反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

文芸評論家、山崎行太郎氏の小沢捜査への国家論的アプローチに賛同する

 山崎さんのブログ記事はお気に入りに入れていない。植草さんのブログから時々アクセスしているだけで記事を一々フォローしていなかった。だいたいどういう傾向の記事を書いているのかだけは承知していた程度。
 時々、見解が違う意見があったし、毎回、根底的な話題を取り上げているにもかかわらず、文章が短すぎて論旨が未消化に終わっているきらいがあった。フォローするまでもないな、と考えていた。
 もっとも最近はこの種の問題を考え抜いているのか議論が深まっているようだ。
 
 あるサイトで現政府の検察に対する弱腰を糾弾する民主党支持者の論調に対して国家論を前提とした議論をしなければ勇ましいだけに終わって、現状の政治情勢では政権への理不尽な失望感を煽るだけだ、と書いたところ、賛同者から山崎さんのブログ記事を紹介された。
 
 アクセスしてみたところ山崎さんも一連の小沢捜査に対して国家論の立場から問題意識を持っておられると認識した。当然、民主党政権のあり様に国家論的立場から考察を加えている。
 佐藤優氏も言葉は違うが同じような問題意識を語っているはずだ。

 もちろん私も早い段階から国家論的考察をかなり詳しく展開しておいた。
 
 偶然に同じような観点から事態を見つめていたことになる。

 しかし、これは今でこそ、特異な意見かもしれないが、昔ならこの事態を受けたら、こういう考察が常識として出てきたはずだ。あちこちから一斉にこういう論点が沸き起こり、おそらく主流論調になっていただろうが、今は貴重意見になっている。思想は流行り廃りがある。最後は歴史が評価する。

 そもそも昨年の夏、民主党政権、以前、以後の一連の事態に、このような国家論を適応しなければなないところに日本の不幸がある。
 
 昨年夏の新政権誕生まで日本国民は一党に議会多数を与えて政権交代を委ねたことはなかった。
この異常性をまず確認知る必要がある。

 たいして革命的な政策でなくても「革命」になってしまうという。これが私のいう国民的不幸なのである。民主党の政策なんてものは結局、今までのやり方では時代に即応しなくなっているから日本資本主義を内外で円滑に運営していくには別の方法をとりましょうと言っているにすぎない。

 従って根本的な立ち位置は自民党となんら変わらない。だから血相を変えて反対する方がおかしいのである。庶民はこういう平常心を持たなくてはならない。
慌てふためいて大騒ぎをしている連中がいるのだか嗤っていまう。要は自分たちの利権が危うくなっているから騒いでいるだけであり、その他の連中は単純な思慮不足の連中である。
いつの時代、どの場所にもこういう勘違いをする連中は存在してきた。ある種、幸せな人たちではある。 
 この事態を反対の立場から見ると与党政府の遂行する政策が貫徹すれば自分たちの戦後営々と築き上げてきた公然非公然の利権が侵される可能性が出てきたというまぎれもない事実に突き当たる。

 ただし、このリアルな事態を国民の目から見えなくしているのは国民の情報を一手に扱い、いわゆる世論なるものを形成してきたマスコミがこの利権集団の一角を形成していたという事実である。
世論を形成できるマスコミが新政権誕生によって利権を犯されそうになると危機感を募らせた場合、取るべき手段は一つしかない。一貫して政権に対する不利な情報を国民に振りまくことである。

 マスコミは不偏不党?反権力?
こんな標語は分け入ってみると歴史的事実から、また理論的厳密性から考察してみるとデタラメであることが分かる。
 
 マスコミは資本制イデオロギーの宣伝機関である。部分的反抗はあってもこの宿命から逃れられない。ただし、この立場を露骨に剥き出しにする時期がいつなのか、ということに我々は注目しなければならない。
 一方からのみの情報提供がなされる時期は自分たちのよって立つ権益が侵されそうになった時である。自分たちが住み心地のいい秩序が乱されそうになった時である。この時彼らは本性を露わにする。逆にいえば多くの国民、この時こそ奴らの本性を特定できる絶好の機会である。

 マスコミも一民間企業と同じ資本の論理で動いている。業務は上司の差配の下にある。そしてこの上司が資本の論理の体現者であり、権益に敏感な人間でしかないとしたら、危機感を覚えた時、そこから配信される情報が一方的なモノにに統制されることは水が高いところから低いところに流れるように、ごく当たり前の自然現象である。

 ただし、市場原理主義グローバリズムの世界的席巻以降、このような本性むき出しの傾向に何ら恥じず、逆に居直っていくような傾向が常態化していることは確かである。
 もう不偏不党、だとか反権力だとかの標語、建前へのこだわりをかなぐり捨ててもいいと決断したのだ。国民はそれでも騙せると確認したのだ。ヒットラーの様であってもやっていけると。ウソは大きなほど国民は気付かないと。小泉郵政民営化を宣伝したのは何だったのか。大きなウソがそこに含まれてなかったか。
  あの産経新聞が不偏不党をいうのだから恥知らずぶりにもほどがある。


一党の長期政権が連綿と続いてきたことが主原因で単なる政権交代に旧勢力がマスコミは言う及ばず、国家の暴力装置まで動員して抵抗している、これが真相であろう。

 情けない国である。昨今のいろんな論調を見てもなんだか日本が硬く収縮しているいるようである。
自由闊達さが失われマスコミはやたらと規範や道徳を報道の基準とするようになっている。スポーツ分野にまで適応しているのだから、日本社会の閉塞ぶりが解ろうというものである。

 もちろんこういうのが大好きな人が増えている。何かをあげつらって社会全体が引きつけを起こしたように反応する。こういう風潮を作っているのがマスコミである。日本の発展よりも収縮に率先して貢献しているのである。私はこういうのはもう一切相手にしなくなって久しい。
 無視するに限る。
 テレビなんか今使っているPCをワンタッチ操作すれば画面が飛び出してくるが、まともに見たことがない。新聞?ゴミはなるべく出さないようにしてる。しっかり見て読んでぶつくさ言っている方がおられるが時間と頭の無駄使いである。

 それはさておき、国家論はいろいろあるが、基本的に社会科学の分野のキチンとした実証的な歴史分析と経済社会の諸要因を踏まえた学問的成果なのであり、現実の政治の中で検証されてきた内容である。誰かが思いつきで述べているのもではない。
 もちろん一つのイデオロギーである以上、様々な見方はあるが、おそらく踏まえるべきところの共通項はあると理解する。
 
 アメリカ合衆国が独立したのもこの原理の国家独立版だし、現中国の政権確立も同じ原理が働いた。
 ロシア革命なんかはこの原理の教科書が実行されて様なものだ。

 日本の明治維新にも適応される。

 ところが戦後の日本では特異な形態で国家の再生が図られた。敗戦と占領政策の貫徹の中から国家形成が図られた。戦前日本の大土地所有制度や貴族制度は基本的に資本主義の「正常」な発展を妨げ、法制的にも戦前の帝国憲法自体は軍国主義台頭と民主主義の死滅を不可避とし、清算しなければならないものであった。しかし日本人は自らの手でこれをなしえなかった。

 同時に占領軍も占領政策の貫徹や戦後支配を展望して戦前の日本支配機構の温存を図った。
この点において日本人の戦後意識は先進国でも特殊な形態を帯びていると自覚しなければならない。

 イタリア、ドイツは民主主義との相克からファシズム、ナチズムの台頭があったが、日本では民主主義の戦いはごく限定されており、半封建的社会秩序が高度に発達した金融資本主義の上部構造を形成していた。ここから敗戦後の民主化も限定的に推移していく必然性があった。

 以上の歴史的流れの中から日本人が今まで政権交代を経験できなかった歴史的事実への想定がなされる。同時に政権交代への根本的にはいわれなき抵抗の背景がうかがわれる。

 

 どんな理由づけがあろうとも、国家論の展開は国家暴力が政権と与党に対して発動されている現実には分析の有効な手段となり得るし、軽挙妄動や底の浅い感情論に流される傾向を押しとどめる武器にもなる。

根っからの常識人は特捜の発動するものが国家暴力とは思っていないだろうが、
 仮に新政権が臨時革命政権の様なもので、他方に旧権力が一掃されず残っていたと仮定すれば、私の言っている意味が多少とも理解し易いだろう。

 旧権力の一部である特捜検察は小沢捜査はできても秘書たちを逮捕できない。
なぜなら臨時革命政府の側も当然武装して政権にあるのだから、旧政権側がやろうとすれば武力衝突になる。
 
 相手の武力が弱ければやるだろうし対等なら膠着状態が続き逮捕なんてしないでせいぜいマスコミが遠吠えのように吠え続けるだけだろう。
 
 この状態を二重権力状態と称する。だから逮捕行為を行う背景には暴力的優位、あるいは暴力の独占が必ずある。もちろん特捜は武装して逮捕行動をしていないが、背景として法的根拠と同時に暴力の優位や独占がある。
 我々目にはには見えないだけである。見えないものを考察する思考がなければ、テレビ新聞を鵜呑みにするしかない。それでは間に合わない事態がこれから乱発されるだろう。

 もう一点。重要なのはマスコミなどで国民的合意が形成されていること。国家暴力はただむき出しの状態であるもではなく存在への国民的合意が背景にある。

 以上が特捜検察の逮捕行動がなぜ暴力装置の発動であるかの説明である。

山崎さんは大学の先生である。今の世間の閉塞的な風潮からして私の様な所までこの問題を書いていくことはできないと思うが多分いわんとすることは同じだと思う。

 佐藤優氏はモノ書きだからここまで書けるとけど、多分発表できるメディアは限られてくると思う。
日本は一見自由そうで自由は限られている。昔はもっと自由があった。