反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

風が吹く吹く やけに吹きゃがると、風に向かって進みたくなるのさ。

  風が吹~く 吹~く やけに吹きゃがると か~ぜに 向かって 進みたくな~るのサ。
  お~れは行くぜ~ 胸が鳴ってる み~な飛んじゃエ 飛んじゃエ   おれは負けないぜ
 
  風が吹く吹く やけに吹きゃがると  街に飛び出し 歌いたくなるのサ
  おれは歌う  おれは唸ると      風も唸るヨ   歌うヨ    おれは負けないヨ
 
  風邪か吹く吹く  やけの吹きゃがると  風と一緒に飛んでいきたいのサ   地獄の果てへ
  ぶっちぎれていく ちぎれていく
  
  それが運命だヨ
 
            <再会>
  会え~なくな~て  はじ~めてし~た  う~みより深い 恋~ご~ころ
  こんなに あなたを 愛しているなんて 
  ああ ああ カモメにも  解りはしない
  皆は悪い人だというけど  私には  何時もいい人だった  
  ちっちゃな青空  監獄の壁を     ああ  ああ  見つめつつ   泣いてるあなた  
 
            <錆びたナイフ>
 砂山の~ 砂を~指で掘ってたら~ 真っ赤に~さ~びた ジャクナイフが出てきたヨ
 何処のどいつが埋めたか  胸にじんとくる 小島の秋だ
 
>>>映画も歌も自分の青春時代よりも一昔前のモノがなぜかピッタリくる。、<再会><錆びたナイフ>は若い頃の愛唱歌で仲間と酒を飲んだ時に必ず歌っていた。
 
  記憶は混濁する。
石原裕次郎。風が吹く吹くで始まる唄はてっきり「嵐を呼ぶ男」とばかり想っていた。
嵐を呼ぶ男」はオイらははドラマー、ヤクザなドラマーで始まる唄。作詞 井上梅次石原裕次郎主演「嵐を呼ぶ男」を監督した日活映画監督。
 
 ところが、実際の作詞者は大橋巨泉さん。有名な話で巨泉さんも自分の著書の中でその辺の事情を書いている。アメリカなんかでよくあるらしいが、無名の作詞、作曲者から名のあるモノが著作権をカネで買う。売る方として見たら、自分の名で売れるかどうかわからないから、当面の何某かのカネで折り合いをつける。
 
 ただ、「嵐を呼ぶ男」は裕次郎のベストアルバムの上位にランクされる唄になっているが、歌詞の内容をよく吟味すれば、下品で深みはない。当時、ジャズ全盛の時代でフランキー堺の様な売れっ子ドラマーもいた。
嵐を呼ぶ男」の映画も大きな図書館の貸し出しビデオ目録に登録されているぐらいだから、当時のヒット作だったのだろう。
 
 その点、「風よ吹け吹け」に始まる「風速40メートル」の歌詞の内容は味わい深いモノがある。さすがプロの有名作詞家の手になるだけの事はある。
 逆流に抗して戦うモノの自己破壊を前提とした捨て身の覚悟が綴られている、としたら考え過ぎか?
 1950年後半の世間の気分を詩っている様な気がする。
 
>>>>そのような社会風潮が当時の若者の中にあって、その延長線上に1060年安保闘争における全学連の国会議事堂突入闘争が展開されたのではないか。
戦後民主主義の中で層として生まれてきた本当の意味での戦後世代が登場し、それはその当時まだ存在していた、日本的戦前性への破壊的反抗に行きついた。
 
 国会突入した全学連の中核、安保ブントは共産党から離脱した学生細胞で形成されていた。共産党という戦前から、日本の共産主義運動を担ってきた前衛部隊の否定から、ハッキリ区別された別の運動が初めて現実化した。
 この底には石原慎太郎太陽の季節」に代表される、戦前とは全くタイプの違った戦後民主主義の空気を胸いっぱい吸い込んだ若者の群れがあった。
 
 その意味で、1960年安保闘争は日本の社会風俗的な結節点である。戦後民主主義の社会風俗が定着していった。
 
 >安保闘争で退陣した岸首相の後を引き継いだ池田勇人内閣の所得倍増=インフレ高度成長経済政策によって経済的にもその社会風潮が定着していった。
 GHQ当局は半封建、軍事的な戦前日本の社会的経済的構築物を法制的にぶっ飛ばしたが、安保全学連に代表される本当の意味での戦後世代の層としての登場とこれを社会的経済的に基礎づける池田内閣の高度成長経済政策で戦前的なモノの寄って立つ根拠は一掃された。
 
 >寄生地主制度の一掃された農村の潜在的過剰人口は農業農村破壊を伴って、都会の工業、商業への安価な労働力を供給した。一方、安価な労働力を底辺とする都会では大量生産、大量消費のアメリカ的消費文化が
開花しようとしていた。
 
 以上の様な歴史的総括をしていくと、日本の今、将来の様子がある程度確定できる。
歴史は螺旋的に発展していく!
同じような繰り返しが発展した状態で再現される。
 
 この意味からすれば、戦前的なモノを奇形的に急速に一掃し、世界第二位の経済規模まで上り詰め、立ち往生しているのが今の日本の到達点である。
 
 この時点の基本矛盾は戦後的日本の急速奇形的な発展の仕方のアンバランスの中に国内的には多くを求める事ができる。それに輪をかけて戦後世界体制の完全崩壊が日本に加重している。
 
 >>>> この状態を私はグローバル資本制の最弱の環=日本と呼ぶ事にしている。
 この基本視座がハッキリしていると、日本の内外をめぐって、現在やこれから発生する事態の基本線はすべて読みとけるであろう!
 
 のたうち回って、よりベターな選択をするのではなく、より悪い選択をしてしまう可能性が強いとみているから、警告を発している!
 
 >>自分たちは正しいと思っている多くの人たちが実は正しくないのだ!
 マスコミどもに激しい嫌悪を抱くのは確たる理由がある。彼らは間違っている!
 
 どんな種類であって「小さな政府」を志向する政治潮流はこの内外情勢の下ではファシズム的要素を持たざるえない。 
 最弱の環=日本を克服しようとすれば、ファシズム的政治を指向していくしか方途はあるまい。
戦前は天皇の絶対性を梃子とする必要があったが、今は天皇制のよって立つ制度的物的根拠がぜい弱だから
マスコミの宣伝扇動力を中核とする特殊日本的「ファシズム」に行きつくだろう。
 
 日本の社会構造変化の特徴は既成の支配機構と民衆が大した抵抗も受けずに、なし崩し的に、そっくり変転していくことであり、そういう特徴はこれから展開するファシズム的政治支配にも適応されていくが、マスコミが前面に立たざるえないのは、日本的戦後民主主義の特殊性故である。
 
 >>植草一秀氏の政官業外電のペンタゴン支配層が事実上、ファショ的支配形態に移行しようとしているのだ。
 
 彼の分析は何も奇をてらう所はなく、極めて当たり前の常識を述べているだけだ。
私も彼の意見を全く知らない時点から、おおざっぱに彼のように分析していた。
キチンと定式化できるところが、理論家の理論家たるゆえんである。彼の分析力の背後には深い学識があり、それを踏まえて、シンプルに現実を読者に提供できる能力がずば抜けている。