反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

民主党衆院選勝利は国家権力とは何か、マスコミ報道とは何かを教えてくれた。

 タイトルを引き継いで書けば、実物の教材がリアルに目の前にあるのに、学ぶ人は学ぶが、学ぼうとしない人、目を塞いでしまう人も数多くいるということだ。
 昨年の春先からの一連の事態は政治や経済の大きな流れの中で一つ一つの事件を位置付けてみないと全体像がつかめない。

 さらに事態を区分けすると、事実問題の領域がまずある。次に強烈なイデオロギー上の領域がある。この二つが折り重なって、近来にない濃密な凝縮された時間があっという間に過ぎて行った。

 まず、事実の領域では地検特捜がリークしマスコミが拡声器で全国民に大声で伝えていることがどこまで事実なのかという問題がある。
 
 結果的解釈でいえば地検特捜が小沢側の些細な法的陥穽に乗じて一定のシナリオで膨大な押収資料をかき集め、逮捕者4人、その他複数の参考人から「証拠」なるモノを収拾したが、見事に空振りしてしまった、と言える。
 
 これが我々の目の前にある事実。

それでもオカシイト言うのがマスコミの立場らしいが、これはもう今のところ事実を超えたイデオロギーの領域のことである。それは一つの考え方、政治的立場の表明でしかない。

重要な事件におけるマスコミ報道でよく気をつけなければならないことは、純然たる事実の領域と立場、イデオロギーを巧みにごちゃ混ぜにして伝えることだ。事実問題を語るときに自分たちの立場、イデオロギーで修飾しているのだが、受け取り手の側は知らず知らずのうちにこの立場、イデオロギーに立って事実を見てしまうことである。

 これは一種の巧妙なる洗脳作用である。

またマスコミの受け手の側に提出する事実そのものが、一連の事実関係からすればウソだったというとんでもない領域に突入する場合もあると、受け手は警戒しておかなくてはならない。

 さらにこれは国家権力とは何か?ということに深く関わってくるのだが、地検特捜の様な国家暴力機構丸出しの様な組織の行為の一切は結果がどうであれ、事実上、「ヤリドク」に終わって被害者が一方的に物的肉体的精神的社会的ダメージを受け続けてしまうことである。
 
 間違った捜査、逮捕、勾留、取り調べ、起訴を行った当事者は何ら裁かれるでもなく、粛々と出世の階段を上っていくことである。

 東京地検の幹部、佐久間などは福島県知事裁判で無罪判決さえ出ているし、他にも長銀事件においても問題があったことが明らかになっており、捜査過程で自殺者も複数出ているにもかかわらず、出世しまた今回、特捜部長として一連の小沢捜査の陣頭指揮を行っているのである。これが国家権力の実体である、と国民は見据えなければならない。暗く厳しい事実だがこれが真実の一つである。

 だからできることは政治家の大きな力を借りて抑え込むしかない。

ところがその政治家の力も事実上、限定的である事実を我々は深く認識しておく必要がある。
平時において政治家の力を持ってしても国家権力に対しては無力である事が多い。

 簡単にいえば政治家が持つことができるのは政治権力である。

それと国家権力とは関連性はあるが別物である。
 北朝鮮や中国は事実上、政治権力に軍、行政、などが従属しているが、資本制の統治機構は政権と国家権力を巧みに分割し、新政権ができても国家権力には手をつけられないようにしている。

 国家権力とは基本的に暴力機関、官僚などの国家機関のことである。これらを国民は選挙やリコールなどの手段で選べないし監視できない。従って彼らは勝手に事を起こす権限が与えっれている。政権はもちろん国民に代わって彼らの動きを監視し統括できるが、その力も限定的にならざる得ない。

 新政権ができた時にこうした政権と国家権力との関係が国民の前にさらされる。
一連の事態は大きく言えば戦後史をかけて形成されてきた利権癒着勢力が国家権力を武器に新政権の追い落としを画策し続けていることである。

 この実態がマスコミの宣伝力と一体になっているから、国民の目の前から見えにくくなっているだけである。

 しかし一方でこうした動き全体を肯定する国民もいることも事実である。
これはもう事実認識をどの立場でどう解釈するかというイデオロギーの問題である。
私は事実問題を一つの立場で解釈したが、別の立場に立っての解釈のあり得る。

 ところがこれまで盛んにこのブログで主張してきたことはそのイデオロギーのよって立つ基盤はどこにあるのかという問題である。
 
 端的にいえばあなたは社会のどの位置にいるのですかという問題である。
これは口先で本人が何を言おうが冷厳足る事実である。
これを踏まえて自分の意見が持てない方は結局、天に唾をしていることにしかならない。

 ここから先はいつものことなので書かないことにする。

 イデオロギーは大切である。自分の強固な政治的意思になる。しかしこれは事実認識の前では謙虚にならなければ、戦前の体制の様にとんでもない方向に暴走する。今でも特定のイデオロギーの虜になっている方も多くいる。しかし多くの方はそんなものを必要とせず生きて行かれる。
 
庶民は生きて行くうち上でイデオロギーは必要ないし、そんなモノは逆に手加勢足枷になってしまう場合が多い。従って今の日本では支持政党なしの方が有権者の半数を超え、この方たちは事実上、その時々の吹く風に煽られて投票行動をしている。

 しかし考えてみると、一見政治的に無色透明な立場さえも資本制のイデオロギーに染め上げれれたモノである。資本制社会の支配的イデオロギーはマスコミが不断に垂れ流しているのモノと思って間違いないが、それは我々の頭の中を知らず知らずに支配している。

 この自覚を持つか持たないかで大きく違う。

 我々はこの世界で起こっている広い事実はマスコミを通じてしか知らされない。
だが、それに対して謙虚であると同時に批判的に見て行く必要がますます高まってきているという認識をこれから持つ必要がある。内外情勢はそういう態度を必要としている。

 幸いネットなどの新たな情報提供、発信、交流手段がこの間、急速に重要な役割を果たそうとしている
 
 ただ、今の段階ではそこには限界がある。ただしこの限界があるがゆえに巨大資本が投下されずに自由が確保されている面があるかもしれないが、この情報発進、交流システムを大いに利用していこうではないか。

 ブログを始めた当初、競馬予想記事ばかりだった。何時の間にやら政治を扱うようになった。
身辺雑記、とか競馬記事なんてものはスイスイかける。ところが政治関連記事になるとない頭をひねりながら書くので時間がかかるし、疲れる。
 
 テレビ新聞を全く見ないので話題が尽きてきて、同じことを繰りごとのように繰り返している場合が多いことも承知している。テレビ新聞を見ているとそれを材料に記事をかけるが私の場合、それがないから純然たる想像力を働かせて書くことが多い。

当然、貴重な時間を消費しているので悪影響が出てくる。

 それでも書き続けるのは怒りと使命感を置いてほかない。大袈裟にいえば書くことで参加しているつもりである。