昨夜は全国検察審査会協議会の面々に想いを馳せ、検査会事務局の無法ぶりを羅列していたら、自己中毒状態になり、本当に気分が悪くなった。夜中に息苦しさを感じて、窓を開けて外の空気を吸った。
世の中は広いし、魑魅魍魎に蠢く世界。悪く言えば、これが市民社会の実態。どうしてそんなモノを含んでいる常識を高度な政治裁判の判断基準にできようか!法の前に厳粛な姿勢が要求されてしかるべきだ。その姿勢が巡り巡ってやがて自分を守る。
全国検察審査会に結集する僅かな連中は本当に迷ったら、後ろに引きさがるという事を心底、経験できなかった「幸福な人たち」である。この手の人たちは実に数多くいる。
こういう方々の群れが戦前の日本軍国主義の庶民側の支柱だった。近代政治思想の通説である。
学校教師、役人、軍人、官僚、そして町内会の祭りで率先してワッセワッセと神輿を担ぐ顔役たち、ゴロツキども、これらが日本軍国主義の官民の烈烈支持者で実行者だった。奥は深い。
で、戦後は世間の風潮に素直に従って、わき目も振らず、寄り道せず、経済的日常生活に邁進してきた。
が、そこに「正義」を見出して貰っては困る。
「12人の怒れる男」。シドニールメット監督1957年作品。
ヘンリーフォンダ扮する12人の陪審員の一人に選ばれた実直そのものの中年男が裁判で有罪になりそうな被告の無罪をたった一人だけ直感。コツコツと審議の事実点検し、無罪の確信に至り、同僚の陪審員に誠実に働きかけ、無罪を勝ち取っていく。
真面目、誠実、実直な何処にでもいる様な市民に扮するフォンダのはまり役でもある。リージェイ、コップも出ていたらしいが記憶にない。
原画は白黒だが、今はDVD化されているらしい。
>アメリカ民主主義の原点を確認するような映画である。勇気ある個人の屹立がまず前提としてあっての、市民間の意見交換、討論の果ての多数決である。
そこ過程で、国家権力側の押しつけようとした常識はそういう市民の力の結集で覆される。アメリカ民主主義の良心の原点だと思う。
尤も今のアメリカにそれがあるかといえば怪しいものだが、彼らの原点には最小限、個人の自立がある。
>冒頭のタイトルに挙げたフレーズは今や常識になっているのではないか。
我々、同時代人の多くは、インディアン討伐をする騎兵隊の「正義」をそのまま、受け取ることはできない。
開拓者を襲撃するアメリカン、ネイティブにも言い分はそれこそ山ほどある。
土地所有の概念のないネイティブは開拓者に土地を追われて、為すがままに豊かな恵みを与えてくれた大地を離れよ!主張する方が今では理不尽になってきているのではないか。
ジョンフォード、ジョンウェインの「駅馬車」は史実として、良心として間違いの部分もあった。
その歴史的事実を経て作られた西部劇はやられる側のネイティブを描いたモノが多かった。
もちろんそんなの我関せず、という風潮も根強い。カントリーミージック大好き人間なので解っているつもりだ。
この二つの立場は今もアメリカでせめぎ合っている。
歴史の到達点でもある。
>> 翻って、日本の検察審査会から毀れてくる情報を総合すると、この日本では、今だインディアンを撃退する騎兵隊や西部開拓幌馬車隊の「正義」が形を変えてまかりとおている様な気がしてならない。
言葉は乱暴ではなくても、やっている中身はとてもじゃないが、民主主義の原則とは程遠い。
それが日本の民主主義だ、と言われればそれまでだが、
私は、マスコミ報道も含め、いったいこの日本はマッカーサーが言った「精神年齢12~3才」から、戦後半世紀をはるかに経過して、いったい何歳ぐらい年を重ねたのだろうかと、思わず、うっ屈してしまう。
しかし、彼はあくまで、作家として描いているのであって、そういう庶民の生きざまを肯定している姿勢はない。
彼の描く庶民がこの日本の実在する庶民の全てだったら、何年たっても12~3歳からは大して進歩はないと思う。
自分の中で結論を出しているが、あえて書かない。