反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

メディアに露出する小沢一郎にはプロの政治家としての何とも表現し難いオーラ、迫力、説得力、求心力があった。

 普段テレビ新聞の報道には全く接しないので、ネットで小沢一郎出演番組を見たが、私の様な批判的観点から見るモノもいつの間にやら、小沢一郎に吸い寄せられている自分に気付く。
 物凄いオーラがある。説得力もある。抵抗し難い存在感がある。
 
 政治は人を醜悪にもするし、崇高にもする。
 俗に塗れた中から崇高なモノが生まれる。
 政治の最前線にはあらゆる人間的要素、人間力が要求される。
 
 これが判った時、自分は心の底から政治に不向きな人間と悟った。もう二度と偉そうなことを言うのは止めようと誓った。自分はその資質がないのに大きなことを考え過ぎて、負けてしまったのだと。ここを区切りに政治に資格のない自分は市井のちっぽけな存在として、一生懸命、働いて消えて行こう、と決めた。
 
 拙い体験だが、キビシイ政治状況の中でもみくちゃにされて、自分で進むべき方向に決定権を持ち、出てくる結果に責任を持つ立場に立たなければ、こんな自己反省は生まれなかった。
 
その後、昔の仲間に就職口を世話され、活動に誘われたが、かたくなに断った。もう自分の中で決着の着いた問題だった。誘っている彼らは途中で撤退したから、その後何があったか実体験していなかった。
 政治に不向きな自分は最後は四面楚歌になって自分の限界を悟った。
 
 >民主党代表選。
開始のゴングが鳴って、幾らも経たないのに、小沢、管両氏のメディア、生露出で、瞬く間に両氏の間には政治家として大きな資質の差異があると、大方の人が認めるところとなってきた。
 
 官直人の言説を聞いていると、自分との共通点があるな、という感覚が沸き起こってくる。
彼の話す内容、態度、仕草は自分の了解の範囲内に完全に収まる。
  
  <ところが、小沢一郎は自分の守備範囲外の人だった>
 
やはり多くの小沢一郎に初めて接する方も同じ感覚を持つと思う。
話の内容もその場で話されると妙に説得力があるし、新しい発想がちりばめられているから、思わずハット身を乗り出してしまう。知的好奇心も満足させられるのだ。
だから、こんな問題に小沢一郎はどう考えているのだろうと、最後まで話を聞き逃すまいと何時しか小沢一郎に引き込まれる。
 
 私が接した人でこんな人はいなかった。
小沢一郎への反発のある部分は解らないでもない。そのかなりの部分は小沢一郎個人への反発ではなく、その求心力に無抵抗に身を任せている崇拝者のサークルへの反発である。尤も、自分の事を言っているのだが。
 
 > 私は小沢一郎民主党代表になってから、かなりの政治的距離感を承知で民主党支持に転換した。
その最大の理由は自民党公明党と戦えるのは小沢一郎しかいない、と割り切ったからだ。
民主党自民党は結果的に大差はないにしても少しの前進に価値を見出そうと決断した。
 
 口先で何を言っても、何を反対しても、実行行為として打倒の途につかなければ、いけない。それができるのは彼しかいない、と代表就任後の動きを見て思った。
 
 だから、それまでの民主党の連中が何をしていたのか自分の視野に入っていなかった。
私は市民運動住民運動の視野から政治を見ていた。
国政選挙には投票所には必ず行って、無効票を投じていた。これは活動していた時から、決めていたことだ。
  
 言い訳がましくなるが、こんな民主党への無関心が、民主党政治家の中にはとんでもない連中がいるという
小沢支持派の常とう句を軽く見る誤りを犯した。また普段、テレビ新聞に接しない事も彼らの本性が解らなかった原因だった。
 
 ただ、自分とは全く違う政治感覚を持つ連中だとは解っていた。政策論議が政治行動に代替えされている様子なんか私の経験した政治の世界とかけ離れていた。私には小沢氏の手法の中に懐かしい匂いをかぎ取っていた。政治の世界は争闘が煮詰まってくると最終的に血が流れる世界になってしまう。
この修羅場をかいくぐって、また別の種類の修羅場が待っている。この連続の中で鍛えられ選抜されて、学んで大きくなる人は大きくなる。
 この修羅場が深く大きいほど、鍛えられ、成長する。
 
 小沢一郎と官直人の政治家としての力量の大きな違いは持って生まれた資質の違いからくるところが大きいい。やはり、これはどうしょうもない。
 しかし、経験値の差も大きい。
 大きな政治家は大きな舞台からしか生まれない。政治が通過する修羅場の深さ、広さがそこに用意されている。
 公式的にいえば、量が質に転化するということ。多くの人の中から試練を経て選抜された人の方が少数の人の中から選抜された人より優秀である。選抜過程、基準の厳しさも違う。一般論だが。
 
> 管氏には悪いが、市川房江選挙運動なんかの出発点からは本当の政治家が生まれるのは奇跡である。
あんなものに携わるのは、甘さがある証拠である。私は戦争中、大政翼賛会の旗を振った過去のある市川房江の主張に全く魅力は感じなかった。
 その後の政治活動も社会党に付随する様な少数政党の活動であって、国政選挙活動以外キビシイ政治経験はないはずだ。
 
 彼が本格的に政治活動を担いだしたのは鳩山らとの合流以後である。
 責任ある地位についたが、本当に修羅場をくぐった、とはいい難い。
自分で方針を出し、責任をとった期間はなかった。大臣を務める事と党の責任ある地位にあり、権力闘争の真っただ中で結果責任を取りながら政治判断をして、人を束ね、敵と戦っていくことは、まるっきり違うのではないか。
 
 >>>管の首相就任後の「変節」に余りの政治不在を感じて小沢はあきれ果て、心底、怒ったのではないか。
そして、こんな政治家に任せておけないと、いう確信へと転化した。
おそらく今の小沢の心境は戦いに対して確信のある捨て身の戦国武将の心境ではないか。
だからあれだけ清々としてメディアの前に登場できる。その心が悪意を封じ込め、共感を呼ぶ。
 
 >管を支持する勢力は、わかっていない人たちであり、政治家としての見識や勇気に欠ける人たちだと断言する。
小沢批判派の私でさえ、状況を見て、筋を通すにはたとえ負けても小沢支持しかないと、すぐ決断した。
自分のこれまで展開してきた小沢批判と矛盾するところがあるが、飛躍しなければならない時は今しかないと思った。
とてもじゃないが、官直人の様な政治家は許す事ができない。
参院選も無効票を投じることも考えた。
 
>官直人は政治家失格である。そこまで思っている。代表選も途中から運動放棄すべきだ。
こんな政治家がトップだと官僚や野党になめられる。それが権力を巡る政治の世界の冷厳な実態である。
野党政治家は官直人を見て嗤っている。そんな政治家を頭に頂いてはならない。
 
>>>どの道、政界再編は避けられない。その前段で政治力のある政治家に率いられなければ、民主党支持者の政治意思は空中分解してしまう。
 
 <国民の生活が第一でなければ、これからの日本は成り立たない>
 
 < 同時に政界再編による政治の世界の統一は避けられない>
 
 そうしないと日本が成り立たない。
 代表選はこの二つの大きな政治課題を託せる民主党政治家は誰かという選択である。
政治決戦前に消費税10%を口走る様な政治家がその任に耐えられるわけがない。
 
 >官直人を支持している政治家の大半は使い物にならない政治家である。またシツコク多数派工作を継続することは政策的対抗軸が示されない、政治家としての資質、力に差がある以上、結局、小沢への誹謗中傷に流れるしかない。
 
 管派による不正選挙も十分考えられる、と思っていたらネットでその心配をする書き込みが数件見られた。
しょせん、偏向マスコミや特捜検察の政治弾圧を政治基盤にするなんて事はまっとうな政治ではない。邪道である。かつてロッキード事件の時、三木武夫は特捜検察に田中逮捕を政治基盤にした。
これと似ている。
 
 しかし、今振り返ってみると、その政治の流れがその後もたらしたモノは、数件の特捜検察の政治介入を経て
経済力の肥大した日本の政治軍事がアメリカに従属する道でなかったか?
 結果的に特捜検察の政治介入は戦後のアメリカの世界戦略に日本の経済力、軍事力を従属させることに役だったのではないか。
 自民党長期政権の中でアメリカ人脈に繋がる清和会だけが何時の間にやら強大化した。
今のこの事態は変わらない。谷垣は単なる表紙にすぎず、実権は清和会にある。
 
 >みんなの党の渡辺は元清和会。
 しかし、最近、この派閥のオーナーだった森が離脱したが、渡辺の政治資金報告書の責任者、届け出住所は森と同じだった。
政界再編がらみの動きではないか。
森は政権側ともパイプがある。
 
 政治の世界に純粋はない。真水はないということだ。
肝心なことは、力を託す政治家、政治潮流を間違わないことだ。日本には政治の統一がいる。それを梃子にして事に当たっても日本に不利な条件が内外に多すぎる、そう大きくは理解する。
 
 民主党政権の閣僚の動きを見ていると、使えないモノが多すぎる。政界の優れたモノを選抜しなければならない。
 
  <選挙前の消費税10%の政治家失格者を頭に頂こうとするモノが半分ぐらいいるとは嗤える事態ではある>
小沢氏が代表にならなければ、こんな党は関係ないよ。一切支持しない。