反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

押尾学裁判。検察はマスコミ、リークで「正義」の味方面。手口は小沢弾圧と同じ。

 そもそもこの事件の舞台背景。「被告人」、「被害者」、其れを取り巻く、人間模様からして、庶民の日常生活とはかけ離れた、特殊環境。その日常的蠢きの最中に事件は突発的に発生した。
 庶民の置かれている環境、あるいはその延長線上で発生した事件ではない。
 
 しかし、マスコミは事件が耳目を集めると判断し、面白おかしくなるように、情報を垂れ流し、商売にしようとする。 庶民の側には垂れ流された情報をもとにするしかその世界を「想像」できない現実がある。
 
 マスコミよって伝達された情報に対して庶民はあくまでも受け身の立場。
事件の発生している舞台や人間模様はほぼ別世界。
これが実際のところであり、知っている様につい思ってしまうのは、映画やドラマの架空の世界の演出に触れて、何時の間にやら別世界が頭の中に刷り込まれているにすぎない。
仮想でしかない情報が頭に何時の間にやら刷り込まれ、身の回りの「現実」であるかのように錯覚させられている。
 
 自分の実体のあるの身の回りの世界、その延長線上の世界と押尾学事件の世界との間には大きな段差がある。これが真実だ。
 
 確かに「被害者」とされる30歳、銀座ホステスの田舎にいる父親がテレビ出演して、娘の無念を語っており、その父親の発言は身近世界から発せられているが、、娘は庶民と別世界の蠢きを日常性としていた中で事件に巻き込まれた。
父親と当事者である娘は世界が違うと所にいたが、娘の死が娘を父親=庶民の身近な所に呼び戻した。
しかし、仮に当時、娘が父親と同じような庶民の世界の住人だったら、、事件には絶対に巻き込まれなかったろう。
 
 殺された被害者の父親がテレビに登場し、切々と殺された娘の無念を語ることは、この事件を「保護責任者遺棄致死罪」に持っていき、自分たちの「正義」を世間に流附させようとする検察有利な世論形成にならないか?
 
 しかし、アカラサマにいえば、そんな庶民と程遠いところの蠢いている人間どもの間で発生した事件などに感情移入するに値しないと。
そういう事件を突き放したところから、起こる感情は必ず、事件を純粋に法律的に見つめ、判断を下させるような方向に向くはずだ。
 庶民と別世界のところの日常で発生した事件であるが、起こり得る可能性は存在していた。
 以上が、庶民の当たり前の感情であってもいいのではないか。
庶民は感情を一方に移入する筋合いではない。あくまでもこの事件は法的な世界で判断しなければならない。
 
> 裁判員裁判が始められ、無作為に選ばれた庶民は人を裁く、世界への参加をシステム化された。
人を人が裁く特殊世界に庶民の世界の常識が移入されることになったが、この常識そのものの作られ方も庶民自ら自省する必要に迫られている。
 >検察の意図によって動くマスコミ報道によって事件を判断する常識が知らず知らずのうちの作られていまいか!
 であるなら、事件を裁断する時に自分の常識や目線さえも一旦疑って吟味する必要がある。
 本当に自分の奥から発し、思索を巡らせた意見なのか反省する必要がある。
 
 何時も繰り返し、当ブログ記事で指摘している様に一番、スマートな支配は頭の中身を支配すること。
現在のマスコミ報道はこの目的に純化している。
 
 >なぜなら、金融寡頭制といって、現在は一部の人間がこの社会、経済の実権を握っている。
その実態を見えにくくし、覆い隠し、国民を統合する事が、マスコミの最大級の使命になってきているからだ。
この世界が支配する少数者と、これに従支配される多数に分裂している実態があるから、マスコミのウソによる統合が不可欠になる。
 
 しかし、それでも実態は隠しおおせないので、現状、非難が渦巻きだしている。
だが彼らは、何と言われようと止めるわけにはいかない。
国民の力によって打倒するしかない。
 
 最後になる時間もない。
>小沢氏への一連の政治弾圧と今回の押尾裁判へ検察のアプローチの仕方は全く同一である。
マスコミリーク情報で押尾学をやっつけろという世論を作っておいて、この世論を背景に自らを正義と押し出し強硬な求刑を正当化しようとしている。
 
小沢氏の場合も、リークによる世論形成で検察はそれを背景に強硬手段を駆使して小沢氏起訴を目論んだが、犯罪構成要件が見当たらず、不起訴にせざるえなかった。
 世田谷の土地購入の政治資金報告書への記載で第一回目の検察審査会は起訴相当の判断を下したが、市民目線などという曖昧なモノを根拠とせず、純粋に法的に論議を尽くさねばならなかった。
 
人を裁くのは法律に完全に根拠を見出さなければならない。
小沢氏の世界と市民の世界は違う。勝手に想像して、その想像をもとに、判断することは間違っている。
こんな時は、市民目線とかいう曖昧なモノに頼るのではなく、あくまでも法的に判断するしかない。
小沢氏秘書の記載ずれ案件はそもそも、起訴すべきでないが、起訴しても大した罪になるモノでない。
大袈裟に騒ぎ立てるのはマスコミの意図的報道姿勢があるからだ。
 
 小沢氏は記載ずれを指示した可能性が薄いから、検察は起訴できなかった。
購入時点で地目、農地を宅地に地目変更を役所に届け出て、許可が下りた段階で政治資金規正法に記載したから、実際の金銭購入と記載のずれが生じたのであり、この程度の事を小沢氏が一々指示しなければならないようでは、金庫番失格である。
 街の不動産屋でも普通にやっている事。
 
 検察審査会の馬鹿どもは地目変更の実際を知らないのではないか。
農地を宅地化するのにすぐ許可が出すようでは役所はいらない。