小泉以前の自民党は国家権力党としての自省の中でそういうポピュリズム政治の方向は選択しなかったと記憶している。
正確を期して言えば自分たちの政治支配が貫徹していたからあえてその方向に踏み込む必要がなかった、というべきだろう。
小泉の様なポピュリズムの政治手法に自民党政治がいきつかざる得なかったのは日本資本主義が成熟してしまって資本の国内蓄積の構造が停滞し、資本が海外展開すると同時に国内でそれまで温存されてきた生産性の低い部分への保護ができなくなったからである。
モノ、カネの供給ルート、見返りとしての集票「システム」が揺らいできたから共同幻想による目暗ましが必要になったのだ。
前者は当然税収の落ち込みとなって表れてくるがはたして長期に渡った小泉政権はこの面で構造改革したのか!税制を改革したのか?借金を減らしたのか?本当に官僚機構を改革したのか?
後者は社会の至る所に歪を生みだした。
基本的に市場原理主義がむき出しで政策実行された国では悲劇が起こり、その政策は破棄されている。19世紀前半の経済学者アダムスミスですら「国富論」で神の手の市場決定重視と資本蓄積構造の強化による国民生活の向上を唱えたが「幸福論」で自らの経済論の自己検証はしている。
アメリカ流儀の偏った経済学には19世紀のアダムスミス程度の自己反省もない。もともとフリードマンやハイエクの経済学は大学レベルでは異端派としてまともに取り上げられていなかった
むき出しの市場調整機能主義だからそれが適応された国に激震が走るのは当たり前である。またその激震の修復に国民が向かうのは理の当然である。経済学として特殊アメリカ的状況にしか適応できないものである。イギリスのサッチャー政策は前提条件として福祉国家があった。
小泉の様なマスメディアを利用する政治方向はすでにアメリカでは大統領選挙などで盛んに行われていた。マスを一つの方向に一挙に持っていくテクニックにはマスコミの宣伝力が要となる。
テレビや新聞の連日のシャワーのように降り注ぐ同じような論調に個々人は翻弄されてしまう。しかしこの手法が歴史的伝統が根付き、狭い国土に人が密集して暮らす日本。しかも議院内閣制の国で取り入れられることは根本的に間違っている。小泉は人心さえも破壊した。
これは詳しくは知らないが脳内への物理的作用の様なものであろう。このような物理的ともいえる作用が効きやすい生活環境に現在の日本人は置かれている。
仕事環境では昔の様な労働集約的環境で人々が集団で働く環境がなくなり個別分散的な仕事が主流になった。生活場面でも家族単位が小さくなっているし、孤立して生活している人の数も広がっている。個々の人間の横とのつながりが希薄になり、互いの情報をすり合わせ確認修正していく機会が少なくなる。社会の連帯性が薄れ、個々人が無防備なままで孤立的にマスコミ報道に接することになる。
こういう環境に一方的な情報が連日、シャワーのように降り注がれていけば人々が意識の上でその情報に取り込まれてしまうのは致し方がない。抵抗できるためにはかなりの確信がいる。
国民の半数以上がその時々の時流の流れによって大切な政治選択をしている現状がある。
小泉郵政選挙ではこの辺の事情も自民党側で考慮していた証拠の書類が公になっている。
いわゆるB層問題である。
ところが小泉の手法が取り込んだのは茶の間の漫然としたテレビ視聴で長時間を費やしている層ばかりでなかった。意図せざる効果が上がった。
バブル後の長期不況で日本は大量の若者に満足な仕事を保証できなかった。
これらの層が小泉の目暗ましの政治手法に取り込まれた。経験値が少ない柔らかい頭がマスコミ洗脳の直撃を食らった。
もう一点。不安定就労層も小泉のニセ構造改革を単純に肯定した。抵抗勢力を叩き潰すとかいう小泉に喝采した。
これらの政治的宣伝扇動によって自公政権は小選挙区制の魔力によって衆院で法案再可決の数を得た。数の力で法案が参議院から衆院にさし戻されて可決された。
この事態の繰り返しを語の真の意味で数の力の横暴というのだ。
自民党は30億円の無担保融資を銀行から引き出している。返済の見込みなんてある訳がないし、利払いもなされてないと思うがこれこそがひも付きのカネを政治力に転化している証左である。カネこそ力の典型である。
私の持論は民主党政権を国民が生み出す時期が遅すぎたということである。
小泉郵政選挙とその後の自公政権の目まぐるしい国民を愚弄した首相交代劇の中に小泉政治の反国民的な本質がある。
ポピュリズム政治で政府のあからさまな失態、失政を誤魔化そうとしたが小泉政治で疲弊し傷ついた多くの国民の生活レベルに根付いた意見を覆すことができなかった。
しかし、この過程でのマスコミ報道にも問題が多く含まれていたのも事実である。
余りにも政治家と政治そのものを貶める報道が繰り返されていた。
これからの日本は世界で困難な立場に立たされていく、先進国の経済構造はから来る不況は長期化する。国内政治でも国の借金が余りにも多すぎて政策の展開力が弱くなるのも事実である。
言いかえると内外条件に万力の様に締めあげられて国民生活の不自由は拡大していくすう勢にある。
そこで政治の果たせる役割も限定されてくる。政策や制度が有効に貫徹するためには条件がいる。これからの日本はその条件に恵まれない国に傾斜していくことは否定しがたい。
マスコミの小泉以後の政治事態に対する対応は以上を全く踏まえず、自分たちが生み出したと言って過言でない小泉政治のキチンとした総括も曖昧にし耶癒嘲笑の方向に走った。報道番組は実に被層であった。
自民党政治への批判の仕方には大いに疑問を持って記事にも書いた。個々の政治家を揶揄し嘲笑し貶めること事と批判とは違う。
そして国民の多数意思で誕生した民主党政権が現実に直面した時、社会的経済的条件から政策展開が困難を伴うことを指摘せず、一方的な言わば反政府的報道段階に突入し、小沢氏周辺を猟犬のように嗅ぎまわってきた政治的特殊暴力組織としての特捜と事実上合体し、土石流の様な小沢攻撃の本格的政府転覆段階に到達した。もう後戻りはできないであろう。
思い返さなければならない!国民多数は小泉郵政選挙で何を得たのか!
国民生活に直結したその時に果敢に実行すべき基本課題が4年も先送りになった事実。
この時、マスコミは何をしたのか!他愛のない刺客がどうのこうのと垂れ流し、国民生活でその時問われなくてはならなかった生活基本課題を覆い隠し、結局、小泉のい言う郵政民営化で外交までうまくいくようなデマを拡大宣伝しただけであった。
やらなければならない国民生活の政策課題が4年間も国民の審判にさらされることなく放置された。根底的矛盾の露呈による国民の生活をかけた批判の渦に自民党最大の政策はコロコロと首相の首を挿げ替えることであった。4年間誤魔化し続けていたのだ。
そして世界不況の直撃した日本は先進国最大のGDPの落ち込み13%を記録した。当然税収ダウンも甚だしい。こんな中で政策実行できる条件は限られてくるのは当たり前である。4年間のタイムロスは余りにの大きすぎた。これを生み出した犯人の一人がマスコミである。
今マスコミの向かっている方向は木を見て森を見ずだ。一局面を前後、左右、裏表から国民に開示するのではなく一局面の得手勝手な解釈を国民に一方的に垂れ流しているだけである。
これは小泉郵政選挙の姿勢と変わらない。
残念ながら今回のマスコミ報道の最終的被害は小泉郵政選挙と同じく国民が負わなくてはならないだろう。
だから前の記事でマスコミは奈落の階段を国民を道ずれに一歩、一歩降りているとタイトルしたのである。すでに日本の戦前を知る未だ頭脳明晰な方からは今の時代風潮に対する警鐘がある。
ハッキリ言おう。今の世界では日本の金持ち特権者は本当のところ日本がどうなっても庶民ほど実害を受けない。むしろこういう時期に金融資本というのは体力の弱った者食いつくしながら肥え太っていく。
世界も新興巨大国が本格的にに世界市場に参戦し、むき出しの市場での競争、排除、保護が深刻化していくであろう。歯止めは余りないと考えた方がいい。
これに日本がどう対応していくのか。これが日本の最大の眼目となろう。
大きな物語が進行している中にあって今、小さな物語を盛んに紡ぎ出そうとしているのが日本マスコミで大きな物語の創作はアメリカさんにお任せしておけばいいというのである。戦前の日本はアメリカに対抗し敗れたが今のアメリカに当時の勢いはない。この辺も踏まえてしたたかにやっていかないと損をするのは最終的に日本国民である。
なお、記事の連載は今回を持って一区切りとする。
こんなことに時間を費やすわけにはいかない。薄学非才との自覚もある。能書きどうりいかないのが世の中の常である。