尖閣島(魚釣島)事件の発生でネットで領土問題を検索して、調べると、戦前に鰹節製造工場があった、1978年、日本青年社が私設灯台を建設し、現状はそれを日本政府が引き継いで管理しており、日本の実効支配状態にあるとかの、客観的解説を読んでもしっくりこない、のはいくつかの理由がある。素直に納得できないのだ。
1)そもそも、沖縄本島と日本本土の歴史をどの程度頭に入れておられるのだろうか?素朴な疑問である。
2)次に、沖縄本島と離島と関係を知っておられるのか?これは知らないと思う。
4) 純粋に理屈を辿っていけば、戦後、戦後、日本にとって、沖縄は特殊な立場にある。これが本当に解って いるのかどうか。実は沖縄の特殊は日本の普遍でもある。沖縄に日本の敗戦を押し付けているだけだ。
以下、解説していくが、多分最後までやりきる時間はないと思う。
1)琉球王国は薩摩、島津氏に侵略されるまでは、中国本土と日本との等距離外交関係にある独自的な政治、文化を持っていた。
江戸時代の薩摩藩は西軍についたこともあって、本土側の領土を狭められた結果、武士の階級の数が多い独特の支配被支配構造を持っていた。だいたい住民の占める武士階級の割合は40%にも及んだ。薩摩隼人は数が多かった。
で、ここからどういう結論が導き出されるかというと、藩内の住民に対する収奪は過酷を極めたということだ。
薩摩藩では封建収奪以外の奴隷的収奪が行われていたという、短い文章をたまたま読んんで、自分で調べて判明したことである。本土藩内でも債務奴隷的収奪が広範に行われていただろう。下層武士が生産的労働をしていたといっても、武士階級そのものの存立基盤は武力支配であり、これを利用した収奪である。
多すぎる武士階級を再生産するためには、債務奴隷は必要だった。
このような、本土の多すぎる武士階級の過酷な社会的再生産構造は必然的に被支配地である沖縄に転化され、沖縄は本土以上の過酷収奪を受けてしまう。
沖縄には本土の封建収奪には見られない人頭税が課せられていた。封建収奪の基本は百姓を身分的に土地に縛り付け、土地の単位で収奪するので、人間の頭数への収奪ではない。
これは、沖縄返還1972年後、沖縄青年から直接、聴いた事である。
>離島に課せられた人頭税の過酷さはずっと昔、与那国に旅した時知った。
人頭税、一定の人数に一定の年貢が割り当てられると、生産性の低い人間は必然的に他の人間の負担増になってしまうから、間引きが行われる。
邦画の名作「楢山節考」は日本近代の貧しい山村における姥捨て風習を描いたものだが、ヨナクニでは生産性が低い子供を妊娠している妊婦の淘汰であった。
どうして見分けるか?
大きな岩の裂け目を妊婦に飛ばせ、飛べないモノは母体に健康な子供を産む体力がないと判定された。
飛べないモノは断崖の裂け目に落下して流産するか、死んでしまう。裂け目の高さは5メートル程あったと記憶している。
その断崖は当時私が訪れた時は、史跡として、島観光のルートになっていたが、今はおそらく隠ぺいしているのでhないか。
>島津ー沖縄本島ー離島の収奪差別構造は厳然としてあった。
このあたりを昔旅して実感したのは、日本の風土とはかけ離れているな、と。
そもそも、沖縄本島すら鹿児島からフェリーで20時間もかかるところにある。私も一回はこのルートで沖縄の上陸した。船が与論島に入港した時、デッキから下を見ると、青色のインクをそのまま流したような青だった。そこに飛び込んだら体中が真っ青に染まっていまう様な濃い青だった。
到着した、石垣島は沖縄本島の風土とはかなり違って、もうここは、日本とは別の風土、どちらかといえば、台湾に近いところだと感じた。石垣のすぐ目の前の大きな島は今でも開発はされていない亜熱帯のジャングルが広がっている。
石垣の戦前、マラリアによって島民が壊滅的打撃を受けたという話も当地で聴かされた。
この時の旅では石垣からさらに100キロぐらい離れた、与那国への船旅をした。殺風景な小さな島だった。
現地の方の表情を見ていると、台湾の現地人に近く日本人の表情はない。これは民族差別ではなく、実際である。 実際に戦前のこの島の暮らしは50キロ先の台湾島との交流が深かった。
4)沖縄に在日米軍基地の75%を押し付けておいて、その事を不問にするばかりか、容認、積極支持する人が
その民族主義に綻びはないのか?普遍的な妥当性を持っているのか?ご都合主義の戦後思想そのものでないのか?疑念は消えない。
(時間経過で省略)