マスコミ報道の総意、野党、民主執行部は小沢起訴議決をした検察審査会の在り方、審査員にまつわる不可解はスルーしている。そのうえで特捜検察徹底調査案件に対して全員一致起訴相当の市民の2度にわたる議決を絶対化して起訴された小沢氏に責任を取れ、と叫んでいる。
そこにあるのは法的論理ではなく情緒である。
法的論理の整合性のある世界では小沢氏は形式的には2度にわたって不起訴となっている。
ところが、検察審査会に集まった市民が再度、起訴相当とすると、どういう基準で選任されたのか分からない弁護士が検察官役になった特殊裁判において小沢氏は被告の立場になる。
国民の85%は小沢氏の「政治とカネ」に疑惑を持っているとマスコミは報じている。
そういう世論なるもを背景に法的論理よりも情緒がまかり通った検察審査会の決定があった。
私はそういう情緒=政治に対する市民、国民の常識を以前の記事で具体的事例を挙げて検討した。
結論から言えば、日本人全体の政治経験がなさすぎる、浅すぎる、偏っている、ということになる。
実態をしらない、ともいえる。立ち入った経験がなければ、当然知識は他から与えられるしかない。
他から与えられた知識はずっと以前からのマスコミの政治に対する報道姿勢、よくいえば「政治哲学」である。
それが日本人の間に刷り込まれている。
だから、打てば響く鐘の様に共鳴する。
小沢さんとマスコミの相いれない関係が続いてきたのはマスコミの報道姿勢、「政治哲学」とは元々違うところが多かったからだ。(マスコミ幹部の基本思考について関心がないが、別の論考で批判する)
言い換えると、小沢さんの政治哲学と国民大半の政治意識にはかなりのかい離があるということだ。
このかい離を埋めることができた所に、国民政治家、小沢一郎の独自の世界、個性がある。
誰もまねのできない独自、個性あふれる世界に小沢さんがいるから、強烈な支持者が生まれる。
田中角栄は小沢さんほど理論家で無かった。
原理原則論に忠実になることは実は簡単凡庸。
それと庶民の世界を結びつけることに生きた政治の内実がある。しかも、単独で原則と現実の橋渡し作業をするのではなく、多くの仲間を引き連れてやらなくてはならない。
実は歴史上、本当に革命を成し遂げた革命家の苦闘もここにあった。理想と現実に具体的かけ橋をかける。
レーニンの著作にはその労苦の跡がありありと見受けられる。一般には知られていない。泥沼の中を這いつくばっても、どんなことがあっても、目的を達成しなければならないという執念にあふれる文章を残している。それらは短編、指示書、チラシのような文章だが簡潔でリアル、物凄い迫力があって読むモノを奮い立たせる。過激な言葉は連ねられていなくて国民の生活に根ざしている。議論のための議論で無い。
毛沢東も微に入り際に行った解りやすい運動論、軍事論を書き残している。しかもスケールが大きく天下国家民族歴史を語っている。
小沢さんには彼らに通じル政治体質があると、以前から気づいていて記事にしたことがある。
あれは衆院選勝利前のことだったと思う。
そこで小沢さんはトロッキーになるのではないかと危惧した。
管はスターリンで無いので当たらないが、やっている形式は同じだろう。
小沢一郎をネタに吹いたり、アジったりの傾向がある方が小沢さんの判断を狂わせてきたと思う。
庶民がそうするのは仕方がないが(私のようなケース?)(片隅でこっそりやるのがポリシー。2チャンネルも訪問したことは一度もない)(以前ザジャーナル投稿していたが、高野氏の見解に愛想を尽かしてやめた。アクセサリーになるにはまっぴら)
話題を戻すと。
小沢さんの「政治とカネ」はその困難な狭間で発生していると理解している。
具体的に大雑把にいえば、情報の独自収集、仲間の維持拡大、選挙活動、ということになる。
小選挙区制によって党の集権制が強まったのだから、そういうことは党が代行すればいいのではないかという意見が出てくると思うが、この領域の問題はそんな簡単な問題ではない。
もっと突き詰めて考える必要がある。
根源的にヒトとヒトの関係、人を動かす動機づけ。
説得、組織システムを主軸に人を動かすことの問題性に気づかなければならない。行動にカネの裏付けが伴わなければ、長い目と幅を持たせて考えてみると、陰陽の強制力が必然化する、説得、組織システムで動かない人間への排除が常態化する。
具体的には公明や共産のいわゆる組織政党を想べるといい。
日本ではああいう閉鎖的な組織政党が必然化し、それは日本社会を根本的に作り替えなければ是正不可能と考える。(先進国ではこの手の閉鎖的政党は死に絶えているが、ここがが強力な反「政治とカネの発信源」になっている)言い換えると自民や民主の様な個人後援会を中心とした非組織政党が政治の主流を形成できている幸運がある。今のところだけど。
>カネの伴った、カネの動機付けのある人間関係の普遍性、合理性、自由性を考えてみる。
この関係の発展が資本主義以前の商品経済発展から、資本主義に至った人類史でもある。
自然的合理的人間関係の連鎖の拡大がそこにある。
(なお、産業革命の様な画期的技術革新、資本の原始蓄積期の経済外的強制はここでは立ち入るスペースはないが、日本では日清戦争の賠償金が資本の原始蓄積になったと理解している。日本資本主義発展は内から原資を得たのではなく、海外侵略と先進国からの借款によって発展した)
政府、国家は予算執行によって国民経済を方向づける。これができるから、様々な事情のある国民を合理的に統合できる。カネで人を動かしているから、国民は精神的負担を少なくできる。自由が保障される。
が、過去の「社会主義」崩壊。資本主義の戦時経済。未熟資本主義。
その根本原因は指示指令通達、精神負担に国民統合、国民経済の多くを依存してきたところにある。
政党、政治派閥の運営にもこの原理は適応できるし、ボランティア活動にもあてはめることができる。
カネの裏打ちのない行為、精神的動員行為は一見美しいが、その幅の広がり、経年を考えると、強制と排除、支持するものとされるモノの不合理な関係の論理が働く。
今ではそこそこの規模のボランティア団体では有給の常駐者を置いている。そこに集うモノの活動にもできる限り金銭が支払われる場合が多い。
全国の非営利団体で働く有給職員、有給労働の大きなものになっている。
>>次にいわゆる霞が関永田町、マスコミの世界と国民のかい離という問題。
実際にこのかい離の埋め合わせをする機会は選挙の時か普段のマスコミ報道しかない。
選挙は数年に一回、それも期間が限られているから、実際のところ、日常的なマスコミ報道を通じてしか国民は情報を得ることができない。
マスコミ報道の中身が問われ、端的にいえば偏向報道ということになるが、国民側にそれで満足する需要があるから、漫然とした供給があるともいえる。
この関係でいえば国民側の意識が足りないからという結論に達しやすいが、そんな単純な問題かなと思う。
時間不足で結論を急ぎます。
日本の民衆の政治活動が国家権力の政治暴力によって封殺されてきたことに問題の根幹がある。
明治以来の用語でいえば、民権の確立は圧迫され、国権の確立ばかりだった。
普段から、個人、組織、団体の行動、言論が政治的監視下に置かれている。権力当局の決めた枠からはみ出すモノは徹底的、執拗に圧迫され政治の自由を奪われる。
しかも、その枠は時と場合によって彼らが勝手に調整できる。また彼らには報復主義というとんでもない傾向がある。
小沢さんを巡る事件もその端的な証明だ。
特捜検察にしてみたら、法を極端に解釈しても起訴できなかった案件を検察審査会とマスコミを操縦して今後も起訴できる仕組みを手に入れたことになる。
このことを、今後始まる裁判で裁判官がどう判断するか?
そこに、超越的な原理原則は存在していないと言って過言ではない。
司法の独立はないということである。
日本国憲法は巷ではずっと空文化し、権力への縛りになっていない。
法律は拡大解釈され適応される。もちろん非合法なこともする。
私の予測では裁判官は小沢さんに有罪判決を下すと思う。
裁判官の自立はない。今まで政治裁判で繰り返してきた姿勢を当てはめるだけだ。
政治裁判とは裁判官が法に基づかず、社会の空気によって強権を振るって政治的判断をするから政治裁判なのだ。
小沢裁判を裁判官の裁量に任してはならない。
元々、特殊政治裁判になるのだから、裁判所外の運動と連携しなければならない。
全部グルということだ。これが事実である。
仙谷氏は自衛隊を国家暴力と発言したが、そういう常識論を語るところが彼の限界である。国家論的観点から言えば、裁判所や検察の国家暴力装置としての本質を暴かなければならない。これらこそ、国民への日常的暴力支配機関である。同時に国民国家の一員であれば、これらへの共同幻想が生じる。
例えば、去年、牢獄に閉じ込められ懲役に処せられている鈴木宗男さん。
自衛隊によって拘束、懲役に処せられているのですか?
裁判所の判決によってだ。それに逆らえば暴力が加えられる。
自衛隊は関係ない。
仙谷氏の様な、言わずもがなのことは国家論では展開しない。だから彼は中途半パ。
国家とはひとつの階級が他の階級を支配する暴力装置であり、共同の幻想性を付与する。
弁護士も余程の関係が証明されない限り信じてはならない。彼らも国家暴力装置の一員である。
これが原則的立場である。
そういう前提に立って今後の小沢さんも支持者も考え行動する必要がある。幻想は持つべきでない。
踏み出す必要があるし、変わる必要がある。もちろん、左翼風になることでは全くない。
今までの政治的野心で現状にそぐわない部分をそぎ落とした方がいい、ということだ。
内外の客観情勢は否応なく小沢さんを必要とする。そこまで厳しいし、日本にハンドリングできる人物は存在しない。
民衆の自然発生的な政治行為はシンプルであり、行き過ぎ間違いは必然化するが、そこを撤退的にたたかれ監視圧迫されたら、その次元からの運動は発生の土壌を失う。
権力を日常的に行使しているモノはそのことを十分承知で、それを目標として活動している。
中国の民衆運動と当局の関係は他人事でない。
官僚政治は明治以来、存続してきたというが、官僚集団の切っ先の位置にある監視圧迫機関の活動も変わりはなかった。
人が自主的に集まれば公安警察がやってくる。そして主導するモノ、参加者の特定をする。
例えば、小沢さんへの弾圧はやめろというデモ。
数えたら、10名以上の耳にイヤホーンの人相目つきの最悪の公安、警備警察が出動していた。
やるならやるで、腕章ぐらいまいて身分をはっきりしろと言いたい。
超大人しく推移するデモにどうして監視の目が必要なのか!
それが彼らの日常的業務なのである。
日本では民衆運動レベルでそういう生の実態が連綿と続いてきた。
そうしなければ、国民の政治意識の向上はない。
政治家は認識するだけでなく行動するから政治家。
民衆もおなじだ。認識の輪の広がりだけでは限界があるし、その認識も力ずよく、結び合うものにならない。
政治は人が三人以上集まるところに発生する。集まれなければ政治はない。
イロイロな人が集まって、間違いも犯しつつ、前に進むのだ。