反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

小沢一郎政治塾。講義45分。出版予定の日本改造論(続編)のアウトラインが凝縮されている。

 小沢一郎政治塾の最終講義。ネットでは「晴天とら日記」で音声だけ流されている。
深夜にざっと聞いただけで、今書いている、と断っておきたい。
 
 今の国会議員で小沢さんの今回の講演内容が多分最高峰なのだと思う。
よく、将来の日本の国家像を示せと報道されることがある。その意味で小沢さんの講義内容は現職の国会議員として精いっぱいの線を出している。
 
 あれ以上は無理。どうしてか?
 
政治家(住民)に日本を動かす権力が集中していないからだ。
 戦後の日本の「民主的」統治システムが形がい化し、利権癒着構造化している、と言い換えてもいい。
 
実務担当の国家官僚を含めた公務員、各種利権団体、大企業、マスコミ、おまけにそこに軍事を中核とするアメリカのネットワークまで絡まっている。権力が分散して政治家が裁量できる範囲は限られている。
 住んでいる世界が狭い、権力がたいしてないのだから、発想はその範囲にとどまる。
 
だから、これを語の真の意味でリストラする課題の設定は正しい。
 
 問題はその中身が住民多数の利益にかなうかどうかだ。
 
怪しい「改革」が住民を虜にする可能性がある。
小泉の形を変えた再来はグローバル資本の要請に培養されているので、形を変えていくらでも出てくる。
 
 この留意点は必要だが、戦後の統治システムの利権癒着集団化で身動きのとれなくなっている政治的上部構造を改革しようと、実力行使した結果、利権癒着集団総ぐるみの攻撃を受けているのが小沢一郎その人である。

 現在と将来の日本のため国民のため、実際に実力行使する事は並大抵のことでない。
 
国民多数は投票所にいっても、戦後の日本のたまたま置かれた状況が良かったため、眠りこけている。
日本人は戦後日本のたまたま置かれた環境がもたらした成功体験に今だ浸かっている。
 
それを振り向かせ、候補者の名を書かせ、多数派を形成することは綺麗事ではできない。
 以上の文脈でなければ、小沢さんの政治は理解できない。
 
 さて、今回の講演。
そういう小沢政治の生々しい現実の基礎となる従来の政治理念の展開に加えて、新たな状況を踏まえた小沢政治哲学のアウトラインを述べている。
 
 従来の小沢さんの主張、自立した個々人を基礎とした地域主権の民主的国家像。
これに加えて、日本人、古来の習俗、習慣に根ざした共生の思想を日本人が共有化し、日本の独自性として世界に発信していこう、としている。
 
 上記の論証を日本独自の歴史、宗教からキチンとしている所が理論を大切にする小沢さんらしい。
 
縄文から弥生時代への突然の転回の根拠を大陸からの渡来人200~300万という今や常識になってる歴史的事実に求めている。ここにおいて、日本論の出発点を狭い枠内に閉じ込めず、東アジアに解きはなっている。
 
次に聖徳太子の17条憲法の最後の条文、和をもって貴しとする、の説明として大和朝廷の権力拡大の基本はは武力制圧ではなく、政治的な融和だったとし、この点に日本人の共生感の原始を求める。
 
 それ以後の歴史を総括して彼は言う。
大陸と違って日本では権力者同士の血なまぐさい争いはあったが、一般人を大きく巻き込まなかった。
この延長線上に270年のパックス、トクガワーナの平和の時代に今の日本人の習俗習慣の原型が形作られたとする。
 
 以上を総括して日本は世界でも類を見ない平和で豊かな環境にあった、とする。
そいう長い歴史的経過の中で「和」を第一とする日本独特の感性がはぐくまれ、その一環として日本人の宗教観も他者排斥のキリスト、イスラムユダヤの様な一神教ではなく、多くの神々を受け入れる柔軟な土着的多神教が生まれた。
 
 冷戦終結後の世界のパンドラの箱を開けたような自国利益追求の混乱の中で世界の平和には日本人の「和」の心は大切なモノとなる。
 
 国連待機軍構想の様な国連重視の持論への二つの代表的な批判への反論は従来のモノだが、新たに打ち出したところがある。
 
 後進地域を中心とした海外民生支援の在り方。危険地域を含めた混乱地域へのボランティア体を張った住民に密着した支援活動を高く評価している点。
 
イメージ化すれば、本質的に他宗教拒否の一神教ではないイロイロなモノを受け入れ融合させて今日を築いてきた「和」の精神の備わった日本人ボランティアの住民への奉仕を日本の海外平和貢献の典型としている。
 
 ま、正直なところ書いていて、よくわからないところがある。
 
過去に「一人ひとりの自立へ」の批判があった。
 
私自身労働力商品は本来、集団的なものではなくて個別分散的、流動的、というところから論を立てていきたいと考えている。だから、未組織、個別分散し、資本の論理に翻弄されている所に労働力商品の本質を見る。
この状態を自立しているといえば自立している。孤立、貧困と言い換えてもいいが、そういう状態の個々人の労苦に自立感覚を認めないことは現状では間違いだと考える。
 
 また、その他の労働力市場においても、小沢さんの言われる自立した個々人はすでに労働力商品のできるだけ高い売り手を目指す行為の中に大部分は達成されてしまっているのではないか。それがあくまでも彼等流儀もモノであっても。
 
 そういう人々の巨大な塊に向けて、啓蒙したり、認識を改めよ!と解いたりする政治は効力を発揮してこなかったんじゃないか。共産党の政治なんかその典型。
 
だからこそ、小沢さん自身も原理原則を大衆化するため独自の政治力を発揮する必要があった。
それは啓蒙や認識改造運動ではなく、カネに裏打ちされた自身の政治マシーンを動かし、多数派を獲得する道だった。原理原則の多数派形成という意味で共産党ができないことを小沢さんはやっている。結果的に。
 
 それができるから小沢一郎小沢一郎であって、できなければ、単なる原理原則に喧しい保守政治家だろう。
 
小沢さんを失えば、原理原則の持つモノが多数派を形成することは終わる。
 
内外に向けた原理原則が日本政治になければ、多数派国民は衰退する。 
グローバル資本の盲動を放任する政治に終始する。今の全体の政治の流れがそうなっている。
重要な転換点だから、上から下まで混乱の中にある。
 
 どんな些細なことでもいい。足元を踏み固め、イロイロな方法で行動することが一番大切。
今が高度成長以来の最大の歴史的転換点であり、ここ数年の政治動向で日本及び日本人の行く末は決定されるとみている。
 一部のモノたちに決定権をゆだねてはならない。彼らに政治を任せると、多数派国民の生活は苦しくなり、自由、権利は狭まっていく。
 政権交代を支持したみんなの真価が問われている。