>>これに対して私の歴史観を先に簡潔に述べておく。やや乱暴な表現だが時間がないので致し方がない。
第二次大戦は強盗同士が世界中の獲物を前にしてお互い、醜い、殺し、略奪を演じたモノ。殺人、火つけ、強盗、強姦、リンチ虐殺。ありとあらゆる極悪犯罪行為が戦闘行為の名も下に合法化された。もちろん加害者もいれば、被害者もいる。
が、被害者が加害者にもなっているところが、世界戦争たるゆえんである。
アメリカやイギリス、フランスは先発資本制国として世界市場の再分割戦で予め優位な立場にあった。
当然内外の支配状態は後発国と違って、戦時独裁を基本としながらも「民主主義」の形態をとる。
世界中の収奪されていた植民地、半植民地の民族、「国家」は戦争によって多大な理不尽な犠牲を強いられたが、世界市場の再分割戦は自分たちへの帝国主義支配の揺らぎになり、重しが外れ、独立を勝ち取る絶好の機会となった。
<まとめ>
<大戦の雌雄がおおよそ決し出してからの連合国首脳の動きは注目に値する>
これには三つの側面がある。
その一。ドイツ敗戦後もなお戦争を続行している日本をどう敗北に導いていくか。
その二。世界戦争の勝利が確定的な連合国に有利な戦後処理。
その三。世界戦争中、唯一、戦災を受けていないアメリカは1930年代恐慌における巨大な過剰生産力を世界戦争における軍需清算で解放できた。ニュー、ディールによる政府の大型財政出動の不徹底は世界戦争で解決できた。
<時系列に沿って見て行くと事態の推移が具体的に解り易い>
>>1943年5月。
アメリカ、開発中の原爆投下対象を日本と決定す。
>>1944年9月。
原爆投下対象日本をアメリカとイギリス首脳間で決定。
>>1945年。2、4~2、11
>そこで、日ソ中立条約の破棄とドイツ敗戦後、3か月以内の対日参戦をスターリンに提起。
>>>1945年。7、16.
アメリカ原爆実験成功。
>>>1945年。7、17~8、2
議題。敗戦ドイツの処理問題。戦争続行中の対日降伏勧告「ポツダム宣言」の検討。
>>>1942年。7、26.
日本への降伏勧告文書「ポツダム宣言」発表。
知覧残照さんは「ポツダム宣言」2項及び4項を問題視された論点を展開されている。
彼の論旨は一言で言って、降伏したのは軍部であり、政府はドイツの様に崩壊していなかったし、天皇制の国体は存続していた。
彼はアカラサマにいわないし、そこが奥ゆかしい理性を感じるが、ハッキリ踏み込んで言えば、特攻隊の決死の戦いや一億総玉砕の日本国民のアメリカ軍への持久戦を恐れて、アメリカ側は天皇制の存続を認めた。従って日本国民と政府は国体を護持できたのだから、無条件で敗北したわけではない、これである。
天皇制の下での敗色濃厚な時期の一億総玉砕いや特攻隊、住民を巻き込んだ沖縄の地上戦を国体護持の方向からメルクマールとする史観の提出受け止める。
が、そこには日本がどうして敗北したのか、国民はどんな被害を受けたのか、日本はアジアで何をしたのかという視点はない。
こういう論旨ではタイトルどうり、結果的に天皇を利用した、アメリカの対日支配の貫徹を容認し、戦後の日米間に渡る利権癒着構造に戦い切れない。事実上日本国憲法の容認に繋がる。反米のもならない、半米思想の満開である。もちろんどちらも、間違っている。利権癒着勢力に利用されて、日本のイスラエル化方向に利用される恐れもある。
戦前の2、26や5、15への深い総括が果たしてあるのだろうか。民衆の立場に立ち得ているのだろうか。
そういうモノに9条を批判する資格はない。また日本帝国主義のアジア侵略の事実を肯定するモノである。
台湾、朝鮮併合、満州国は間違いであり、許されない。
それは、民主主義の仮面をかぶったアメリカなどの連合国の長きに渡る世界への植民地、半植民地支配が武力を持って断罪されてきた、と同じ地平だ。
どちらがいいとか悪いとかの道義問題ではない。
だから当然にも、片方の道理で日本の軍事指導部等を裁いた東京裁判は間違っている。
この私の立場は遥か昔、憂国烈士の方にも伝えてあるモノで終始一貫してきた。
もちろんその時意見の違いはあるが、問題は大きな立場でどうとらえるかでる。
>>>1945年。8、6.広島原爆投下(ウラン型)
>>>1945年。8、9・長崎原爆投下(プルトニウム型)
広島、長崎への原爆投下は冷徹な世界政治軍事力学の計算によってなされた。
そこにはあまりも酷い戦禍がある。明治以来のアジア侵略の加害者は結果的に犠牲者にもなった、ともいえる。
敗戦後の昭和天皇に対する庶民の率直な感情吐露を嫌悪するインテリの感情が綴られている部分が後々よく問題にされ、中野氏も死の間際まで気に賭けていたらしい。
こういうモノを政治的判断一辺倒で切って捨てるのは、自分の内面を貧しくし、他者に対して思いやる気持ちをなえさせてしまう事になる。
が、全てを解った上での決断はいる。
私は若い時から、ちっぽけな一庶民として一生を終えたいと願ってきた。戦前にはそのような庶民を文学的に表現しようとする貴重な動きがあった。プロレタリア文学はいつも気になってきた。ただ、小林多喜二の「蟹工船」を読了するのは文学的拷問に近かった。確かにそういう事実に近いモノはあったろう。しかし、文学的に余りに貧しすぎる。善玉、悪玉史観は民主主義的に間違っている。
が、貧しいモノの、言葉や表現を境遇うにおいて奪われたモノに替わって、表現者はその立場に立って表現する必要があると考えてきたが、そう主張する私自身が言葉も表現も奪われたモノにすぎなかった。
私は若い時からの小林多喜二と同郷で同じ小樽高商出身の伊東整の高校生時代からのファンだったので彼の作品中、小樽のある場面で、小林が一瞬登場する場面を知っているのでそう思ってしまう。彼の「若い詩人の肖像」の描かれた北海道、小樽の陰々滅滅たる世界は胸に迫った。彼は小林多喜二を凄く意識して耽美主義の道を歩んだし、戦争中は大東亜戦争賛美者であり、戦後はインテリ然とした近代文学派だった。表現の自由をめぐってのチャタレイ裁判が有名である。
小樽、余市は若い時に訪ねた。
伊東整は死去した時、1969年11月、沖縄「返還」のため訪米する佐藤栄作を阻止するため、東京蒲田に行った。蒲田行きの電車はすべて止められていたので、線路に沿って蒲田に行くしかなかった。
水銀灯の照らす蒲田駅前は機動隊の制圧下にあった。路地では自警団も組織されていた。
為すすべもなく後退する中で逮捕された。連行された警察署で旗竿とヘルメットをもたされて写真撮影を強行しようとするのではねのけた。