反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

黒沢明「7人の侍」から民衆の武装問題。日本国憲法まで考える。

 昔、労働運動をしていた頃、ふとした、日常会話の中で同僚から「戦国時代の内戦の中で農民はどうやって、自分を守っていたのだろうか」と問われ、答えに詰まった事を覚えています。大規模な兵力の移動や、大きな戦力同士の戦いがあれば、当然、田畑が荒らされます。そういう事を踏まえて、彼は質問してきたのだと思います。
 
 中世の後期になってから、荘園領主だった寺社の古文書の中にようやく当時の民衆の生々しい具体的姿が描かれている。
 
 有名な古文書、「九条政基 旅引き付け」は1500年代半ばごろの南河内日根野荘園の1年の様子が当時の荘園領主の元、関白だった九条政基の筆によって丁寧に活写されている。彼は自分の領地支配が室町武士領主や武装する有力な寺兵に侵されていくのを見かねて、京都から、日根野まで来て直接管理に乗り出す。
 「旅引き付け」はその際の日記風な記録で当時の農民の1年に渡る日常生活、武士勢力や寺勢力との葛藤、などが細かく描かれている。非常に面白い。
 
 この文書以外にも結構、その種の文書は残されている。中世になって、やっと歴史研究は様々な角度から立体的にできるようになった。
 
 >黒沢明の「7人の侍」のシナリオを書く際には、そうした歴史研究の成果が読みこまれていると見て間違いがない。映画の背景は夜盗的野武士集団から、百姓が浪人侍の手を借りて、村を守っていく。
 
 一面では戦国時代のサムライの武器を使った戦闘能力の専門性に頼らなければ、百姓は村に襲いかかってくる野武士集団に対抗できないという現実がある。
 
 他面では、自己の軍事力や技術の未熟性を理解したうえで百姓たちが、戦乱であぶれた浪人武士をなけなしのカネを叩いて徴兵するという、強かなところを描いている。
彼らは浪人から武器の使用、戦闘の戦略戦術を学んで、野武士たちの襲来を利用し、実際の戦闘で壊滅させてしまう。
 
 「九条政基、旅引き付け」に描かれている百姓も強かというか、実に凶暴である。
当時、年貢は村単位で徴収され、領主に収められていたから、当然、過重負担に対する百姓側の抵抗が、組織的に行われる。
 
 >>基本的に年貢を納める側が領主権力に対して、直接の暴力行使で対抗することはなく、抵抗は「逃散」=耕作放棄で山に引きこもるなどの不服従抵抗の域は出なかった。
 
 >黒沢の映画で描かれている状態も考えてみると、盗賊の武士に対して村を自衛武装し、対峙し、総反抗し、壊滅させる話であって、領主権力への浪人の手を借りた武装闘争ではない。
ここがが重要である。この浪人サムライたちの手を借りた、自衛武装の闘争相手はあくまでも、今風にいえば、民間の理不尽な暴力による収奪である。
 
  ところは、実際の史実からいって、これら百姓は誰かどこかの領主支配を受け入れなければ、生活していけない現実が当時もあった。日本ではアメリカ開拓村と違って支配の側の濃密支配があった。
黒沢「7人の侍」この点を描けば、映画にならない。でも従来の日本映画は描いてきたからつまらなくなったと言える。
 
  黒沢映画でも百姓の暴力的戦いは安易な相手。民間の暴力に過ぎない夜盗の群れに向いていて決して領主の不当性へ告発、武装闘争ではなかった。機構的的制度的な支配に向かった戦いではなく、行ってしまえば、民間の不当、不測支配への臨時的抵抗と粉砕の戦いである。
 
 これは日本歴史を間違ってとらえる観点である。
なぜなら、日本では戦国の時代には封建支配は貴族支配を駆逐する形で支配的な社会構造となっていたが、外国の映画鑑賞者がこの映画を見たら、まるで、西部劇の開拓町が理不尽な外部からの襲来に対処し、街を守る物語のように受け取られる。日本歴史にアジアにはない封建制があったという事実が抹殺されレしまう。
 
 封建体制がアジアで日本にあったから、日本の近代化はアジアでは先行した、という学説が今では、定説になりつつある。
  
 黒沢「7人の侍」はアメリカ人には解り易いかもしれないが、日本の封建体制の濃密さ、を完全無視して誤解を与えるもととなっている。誤解したハリウッドの監督が「荒野の7人」で黒沢プロットをまねた。
なお、黒沢の「用心棒」は私の尊敬するダシール、ハメットの「血の収穫」のプロットをまねたモノである。
 
 でも、黒沢は百姓の暴力行使は直接の年貢取り立て先の領主に及ぶも種類モノもではなく、せいぜい、民間の理不尽に対抗する本質しか持ち得なかった、と見抜いていたのかもしれない。
 この問題は今もあてはまるような気がする。
 
 そもそも、野党の襲撃から解放された百姓はどの領主にも年貢を納めなくていい自営農民なのか?と。
摩訶不思議な話である。領主のヒゴに頼らず、村をなりたたせていこうとすれば、百姓は農耕をする傍ら、自分たちの身 は自分たちで守らなくてはならない。
 であれば、半農半兵であり、こうしたモノの存在は戦国時代、領主武士の手勢として動員されていた下級の一般的兵士の姿である。
 
 この中途半端な軍団は戦国の戦いの中で、織田信長に代表されるような兵農分離へと進化していった。
 
しかし、黒沢の「7人の侍」のラストシーンでは夜盗を浪人の力を借りて壊滅させた百姓たちの営農作業の様子を豊穣をもたらす何か普遍的な姿の様に描き出すことで終わっている。
 どうやら、黒沢の描く百姓はあくまでも百姓であって、営農の傍ら武装するものでない。
 
 それから大事な点がある。
 
 <<<当時の百姓は年貢を収奪する領主権力には不服従抵抗だったが、百姓の間での掟=村掟を破った者に対しては容赦のない制裁=殺人が行われていた>
  
 「旅引き付け」の中では飢饉の際に村として蓄えてあった、ドングリを飢えた母親と子供が盗んだといって、無残にも切り殺してしまう事実が記されている。
 当時の百姓に武器が行きわたってなかったわけではなかったのだ。武器はあったが、その矛先は掟破りの身内を成敗することの方向にしか使用されなかった。
 
>外ゲバではなく内ゲバに使用されていた。
 どうしてなのか?
 
 百姓が貴族、寺社、武士の権門による支配体制を「聖なる階層の支配」として怖れていた心性が根底にあって、これらへの、決定的場面での武力行使を躊躇う背景があったのではないか。 宗教による屈従、帰依を支配層が利用していたこと、直接的な武力による日常的な抑圧など様々な要因が重なって「聖なる階層」に支配は貫徹する。
 
 百姓は手出しできるところでできない事が重なって、何時しか屈従が日常化する。
 
その後の歴史を見ても、こんな庶民の歴史は続いてきたとみていい。
 
 >秀吉刀狩りにもかかわらず、庶民間には武器が温存されていたが、庶民は百姓一揆などでもそれを行使しなかったし、弾圧する側も、鉄砲で対抗することはなかった、として彼我間の紳士協定らしきものがあったという説があるが、いかがなものか?
 
 庶民側に 武器はあっても使えるだけの「思想」を奪われていた、ともいえる。
 
  <自分たちの武装で自分たちの身を、生活を、職業を、商売を守るという自治の伝統、経験は日本の歴史にない。全てはその時々の支配層にお任せ、代行してもらっていた>
 
 <日本国憲法もこういう角度から見ると別な側面が見えてくる>
 1~8条の天皇条項と9条の戦争放棄はセットで考えなければならない。切り離していいとこどりは、間違いである。