反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

NHK「天空の道」チベット開山大運搬隊を論じるつもりが暴走。意図不明大阪案内に。

 「天空の道」NHKドキュメントの時はちょうど、NHK教育ラジオで女優、有馬稲子さんの文化講演会を放送していたので録画しておいた。有馬さんの現在はどうやら、高齢者対象のケア、集合住宅に入居しているらしい。500名も収容する賑やかなところで、彼女は率先して仲間と庭の花造りに挑戦しているとか。
 講演の声は声量があり、艶も失われていない。さすが、途中で民芸に入って勉強しなおしただけある。
役者の基礎から勉強した人は名前を挙げてみると、皆いい声が出る。舞台ではでは声が出なければ、役者として失格。話もメリハリがきいていてさすであっという間に時間が過ぎて行った。
 
 1932年生まれとあるから、この前当ブログで取り上げた大森実さんと同い年。大森さんは移住先のカリフォルニアで亡くなった。
 
 小田実さんと、有馬稲子さんは大阪夕陽ヶ丘高校の同級生で小田さんは天王寺高校に入学したが、学制改革で二つの高校が選択できた時、天王寺高校の校風を嫌って戦前の女学校を母体とする夕陽ヶ丘を選んだ。
有馬稲子さんは当時、小田実は知らなかったかもしれないが、小田実有馬稲子を知っていた、間違いなく。
そういう違いは普遍的にある。
 
夕陽ヶ丘高校のある一帯は当時も今も大阪で尤も風情のある街で、上町台地の最西端、急斜面やすぐ下には神社や寺が多く、緑豊かで住宅街も落ち着いたたたずまいの家が多く、一帯が何とも言えない落ち着いた雰囲気を醸し出している。徳川幕府は敵地大阪の改革の一環として散在する寺をこの近辺に集めた。ここは仏様と神様の濃密地帯である。
 
 辺り一帯は散策コースになっているが、その一番南側の起点ともいうべき四天王寺に上がっていく逢坂の途中に一心寺はあり、ここも有名な寺である。
 
 古い邦画マニアの私としては、この寺は溝口健二の「西鶴女一代」のラストシーン。幸福な環境に生まれたうら若き女子田中絹代さんが、いく先々でこれでもかこれでもかの不幸に遭遇し、悲惨、零落の極致に至り、遂にこの一心寺の軒下をねぐらにする女郎に身を窶すところ。
 不幸の向うにまた不幸があり、それをやっと乗り越えたと思ったら、想わぬ落とし穴が待っていて、もう性も根も尽き果てて、徹底下層の身へ。しかし、そこは苦界であり、善悪の彼岸を超えた、神、仏と死との僅かばかりの境界だった。
 
 善悪の基準はもうなくなった。神や仏はいるようでいない。しかし、死だけは何時も身直に寄り添ってくる。
だったら、この境遇で意識的になろうとすれば、自分が神や仏になるしかないのではないか。
 
 こういう物語を演出した溝口健二も凄いけど、書いた井原西鶴はもっとすごかった。
井原西鶴の墓はこの夕陽ヶ丘の地から上町台地を2kmぐらい下った誓願寺という小じんまりした町寺の奥まったところに何気なくある。井原西鶴織田作之助が敬愛し、野坂昭如さんもその戯作精神を意識的に受け継いでいる江戸時代を代表する「作家」である。
 
 最近までオダサクは知らなかったけど、彼の周辺の人が書いたオダサク論を読むと、作家、野坂昭如はデビュー当初から、いかに井原西鶴ーオダサク、ラインを意識して書いていたか、発見した。
 
 オダサクの細部のディテールへにこだわり、商品、物質へのこだわりを小説の中で羅列し、物語を進行していく手法は西鶴研究の結果とか。彼はモノへの執着を書くことで戦前の左翼弾圧の後に続いた自分たちの世代の思想的空虚感を埋めようとしたらしい。もう戦えない時代を意識すれば、後、縋るのは風俗とモノへのこだわりしかなかった。時代に目を向けまいとする意識的内向き志向である。
 
 このオダサクの試みは時代の反映だったが、野坂昭如の場合、どうであったか。やはりその辺の事は知っていたのかどうか。しかし、野坂のあの独特の文体は西鶴から出たものだろう。
 
 さらに面白い事に数年前、芥川賞を受賞した大阪出身の若き某女性の文体を野坂昭如譲りだった。
この女性は桑名正博と大阪のラジオで夜の番組を結構長くやっている頃から知っていた。最初はベタベタな大阪弁のアクの強さを倦厭していてたところ、じっくり聞いてみると物凄く地に着いた考え方をしているし、大阪弁丸出しと裏腹に現代的センスがある、と感心し一気にファンになった。桑名正博は昔から支持していた。
 やはり彼女もこのラインを意識していたのかな、と思った。
 
振り返ってみると、こう記す私自身でさえ、オダサクは読んだことはないけど、若い頃から大阪に暮らすモノとしてこの古本屋、ここの食堂がオダサクの利用していたところだと何となく知っていた。
 
 一心寺は無縁仏を供養する所でもあるのだが、戦災で丸焼けになった現在の寺は何か異様な前衛風現代建築。また本堂に安置されている仏像に本物の人骨を粉砕し塗りこめており、それを一種の売り物にしている突き抜けた徹底ぶりがある。落語会などができる演芸ホールも本堂のすぐ近くにある。
 
 この一心寺の前の国道の坂道を上がりきったところの四天王寺の石造りの鳥居風の大門の歴史は古い。
直径50cm以上もある大門がどうして今まで倒壊しなかったのかいつも不思議に思っている。この寺の境内の古本市、骨董市は面白い。
 
 大門前の交差点のたこ焼き屋は大阪一旨いと思っていたがどうやら私だけの勘違いだったようで、私が何気なく食してタコ焼きに目覚めた後、すぐに閉店の憂き目にあっている。場所もそんなに悪くない。
 
この店で偶然タコ焼きに目覚めて以来、4、5年になるが、あんな旨いたこ焼きに巡り合った事がない。今でも合点がいかない。
 だから、今でも最高のたこ焼きと勘違いしている。
 
 本当に良いモノ、旨いモノを皆が支持するわけではない、と。
 これが食い物レベルであればよいが、そうともいえない日本の今現在がある。
 
 四天王寺の広い境内を付近の住民は近道として利用したり、犬の散歩場所として利用している。全国の有名な寺でここまで自由にさせているところはないのではないか。尤も拝観料をキチンととっているエリアは別だが。
 
四天王寺の基本方針は神仏混淆の様である。だから、明治政府の廃仏毀釈によって神社と寺の共存状態の古くからあった日本古来からのスタイルの破壊を、敗戦を区切りに元通りにしようとする強い思想的観点があるのかもしれない。
 その一環として、周辺住民や一般庶民に開かれた寺運営をしているのか。
 
 広い境内には犬の散歩で排泄行為をさせる付近住民、他所から来た結構な数の参拝者、すぐ隣の四天王寺女子高の部活のランニングなどが雑然と交差する時間帯がある。
かなり前にはそこに夕刻になれば大量の野宿者が大集合していた。
 
 でも、この雑然とした状態が本来、寺に普通に見かける光景だったのでないか。
大きな寺に近くには必ず、複数の神社があった。神仏は役割分担して庶民とともにあって、何彼となく、日常生活レベルでの庶民を引きつけ心のよりどころを提供していた。
 
 寺社は本来、サンクチュアリ一辺倒でなかったはず。
伊勢神宮に感じたのも、独特の素朴さ、俗っぽさがあるな、という点だった。聖なる部分は何処にも感じなかった。
 
 浄土真宗一向宗の中世の圧倒的な軍事的パワーも寺本体が庶民の日常的な拠り所、結集点となっていなければ、あり得ない。寺は江戸時代、軍事貴族の民衆統治の道具になって、軍事的政治的力は骨抜きにされたが、民衆の拠り所としての地位はまだ持っていた。