<奈良県、明日香村で見たモノは東アジアの辺境での地域古代豪族の蠢きだった>
以前、明日香村の古代豪族の古墳の石室内に入って、周囲を見渡した時、突然、ある想念がわいてたのを今も、忘れられません。
関西地方は古代国家の中心地であったせいか、至る所に古墳があり、皇室=宮内庁管理地でない限り、発掘調査が絶えずに行われ、その成果も、かなりの頻度でマスコミの話題に上ります。
遺跡発掘は公共事業の一環として、毎年かなりの予算がつけられています。当然、其れに携わる企業、労働、研究者が大量にいるわけです。
大きな図書館に行くと、古代関係の専門書が中世の専門書よりも多く並べられているのも当然です。
ところが、それらの研究書を手に取ってみると、中世の研究書よりも理論レベルで劣っている事に気付きます。
歴史理論は実証主義が基本になければならないのに、古代の研究書は創造の部分がふんだんに盛り込まれたモノが多すぎる。
どうしてなのか?原因はハッキリしています。日本の古代史を実証学とするためには、考古学による発掘調査が重要なウエートを占めるほかないのです。
つまり、日本の古代史を文献で確認することはできない。決定的な欠陥です。
私には古代のロマンなんて通用しません。事実をありのままに直視します。
そういう気持ちを持って、奈良県の明日香村を訪ねると、冒頭の想念に至る訳です。
当時の日本はアジアの辺境である、事は明日香村をぐるっと巡るとすぐわかるはずです。
私が古代豪族の石室内で東アジアの偏向を実感したのは、そこがまるで、未開人の墓地の様相を呈していたからです。なるほどそういうことだったのか!と納得しました。
あの一帯に散在している、古代の遺跡群は一言でいえば、東アジアの辺境の半未開人権力者たちの営み、葛藤です。奈良に都が開かれる前の段階では古代の半未開権力者たちが明日香やその周辺の狭い地域で、密集し、蠢いていた。しかしその蠢きを、記した文章は極めて少ないから、発掘と創造に委ねられた歴史が記述されるほかない。
中国は唐の時代。ヨローッパは帝政ローマ末期で滅亡の危機にあった。
承知のように、日本列島の稲作開始はある時期を境に突然、北九州で始まる。考古学調査をいくらしても、稲作開始までの段階的発展の形跡が一切見当たらない。
これらの事から、列島に稲作文化をもたらせた人たちは海を渡って、日本にいやってきた。しかも限られた時期に大量に。
これらの人たちは朝鮮半島から列島に到達し、稲作を行い、生産力を高め、階層分化の上層に位置するようになった。ここに古代国家の萌芽が見られる。この時期に「邪馬台国の卑弥呼」が中国の魏志倭人伝に記されている。この時期の列島の住民は原住民のように描かれている。
しかしこれらの稲作師古代国家の萌芽を持っている魏志倭人伝に描かれた原住民と明日香村の古代国家の遺跡群との関連性が今持って、謎のまま残されている。永遠の謎になろう。
なぜなら、歴史とは文字に書かれ検証される以外は、厳密にいえば先史時代。考古学でしか検証の仕様がない。考古学の発掘調査で卑弥呼と明日香の地域権力の関連を学問的に隙間なく立証するのは不可能。
ただ、考古学上の発掘調査では、明日香村の君主関係の遺跡から、君主関係者が、東アジアの辺境にあったが故、先進地、中国ー朝鮮文化の強い影響下にあったことは確かだ。
厳密にいえば、明日香の君主関係権力者たちは先史時代の縄文人を列島から、追い払った、あるいは混淆した朝鮮渡来者の末裔である。縄文人の末裔は現在の沖縄の方々や、アイヌ民族の方々にその血は受け継がれているというのが現在の定説になっている。
支配階級なればこそ、先進地域の朝鮮渡来者の血を引き継いでいるとみなした方がいい。
現在のイギリス王室は大陸からイギリス島を征服した子孫である。
明日香の遺跡群の発掘調査で明らかになった事物はどれも当時の朝鮮文化と同類のモノである。
先進地域が後進地域に進出し、当該地で、先進地の文化、政治、軍事を取り込んで発展していこうとするのは、必然であり、その過程で野蛮性故、先進地域を侵略し、富をかすめようとする衝動にかられるも、当然である。
「任那日本府」はウソである可能性が強いが、朝鮮、白村江で大和朝廷軍とt朝鮮軍がたたかったのは歴史的事実である。日本側にはその報復を恐れて、生駒山系に砦を築いていており、その微かな痕跡と称するモノが実在する。
>日本人は農耕民族と言われるが、縄文から弥生にへの時代区分に稲作の決定性はあるが、はたしてそれでよいのかという、観点が今日の歴史学の主流でないのか。
だから稲作を重視する歴史観を私が披歴しているのも、注釈や眉に唾をつけないといけないかもしれない。
稲作は先進地域で重要な用件だったが、全人口的に見て部分的。多くの民衆は実際に米の生産では飯を食っていないはず。問題は軍事力、統治力だったろう。そこには海外の先進をどれだけとりいれているかの度合いが問題になる。
もう一点。土木技術の必要な陸上交通より海上交通が長距離では今では想像できないほど、便利であった、という事実。陸上はほとんど開発されレいない、海上交通は船さえあれば、障害物なく、長距離を進んでいかれる。
私が単純な唯物史観を捨てたのは中世史の学者たちの研究成果に接してからだ。単純な歴史観は経済下部構造に拠点を持つ、進んだモノが遅れたモノを駆逐する、この歴史的境界線はハッキリしていた。ところが、研究者が残された文献、などを丹念にすり合わせて研究していくと、そうではなく、時代の変転はゆっくりであり、前時代の遺物が混在して、歴史は進んでいく、と。
戦後歴史学はそれまでの異常な皇国史観の反動もあって、単純唯物史観に流れ過ぎていたきらいがある。それを揺り戻し、実証主義を基本とする歴史観を確立したのは、京都学派の人々や、故網野義彦さんなどが明らかにした、戦後的歴史観へのアンチテーゼだったと理解する。
同時に、「新しい歴史教科書」の歴史観も日本が健全な状態であれば決して受け入れられるはずはない。
実証主義を必要とする歴史学がイデオロギーに傾いて、日本人を狂わせたのはつい最近である。日本の敗戦が明治以来の国家建設の行き着く先だった事は歴史の実証から明白であり、それ以外のいかなる道もなかったと、理解できる。この事実を否定しようともがいている連中の哀れが、新しい歴史教科書の連中である。
日本帝国主義のアジア侵略の歴史をなきものにしたい、キチンと清算したくない、と。しかしその想いが、東アジアの地政学、人口学、歴史学から見て妥当性があるのかどうかである。日本人だけが勝手に気持ち良くなる、歴史解釈では通用しない!歴史学に客観性、実証性、国際妥当性が必要である。皇国史観やナチスのゲルマン民族至上主義は無理な国策を遂行するためにでっちあげられたのである。
>>>> アジアでは先進の君主的官僚支配体制を維持しきた中国はヨーロッパの先進からすれば、アジア的停滞性を代表する政治制度を長らく維持してきたが故、資本主義現代の始まりにおいて、後進になった。逆に、アジア的官僚支配体制の行き届かない、日本は、先進になった。
これが歴史の事実である。