大きく言って、そういう事になるが、当然にも、この内乱の過程では、民衆の武装闘争は至る所にあったと理解する。
対領主との戦いの歴史に刻まれていないだけで、至る所にあった、と見なければならない。
民衆(百姓)は武装していたのだ。ただその闘いが大きく組織されたのは、体制化されていない新興宗教勢力の人心掌握力を梃子とするもので、これは洋の東西を問わない。トマス、ミンツァーに率いられたドイツ農民勢力は領主勢力とまともにぶつかったが、プロテスタント宗教改革のマルチン、ルターはその余りの過激さを目の当たりにして、激しく非難し、弾圧を要請している。
ただし、いい訳になるが、本願寺勢力の3拠点のうち、加賀の一向一揆だけが「百姓の持ちたる国」と呼ばれている事実は見ておく必要がある。ここの一揆衆は守護を追い払った戦いの先頭に立った、土着の武士支配層とも戦い自分たちの統治する空間を織田信長に滅ぼされるまでしばらく維持する。
当然であろう。それだけ、天下大乱の時代が続けば、最後に勝ったモノはよく学ぶ!
パックス、トクガワーナは封建支配の形態であり、アジアの他の地域の支配体制である専制国家支配体制とは大きく異なっている。
この完成を持って、民衆の組織的武装は完全に根絶やしにされた。
今回は反省を込めていろいろ考えているが、歴史認識というモノは、モロいモノで、時代の風潮によって簡単に変わっていまうな、と思った。
無力感にさいなまれたら、自分の現状に見合った事実を歴史の中に探し求め、其れを再構成してしまう。
いや、というよりも、自分の大きな歴史観の中に位置ずけられないように仕向けられていた。
まして、加賀の一向衆の「百姓の持ちたる国」などは一般には歴史趣味のある方しか知られていない。
>>>民衆の立場に立った日本国憲法の否定とは1~8条の否定であり、9条をも否定するものだ。
>>>昨日、ネットで調べていたら、イタリアのグラムシが国家権力を暴力装置論だけに終わらせずに、教会やマスコミの市民社会の中にある構造物を利用した支配にまで拡張しているのを知った。今さらながらなのだが。
所で市民社会は個々人、家庭家族、各企業などがバラバラな個的利益を得るために蠢いているのが実態。
ここに、殺してはいけないとか、盗んでではいけないとかの自然の掟はあったにしても、その次元の法体系が国家形成までストレートに結びつくわけがない。この次元は警察警備次元のこと。
国家形成まで行きつかせるためには、法体系の完全、支配層寄りのち密化と支配層のイデオロギーの圧倒的注入が必要になる。
となれば、時代的危機に際して、マスコミによるイデオロギー支配が過度に前面化して、本来バラバラな市民を強引に統合していくしかない。
近年のマスコミの突出は目に余るモノがあるが、時代的危機を迎えた日本の必然の過程でもある。