反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

歴史隠しは許さん。戦犯公職追放の市川房江と管直人は共に豹変する

 こういう個人攻撃は避けたいが、今回ばかりは、私の知っている市川房江と管直人が今回の代表選で政治利用したと称される市川像とかなりかけ離れているので、この際書き記しておく。
 
 管直人が市川房江にかかわっていたのは、多分1070年代だったのではないか。
その当時、市川に接近して共に参議院二院クラブから選挙選に出馬したのが青島幸男管直人が市川の選挙を手伝ったのは、多分、青島が実質的に二院クラブを引き継ぐ前だったと思う。
多分、学園紛争の熱気がまだ完全には冷め足らぬ頃だったと思う。
 
 市川にかかわる以前の管直人が学園闘争に遭遇したのが、東京工業大学を卒業まじかに控えた時、卒業研究をまとめさえすれば、卒業できたが、留年し、学内活動をしたと本人が述べている。
彼の政界に打って出る時の自己紹介によれば、学内正常化運動で活躍とある。
 つまり、全共闘や党派の活動家として大学に反乱する側ではなく、その反乱を大学当局と連携して、沈静化する側に回っていたということである、
 
 こういう秩序派に属して積極的に活動する学生は右翼か、日共=民青が主体だ。管直人はどちらも属している気配はないので、残るは無党派学生となるが、こういう学生自身に組織的基盤はないので、多分、共産党系学生の学園正常化運動に担がれた、無党派学生だったのではないか。
 
 従って管直人が左翼ではなく、そういう当時の学生の空気を吸っていた穏健思想の人物というだけだ。
ただそんな思想性のない学生ならいくら留年しても、就職するはず。ところが彼にその経歴はない不思議。
 
 
訳の解らない背景の人物であることは確かである。
 
>その彼が若くして行きついた先が、市川房江である。ここにはべ平連の残党も多少加わったのではないかな
ただ、左翼であれば市川とは一線をしく。
 
 市川が戦争中、大日本翼賛界の幹部として戦後公職追放された経歴のある人物として常識になっていたからである。市川の公職通報が解けたのは1950年、朝鮮戦争の年。
 多くの戦犯たちが、GHQ共産党関係者へのレッドパージと引き換えに社会復帰した。岸信介もその一人である。この時、共産党は幹部は地下潜行し、武装闘争を含む反米闘争をする派閥と今の共産党の主体をなす派閥に分裂。労働運動はそれまで主流派だった共産党系から、民同系へと転換していった。
 
 市川房江の公職追放解除と戦後の社会活動はこんな背景の中で出発した。
幹部が公職追放された共産党は弱体化し、社会党が革新の主体となって行って、労働運動は総評に転化し、一定の戦闘性を見せ始めた。日本経済は朝鮮戦争の特需で復活した。
 
 市川の戦前の思想は婦人参政権に特化したブルジョア民主主義だったが、民間にあって戦争の旗を積極的に振り、幹部として活躍するいう事は本人にファシスト的心情がなければできないはず。本気で軍国主義を信じていたのだ。故に、GHQアメリカ性民主主義を広める上の危険人物としてク職追放した。ところが、どう総括したのかしらないが、追放解除後は一転して、潔癖な議会制民主主義の擁護者に自分を特化した。
 今度は一転、議会制民主主義の権化のようにふるまう豹変ぶり。
 
 ただし、その後、市川を持て囃すマスコミも同じ豹変仲間であり、やってきた事は同じ。
 
ここらあたりの精神主義純化する共通項は「政治とカネ」の大騒ぎを専門とする今を分析する材料となる。
ファシズムは清廉であった、という。ああいう清廉潔癖は儒教の影響なのか、天皇制の聖を頂点としたカースト制の影響なのか。
 それが、日本人の精神的特徴であるとの自覚が本人たちに全くないのが不思議でしょうがない。
 巷に潔癖症の人がそこらじゅうにいるのも、日本人の特徴。ドイツにそういう方が多いらしい。
 ただドイツ人は日本人より遥かに論理的民族。
情緒的で潔癖、物忘れがひどい。 これでは政治に向かない。
 
 市川の政治生命の基礎はマスコミにあった。
マスコミの清廉市川の宣伝が全国的知名度となっていた。
テレビ討論もなぜか、各党に交じって市川が参加していた。中選挙区制自民党の安定多数は崩れそうになかった。社会党自民党を倒す候補者も擁立できなかったが、安定野党勢力だった。
 
 こんな、55年体制の中で変化、色モノを求めるマスコミの眼の先に何時もいたのが市川だった。社会党やその他の野党以外に反自民浮動層の投票し易い先は市川だ、と当時で議会政治に強い関心のあるものなら、理解できたはずだ。
 だから政治的投機者が市川によってきて不思議でなかったが、若者層の全体の雰囲気は市川の様な胡散臭さのある潔癖民主主義は魅力がなかった。左翼の若者は市川なんて眼中になった。
 その意味市川に近ずいた管は左翼ではない。リアリストとしては学生時代から一貫していたのではないか。
 
 市川のテレビ討論のは様子を見ていると、鶏がらの様な中性的女性がだみ声で、結構勇ましく喋っていたが中身に記憶はない。
よく考えてみると議会制民主主義は言うが憲法9条を云々するところを聞いた事がない。今でも得体のしれない人物である。
 いつの時代にも、支持政党なし、でも何となく投票したい、でも、支持した人や党が政治の中でもまれ、現実政治の選択し、力を行使したり、されたりするのを見届けたくない方はいる。政治には責任、結果がついて回るがキレイごとを言ってられる場所もないではない。市川房江はそんな人を対象とする存在だった。
 
 そこに集まった人たちも
当時の政治に関心のある若者には珍しく、議会政治に関心、野心のあるものたちだっただろう。
60年代から続いた若者たちの反乱は70年代になって、尻すぼみになったが、この層の議会政治の受け皿はなかったのではないか。共産党が70年代躍進した底流も吸収できなかったし、社会党組織は一部急進化したし、保守的だった。
 そうすると管直人のと事にも票が回ってくる計算になる、当時の彼はそこまで突き詰めてなかっただろうが、市川の様なものでもなんとかなる、自分もできる、と選挙活動を手伝っていて感じたのではないか。
市川は見栄えも良くないし、だみ声、言っている内容も大したことはない、ただ、マスコミが持ちあげていたから、当選できていたようなモノ。
 青島幸男も権力を握った。管も握った。そういう意味であそこは、軽薄リベラルの心をもてあそぶ、訓練所であったのかもしれない。マスコミ報道がなければ成り立たない連中でもあった。