反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

小沢氏起訴により審査会「市民」は日本政治をブラックホールに投げ込んだ。

 先日、映画監督の井筒和幸さんの「講演」を聞いた。役所関連の団体の共催で無料のせいか、かなり広い会場はほぼ満員で、監督の「講演会」が終わると、二部の何とか演奏会があるのに、半分以上の方が、ゾロゾロ会場を後にしていく。
 私も会場を後にしたが、監督の「講演」を聞いているうちに、昔、ツマラン映画の上映中よく退場したように、一瞬、外に出て行こうと思った。結局、最初から最後まで拍手はしなかった。
 
 家に帰ったその日は監督の話の内容を反芻して、彼の話の内容を評価しようと努めたが、やはりダメだった。
 
 彼の名作「パッチギ」は珍しく、シネコンで見て感動した。人物の描き方に厚みがないのは監督独特のタッチで仕方がないと思ったが。
 テレビで時折コメンテーターとしての短い発言内容も他が酷い、番組の空気ベッタリに反して今時、珍しい反骨精神あふれるモノと好感を持って受け入れてきた。
 
 ところが、「講演会」。てっきり、一人で時間一杯しゃべるモノとばかり思っていたが、テーブルが用意され、見たことも聞いたこともない若い女性司会者のインタビュー形式で進行していく。
 
 彼の話の仕方は、話の核心点の周りを多弁を要して、ぐるぐる回っていくことで時間を費やす論方だった。
まるで私のブログと同じだ。
 
 話は核心点の周りをあちこちに飛んでいって、小沢一郎氏を揶揄するくだりになった時、これはダメだな、と思った。
 
 彼はイロイロ、憲法問題、在日に方々の歴史、尖閣問題、原爆投下、アメリカ軍基地の問題を語っても、結局、具体的な目の前に展開されている、政治に対して読みが足りないところに象徴される姿勢が根っこにあって、全ての問題に関して掘り下げが足りない様に感じた。
 
 ただし、在日の問題はさすが、パッチギと続編で掘り下げているのか、会場に来ている、私も含め、ほとんどの方が知らない歴史的事実を語っておられた。
 
 後の部分は、「講演会」が無料で納得できるものだった。
 
 反骨精神の塊である様な井筒和幸でさえ、小沢氏の「政治とカネ」を揶揄し、結果として、戦後政治史における国家権力発動を容認し、そのことの重大性が、今目の前で問われていると理解しようとしない。
 
 こういう断定はよくないのだが、マスコミ方面によく登場する人たちの有りのままの姿を見せてもらった。
もうああいう話の次元になると、好き嫌いの感覚が優先する世界で、論理的体系的思考はどこかに行ってしまうのではないか。
 好き嫌いの最優先する感覚がまずあって、後はそれをいかに瞬間に等しい短い時間に世間受けのする言葉で言い切るか。
 
 そういう世界に長くドップリ浸かっていると、人の思考パターンは変質し、大きな流れに身をまかせて行くようになる。
 
 反骨精神の井筒和幸ですら、私の眼から見て、マスコミ病にかなりいかれている。
ましてや、その他になれば、言わずもがな。講演会でとっくりと1時間以上、しゃべらせると正体はハッキリする。
 
 井筒さん程度の話の中身なら、数年前に聞いた、関西限定コメンテーターの何とかいう元、府会議員さんが、バックボーンのある話をしていた。どちらの講演料がどうとかは言わないが、ああいう方は名が売れているかどうかで決して判断できないなと。
 
 大谷さん。テレビでレギュラー、コメンテーターをされているはずだが、関西のテレビにいた頃の彼と、今の彼は、180度とはいわないが、90度ぐらい変身している。番組の趣旨に合わせている様子が手に取るようにわかる。痛々しい気もする。
 
 で、この辺で結論に行かないと。前振りは蛇足の様な気がするが。
 
キー局から垂れ流される情報番組を視聴していたら、余程、持論、コダワリがない限り、知らず知らずのうちに小沢一郎氏起訴の議決をする様な思考パターンを映像、音声を駆使して脳内に埋め込まれてしまう。
 
 これは、イメージ操作による脳内への暴力である。好きか嫌いかを優先され、そのために、技術が駆使されている。テレビ画面に論理的思考、体系的指向は完全に不向きで除外される。それがあるように見せかけている番組があっても、一つの意見の開陳にすぎない。
 
 大きな問題になればなるほど、人の意見は分かれて当然であるという前提に果たしてテレビは配慮しているのかな。多数、少数の基本原理でさえ無視しているように見える。
 
 そのようなマスコミによって脳内暴力を受けた人間がその意味するところを洞察せず、小沢氏を強制起訴し、結果的に日本の政治から市民を遠ざけて行くのだ。
 
 >問題の根幹は今この国で誰が一体、権力を持っているか?という冷厳な認識である。
これはキチンとした国家権力論を持たなければ、腰の据わった意見は持てない。
 
 > 佐藤優氏は国家統治機構の構成員に対して選挙で選ばれるモノと選ばれないモノと分類されておられる。
もちろん彼には国家論がキチンとあって、解り易い表現をしている。さすが理論家だと感心する。
 彼のいいたい事を手短にいえば、国家権力の実体的基礎は選挙で国民が選べないモノたちの所にある。
 
 >小沢氏への長く続いてきた、そして今回の起訴で続いていくであろう、攻撃は国家権力を実際にその掌中に収めているモノが、国民の選挙で選ばれたたモノ、換言すれば、国民が選挙によって取り換えることができるモノを、自分たちの権力実体が脅かされる事を持って、上から、反乱をおこして攻撃しているのである。
 
 >これからの時代は社会のあらゆる分野で力を持っているモノがその力を強化しようとして、上から、国民各層を統合し、反抗する人間を孤立化させ、葬る去り、自分たちの利害を貫徹するようになってきたと見て間違いはない。
 
 >国内の経済や社会が停滞すれば、パイが限られてくる訳だから、上層はどんな手を使っても、その取り分を守り、増やそうとする。
 
 >>なお、国家権力論は以前、逮捕拘留されていた石川議員の獄中の戦いを応援する連日のブログ更新の中で、二重権力論まで引き合いに出して、詳しく述べたはず。
 コメントで、アンタは三権分立を否定するのかなどという、投稿を頂いた。
 
 今の日本が民主政権と旧体制に国家権力が二重構造になっていれば、小沢氏の秘書たちに旧体制側は絶対に手出しはできない。やろうとすれば、自分たちの暴力が相手の武装力を凌駕できる時だけである。増して小沢氏を強制起訴しても何の意味もない。
 しかし実際、秘書たちは起訴され、小沢氏も強制起訴されている。
 
 この前の検察審査会のいう様な小沢氏に絶対権力があるのなら、自分の身内には手出しさせなかった。
国家権力=暴力装置を掌握する権限は小沢氏には全くなかったし、民主党政権にも実質的になかった。
 で、この実際的権限が何処にあるか?
 
 以前として戦後長い時間をかけて培われてきた、旧体制側にある。
 自民党衛星政党、官僚、大企業、マスコミ、アメリカ。これらの意向、利益を踏まえて、暴力装置は発動される。小沢一郎は彼らにとって都合の悪い政治家NO1だから、意図的に排除されている。
 
 彼らが着飾っている上着を1枚1枚剥ぎとっていけば、裸の彼らが身をさらす。
 
 北朝鮮も中国も日本も国家権力の本質は変わらない。上着をつけているかいないかの違いだけ。
 
 ただし、彼らの蠢きを1枚岩の様に見るのは、相手の力を過大評価しすぎ。
 
 何より、日本資本主義のおかれた今現在や将来に渡る利害とアメリカの利害には対抗性が必然的に内包されている。この点が彼らの間に大きな裂け目を生んでいる。
 現在の管政権は暫定的な政務担当者、以上の何物でもない。だからコイツラを身の程知らず、と断定しているわけだ。
 
 定義。
国家とは一部の支配者が多数を支配する暴力装置であり、共同的幻想性を付加する。