族解放)派です。

 後者は、アメリカの影響下で反共独裁が支えられている状態を問題視し、80年代の学
生運動でも主要な勢力を形成していました。民主労働党は、こうした80年代の急進的民主化運動を担った人々が中心になって結成さた。

そして、国内の非正規問題などが大きくなった時期に、民主労働党はNL派が党の主流として全面に出る傾向が見られました。それが、国内問題より民族問題(対北
朝鮮関係)を重視しているとの不信を招いたと指摘されています。

   5.現状と新たな方向性

は、第一に、産別労組への転換を通じた交渉力の強化というものです。
民主労総は、所属組合員に産別労組所属への転換を促し、現在は75.6%が産別所属となっています。
そして、例えば、金属産業においては、まだ参加企業は限られているとはいえ産別中央交渉も始まり、金属労組側の強い要求によって、使用者団体も近年発足
したような動きも見られます。

第二に、非正規雇用労働者への対応強化です。

 「社会連帯戦略」

具体的には、正規労働者の給与を減額し、年金保険料を払えない低所得の労働者の保険
料を支援するという内容⇒W富裕税導入への布石

民主労組が最大労総に、政策への口出しさらに : 東亜日報

*****************************

*****************************

本文引用に戻る

「@彼の死は70年代80年代の労働運動と民主化運動にとって大きな指標となった。

その年の11月から3か月をかけて書き上げたのが「客地」である。

  引用

暴力とピンハネの横行する干拓工事現場で、労働者たちが起ち上がるまでを描いた、黄晢暎鮮烈のデビュー作」⇒W。反俗日記でとりあげた日韓条約反対デモで逮捕され、留置所で出会った海兵隊出身の日雇い労働者「大尉」とともに労働放浪にでて最初に入った飯場の仕事が干拓事業の現場を

だった。そこを舞台にしている。実際の彼らは、その世界で仕事ができて(技術がある)顔の効く大尉の庇護の下、楽な仕事の方に回り(型枠工<大尉>と補助作業<本人>)懸命に働いたが悪天候などの要因でカネにならず、現場監督と通じて建設資材を横流しし、逃走するのである。ファンソギョンは人当たりが良く要領もいい。仕事内容は建設重機も要所要所しか入っておらず、力仕事に頼っていた。

 

60年代に経験した干拓地の工事現場と飯場での体験をもとに展開する物語であるが、

執筆当時の韓国の現実も、小説で扱った時代とあまり変わらないように思われた。

 軍事政権が推進した「経済開発5か年計画」は、

労働集約的な日雇い労働を工場労働に再編成しようとするものだった。

農村は瓦解し、続いてセマウル運動が登場した。

広範囲な小作農と小規模自作農が解体し、彼らを工場労働者に転換したのだ。

こうして大都市周辺に貧民部落とバラックが急造された。それはあたかもヨーロッパの産業革命初期の工場地帯を彷彿させるものだった。

「客地」は全泰壱(チョン テイル)の死に強い影響を受けて書いた作品である。

 作品は完成したがどこに発表したらいいかわからない。そこで**が自作詩を発表した創作と批評 - Wikipedia

という季刊雑誌を紹介してくれたのでそこへ作品を送った。

>清進(W。「朝鮮の市街地に置かれる行政区画の一つ。 日本の町(町丁・街区)に相当する。)に集まる小規模出版社の代表は、いわゆる4,19世代(1960年4月の学生革命当時、大学生だった世代)を中心に形成されており、外国文学と社会科学を専攻した新進気鋭の知識人が主体だった。

「4・19世代」と「386世代」◇ 広島大学 崔 吉城 名誉教授 | 随筆 | ニュース | 東洋経済日報

彼らは言論界をリードしながら、60年第70年代に登場した書き手の作品を季刊誌に掲載し、続いて単行本を出版することで図書市場に新風を吹き込んでいた。

最初に単行本と詩集は出始めたころ、文壇、書店界ではそれが採算に合う商売になるとは思ってもいなかった。単行本づくりは<隙間産業>と称すべきものだった。

 専業作家として一人立ちすることも思いもよらなかった。誰かが創作集を出したりすれば、それこそ涙が出るほど感激した。奇跡にも近いことだったからだ。

本の印税どころか雑誌に発表した原稿料さえも、編集者の顔色をうかがいながら、言いなりであり難くいただく。酒の一杯でもごちそうになれば「車代をください」とも言えず、うやむやになるのが通例だった。

50年以降の作家は放浪するルンペンであり、喫茶店や居酒屋を行き来しながら、アルバイトみたいな雑文を書いたり、出版社の時給の仕事をしたりした。教員や新聞社の働き口があれば、運に恵まれている方だった。

******************************

   金芝河 - Wikipedia

          

ja.wikipedia.org

 ある日、妻が仕事に出かけ一人息子の世話をしてるとだしぬけに金芝河 - Wikipedia

が訪ねてきた。私は息子を抱いて、彼らに案内されるままに新村の通りにある居酒屋に行った。

するとみすぼらしい身なりの青白い青年が待っていた。 孫鶴圭 - Wikipedia

だった。私たちは店内をはいずり回り一人遊びする息子の傍らで昼酒を飲んだ。

「お前、現場に入ろうとしているんだろう?こいつと一緒だったら助かるんじゃないかな」金芝河 - Wikipediaはそういって孫鶴圭 - Wikipediaを紹介してくれた。

そのころ私は九老団地で働き口を探していたがそのことは話さず挨拶だけにした。

 (W自分一人で工場に行く)

工場団地本部に行くと、「戦いながら働こう!」とか「やればできる!」という標語が大きく張り出して有り、その下にさらに「労働力80%きかい20%」と書いてあるのが目に留まった。それだけ団地の当時の状況は、ほとんど労働集約的な仕事だった。日本の下請けとして引き受けた仕事を肉体労働でこなし低賃金にあえいでいたのだ。

 当時の日本は、最近の韓国のように、軽工業や多くの人手を要するす事は韓国や東南アジアに下請けに出したり海外の工場に委託していた。そして付加価値の高い先端技術の仕事だけ国内でやっていた。(W1970年代のファンソギョンの見立て通りだとすると、その当時から日本生産資本は海外にサプライチェーンを持っていた。ということはやれることはやっての長期経済停滞だった、ということで構造改革の余地はない。さらなる付加価値製品の創出に失敗し、世界市場における競争相手に負けていったという事実があるだけだ。ゆえに長期経済停滞がある

 韓国の近代化とは

低賃金を維持するために、農村の土地を持たない農民層に故郷を捨てさせ、都市周辺に集めた安い労働力を養うために、

穀物の低価格を維持する悪循環のなかにあった。(W、労働力商品の価格はその生活の再生産費で決まる!)⇒日本政府の小麦一括輸入政策もその一種(米価抑えられる)⇒コメ生産ではくえない、⇒都会に集団就職⇒安価な労働力調達。日韓の資本主義の剰余価値の内発的な生産スタイルは基本的に同じ。大きな違いは時系列のずれ。地政学的な位置関係による先発後発の違い。そういう風にシンプルに考えないと韓国経済の急発展は理解できない。

>農民の両親は死ぬ思いで耕作を続け、安い価格でコメを売り、都市へ出た息子や娘は安い賃金で働き、相対的に高いコメを買って貧乏暮らしに苦しんでいた。

>そのころの軍事政権のスローガンは「先に建設、次に分配」だった。

>今でも聞く話だが「パイを大きくして分け合おう!」というのである。中国の鄧小平も同じ趣旨のことを言っていた。

@日本の池田首相は「所得倍増」経済の総量を拡大しその後に分配とは言わなかった。

@先を行くものは楽観的だったのだ。

 

 私たちの間では「民衆」とは何か、との議論がおのずから起きた。

戦後は国民の80%が農民だったが、いつの間にか「1千万の職業」という言葉がはやった。

小作農と自作農は没落し、中農だけが農村に残り、各種のサービス業や行商や都市貧民が増えた。

つまり国民の大多数が労働者、農民、都市貧民、いうなれば一般庶民なのだ。彼らが互いに連体し組織化されたら、独裁政権と戦えるという主張は当然のように思われた。

W。韓国の戦う側の韓国社会の現状分析は、日本の運動圏のようなアジテーションと情勢分析が混在しているようなものではなく、実践に直結するリアルな分析を出し合って、論争する。

 わたしはグノの忠告通りある程度の技術が必要で賃金もやや高い工場に就職することにした。(W。日本の光学メーカーのレンズの研磨の仕事)

もちろん自筆の履歴書と兵歴証明書、そして高校の卒業証書のおかげだった。

もし最初に通っていた名門高校をきちんと卒業したら面接ですぐボロを出しただろう。」ある工業高校の夜間部土木科の卒業証書を提示すると、それ以上の質問はなかった。

 後日、その工場を止めてドヤに引っ越すと刑事が訪ねてきた。彼は私の住民証」をしばらく見つめてから「通報があったんだ」と告げて帰った。かなりして私の偽装終局を通報したのは仕事をあっせんして切れた李班長だったと知った。

 ~~~

 わたしはグノに工場団地の中でどこの作業条件が最も劣悪で問題が多いか、労働者が最もどこに集中しているか調べてほしんと頼んだ。

私は日本の電子メーカーの大々的な下請けをしている工場に褶曲することにした。

 孫鶴圭 - Wikipediaと私は住まいを決めると電子メーカーに急いで履歴書と早津行証明書などを提出した。

わたしはベトナム派兵の経歴と工業高校や幹部の卒業証が、こうした受験において 信頼に値する書類になることを再確認した。

 だが問題は 孫鶴圭 - Wikipediaの学歴だった

彼は京畿高校で三銃士(目立った社会政治運動をしたリーダー)の一人といわれていた。くわえてソウル大学の出身なので、それこそ団地のレベルからすればあまりにも無理な学歴の持ち主だった。彼は後にオックスフォード大学に留学もしていたので、自分の学歴をさらに悪化させてしまった。たむなく京畿中学の卒業証明書だけを提出した。

 面接担当者は私に何も尋ねなかったが、彼の順番になると上から下までじろじろと見つめていった。

「あんた本当にここに就職する気なの? 京畿中学を出たら京畿高校に行くはずだ。そうしたらそのまま、ソウル大学に入ったはずなのに?君がここに就職しようという魂胆は何かね?」彼は疑われ門前払いされた。かえり道彼は愚痴をこぼした。

「なんだよ!クソ高校じゃ卒業しても就職もできないのかよ」

卒業した学校のために就職できなかったっことは、その後、友人たちの間でしばしば話のネタになり、そこかた京畿夜間部という言葉が生まれ、制度圏(約束された出世コース)に入らずに在野のままだった高学歴者はみんな「夜間部」と呼ばれるようになった。

 就職できず入り口でつまずいた彼を置き去りにし私一人で働くわけにはいかない。

彼は今度は用意周到に準備してきた。

ある日、夜間明けに部屋に戻ってくると、彼がなぜか出勤せず待っていた。

「先輩!親の周りに異変が起きたらしい。みんな撤退しようとしている。先輩のところにも来るかもしれないからひとまずここを撤退しよう」「あの本を読むだけの集まりが問題になったらしい」

 我が家に帰ると、妻は私が工場から引き揚げてきたと知って喜んだ。

さらに孫鶴圭 - Wikipediaが検挙されたことは数日後周囲から知らされた

私と彼は相談していたので、しばらくソウルを離れることにした。周囲が言うように事態が収まるまで2,3か月はようするに違いない。

妻に相談するとまったく知らない場所に置きより何かあったらすぐ連絡できるものがいるところにしたらという。

「馬山に友達がいるの。その人の弟も文章を書いて本を読むのが好きな中学の国語の先生だから、知らない場所でも心細くないはずよ。」

私は夜行列車で南に向かった。

 

 

          

        

黄 晳暎(ファン・ソギョン)自伝。第二次世界大戦以降、 アメリカが非西欧圏で行った戦争の性格は大きく三つに分けられる。 ①世界においてアメリカが覇権を維持するための戦争、 ②宗教的文化的、人種的偏見による戦争。 ③そして最も重要なのは、事業、ビジネスのための戦争である。

 「私が戦線で極限における人間の生存条件とし、そして暴力と野蛮を即物的に見て感じたとすれば、ダナンの闇市場の調査員として初めて、アメリカ軍が引き起こした戦争の相対的な性格を把握したことになる。

 ダナンは北ベトナム軍と解放戦線に包囲された陸の孤島で(W。北ベトナム南ベトナムの国境にほど近いアメリカ軍の北部方面兵站拠点であり空軍基地)そこの日常的な生活は、特殊な経済システムによって維持されていた。最も威力がある通貨はドルで、米軍司令部が発行した軍票が市場を統制していた。

 第二次世界大戦以降、

アメリカが非西欧圏で行った戦争の性格は大きく三つに分けられる。

①世界においてアメリカが覇権を維持するための戦争、

②宗教的文化的、人種的偏見による戦争。

③そして最も重要なのは、事業、ビジネスのための戦争である。

 共同捜査隊に派遣されると、第一にPXの把握業務であり、次に米軍補給倉への出入り、最後にダナンの闇市場を監視する任務が与えられた。同僚たちの言葉を借りれば大きな{化け物市場}のど真ん中にすっぽりとはまり込んでしまった。

 PXは贅沢な品々と消費財の宝庫だった。

また補給倉庫は生活必需である野菜や肉から、嗜好品であるお茶、コーヒー、チョコレート、酒類、そしてたばこに至るまでダナン市の生存権を掌握していた。

Aレーションは未調理の野菜、果物、肉など。

Bレーションは一次調理を終えた食品やあじつけされ調理だけすればよい食品だった。

Cレーションは缶詰で完全に調理済みの戦争食品だった。

もっとも緻密で闇に埋もれるのは武器の取引だった。

補給部署やPXに勤務するアメリカ兵が個々に不正を働くことも多かったが、経済工作をする財務部署が別にあることも確かだった。

これらはAレーションとBレーションなどの嗜好品で物価を調節していた。

~米軍は闇取引の利潤で現地労務者の賃金を払い、時々軍票を地下に流し、ドルの回収や抹消をしていた。

南ベトナム軍人と役人は戦闘食糧から武器まで取引していて、その相手は商人から税金を取り立てる解放戦線だった。

雨期になると、連合軍と解放戦線はともに缶詰のCレーションを食べて戦闘する

例えば、南ベトナム軍に新たな榴弾発射機窓の新兵器が支給されると、そのうち数本は市場にまわり販売される。

 

>占領軍とその周辺の住民の生活はアメリカ風消費生活を模倣しており、~~。

PX(W。「post exchange. アメリカ軍用語。 軍隊内で飲食物,日用品などを売る店のこと 旧日本軍では酒保と呼び,自衛隊では創設当初 PXと呼んだこともあるが,現在は売店

W。補給系で働く米兵、軍属は有り余る物資の山を常に相手にしているので扱いが存在になりがち。細かいことを気にしない人も多い。この辺は役人気質とは違う。おそらく当時のベトナムではここに描かれているような事態が、米軍の駐在するところどこでも見受けられただろう。

もっとも軍隊の員数合わせが米軍に限ったことではなく、旧日本軍にもあった。

ウクライナに欧米から支援物資、カネが流れ込んでいるだろうが、中抜きも相当あると思う。

**************************************

本記事には直接関係がないが、温故知新。結局、この項でリアルに想うのはウクライナ現地の援助経済事情と日本の今の軍事基地事情。

各地の米軍基地

〇三沢米軍基地

世界的な電波傍受システムのエシュロンと関係

rimpeace 「追跡!在日米軍」

 引用 W.像の檻は古くなり、

「中に大型のパラボラ・アンテナがセット」


〇横田米軍基地と首都圏の米軍基地

 引用

「2012年3月16日には、横田米軍基地に、航空自衛隊航空総隊司令部(当時は府中市)が移駐し、戦後初めて「航空自衛隊横田基地」が発足。西太平洋における唯一の輸送航空団の中継基地である横田基地は、世界のどこにでも展開する準備を整えている遠征部隊。ハーキュリー輸送機。

首都圏の空を支配する「横田エリア

引用

「民間航空機は、米軍の許可なくこの空域に入ることができません。JAL(日本航空)機が御巣鷹山に墜落した事故では、ここが「横田エリア」の中でしたので、捜索隊は米軍の許可のもとに入りました。

教えて!日米地位協定:3)東京の空、自由に飛べない?:朝日新聞デジタル

〇横須賀米海軍基地と神奈川の基地群

引用

揚陸指揮艦「ブルーリッジ」w。実践で動かない象徴か?旗艦とする第7艦隊は、ハワイの太平洋艦隊の指揮下にあり、東は日付変更線から西はアフリカ東岸までの西太平洋、インド洋、日本海という地球の5分の1の広大な海域を作戦区域とする艦隊です。原子力空母ロナルド・レーガンをはじめ13隻の戦闘艦が横須賀基地を母港」

厚木米軍基地

 F/A-18F スーパーホーネット

F/A-18 (航空機) - Wikipedia

神奈川県は、沖縄に次ぐ「第二の基地県」と言われています。米軍専用基地数では沖縄についで13か所の米軍基地があります。

 横浜ノース・ドッグ⇒相模補給廠 

 〇岩国米軍基地

 F/A-18F スーパーホーネットをベースに開発された。愛称はグラウラー

電子妨害、護衛電子妨害、自己防御電子妨害などのミッション

EA-18Gはアメリカでも機密度の高い機体であるが、これを導入できたのはオーストラリアUKUSA協定に参加していることと無縁ではない。

フィンランド

2019年2月18日にアメリカ国防総省フィンランドへのEA-18G輸出を承認した。

ドイツ

2020年4月19日、トーネード ECRの後継機として、15機を購入する方針を示した。

沖縄本土の面積=1,199 km²

 引用

沖縄県には、31の米軍専用施設があ り、その総面積は1万8,609ヘクター ル、本県の総面積の約8%人口の9 割以上が居住する沖縄本島では約 15%の面積を占めています。 その規模は東京23区のうち13区を 覆ってしまうほどの広大な面積です。」

W。中国が攻めてくる。北朝鮮からミサイルが飛んでくる。戦争屋の言う通りしていたら日本人の半分ぐらいはますます貧乏になる。開き直ることを知る必要がある。ロシアウクライナ関係と東アジア情勢は似ているところもあるが(エレファントカーブの構図~日本経済の長期停滞体質による経済地殻の大陸への沈み込み~)、

 違いも大きい。

①日本にウクライナのような主体性のない歴史はなかった地政学的位置があまりにも異なる。

②経済力軍事力が違う、

③日本列島に土地や資源の魅力はない

④通常戦力で列島を侵攻するのは困難

⑤米国経済の弱体化(労働階層の絶対的貧窮化がすすんでいるのか?)と軍産複合体(軍事予算100兆円)を総合すると、地域の各国のフリーハンドを狭め、低強度の「戦争状態」が東アジアで常態化することが望ましい。

 

ペロシ下院議長の台湾訪問後の中国軍の拙速な軍事演習とそれに対抗した台湾へのミサイル供与という一連の動きを見ると、米国過大な戦費消費がなければ経済が危うくなっている~古典的な経済主導型の戦争国家化~)、グローバル資本制によって、留まるところを知らない階層格差の拡大は続き、人々は冷静な政治判断ができなくなるだろう=世界の政治はおしゃべりな独裁政治になる。の東アジア情勢への挑発の戦略性

中国共産党反合理的な党是国共内戦勝利と台湾併合)に固執する神経過敏、柔軟性欠如がわかる。香港さえ扱いかねているのに台湾併合は無理。

一帯一路 - Wikipedia

の世界戦略は中国歴代王朝が滅びたパターンを踏襲している(伸び切った専制国家の覇権とそれゆえの内部崩壊)

中米ともに柔軟性がなくなっているが、情勢の底流は攻める欧米グローバル資本支配層と防戦する中国支配層の攻防であり、

@<戦争的事態>の発火と継続は

@中国の経済成長のエンジンの動きが鈍くなって共産党政権への不満がくすぶり始める時期。

 

~新型コロナパンデミックは収束の先は見えない。弱毒化⇒収束の絵図は、RNAウィルスの変転の本質がコピーミスに由来するとすれば<絵に描いた餅>

そもそも、今後、オミクロン株の系統でコピーミスが発生していくとは限らない。別株だったデルタ株のような別系統の新型コロナ株への置き換わりも想定できる。免疫不全症候群、抗生剤多様の特殊体質などの体内でオミクロン株と別系統のウィルスが発生するかもしれない。

~なお、この項について徹底して調べたことはないが、今までの知識を総合しての意見。

 であるとすれば、コロナ対策において欧米のリバタリアン的対応への転換は、中国の専制権力を利用した封じ込め対策に対する外圧になる。

>言い換えると現時点の中国共産党独裁権力は枠に収まる住民に政治責任は持つが、グローバル資本制支配層の政権は新型コロナの変異に似て

住民に対して如何様にも無責任に変転できる。ワイマール憲法状況がヒットラーを生んだ。プロレタリア独裁スターリン主義に転化した。

@以上の条件がそろえば

@東アジア地域で日米韓台湾の挑発が続くと、中国人民解放軍は動揺し共産党政権も微妙な軍事判断を迫られる。

 

黄 晳暎(ファン・ソギョン)自伝。戦場では、生死の境は常に身近にあり連日、偶然と幸いが交差。朝鮮戦争以降、暴力行為が内面化し、 ベトナム戦争で深まり 数年後に光州での無慈悲な白昼の殺戮行為へ。ベトナム戦争は日本帝国主義の過去を暴きながら自らの過ちを顧みず行った恥ずべき事例。

「わたしがチュライ基地W注へ派遣が決まったと話すと、機関兵の多くはまずまずだといってくれた。~もっともよいのは戦争に遭遇しないアメリカ空軍や海軍部隊に配属されることだった。

W。参考資料W注

引用

チュライ空港は、ベトナムクアンナム省ヌイタイン県にある空港。年間の旅客処理能力は76万人。ベトナム戦争中の1965年にアメリ海兵隊が建設したチュライ航空基地が基になっている

W。ベトナム戦争の戦略的拠点、ダナンアメリカ空軍基地の南にチュライ基地。

W。なお、沖縄嘉手納基地からB52戦略爆撃機が直接、ベトナム本土を爆撃した。

 私の任務はアメリカ軍道路巡察隊の補助だった。巡察隊の韓国側責任者は下士官で、部下は一行文体の半分にも満たない6名である。全員交代で基地の外郭道路を機動巡察したり、作戦車両を案内したり、道路周辺にある守衛所や橋の安全を時間ごとに確認したりする。

>私が任された地域は最も危険で起動距離の長いとされる1号線(W.ハノイサイゴン)の周辺だった。

毎日、チュライ基地から海辺のクアンガイまでの道路を往復した。埃の立ち込める中を、鼻先に落ちるプラスティックゴーグルをかけ休む間のなく往来する重装備の装甲車、タンク車、護送車などの車列を安全な道路に案内した。

われわれはいつも朝早く地雷探知機を背負った一個部隊の捜索班とともにちゅっくり作戦道路を探索した。

村落の巡察中の捜索隊から捕虜を引き継ぐこともあり、軍事情報隊へ行くベトナム民間人情報員を護送したり、道路に埋設された罠を発見して道路を閉鎖し工兵隊に連絡することもあった。

  >戦場の現場に出かかけてみると、生死の境は常に身近にあった。

後に作戦に参加することになりいっそう生々しく死と対峙することになるが、

国道1号線周辺においても、ほとんど連日、偶然と幸いが交差しているのだ。

 巡察中、埃まみれで暑さをしのぎつつ、渇きを潤すために立ち寄っていたコーラを飲む小さな店があった。

その日もわれわれは濡れタオルを頼んで顔を拭い、アイスボックスに入っていたコーラを飲んで席を立った。

中心街を抜ける前に後方からの爆発音に振り返ると、立ち寄ったばかりの店から黒煙が上がっていた。

我々は慎重に車を戻して離れたところに停車し、手持ちの銃を向けながら店に近づいた。店の半分ほどが吹き飛んでいて四方に死体が転がっていた。負傷者がのたうち回りうめき後をを挙げていた。近距離からロケット砲がぶち込んで逃走したようだ。

アメリカ軍兵士が規則的に出入りする店を狙って白昼攻撃を仕掛けたことは間違いなさそうだった。

 アメリカ兵の間に「両足で歩いているベトナム民間人は敵と思え!」という警句が出回っていたのは、そのころすでにこの戦争に対する無策のまま敗北を認めていたことを意味する。

 エストモーランド司令官の公式見解として

ベトナム全土が自由発砲地帯と布告されたのもそのころである。

***

 ほかにもすぐ目の前を走っていた輸送トラックがひの塊になり、空中にふっとぶのを見た。対戦車地雷を埋設し、やはり至近距離から電線接触で爆発させたのだろう。こうした小さな作戦は農村地域の地方ゲリラの仕業だった。

  ↓     ↓ W.ファンソギョンの作風には地に足の着いた軽妙な語り口がある。

 アメリカ軍巡察班の運転者は大別して二種類あった。

でこぼこ道の舗装されていない道路を全速力疾走するものと、首をすくめ肩に思いっきり力を入れて注意深く徐行するものである。

早く行こうが、ゆっくりいこうが、道路に地雷が埋まっていれば、どちらも引っかかって死ぬ。

だが、密林から狙撃してくる場合や無線を使って地雷を爆発させる場合は、全速力で通過すると確かに逃げ切れる可能性があった。

だから、我々あはゆっくり走らせる奴に当たると口喧嘩をしたり途中で下車しほかの車に乗り換えたりした。

*****

 いくら海辺の陣地とはいえ、夜になるといつどこから敵が侵入してくるかわからない。

中隊兵力は一個分隊づつ交代で先兵と歩哨兵を防衛陣地に配置し、前方の塹壕で夜を明かす。

 夜間に二度ほど急襲された。

真ん中の守衛所に出ていた先兵から、異常な気配を示す無線機の非常信号が2回短く入り、非常事態はすぐ塹壕に知らされた。

我々は交通壕を通って半円形になっている防衛陣地の前方へ移動した。全員が手持ち銃と重火器を配備し待機していたころロケット砲が飛んできた。

 しかし、まだ射撃する兵士はだれもいなかった。

敵の射撃が始まり、位置が確認できるまで待機しなければならない。コレは初歩的な鉄則である。

その代わり照明弾がしきりに上空ではじけ、ゆっくり周囲を照らしながら落下する。

ロケット砲が10発ほど落ちる頃になると、射撃地点が掌握できるので対抗砲撃が始まる。そこへ武装ヘリコプターのガンシップが出動する。

捜索小隊が銃剣を銃にさして塹壕から防衛陣地の前に出た。かれらは分隊別に散開し暗がりの中に消えていった。

 接近してきた敵はすでに姿を消し闇にまぎれて手持ちの銃で襲撃してきた。

捜索小隊はゆっくり前進し安全地帯を確保し夜の明けるのを待った。

急襲を受けた夜は大抵そのような経過をたどるのだった。

 解放戦線の地方ゲリラは抗仏戦争の時から戦っている歴戦の古参兵たちだった。

彼らは自分たちが有利な時や政治的に全世界に戦争の進行を知らせる必要がある場合だけ、犠牲を払い大々的な攻勢に出る。

だがそういうことは滅多になかった。

生きている「敵」の姿を遠方からでも見たのは1回だけ、作戦に出て真昼に捜索偵察しているときだった。

わが中隊は小隊別に分かれて各地域へ投入された。

ジャングルを出ると目の前は青々と稲の育った田畑が、向かい側にはまた濃い密林が連なっていた。

あぜ道の真ん中で、農夫でない戦士が一人で用を足しているところだった。

彼が亡父でないと断定したのは、黒の道胞に円錐型のノンラーを被ってはいるが銃と弾帯を持っていたからだった。

 全隊員があぜ道に配置され「伏せ撃ち」を始めると、彼はすくっと立ち上がり、ジグザグに畑の真ん中を突っ走った。

多くの銃口が火を噴いたが、彼は素早く走り去り、いつの間にか密林の中に消えてしまった。兵士たちはいつも中で動く兵士を打つのは難しいといっていた。

「あいつ尻も拭かずに逃げたんだな」のジョークに私も一緒になって笑ったが、相手はアメリカ側にとって」人間というよりも逃した獲物に過ぎなかったのだ。

***

 対戦車地雷を踏むと

当人の他にいるほぼ全小隊の兵力が殺傷される甚大な被害を被る。

そのため中隊の捜索行軍は、

常に左右と中間に散会するのが鉄則だった。

村に入るときは、

まず左右のブレーキング小隊のうち地形、地物がよい位置にいる小隊が迂回して村の一方の退路を塞ぎ、対角線の位置では別の小隊が後方をsy男子たところで攻撃を任された小隊が村に突入する。

 その際、まず経験豊かな戦闘の先兵が前に出て、それを補助する2,3名の先兵が一定の距離を保ちながら後に続く。小隊は分隊ごとに移動し、背後にまた後衛の先兵を立てる。前線と後方があるわけではなくどこから射撃を受けるかわからないからである。

 先頭先兵の一時的任務は、通行路の地形地物を観察して「罠」がないかどうかを確認することだった。

また、前方に待ち伏せがないかどうか、その気配を探らなければならない。

先頭先兵は罠の危険に最も晒されるが敵が前方に入る場合は、むしろ危険性が少ない。(W。戦闘先兵」翻訳を間違っている。多分、この節の村に入る小隊の陣形に対して潜伏する敵側から見て如何に大きな被害を与えるか、という絵図を頭の中で描き切れていない。先頭の兵士に対して発砲すると、あとに続く小隊全体は即、戦闘態勢に入る。先頭をやり過ごせば小隊をせん滅できる可能性が広ろがる)文意を理解していない。)

 敵は通常、部隊の行軍が接近するまで待ち、先頭先兵をそのまま通過させる場合が多い。また先頭先兵が自分の通路上の罠を発見できなかったとしても、その付近の数歩先で未熟な兵士が別の罠に接触する場合も多かったからである。

***

 W。大岡昇平(本物の小説家)の名作

俘虜記 - Wikipedia

~日本の戦争文学の最高傑作。簡潔明瞭!ハンスカロッサ「ルーマニア日記」アップしたが手違いで全部抹消になったが、戦争の中の生身の人間性を描いているという点では通じるものがある。

敵の砲撃を受けた場合、その場から後方に逃走すると爆裂にあう機会が多い、前にすすめといってひたすら突撃し帰らぬ人となった寡黙な歴戦の尉官クラスの兵士の姿が描かれてる。その勇者は中国戦線から末期フィリピン戦線の転戦した戦争の先行きに絶望しきって死に場所を求めていた、と大岡は記している。

***

引用に戻る

「ついに罠がはじけ、爆音と悲鳴と火薬の硝煙が森に立ち込めることがある。

兵士たちは伏せやがて起き上がると、破裂させた本人は飛び散って木の根元や枝に四肢がひっかっている。他の数人は手足を失ったまま、わなわなと震えてうめき声をあげながら倒れている。事態収拾のためまず負傷者から応急措置をし無線でヘリを呼ぶ。~~そこに負傷者や血まみれの遺体を積んで護送すると、兵士たちは全員目を血走らせ敵愾心を燃やすのだった。

>ほとんど気がふれたような状態で村落への侵入が果敢に開始される。

 農村と都市の至るところで定期的な軍事行為と共に行われていたゲリラ戦の特性上、両者の区別は難しかった。

 60年代半ばを過ぎると、米軍司令部は農村で全国的に「戦略村構想」を繰り広げ米軍が指定した地域を除くすべての森林と田畑、さらには作戦区域内の村落でさえも「自由発砲地帯」を宣言した。

道路は守衛所と防衛陣地に続く戦に過ぎなかった。

 夜間になると外国軍兵士はことごとく小銃で身構えている自分の塹壕の外にある広大な地域が敵の掌握地域に兵化することをよく心得ていた。これを米軍司令官は「ヒョウ柄」なる作戦用語で表現した。

それは外国軍が、武装した兵士だけでなく敵対的なベトナム民衆を敵とみなしており、彼らが四方から包囲しているという意味だった。すべての人民を敵とみなさねばならない戦いは最初から間違った戦争だろう。

 ~~~~

 しかしそれはベトナムの戦場での幾多の日常的な残虐行為の一部でしかなかった。

またそれは韓国軍にも該当する事件だった。

>私は朝鮮戦争以降、こうした暴力行為が内面化し、

ベトナム戦争で深まり

>数年後に光州での無慈悲な白昼の殺戮行為が行われたと思っている。

特にベトナム戦争は我々がアジアで他者に対して暴力を行使した最初のケースであり、

ともすれば日本帝国主義の過去を暴きながら自らの過ちを顧みず行った恥ずべき事例だった。

「残らず始末せよ!」という言葉は、相手側の抵抗で死傷者が多く出た村落で、進軍が停滞したとき、当然のように下される命令だった。ある部隊でh人間はもちろんのこと、牛、豚、鶏に至るまで生きているものすべてを全滅させ、見せしめにすることを意味していた。

*****************************

 ホイアンの外郭にいた旅団の新しい防衛陣地に到着したとき、我々はテト攻勢が始まったことを知った。

わが方は、105ミリ砲を容赦なくはなった。敵はしばらく静かになると密林から韓国語の放送をしてきた。

「みなさん、「私たちはなぜ雀の涙ほどのドルに雇われ、ヤンキーの傭兵なんかになっているのですか?明日は直ちに銃を捨てて故郷に帰りましょう。」

また砲撃が始まった。

しばらくして静かになると、スピーカーが鳴り始めた。「みなさん、砲撃を止めてください。善良な住民を殺さないでください」

 こういた戦乱の中、ホイアン市内を北ベトナム正規軍が占領したとの知らせがいり、我々あを投入せよとの命令が下った。

~~~~W。ところが

 民間人」風の男は敬礼もせずに今井の書類を中隊長に差し出した。

「転入者を引き受けに来ました」

中隊長は書類に素早く目を通した。

そして名前を呼ばれた私は壕の中からへっぴり腰で立ち上がった。

中隊長は書類を振りかざしながら「先兵をやれる奴はいないのに」中隊長は人事参謀にでもいうように訴えた。相手はミャンマーのジャングル帽をぬいでひらひら扇ぎながら

「死線を超えれば誰でも古参兵になります」

私は前線を離れ、戦場のより深い局面を見せる市場担当に転属することになった

  ↓  ↓

 後日、急な転属命令の謎は解けた。

母は戦線から届いた「封筒に書かれた部隊の所在地をみて、私が最前線で危険な任務に就いていることに気づいたらしい。

母の頭に浮かんだのは、ペニョン島で中佐か大隊長とかで勤務している近所の青年だった。彼女はまず彼の家を訪ね正確な勤務地を調べた。それから仁川に行き、その当時一月に2,3回程度だった不定期連絡船に苦労して乗り込み、島へ向かった。

彼は義兄(W、姉の夫。両者は高校教師)の高校時代の同級生でもあったので姉たちもよく知っていた。母は民間人はなかなか行けない西部戦線(W.黄海の島)の最前線にまで訪ねていくと、彼は驚き深い感銘を受けたようだ。

そして母に、駐ベトナム司令部を通じて私の転勤をどうにか努力してみようと約束してくれた。

黄 晳暎(ファン・ソギョン)自伝。母との別れ。オーウェルとヘミングウェイのスペイン内戦参加を語り合った友人は「ここがスペインだったら、反ファシズム統一戦線に加わねばならないだろうな。太平洋戦争の時、学徒兵だったら、脱出しただろう」「消極的ではあるが俺は絶対にベトナムにはいかない」MI銃で死を選んだ。

   ファンソギョン新人賞受賞作品を読んでいた中隊長

                  在韓海兵隊訓練中

「こうしてわが大隊の全員はジャングル戦の特殊学校に配属されることになった。

私は中隊銃砲班のロケット砲の砲手だった。

>訓練中に海軍士官学校出」の中隊長が、休み時間に『思想界』に発表された短編小説についての話をした。⇒W。『思想界』新人賞受賞作品「立石附近」か?ファンソギョンの作風は情緒性、ハードボイルド性、物語性があり観念的ではなく読みやすい。

>つい「それは私が描いた作品です」と口にすると彼は少し驚いた表情になった。

高地攻撃や歩兵と機動部隊の合同作戦のときは、他の兵隊は息切れしながらタンク車の後を必死に追いかけていたが、我々は方針を据え置き物陰に適当に休んでいればいいのだ。立ち合い将校が通りがかりに」お前たちは何をしているのか?」と尋ねたりすれば「はい、ロケット砲を準備中です」と答えれば済むのだった。

中隊長が目をかけてくれたおかげだ。

        訓練中の息子と再会した母

 ある日、トラックに乗って午前の射撃訓練に出かける途中、上陸師団の南門をでて鳥川村を横切り新道の十字路に分かれる道に出ると、そこになぜか中年の女性が立っていた。

トラックがゆっくり通過するときにやっとその韓服の女性が母であることに気づいた。

後から聞いた話では、母は面会申請をしたものの、訓練が終わる夕方にならなければ面会できないと告げられたため、遠くからでも息子を一目見たいと、そこでまったいたのだった。私はトラックから上半身を乗り出し、母親に向かって叫んだ。

「母さん、ここだよ!」

母は車に向かって数歩駆け寄り手を振った。

乗車責任者の将校がそれを見て不憫に思ったのか、しばらく車を止めてくれた。

私はもう一度叫んだ。「夕方には戻ってきます。あの守衛所の受付にいてください」

「わかったよ、行っておいで」

 眼頭が熱くなった。そうだ結婚して家長になるまで、この息子が恋人だったのだ。(W。父は戦争後しばらくして亡くなりソギョンは長男)

彼女は苦界のような世の中に放り出された私を探し求め、あちこちさ迷い歩いたのだ。

性根尽き果てたときでさえ、彼女はいつもどこへ行っても私を探して長旅をした。

日々おいていく母の華奢な肩を見つめながら、私は振り返りながら独り言をつぶやき

自分を叱り続けた。「この親不孝者め!」

 その日の夕方、母と私は一緒に鳥川村の宿で、食卓に用意された焼き魚を前に向き合った。

母はいつものようにさんまの塩焼きの骨を抜き取りながら「戦場にいったら必ず神様にお祈りするんだよ。私もお祈りするから~~お前の髪の先まで神様が守ってきださるはずだから」というのだった。

母は小型の聖書を差し出すと帰っていった。

母が私に信仰を進めたのは、、この時が初めてである。

晩年の母は一層信仰に頼るようになった。

***

 釜山港からの乗船が決まると、すぐに出征祝いの式典が行われた。

壇上で名士があいさつすると女子高生が対極旗を打ち振り、軍楽隊が力ずよく軍歌を演奏した。

~~我々の多くは自分が何のために戦場に行くのかよく理解していなかった。

たいていはただ苦しみだけだった内務班から解放されて新天地へ脱出すると思い込んでおり、ベトナムに行けばたくさん稼げると期待していた。

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  友人の友達だった男のことを、私は今でも忘れることができない

彼はどこかの大学の英文科の学生だった。

時々、一緒の酒の席になることがあった。

確か彼がジョージオーウェルのスペイン内戦への参加の話をしたのだった。

W注、カタロニア讃歌』同じスペイン内戦をテーマにしたヘミングウェイの「誰がために彼が鳴る」よりも面白い!実際に兵士として戦った生々しい政治軍事情勢が細部にわたって描かれている。人民戦線のスペイン共産党ナチスとの独ソ不可侵条約との絡みがあって複雑な立ち回りをした。

引用

5月に前線で咽喉部に貫通銃創を受け、まさに紙一重で致命傷を免れる。傷が癒えてバルセロナに帰還するとスターリン主義者によるPOUMへの弾圧が始まっており、追われるようにして同年6月にフランスに帰還する。」

ゲルニカ (絵画) - Wikipedia

「ドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカヤ県ゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている⇒Wゲルニカバスク地方だった。19世紀末と20世紀前半には周辺で採掘される鉄鉱石のおかげで工業化が進展し、スペインでもっとも裕福でもっとも重要な県のひとつとなったカタロニアの「首都」はバルセロナ)20世紀を象徴する絵画であるとされ、その準備と製作に関してもっとも完全に記録されている絵画]

【スペイン】ゲルニカの本当の意味を知ってピカソと出会う旅 | たびこふれ

スペイン】ゲルニカの本当の意味を知ってピカソと出会う旅 | たびこふれ

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 引用に戻る

我々はそのころ見たヘミングウェイ原作の映画「誰がために鐘が鳴る」のことを話した。

その時彼がふと口にした。

「ここがスペインだったら、もちろん反ファシズム統一戦線に加わねばならないだろうな。きっと太平洋戦争の時、学徒兵だったら、脱出しただろう」

 全員が口を閉ざしたが、心の内では植民地時代と同じじゃないか、と思っていたことだろう。

学徒兵に積極的に参戦を呼び掛けた植民地時代に知識人イグァンスの話も出た。

彼は本当に日本を中心とするアジアの共同体を積極的信念として持っていたのだろうかと語り合った。

そんな時、彼が最後に口にした言葉が思い出される。

「どんな状況においても忍耐には限度があるものだ。

状況は同じだが、我々は南北に分断されているから、戦場を選択するとすれば、スペインのようにはいかないだろう」

そして彼は最後に

「消極的ではあるが俺は絶対にベトナムにはいかない」と声を強めた。

 私が彼を覚えているのは彼が亡くなったからだ。

~英語ができるので幸いにも師団内のアメリ海兵隊派遣部隊(W。在韓海兵隊)に配属されたのだった。

彼と私は入隊前より煩雑にあった。私は尋ねるたびにFMラジオを低くかけしぃせきをたくさん見せてくれた。

特教隊に入隊後は1,2回ほどあっただろうか。それなのにベトナムに入ってからはすっかり忘れていた。

 ホイアンベトナム)へ移動してから旅団本部で一人の行政兵にあった。

彼に「私の友人は元気でやっているかい」と尋ねると彼は声を落とした。

「ご存じないのですか?特教隊に入隊して亡くなりました。」

 やはり英語が問題だったようだ。

特技兵を派遣せよとの上層部からの支持があると、彼はベトナム派兵に志願させられた。

そして訓練を受けた。その夜間戦闘の射撃訓練をしている数日の間に決意を固めたらしい。

射撃場からMI実弾をひそかに持ち出したのだ。彼はそれを大事に保管すると、出動命令が出たその日に、外出しかなり酒を飲み、運動場の向かいにある便所にはいると内側からカギを掛け、MI銃を口に突っ込んだらしい。引き金に棒をひっかけ両足で引いたのだろう⇒W。ヘミングウェイの死に方とそっくりだヘミングウェイは猟銃だったか?MI銃は軍用自動小銃。即死。

「部隊でもみ消して統制秩序を守ろうとすると、隊の空気は凍てつきましたが、結果的に暴発事故として処理されました」

 わたしは訳も分からず状況に押し流され、ベトナムを軍隊生活の特殊な赴任地の一つとして当然のように受け入れてしまったのだ。

~~

明け方になって、海から登る太陽とともに吹き始めた風の中に、私が最初にかいだのは塩や大地や森とか異なるガソリンの匂いだった

 チュンライ軍港から基地営内を経て海兵隊司令部までのいく道はベトナム国道1号線だった。

それは南北に長く伸びたインドシナ半島南はサイゴンから北のハノイまで結ぶかなり長い道路である。

道の両側は深い密林で、途中大小の村や都市を道路が結んでいた。

~~白っぽい埃を立てて走る武装護送車に前後を擁護されながら、我々のトラックに乗った兵士たちも実弾を装填し銃口を両脇のジャングルに向けていた

われわれあが旅団本部営内の待機幕舎に到着して軍装を解いた日は、近くから放たれる耳をつんざく砲声と、外郭から絶えず放たれる自動小銃の射撃音で私は一睡もできなかった。

 戦場と貧しい村はわたしには幼いころから慣れ親しんだ世界だった。おそらく私の同年代の韓国兵も同じだったろう。

 W。自伝を読み進んでいるうちに、

ベトナム派兵体験(帰国後精神不安に悩む)、1980年の光州事態の危機一髪(活動拠点は光州、偶々ソウル出張中で難を逃れ潜伏多くの友人知人が死んだ)、国家保安法違反承知で北朝鮮訪問へ続く民衆とともにあった作家としての<こころ>の動きが想像できる。しかしもやり遂げたのは50歳。獄中長期ハンストを何度もやっている。

同時に、ここに韓国の作家の共通の課題があったのは作家冥利に尽きる。

 韓国の民主化の長い道のりは民衆が戦い切り開いたもの。

朴正煕大統領夫妻は暗殺の銃弾に倒れた。KCIA長官の手記を読むと鬼気迫るものがあった。武断政治があれば武の内部抗争(暗殺)が噴出する日本の暗殺事件も世界と東アジアの大きな政治の流れから独立した特殊宗教と政権党の個別問題に収斂するものではないと思う。

 日本の日韓条約反対の戦いのスローガンがどうだったの知りたかった。

独裁政権反対!南北分断固定化反対!」戦った当時のヒトの一部には理解が不十分だったとの反省がある。独裁政権反対は韓国の人たちが言うのはまっとうだが、日本で戦うものが真っ先に掲げるスローガンではなかった。そもそも韓国現地で「独裁反対は言い出せなかったはず。