反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

民主政権は権力屋敷の政権部屋に最近間借りし仕事先は巨大ゴミ屋敷掃除

 改めて恥ずかしながら国家権力とは何かを手短に定義しておく。

 国家とは一つの階級が他の階級を抑圧する暴力装置であり、共同の幻想性も付与する。
 従って国家権力という場合前者の階級的暴力装置のことである。
 今問題になっている地検特捜部はこの暴力装置の最たるものであり、行政組織の一部云々は本質的な規定とは関係がない目暗ましの議論である。

 承知のようにこの機関は戦後のGHQ占領支配下で起こる不正隠匿物資の摘発を目的としてGHQの肝いりで特別な権限を与えられて出発したものである。権限は通常の司法権力の常道を逸脱し、任意の捜査権限があり、もちろん逮捕拘束もできる、取り調べもできる、そして起訴は基本的にやりたい放題である。起訴すれば日本の裁判制度の中では99%有罪である。裁判で争った方のない方は理解の範囲を超えるが裁判で争うことは大きな労力、カネ、時間を要する。個人にとって多大な犠牲を強いるものだし組織にとってさえ楽な領域ではない。争う相手は国費で養われて巨大な司法官僚組織である。

 以上を押さえて鳩山資金疑惑、小沢一郎氏関連の一連の事態を大きく俯瞰してみると実態が明々白々となろう。
  
 自民党やその前身は戦後ほぼ一貫して政権の座にあった。
北ヨーロッパの政権は国民福祉政策合意の社会民主党政権であり、自民党の様な保守政権が一貫して政権の座にあったことは世界に類を見ない。
 このような事実上の一党支配の長期継続が可能となったのはこの党が単なる政権党ではなく、国家暴力装置に代表される行政機関を掌握するとともに経済団体の支持を実態的に受けていたからだ。従って自民党は単なる政権政党の枠を超えた権力政党そのものであった。

 バブル崩壊後の失われた10年を経て、このような権力構造にマスコミが積極的に関与するようになった。小泉政権誕生は事実上マスコミが演出したといって過言ではない。
 今のマスコミにはこの時の成功体験が色濃く焼き付いている。小泉以降自民党はこんなマスコミの体質を熟知しているから得手勝手にマスコミ受けの良いと思う総裁を変えて行った。
 
 基本的な観点としてアメリカなどでは巨大なメディア資本が国民の意識をコントロールしている事実を押えておくべきだろう。日本のメディア資本もそれまであった不偏不党などの特殊日本的な理屈を空洞化させアメリカ並みになったと解釈する。今まで特殊であった業態が一般大企業と同じようにアメリカン、スタンダードを受け入れた。そしてこの業態は国家に特別に認可された寡占企業であるという事実の中から組織の官僚化、社員の労働貴族化は不可避のものとなる。だから今日のマスコミ報道は特権階層の利害を肝心なところで醜いほどまで徹底擁護するものとならざる得ない。特権階層の利害が直接、浸食された時なりふり構わず金切り声をあげるのである。

 さてこうした権力党としての自民党参議院選衆院選における国民投票で政権担当の座から見事に滑り落ちた。この事態は一重にこの党の権力政権党としての日本国家運営が国民生活を破壊するに至っからである。国民の選択の基本視点はは具体的な生活実感に根ざしたものだから自民党やその一味のマスコミがどう宣伝しようが翻意させられるものでない。このような国民意識に対して小沢氏は類稀なる政治センスで「国民の生活が第一」の真に当を得たスローガンを掲げた。

 そして大勝した民主党は政権の座についたが自民党の様な実体的な権力基盤からはおおよそ無縁であった。実体的な支持母体は連合のみであるし、それも積極的活動家の少ない組合の集まりにすぎないが小沢氏の冷徹な読みではこんな組織であっても選挙の際には有効活用できるというものであったろう。だから政権についた時、権力基盤として利用できるものではない。有り体にいえば連合は政権運営をしていく上で何ら頼りにならない烏合の衆である。
 船出した民主党政権は次のような難題に直面した。

 本質的に出口の見えない世界不況。

 国家財政の窮迫。  官僚組織の抵抗。 自民党長期政権が長年放置してきた政治行政課題の後始末。 マスコミの偏向報道

 権力基盤を持たない政権がこれらの難問に立ち向かわなければならない状況下で実際、実行している政権運営自民党長期政権の後始末である。いずれも難題ばかりであるがこれへの対応に追われているのが政権運営の実態で自分たちの掲げた積極的政策はいまだ実行に至っていない。
 ところが後始末の段階ですでに自民党を政治担当としてきた権力構造を含む利権癒着構造との大きな利害対立が生じてきている。

 ヤンバに代表される土建国家を形成する部分との戦い。自民党が13年にもわたって放置してきた普天間基地機能の辺野古移設日米合意問題。破産会社日本航空の放置問題。その他対応しなければならない課題が山積みする中で旧権力構造とぶつかるような方向にしか事態は進展していかい。
 
 そして究極的な旧権力構造の抵抗が昨年から続く検察特捜部による小沢攻撃である。
この動きは金権政治を一掃するなんてなんてのはお題目である。当局やこの動きを支持する者や勢力の思惑などは事態が大きく超えている。歴史の大きな流れからから見ると国民が選択した政権交代は結局、何の意味もなかったという結論に国民を導き、大衆的失意の中から政治に対する絶望感を呼び起こすものである。そしてこの道筋こそが想定される出口の見えない長期不況を背景に大多数の国民を政治的経済的奴隷のような境遇にする市場原理主義を根底としたグローバリズムの世界的席巻に代わる新たな支配体制の構築へとつながっていかざる得ない。これが政治の力学だ。

 小泉竹中路線が登場した根拠はバブル経済破たん後の失われた10年であった。国民多数の中に積もり積もった不平不満があのような経済合理主義を装った大集熱狂を基盤とした非合理、日本破壊の政権を生み出した。
 
 今回の事態はそれよりももっと酷いことが来るべき未来の政権によって実行される前兆と受け止めている。
 ちょうど戦前の1930年代も金権政治批判を根拠に政党政治は軍部独裁に道を譲った。
 
 この不況は長期化する世界市場は新たな段階に世界各国を好むと好まざるにかかわらず導く。この中で日本は苦しい戦いが想定される。先の記事での書いたように目先の事態を云々することも大事だが大きな森を見て進行する事態の大枠を見つめて行くことこそが国民に必要である。

 民主主義を云々するのであれば今こそ検察の意図的な政治弾圧に国民が傲然と対処すべきでる。マスコミ報道なんかこの際関係ない。奴らは誰が何と言おうと検察と同じように好き勝手にやる。