古沢憲吾監督、植木等主演「ニッポン無責任時代」は1962年封切られます。ハナ肇とクレージーキャツはすでにテレビの人気モノでした。「大人の漫画」「シャボン玉ホリディ」のコントは秀逸だった。そのクレージーが総出演し、キャラの立っていた植木さんを主人公に抜擢した映画が封切られた。1962年は60年安保闘争を経て、池田勇人の所得倍増政策が始動を開始していた頃である。
1) それまでのエネルギー供給の主体だった石炭産業を一気に切り捨て=より効率的なエネルギー源である石油輸入に依存。 三井三池炭鉱労組の戦いが有名。
2) 郵貯、簡保資金を大企業群を頂点とした重工業に集中的に投資育成し、他方で日本的な労働市場の二重性の維持=低賃金労働力の確保をインフレ政策によって貧困格差の生まれ解体する農山村の潜在的過剰人口求める。 集団就職に典型。
3)こうして各産業分野の寡占的大企業の資本強蓄積過程を政官業の癒着構造で確保する。
以上が所得倍増政策の概要であるが、大きくまとめると、国家独占資本主義政策という事ができる。
実施以来、10%に達する高成長が続き1967年に実際、経済規模倍増が達成された。
>>>こういう高度成長経済の中で「ニッポン無責任時代」の主人公、平均(タイラ、ヒトシ)のハシャメチャ、痛快映画はヒットした。
共にその後、ニッポン高度成長経済による沿うように毎年、シリーズとして連作されていった。
>これらの映画世界は庶民にとって全く手の届かない現代のおとぎ話だったのだろうか?とフト想ってしまう。
違うと思う。
それなりの強烈なリアリティーがあったからこそ、観客が詰めかけたのだ。
高度成長期、大企業のサラリーマン=頭脳労働者は成長する会社に役人的無責任で寄り添っていけば飯が食えた。成長する会社はそうしたモノを年功序列もあって合理化する必要もない。
ところが、ここで描かれているのは、そういいう年功序列にどっぷりとつかった面々を尻目に、ある種のモーレツ社員に徹した平均(タイラ ヒトシ)である。
だが、タイラヒトシの活躍する舞台は決して、中小企業ではない。年功序列的無責任が許される大資本である。当時も企業間、労働間の格差はあったが、高度成長のお零れはどうにか下方まで行きわたっているところが今と雲泥の差である。だからこの映画に貧乏人も共感できたのではないか。
>そのハチャメチャ痛快、爆発的行動力の原動力は会社人間としての目いっぱいの欲望を全開して、突き進むことに何ら臆することのない異常な精神力である。
出世欲、性欲、物欲に突き動かされ、これを達成するのが目的だが、、巧妙に手段を選ぶ、目的意識性が平均はズバ抜けている。換言すれば、原動力や目的は単純素朴で原始的であっても、実現手段、強烈な目的意識性に誰にも真似できない圧倒的な精神性がある。名前のタイラヒトシ(平均)とは言い得て妙である。
一般の中に特殊を見つける手法である。だから幅広い共感を呼ぶ。
いくら年功序列下であっても彼の様な欲は誰でも持っているし、達成するための手段も駆使するだろうが、其々が図抜けている。
そこに映画的な強烈なデフォルメが加味されているだけであるが、観客にとってリアリティー溢れる主人公の設定になっている。
もちろん、こうした主人公の猛烈ぶりは高度成長下の大企業の年功序列の中でこそ達成される。
だから、今の時代にタイラヒトシを描いても観客は納得しないだろう。
しかしそれだからこそ、今見ても植木さん主演の一連の作品は面白い。
とにかく、テンポ、勢いのあるハチャメチャ痛快画面の連続。一種のピカレスク映画なのだが、主人公の行為は庶民が完全にお笑いとして許せる範囲である。
突然、植木さんが歌いだす場面なんかが挿入されており、何か歌って踊っての要素も含まれているようである。大学時代陸上部の選手だった植木さんの動きはテンポがあって軽やか。名演技だった、と思う。
今見ても、スカッとすること間違いのない良い映画だ。
でも政治性は一切抜き。というよりも政治や現実を一貫して忘れさせる映画でもある。
そんな社会風潮に高度成長期はあった。
野党の要求は高度成長の成果の分配は仕方がないにしても、キチンとした制度、政策要求は一貫してなかった
しかし、それじゃ、民社党の方向が良かったのかといえば、そうではなかろう。ここは企業べったり、手先でさえあった。
ただ、今にして思えば、この高度成長期を日本人は結局、無駄に過ごしたのではなかろうか。
長い目で見るとそういう気がしてならない。
この時代につけが、これからの時代、政治に国民が集中しなけれなならない時にできないDNAを形成していった様な気がする。
その意味を含めてタイトルとした次第である。