反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

工事、難易度Aの水棺(冷却循環)ができなくて、超A難易度の汚染水冷却循環がどうしてできるのか?教えてほしい。

 今日も引き続き、昨日の記事の一番の焦点について、書かなければならない。
もう書きたくなかったが、
 要約するとこういうことだ。
 
 前の収束工程の最大の眼目。「水棺」は水浸しだけで、冷温停止に持っていくことではない。
ダダ漏れ承知で新鮮水の注入しながら、冷温停止に持っていくことである。
ところが、事故から2カ月以上経って、すでに10万トンの汚染水が溜まっており、増え続ける汚染水の処理の見通しが立っていない。
 
 >新収束工程の建屋地下に溜まった汚染水の循環冷却装置設置工事。
 
字面だけ見たらもっともなようだが、立ち入って検討してみると、大変な難工事だと解る。
 
 水棺冷却循環の方がずっと工事としてはやりやすい。
だから最初、東電現場はその選択をした。
 汚染水循環冷却の方法を知らなかったわけでなく、両方俎上に載せて、検討の結果、比較的やりやすい水棺を選んだ。
 
 汚染水循環冷却は事故後、早い時期から原子力村の現場工事の実態に疎い学者馬鹿幹部も、いとも簡単な工事のように、語っていた。
 
 結局。現場にとってやりやすい工事は溜まる一方の膨大な汚染水処理の壁の前に挫折して、当初、超難工事と予測して断念していた汚染水循環冷却の道を選ばざる得なかった。
 
 チァイナシンドローム状態の進行に対処する現場自体が追い詰められている!
 
それを新工程表に作文すると、建屋地下に溜まった汚染水冷却循環によって冷温停止に持ち込むとなる。
 
 あくまで紙の上だけの処理に過ぎない。これを見て疑問に思わないのは現場工事の実態を知らないモノと自分を想った方がいい。
 
 この工事法を選択する事によって生じるリスクは多すぎる。
危険な建屋内に入りっきりの工事になる。万が一できたとしても、高濃度汚染水を炉内との間で循環させるということは、汚染水が濃縮するという事。
ろ過装置が必要。超高濃度汚染水は果たして、ろ過処理できるのか?
 とにかく被曝環境下での付帯工事も増えるし、工事の難易度が高すぎる。
 
 国家プロジェクトとして日本の総力を傾注して、やるしかないと想う。
また外国に応援を求めるしかない。
 
 当然、これをやりきるには管直人で良いのかというリアルな政治問題も浮上する。政権基盤は弱すぎて、難工事への国民の支持を取り付けられない。
 
 これから月日がたって、現場対応が追いつめられていくと、事情を知らない国民は焦り出す。
 
 イロイロ、あれこれやっても中途半端で結果が出ないと、
極度の不安、動揺が国民全体に蔓延し、今までの日本人だとハレーションを起こし、過激方向に走っていく。
 
 扇動者たちの受け皿があったら、あっという間に社会的空気は変わって政治局面全体を覆い尽くす。
 
 今の日本は戦後史を画するターニングポイントに立たされている。
 そうならないためにも、
事故当初からの責任を負っており、根強い不信感を払しょくできない管直人を取り換える選択肢が出てきた。
 
 しかし、従来の小沢熱烈支持者は自分の狭い論理が多数の国民の支持を得ていないという現実に気づくべきだ。
 狭い視野からの管直人攻撃は却って、彼に延命に口実を与える。
あなた方が稚拙に騒ぎたてることによって、管直人を延命させてい事実を知るべき。
直球だけではなく変化球も交えろ、といいたい。
 
 私の様な徹底した反権力の人間にさえ嫌悪感を植え付けている稚拙さを知るべきだ。信者ではだめだ。 
 
                                                   以上。
 
 >今朝はストレッチから筋トレを終えて、早朝ウォーキング。港を見下ろす大きな橋の階段171段を6回上がった。
 
 3、11を切っ掛けに、始めた早朝ストレッチ、筋トレは先ごろ、やり過ぎからか、首を痛めて4日休んだが、また再開し、早朝、ウォーキングを追加した。 
 昨年の夏も早朝ずっと歩き続けていた。
 
 今年の夏の甲子園高校野球は真夏の電力需要のピーク、1~3時を回避するため、AM9,30開始を高野連、主催者が決定したそうだ。
 
 中部電力圏以西の周波数サイクルは60。原発事故起による真夏のピーク時の電力需要への対応が心配されている東電を含む東日本圏の周波数50サイクルと違っており、事実上、電力は西から東に融通できない。
 
 また資本主義とは何ぞやという根本問題がある。
 
 被災していない西エリアの経済活動が自粛ムードの蔓延で委縮し、需要が停滞、減少すれば、トータルとして日本の需要が少なくなり経済停滞を引き起こす。日本は慢性的過剰資本、過剰生産状態である。大震災があってもこの現実は変わらない。震災特需を応援する国内需要があって経済政治全体が良い方に回っていく。
 
 結果、被災されている方々を救う資金が要る。両方、「病人」になったら、「病病」介護となって、共倒れの危険も出てくる。
 
 トップがムード的情緒的に動いたり発言したりするのは一時はいいが、継続していくと、碌な結果が生まれない。
 
 関東大震災以降の日本の歩みを持ち出すまでもなく、激甚災害後の集団ハレーっション状態の継続は国の進路を誤らせてきた。国民の多くは軟だから、トップが扇動すれば、残念ながらその気になってしまう。
 
 田中康夫さんは、自由報道協会の記者会見で関東大震災後の日本の歴史について、語っていた。
 
 震災直後、このブログで真っ先に取り上げたのは、そのことだった。
 
 尤も、歴史を戦前にまで遡らなくても、9,11ニューヨークを受けたブッシュのアメリカのカウボーイ的単独行動とそれによるアメリカの国際的権威の失墜や今に続くアラブ世界への侵略行為を見ればよく解る。
 
 高級?理論雑誌の巻頭論文で学者さんが激甚災害と革命の相関性を書いていたが、勘違いも甚だしい。
こじ付けだ。
 
 戦争と革命は繋がっているが、激甚災害と革命が連動したことはない。
戦争行為の中に革命の要素はあるし、革命の中に戦争があるが、激甚災害の中に革命の要素はない。
 
 モノ、ヒト、カネが自然の圧倒的猛威の前にズタズタにされている。それに対して被災者を先頭に共同体ができるとして、無理やり革命に結び付けているが、革命を共同体の問題にすり替えるのは、物凄く古い考えを再現している、事に気づいていない。
 
 さしづめ、ナロードニキということなんだけど、少なくともナロードにはロシアの農民ムジークの共同体が対象としてあった。
 
今の日本の人々はバラバラの最少単位に解体され、共同性を幻想する時はマスコミ媒体の宣伝扇動を中核としている現状。
 
 >しかし、民主党政権成立以降から今日までの事態の中で一部の人に確固として、理会できたのは、日本国家は誰のモノ、マスコミは誰のモノであるか、という事実だ。
これは、大変な実物教育だった。
政権交代はやはり良かった。
 
 この事実の中で小沢さんへの政治弾圧が生まれた。
 
 戦後、営々と形成されてきた利権癒着勢力にとって政権交代は自らの利権構造に揺るぎが出ることであり、それを押し進める実行力を持った小沢一郎は何としても葬り去らねばならなかった。
 
 私は小沢熱烈支持者には批判点もあるが、この一点だけは絶対に彼らと共通する。
小沢一郎への政治弾圧は絶対に許してはならない。
 
 政治闘争は力と力のリアルな戦いである。
この中であらゆる方途を使って、前に進んでいかなければ、多数派国民は支配層の餌食にされてしまう。
新帝国主義の時代とはそういう時代だ。牧歌的な過去の延長ではない。
 
 再度、云うことになるが、小沢熱烈支持者はストレートに自分たちの言い分を押し通すと、結果的に管直人を助ける、その程度の論理的幼稚さがあることに気づくべきだ。
 小沢一郎が政権を担当すれば、何でも解決する様な、極端にいえば、そういう気分が彼らにあると、誤解させるに十分な稚拙な言動がある。