去年、阿修羅サイトで朝日新聞を若くして退職した記者のブログが紹介されていたのでアクセスしてみた。非常に長編の気合の入った手記が掲載されていた。どのくらい長編かというと、読むのが速い私でも3時間ぐらい食い入るように読んだ。読ませる記事で自分の内面を含めて丁寧に書かれていた。
書き出しは自分が「京都の片田舎の大学」時代からマスコミ記者志望の志を抱き、入社試験に備えていたころから始まっている。だから彼は朝日入社によって満願成就したのだ。こういう初心の様なものから書き起こしていることからもこの手記がいかに退職までに至った過程を丁寧に描写しているか解る。
ある種、私小説風なところがあり、ただで読ませるのはもったいないものだな、と感じた。
その元朝日記者の手記はプライドとして客観性を持たせようとしている所があった。俗っぽく言えば、辞職するモノの元の居場所の悪口を連ねている、とみられることを警戒していた。
私は読んでいて、このプライドが邪魔している部分が多いなと感じていた。
全編やっと読み終わって、他の記事を見ると、やっぱりなと納得した。余りいい仕事ができていなかった。
おそらく、退職後の彼の最大の仕事はブログの長編手記という皮肉な結果になっている。
従って、肝心の記事の内容は物凄く信頼できる朝日新聞社の内情暴露になる。
私が読み終わって、とっさに思ったのは、朝日新聞という会社は半官半民の様な会社だな、ということである。
年功序列型のポスト配分がある、当然賃金体系もそれに沿っている。
官僚組織のシステムを思い浮かべるといい。
志ある記者である彼はアメリカの大学留学さえしてスキルアップに励むが、そういう朝日の体質と折り合いがつきにくくなる。いい記事を書きたい。できるだけ独創的でありたいという彼と役人化した管理職の方針とは相いれなくなる。
下ったっぱの記者時代は記事を書くために猛烈に働く。が、ある年齢に達すると年功序列組織の中でうまく立ち回ることが優先されるようになる。大人しく上司の意見に逆らわず、その枠内で仕事をこなしていく処世術が自然と要求されるようになり、それのないモノはポストとしてやりがいのある第一線部署から外される。
入社時に高い基準で選別されているのだから変わりはいくらでもいるという理屈になる。
朝日の記者ならだれでも上から要求された水準の記事はかけるというわけである。
上司から問題を与えられる。
優等生を選抜している朝日記者は模範回答ができる。
決して、私の今書いているような下手な作文はしない。
ところが、自分で問題を見つけ出してきて自分で回答をしたい、この記者はいつしか組織の歯車の一員としての生き方に疑問を抱くようになって、遂にフリーを決意する。
要するに下っ端に時代は新聞記者を懸命にやっているが、時が過ぎていくに従って官僚の世界の様な組織内外の政治力が要求される。ペンの力、問題意識の中身は余り関係なくなる。
勿論、こういう組織体質は大企業ならどこでもある。
ところが、ここから先が朝日新聞の置かれた状況と違ってくる。
合併の理由。粗鋼生産の世界市場での競争に打ち勝つには企業規模を大きくするしかない。言い換えると結果的にリストラするということになる。
役所が特定の国内市場を様々な手段で保護し、その中の選ばれた大企業が競合していく、これが戦後日本の先進国に追い付け追い越せの古典的な経済システムだった。
ところが自由貿易、世界市場の一体化によって、そういう戦後官僚制資本主義は機能しなくなった。
マスコミ業界では昔から強烈なアメリカ当局批判はタブーなのは歴史的理由がある。
なおかつ新聞テレビラジオは言うに及ばず、スポーツ新聞まで全国的に系列化している。
インターネットがいくら普及しようが、日本の戦後史の中で形成されてきた余りにも大きな既得権がある限り、その地位を譲ることはないと彼らは思っている。
半官半民の様な会社に事実上なっていく必然性がある。時代が戦後日本が国として甘受してきた国際環境は冷戦崩壊、世界の多極化、世界市場形成によってなくなってしまった。今は新たにブロック化という問題も浮上してきている。
そういう内外環境の下、役人マスコミ企業は既得権は保持していても、構造的、思想的な保守的立場の足元がぐらついてくる。世界の変化の前に思想的立場を独自で思考し、選択できない。元々マスコミに集まる人間の本質には野次馬根性はあっても思想を深めようなんて了見はない。軽いのだし、優等生そのもの。環境が変われば、簡単に批判精神なるもは投げ捨てられ、強いモノに理屈をこねくり回してなびく本質がある。
人間は危機状態、緊張感の中で原始本能がむき出しになる。彼らは危機を認識する力はある。
先の記事で取り上げたように事大主義ということになる。自分の安全を勢力の強いモノに寄り添って守ってもらう。自分で考え、自分で行動する日本の小沢さんは彼らにとって危険分子。彼では不安でしょうがないのである。潜在意識の中にそういう感情がある。もちろん、既得権擁護の保守主義の彼らは小沢さんの様な所には寄り添ってこなかったし、既得権を脅かされる危険性も察知している。
マスコミ幹部の小沢嫌いは厚生省から天下って宮内庁長官のハゲタとかいう人と似ていると言って過言でない。
彼らは実質的にペンと口の達者な官僚なのだから。
そういう人間しか上に立てない仕組みになっている。
マスコミ幹部と小沢さんとの対立は根深い。
同時に多くの日本国民利害とも本質的に対立している。
内外情勢がそうさせているのだ。