反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

近代世界の転換の転換と家族の変動の論理 ヨーロッパとアジア 落合恵子。個人主義なき個人化。家族主義的であるからこそ、脱家族化して個人化が起こる。半圧縮近代の<個人化>と<親密性の変容>

 W.コピーブロックがかかっていた論文で、試みたが解除はできず、打ち込みになった。アップして問題なかろう。時間の都合上、省略箇所多し。全文はネットPDFに載っている。

 なおWの個人的意見としては、近代(現代、ポスト現代)この歴史時間を何と表現しようが、

>歴史は一種の<地山地殻とまではいわないがに似たようなもので各々の地域国別の差異は超えることができない。

グローバル化へのリアクションという意味で逆に国民政治的特色がでてくるのではないか。西ヨーロッパ政治は移民問題が目の前の出来事になっているのでカラッと政治地図や様相が変わってきている国々があるが、日本はまだそこまで到達していない。ただし、北朝鮮、中国の将来如何の所がある。

 しかし決定論ではダメで、政府の政策と国民の政治選択、(公共圏議会圏、運動圏のありかた)によって、よりましな方向付けはできる

>それが中曽根政権を頂点とした1980年代に明後日の方向に後退した政策を実施した付けが後回しにされ停滞の20年を準備したということだ。

だが当時の政局の焦点は戦後の総決算、国鉄民営化、

経済は労働の雑巾絞りと生産現場の改善で有頂天の真っ盛りに向かっていたが、

この学者さんのような視点からの政策提言とそれを実行に移す政治勢力があったのかどうか。

右翼が一概にダメと決めつける立場ではないが(もちろんいわゆる左翼も)、

*やっぱり右翼に政権を任せていたらドツボをこしらえてしまうという教訓必要なのだと思う。今目の前のアベ等の政策を見ていてつくづく思う。

北西ヨーロッパの政策や諸々は一つの良き指標であるが、そこまでの生きた歴史過程の差異がどこにあったのかが問題になるこれをやるのが歴史家の大きな仕事の一つ違うかな。

 下段の論文にあるような若者世界はいかがなものか。

養殖ハマチみたいな世界、としかいいようがない。

またまた白井聡になるが、奴隷は奴隷である自分を知ることによって奴隷になる。

息苦しさを感じていてもスパルタカスの反乱なんかまったく別世界。反俗日記で取り上げたシールズ青年には共感できた。自己の置かれたリアル状況の現場で戦った。国会前デモの次の実存をかけた根源的戦いだった。

 よく読んでみると、こういったくだらない下衆の世界に対しては論の立てようがないとわかる。だから結論は灰色、うやむやになっている。

>だが、それが実際の世間というものなんだろう。

これをいくら連鎖させてもヨーロッパやアメリカなどの云う社会には総和しない、ただの世間の連鎖に過ぎない。

そこでの庶民レベルに流通する情報は世間の評判であり社会批評ではない。

情報は編集され選別されて流されている。

日本の政治は世間の評判を奪い合う政治+世襲政治である。

だったら、地山部分である世襲政治が小選挙区制のドント方式の盲点をついて上手(うわて)になる。世襲政治に何の疑問も抱かないものが、北朝鮮3代支配者を嗤えるか?

この差異は程度の問題。歴史の問題にすぎない。よく言われるように戦前日本がそこにある。

      「昭和枯れすすき」
山田孝雄作詞・むつひろし作曲

貧しさに負けた
いえ 世間に負けた
この街も追われた
いっそきれいに死のうか
力の限り 生きたから
未練などないわ
花さえも咲かぬ 二人は枯れすすき

踏まれても耐えた
そう 傷つきながら
淋しさをかみしめ
夢を持とうと話した
幸せなんて 望まぬが
人並みでいたい
流れ星見つめ 二人は枯れすすき

この俺を捨てろ
なぜ こんなに好きよ
死ぬ時は一緒と
あの日決めたじゃないのよ
世間の風に 冷たさに
こみあげる涙
苦しみに耐える 二人は枯れすすき

W。カリカチュアライズとは、

人や事物の欠点や弱点などをおもしろおかしく誇張、単純化して、風刺的に表現すること。 戯画化、パロディ化。 風刺画や戯画を表す英語の「caricature」に、動詞化を表す「ize」を加えたもので、造語の和製英語である。

山田孝雄 (作詞家) - Wikipedia

「1973年、昭和枯れすすきTBSの人気ドラマ「時間ですよ」の挿入歌として話題となり、ミリオンセラーを記録。」

時間ですよ - Wikipedia

「主演は森光子。他には、堺正章や悠木千帆らが出演。天地真理浅田美代子らの出世作にもなった。
久世光彦が演出、プロデューサーを務めた。また、女湯シーンの女性エキストラ達のセミヌードが売り物の一つであった。」

経緯

1965年7月4日に東芝日曜劇場で、単発ドラマとして『時間ですよ』が放送された(脚本:橋田壽賀子、演出:橋本信也、出演:十七代目中村勘三郎、森光子、中原ひとみ)。この、銭湯を舞台にした人情ドラマが好評であったため、5年後に連続ドラマ化されることになった。なお、連続ドラマ化の企画段階では『セントウ開始』いうタイトルだった。
 初期に脚本を手がけた橋田壽賀子が第3回をもって降板したのは

久世光彦が脚本にアドリブのシーンを入れるなど、橋田が思った通りの話を書けなかったからだという(週刊朝日」2009年5月の林真理子との対談より)。橋田はその後もTBSで多くの作品を手がけたが、久世とはそれ以後、一度も口を利くことがなかった。」

W.橋田寿賀子は松竹大船の時代に入社し脚本家の修業をしたので作風に流れるのは小津安二郎を頂点とする松竹大船調の高級市民社会的人情噺。

ところが、1973年当時は、時代状況が風俗的政治激動の時代の名残りと田中角栄の列島改造による狂乱物価という高度経済成長期最末期の時代であり、橋田的高級市民社会の人情噺は時代状況にマッチしなかった。

橋田にとって「女湯シーンの女性エキストラ達のセミヌードが売り物の一つであった。」などということは許せなかった。

その後、70年代後半の第二次オイルショック以降、農村から都市部、田舎から都会への人口流動状況が鎮静化し橋田的市民社会風景が定着しドラマの風景は受け入れられるようになった。それが「渡る世間は鬼ばかり」の安定市民社会の人情の機微であり、基本パターンは同じ松竹大船出身の山田洋二の「ふうてん虎次郎。」と同次元である。そこに流れるのはドラマの結果見え見え、善人ばかりの安定感である。

挿入歌である昭和枯れすすきの歌詞が漫画化戯画化されたのは当時の時代状況が一生懸命働けばそれなりの生活が成り立ち、将来もなんとなく楽観できた時代だからこそである。

今ほど社会経済システムは堅牢ではなく中堅層は終身雇用で安泰、しかしその下からの上昇も一生懸命働けば夢ではなかった。公的扶助も上昇意欲を掻き立てる所にシフトしていてその成功経験が政策決定者にインプットされた。

~そして80年代の成功につながり、その自信が政策の誤りとなって~その付けが失われた20年に至った。

 しかしいずれにしてもこの歌詞の云う世間は漫画化戯画化されているが、高度経済成長の激動の時代に底流に潜むが堅牢であり(ラジカル社会文化運動だけが世間を変える起動力を帯びていたが、犠牲を払った政治風俗に終わり、文化伝統まで貫けなかった。家族帝国主義に負けた。)社会経済システムが安定すると自民党長期政権の保守右翼的政策もあって、社会の表層を浮上した。「渡る世間に鬼ばかり」とは世間の縛りが表面化し社会が後退し世間知の勝利を意味する。世間の後押しする自民党世襲議員率は上昇した。

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 近代世界の転換と家族の変動の論理 ヨーロッパとアジア 落合恵子

東アジアの近年の人口学的情況を検討するると~結婚と出産をつなぐ規範は健在であり、結婚制度そのものが揺らいでいるとは言えない。
ヨーロッパの個人化の中核をなす<制度化した個人主義が成立したとは言えない
このトリッキーな状況を個人主義なき個人化>と呼んでいる。

福祉国家弱い韓国では個人に保護を与えてくれる唯一の社会的資源は家族だから韓国人のはみな家族主義である。
韓国や台湾では1987年1998年のアジア通貨危機を契機に離婚率が急上昇し出生率は日本を下回る状況まで低下した。
経済状況悪化の中で人々は自分にリスクをもたらしかねないものとして結婚出産を回避したのである。
日本でも<リスクとしての家族>の傾向がある。
家族主義的であるからこそ、脱家族化して個人化が起こる、という逆説情況を東アジアは共有しているようだ。
近代家族が終焉して個人化の時代が将来したというような時代区分ができないのが東アジアの情況ではなかろうか。

アジア通貨危機があり失われた10年が20年になり貧困が社会問題になり、イデオロギー的には保守化傾向が明白になった。
*それから10年日本はなぜ欧米と同じ道をたどらなかったのかに関心を向けてきた。
日本型ジェンダーへの変化を押しとどめた要因半圧縮近代であることの人口学的条件の欧米とのずれと、その条件の違いを読み間違った政策決定にあると考える。

80年代にいると長期不況に陥った欧米をしり目に経済的繁栄の頂点にあった自信を背景に
日本経営論のように日本型システムの優秀性を強調するような議論がもてはやされ、60年代に成立した日本システムの独自性を固定するような政策が実行された

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←W。身の程知らず。こういうのを有頂天という。

 日本の政治家、官僚、マスコミ報道などは徹底的に疑ってかかるべし!

最も東アジア東端、付加体列島の原住民性は日本語を使う黄色人種、日本国民である限り自分も含めて消すことはできない宿痾。

もちろんそれでいいこともあるし不都合なこともある、と客観視しなければならないが、世間が苦手で激動を好むWには苦痛でしかなかった。

 小林秀雄は云っている。

歴史的視線は遠くのほうはよく見えるが近づけば近づくほど見えなくなる。

過去の解釈は比較的簡単。判断し難いのは目の前の大事と将来

もっとも過去の解釈がクルッテいるから現状や将来の認識がずれてくる

過去データ情報、現状データ情報、予想、投機するという競馬予想と同じ手順手法をWは常に意識し、そのつもりで反俗日記を作成している。

 アベ等の政治経済政策が、落合恵子が述べるがごとく、我々に解りやすい形で評価が下されるのは、少なくとも東京五輪終了から2年後の2022年以降であろう

 白井聡(Wもずっと前から東京五輪後の結果に注目!と主張してきた。金融緩和のリセッションはあるがアベ等はそれも読みこみ済み。いうところの利益確定作業に入っている。つけをかぶるのは庶民。それもわかっていてやってる。食い逃げってことだ。→1868年明治維新W和暦廃止せよ!)第二次世界戦争敗北(1945年)明治維新からたった77年。短期間に世界屈指の~米英の次日本。それでも不満爆発海軍青年将校、こいつらどこまで馬鹿だったのか!民需と軍需、国民経済力=総力戦の時代状況ぐらい解っていただろうに!日本中心イデオロギーが目を曇らせた。一部が解っていても止められないコレが政治経済の不思議なところだ。だから分析が成り立つ。

東京五輪後2022年=1945年敗戦から77年後

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ジェンダーに関しては第3号被保険者など主婦の立場を強化する強化する仕組みが次々と作られ既婚女性の就労を抑制する効果をもたらした。→W。この件こそまさに近視眼的に主婦の立場に利益供与し第3号被保険者資格の収入上限により家庭内女はアルバイトパートにとどめる)付けをフルタイムで働く女性に背負わせた一番きつい思いをしたのは働くシングルマザーだった。典型的な自民党保守主義の愚策。

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  引用に戻る

しかし、人口学的条件に目を向けると半圧縮近代の日本では高齢化開始が遅く、ヨーロッパ諸国が高齢化すよおうになった1980年代に日本は人口学的条件を保っていた
>1980年代の日本経済的優位は少なくとも部分的には人口学的には欧米諸国との人口学的違いによっていた。
*客観的違いを看過して文化的自信に基づいて
*時代錯誤の政策を選択した付けは
*90年以降の失われた20年となって思い知らされることとなった。
80年代再強化された60年代システムが変化する社会への対応を遅らせた。
>ここで注意を向けておきたいのが日本社会の伝統ではなかった<男性稼ぎ主、女性主婦>型の性別分業
>1980年代政策決定の過程では日本文化の根差した伝統のように扱われていることである。

1、世界から見た近代家族論
    2、近代の転換と家族変動
 人口転換のち出生率が置換水準程度に保たれほとんどの男女が家族を持ち2,3人の子供を持つ近代家族システムの時代がしばらく続いた。
 しかし、1960年代の北西ヨーロッパを皮切りに再び出生率の低下が始まった
しかし今回は人口の置換水準を下回る低下であることが前回の低下と違うことだった。並行して離婚率の上昇、結婚制度によらない同棲の増加が始まり、婚外子として生まれる新生児も増加した。
当初は短期的変化と思われたこの変化は、人口転換と同様に不可逆な変化と考えられるようになり、第2次人口転換と呼ばれるようになった。

<個人化>と<親密性の変容>という第二の近代化の特徴は第2次人口転換期の帰結である。
結婚するかどうかはもはや制度の問題ではなくライフスタイルの選択の問題にといわれライフコースの多様化が再び始まった。
社会の基礎単位は家族ではなく個人となった。近代家族システムはここに終焉した。

再度引用

「東アジアの近年の人口学的情況を検討するると~結婚と出産をつなぐ規範は健在であり、結婚制度そのものが揺らいでいるとは言えない。
ヨーロッパの個人化の中核をなす<制度化した個人主義>が成立したとは言えない。
このトリッキーな状況を<個人主義なき個人化>と呼んでいる。」

 

        3、アジア近代の論理
      1)圧縮近代と半圧縮近代
<第1の出生率の低下>、~ヨーロッパ1880年代から1930年代
東アジアは1960年代から1980年代 約半世紀の開きがある
日本はヨーロッパと東アジアの中間、1950年代に第1の出生率の低下。

(第1の酒精率の低下、日本はよー立派に遅れること約20年)~東アジア30年~50年

 これに対して
<第2の出生率の低下>
ヨーロッパは1960年代末から
日本では1970年代半ばから まずか数年の違いしかない
>すなわち<第1の出生率の低下>と<第2の出生率の低下>との間隔ヨーロッパでは約半世紀あったが
>日本では20年に短縮されている。

>後発国の近代化はただ遅れて起こるのではない。

経済的社会的あるいは文化的変化が、時間空間の両方に関して極端に凝縮されておこる。(W。日本映画黄金時代の成瀬巳喜男の名画には戦前と戦後、高度経済成長前の社会文化の共存が見事に表出されいる。)

 

      2)家族主義近代化
イ、出生率の低下  
ロ、婚姻に関する指標 

その1 離婚率の上昇、婚姻率低下、初婚年齢上昇 欧米と同じ 生涯独身率は日本では明か、欧米でも同じ兆候

ニ、婚姻に関する指標 

その2、同棲率の増加と婚外出生率の増加はほとんど起きていないのが欧米との大きな違いである
    
      3)近代家族の伝統化
      
      4)グローバル化する家族 
 日本以外の東アジア社会はある意味日本とは異なる道を歩み始めている。
日本以上に<圧縮された近代>を達成したこれらの社会は安定した第1の近代化を形成することがないまま近代の次の局面に突入することになった結果が家族のグローバル化である。
>家族社会学者たちは2000年代になると中国、台湾、韓国、タイ、シンガポール、日本の比較調査に乗り出した。
*そこで発見したのはこれらの社会の家族は日本よりもはるかに多様で強力なネットワークに支えられているということだった。
中でも特筆すべきは外国籍の家事労働者が重要な役割を果たしているということだった。
 これらの社会が外国人家事労働者を受け入れるようになった背景には圧縮された近代化がある。
伝統社会では世界の多くの国々が家事労働者を雇っていたがヨーロッパでは20世紀初め日本では1960年代初めにこの習慣は消滅した。
①女性の雇用機会の増加による家事労働者の成りての減少
②プライバシーを重視する近代家族が誕生したからである。
*これに対してアジア諸国は同国人の家事労働者がまだ存在しているうちに
あるいはまだ記憶は薄れないうちに外国籍の家事労働者の受け入れが始まった。
これらの社会はプライバシーの観念がまだ強くなっていなかったために家族に他人を入れることに抵抗が少なかったともいわれる。

   
4、ヨーロッパ近代の行方
  1)世界システムと第2の近代
  
       2)家族の復権
 家族の復権はヨーロッパ諸国でも見られる。
      
   第1のタイプ
 ポスト社会主義圏の中東欧の国々の再伝統化である。
多くの移行期社会では社会主義時代に整備した保育制度を縮減し女性を家庭に返して育児責任を負わせようとしている政策がとられている。
現在のハンガリー理想とする家族100年前の中産階級に酷似しているという。
農民家族をモデルにした三世代同居の拡大家族のイメージがそこに混ぜ合わされて理想化されているのだが
典型的な<伝統の創造>←(W。キーワード)である。
  <空虚な個人化>の仮説
ハンガリーの人々は社会主義時代から個人化していた。
ただしそれは個人主義に裏打ちされていたポジティブな個人化ではなく周囲の人々に対する疑心暗鬼による連帯の創出でやむなくそうしてきたのだという。    
アノミーであり疎外である。
そのような状況では<家族の連帯>に対して相反する影響を与える。
 一つは疎外された世界からの避難所としての家族内での成員間の相互依存を高めるという影響。  
 もう一つは家族成員間の緊張を高めてしまうという影響。
東アジアの家族について述べているような<家族主義>と<リスク回避的個人化>よく似た状況がポスト社会主義社会に生まれているようだ。

  第2のタイプを象徴しているのは北欧諸国における婚姻率の上昇である。
結婚しなくてもほとんど不利益のない制度が整った北欧諸国において人々がなぜ結婚するのか不思議だが、
結婚がすでに抑圧的拘束的制度でなくなったために人々は気軽に結婚するのだと解釈している。
30代40代の節目に結婚率が上昇するのは結婚が記念行事のようなものになったからだろう。
その証拠に結婚式のドレスやパティーが派手になっているというのである。
人々は家族を持つことを避けなくなってもよくなったということだろうか。
>その意味でこの状況は個人主義家族化>と呼ぶことができるかもしれない。

  第3のタイプの家族の復権新自由主義>や<第3の道>といった福祉の削減の流れの中で家族やコミュティーの役割が強調されたことである。
ヨーロッパでは家族親族コミュニティーは混然一体となって機能している。
とりわけ経済階層が低い地域ではコミュニティーに住む祖父母や近隣住民が重要な育児サポートを提供していることが明らかになっている。

第3のタイプの家族の復権福祉国家が後退して親族やコミュニティーが活性化してヨーロッパがアジアに近づいたかと思わせる。
 しかし違いもある。
ヨーロッパの家族やコミュニティーの相互扶助は、多くの場合様々な公的扶助を受けながら行われている。
コミュニティで活動するNGOへの補助も削減されたとはいえ続いている。
北欧西欧の国では施設保育も整った環境のもとで祖父母が育児にかかわっているのである。
 両親が祖父母の育児援助に満足している度合いは南欧よりも北欧のほうが高いというのである。

>このように同じ家族の復権といっても、
第2の近代化を経て<家族の多様化><個人化>を前提制度作りの進んだ北西欧地域と
家族に大きな責任を負わせる東アジアや南欧及び中東欧の移行期地域では意味が異なる。
*いずれの社会においても
人口高齢化が明らかなのだから家族に過度の負担をかける方向に進めば
<家族主義的個人化>が起きて家族は解体し、社会は持続可能性を失ってしまうだろう。
*経済成長を緩めた高齢社会は人類のたどり着く約束の地である。
*その条件に適合した個人と社会の在り方をノシタルジアに負けず模索していきたい。

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 現代社会の「個人化」と親密性の変容――個の代替不可能性と共同体の行方―― 小田亮 

W。言葉は悪いが要するに養殖ハマチなのかな?

    1.はじめに
「1980年代以前の社会ではまだ、個人化とそれによるリスクは社会の「液状化」をもたらしてはいなかった。

「自分の生活を自分で選択する」

といっても、ある程度の段階で振り分けがなされ、自分に振り分けられた職業は一生のものであり、生活はある程度安定していた。

つまり、選択の結果がある程度は見えていたのである。

しかし、現在においては、学歴があっても先が見えないし、会社も家庭もこの先何が起こるかわからないという「不確実性」「不安定性」が生活全般を侵している。

*新資本主義による資本の再編成は、

労働力を最大限にフレキシブルにしようとし(採算の合わない部門から合う部門への労働力の絶え間ない移動と、労働力の非正規社員化)←W労働力の内部市場などというリクルーターの分類もいある。それに対して外部市場は企業外の労働市場

、絶え間ない自己選択を人びとに迫ると同時に、

ネオ・リベラリズム時代の現在では、「自分で選択した結果は自分で責任を負う」という「自己責任」の価値観によって、リスクはますます大きくなっている。

 そのために、「個人化」が生活のあらゆる局面で推し進められていると同時に、人びとの間の持続的な関係の形成が困難になっている。

しかし、そのような状況においても、人びとが他者との親密な「つながり」や趣味のサークルや自助グループなどの「中間集団」での関係を求めていることもたしかだろう。

 また、ネオ・リベラリズムには、個人の自己責任という価値規範とともに、ナショナリズムおよび家族主義の価値規範が付随しているが、これも、持続的で安定した関係の喪失の代償として国家や家族への帰属を求めているといえるだろう。
 本稿では、持続的な関係の形成が困難になった現代社会において、人びとがどのような関係を作っているのかを、「親密圏の変容」「私のかけがえのなさ(個の代替不可能性)」という観点から見ていき、その問題点のありかを人類学的に考察してみたい。」

    2.「若者の変貌」と親密圏の変容
社会学者の土井隆義は、現代の子どもたちの「自己」のあり方の変貌、裏を返せば、他者との関係の取り方が変貌しており、それは「親密圏の変容」と捉えられるという。

土井は、その本の中で、現代の10代の若者たちが、友だちや家族との関係からなる親密圏では、その関係を維持するために高度に気を遣って、互いに「装った自分の表現」をしあっている一方で、

公共圏にいる人間に対しては無関心で、一方的に「素の自分の表出」をしていると指摘している。」

 土井は、井田真木子の『十四歳』(1998年、講談社)のなかの18歳の少女の「親友」についての次のような言葉を引用している。

「言いたいことがあっても、どう言ったらいいかわからないし、わかっているのは、個人的な奥の奥まで触れられたら、あっというまに逃げてしまって、それまでの親友関係、全部壊れてしまうってことだけなんです」。

土井は、従来までは、親密な関係とは、気の許せる関係であり、演技など必要なく、関係が壊れてしまうのではないかという恐れなしに安心して「素の自分」を出せる関係だったが、いまの子どもたちにとっては、その関係が、演技しあわなければお互いの関係が破綻するのではないかとつねに怖れるような関係に変質したという。


 そして、土井は、電車の中などの公共の空間で、自分の欲望の趣くままにふるまう、たとえば携帯電話で喚声をあげながら会話する人とか、制服から私服に着替えたり化粧したりする少女など、その同じ場所に居合わせている他者が意味ある存在ではなく、風景の一部となっているようなふるまいは、

>親密圏での関係を維持するのに気とエネルギーを使いはたして、それ以外では使えなくなっていることに由来するという仮説を出している

すなわち、「昨今の日本の若者たちは、私たち大人から見れば異常なほどお互いに配慮しあわないと、関係の維持が困難だと感じているようです。

そのため、親密圏の人間関係のマネージメントに際してもきわめて莫大なエネルギーを注ぎ込んでいるようです。

だとすれば、公共圏の第三者に対しては逆にまったくの無関心であり、意味ある他者として感受されていないというもう片方の事実は、親密圏において、彼らがもてるエネルギーのすべてを使い果たしていることの表れだといえないでしょうか。

親密圏の人間関係の維持運営だけで完全に疲弊して、その外部にいる人間に対しては、もはや気を回すだけの余裕がないのです」[土井 2004:15]と述べている。」

「ウチの世界」での「マナー」に神経を遣うマナー神経症の時代になったという。

そしてその変化は、近代の初めに遡る。  W?意味不明

                    ↓

すなわち、近代になって、移動の自由など、社会が流動化して、いままで疑うことのなかった「ウチの世界」のルールや価値観があたりまえのものではなくなってきて、「ウチの世界」が崩壊の危機を迎えて、それを防ぐために「ウチの世界」のルールが厳しくなった結果、掟破りといわれて「村八分」に遭わないように「ウチの世界」の人びとの「目」をこれまで以上に気遣うことになった。そのために、「ウチ」が気詰まりになった結果、「ソト」で気遣いせずにふるまいたいという欲望が強くなったというのである[森 2005:49-50]。
そして、森は、現代社会で、その欲望がますます強くなってきたのは、仲間集団や家族までも利益社会化ゲゼルシャフト化)してきているからだという

友達などとの仲間集団も家族も「楽しさ」だけを共有する、求心力の弱い集団になってきているからこそ、結びつき自体を維持する努力をしないと解体する恐れがあるというわけである。

たとえば、家族について、森はつぎのようにいう。「かつての継承家族は、経営体として存続するためにメンバー同士が結びつくのはあたりまえでした。それに対して、現代家族はメンバー同士の結びつきはあたりまえではありません。

たとえ血縁という紐帯があっても、数多くある選択肢のひとつにすぎないのです

ですから、結びつき自体をつくり出す努力をしないとバラバラに解体するリスクがあるのです」[森 2005:102]。

補足すれば、近代以前の家業をもつ継承家族は、経営体であり、その経営のために役割分業も決まっていたし、家父長が強い権限をもっていたのも、企業の経営者と同じように、経営体の長としての役割だったし、そのような経営体としての家には使用人など、血縁関係のない者もメンバーにいたのである。

 しかし、労働や生産の場ではなく、消費の場となった現代家族では、そのような上下関係を含む役割関係の根拠が希薄になっている。

そして、家族の機能である消費と再生産(子育て)も、外部にアウトソーシングすることが可能になり結びつきの根拠は、家族は愛し合わなければならないという新しい規範による「愛情」や「楽しさ」になったというわけである。
>家族ですらそうなっているのだから

>それ以上に結びつきの根拠の希薄な仲間集団はもっと維持することが難しくなっているといえるだろう。

森は、父と母の仲が悪くなり、自分もかなりきつくなったけど、ウチのことだから友だちにも話すこともできなかったという少女のインタヴューのビデオを学生たちに見せて、「私なら自分のつらさを話せない相手を『友人』とは呼ばないけれども、みんなはどうか? 

なぜ『友人』に自分のつらい気持ちや悩みを相談できないのだろうか?」と訊ねてみたという。

その結果は、多くの学生たちが「『友人』だからこそ悩みを相談することはない」と回答し、

その理由として、「身内の恥をさらすようなものだから」

「相手が相談内容をバラしてうわさの対象になってしまうから」

「相談しても問題が解決されるわけではないので、無駄だから」

「友人といる時間は楽しくすごしたいので、相談なんかしてその場の雰囲気を暗くしたくないから」、

「相談したら、相手が自分より一段上の立場になり、対等な関係が持てなくなるから」

「相手に重荷を背負わすことになるかもしれないから」などといったことを挙げたという。

森は、学生たちが挙げた理由について、友人であってもかなり不信感を持っていること、上下関係や相手への負担といったことを避け、楽しく対等な関係を維持しようとしていることがうかがえるとしている[森 2005:106-107]。
>つまり、結びつく根拠が希薄となった現代の仲間集団や家族のような親密圏の結びつきは、上下関係や負担などを伴う役割関係をそこに持ち込むだけで、壊れてしまうような不安定さをもっており、その不安定さを解消するために、仲間内に関心を集中させるとともに、そのソトには関心を遮断してしまうというわけである。
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     3.関係の選択化と自己の多元化
「[現代の子供たちは]ホンネのいっぱい詰まった単一アイデンティティ型の熱っぽいコミュニケーションよりも、軽さと洒落っ気に満ちた軽佻浮薄のウソのコミュニケーションを楽しむ。なぜなら真実の自己にのっとった誠実で真摯なコミュニケーションは人間を固定化してしまうのに対し、演技的・遊戯的なコミュニケーションはいかようにも変化する多様な自己(山崎正和の言葉を借りるなら「柔らかい個人」)を許容し、誠実という名の非寛容におちこむことを救ってくれるからである。
>それは多極化した人間の生き方を開示しつつある都市文明のひとつの帰結である。
子供たちは正義や誠実といった固い内容で他人と深く関わり合いを持つことを慎重に避ける。

熱っぽい“血と汗と涙”のコミュニケーションで丸ごと他人と関わってしまうのではなく、

つねに“どれも本当でない自分”という断片を他人とのすきまに配置し暑苦しく閉鎖的な人間関係になることを慎重に避ける、

そうすることでドグマやイデオロギーや欲望に振りまわされることを回避しようとする。[川本 1988:43-44]。」

      5.「自分らしさ」から離れた「個のかけがえのなさ」へ
物質的には飽和状態になったにもかかわらず、新しい商品を購入させつづけなければならない企業は、「自分をステップ・アップせよ」とか「いまの自分のままでいいのか」というメッセージを絶えず流していなければならない。
>消費社会では「個性」や「自分らしさ」は購入したモノによって表現されるが、個性神話や「自分らしさ」の価値も、自分の趣味や感覚といった移ろいやすい刹那的なものを基準にして際限なくモノを消費する/させるための価値観となっている。
そして、モノを購入するように自由に「自分らしい生活」を選択できたとしても(モノと同じくお金がなければ自由に選択できないのだが)、メディアで流される他者の選択のほうがよく見えたりするし、

モノの消費と同じように、その選択には「終わり」がなく、どこまでも満足は得られないということになる。

つまり、消費社会における「自分らしさ」を表現するためのライフスタイルの「個人化」にはリスクがあるというわけだ。

ネオ・リベラリズム時代の新資本主義による労働力のフレキシブル化と「自己選択」「自己責任」という価値観に適応するためのスキルであることも、また見やすい。
浅野ものちには、現代の若者たちのつながり方(すなわち、繊細な「やさしさ」による〈選択的コミットメント〉)について、いくつかの「欠点」もあると述べ、「容易に排除に反転することがある」、

「つながりを維持することが若者たちにとって荷が重い仕事となっている」、

「仲間内の過剰な敏感さが、その外にいる人びとに対する冷淡で無関心な態度の裏表になっている」、

「関係が多元化しているというわりには、意外に狭く同質的である」、

「ネオ・リベラリズム的な資本の再編成に適応するためのスキルにすぎない」といった批判を挙げている。
むしろその繊細さをより肯定的な方向へ展開しうるように支援することの方がはるかに実り多くはないだろうか」と述べている。

けれども、「繊細さをより肯定的な方向へ展開する」というのは、その仲間内での繊細さこそが外部ないしは公共圏への冷淡さや無関心の原因だとする土井や森への反論にはならないだろう。
「自分らしさ」や「個性」や「キャラ」といったボスとモダン的な価値も、

自律的な個人といったモダン的な価値

~(その両者は対立するように見えるけれども)、フレキシブルな自己として絶えず自律的に(すなわち他者との関係ぬきで)自己選択を行う一方で、自律的な個人としてその結果を自己責任として負うことのできる個人という、~新資本主義に適った個人を形成するためのものでしかない。

ポイントは、人びとが与えられた状況を生き抜くために行っている自己の多元化や断片化やフレキシブル化が、「超越的な他者による空虚な自己の充填」や「自分らしさや個性を追求することでかえって自己を見失う」ことにならないような、他者とつながりうる自己の継続的な起点を見出すことにあるだろう。
>その多元化・断片化されていながらも、安定した自己の起点となるのが、〈顔〉のある関係性において見出される「私のかけがえのなさ=代替不可能性」である。
繊細さをより肯定的な方向へ展開する」というポストモダン的方向か、あるいは「自律的な個人を確立する」というモダン的方向かという二者択一の2つの方向へと分裂している理由は、

ゲマインシャフトゲゼルシャフト、あるいは情緒的な全人格的関係と役割的関係との二元論という社会学的思考に囚われていることと、
>「個性」や「自分らしさ」ということと「自分のかけがえのなさ」や「個の代替不可能性」ということとを混同してしまっていることにあるのではないか。

        6.おわりに
ネオ・リベラリズムでは、個人の自己責任とともにナショナリズムや家族の価値を同時に強調するということを指摘した。個人の自己責任の強調は「個人化」にともなうものである。
「個人化」による不安とネオ・リベラリズムナショナリズムの結びつきを説明してはくれるが、「個人化」が直接にナショナリズムと結びついていることを説明し切れていない。つまり、現代のナショナリズムは、集団主義的なナショナリズムというより、個人の価値を絶対視する「個人化」によるナショナリズムという点を捉えきれていないため、ネオ・リベラリズム時代のナショナリズムグローバル化や社会の液状化による不安からくる、集団主義ナショナリズムへの回帰という「反動」と捉えてしまっている。

そして、その捉え方に含まれる、グローバル化と新資本主義それ自体が国家を解体していくのだから、ナショナリズムの強化は一時的な反動に終わり、いずれ消えていくという見通しは現実によってすでに裏切られているだろう
ネイション以前の想像の共同体が「個々それぞれ独自に、無限定に伸縮自在な親族関係や主従関係のネットワークとして想像された」のに対して、

ネイションは、そのような具体的な関係のネットワークなしに

無媒介にネイション全体と個人とを結びつけるような想像のスタイルによって創られているということなのである。

>このように個々の具体的な関係のネットワークという媒介なしに想像される共同体というものは、

>実は、近代の「個人化」と方向が同じである

つまり、周囲の人々との顔のある関係なしにネイションと無媒介に結び付けられる想像のスタイルは、個人化と軌を一にしているのである。

そして、それは、周囲の人々との顔のある関係の価値を低下していくものであって

個が浮遊しながら周囲との関係といった「しがらみ」から自由に自己決定していく営みと、ナショナリズムとは矛盾するどころか親和性があるのである。

W.いったん浮遊し柵から抜け出して国家の共同政治幻想に合体する。その共同政治幻想はグローバル資本制の媒体が主導する。丸山真男の描き出した個人が国民になる想像作業に類似している。国家とは暴力装置であると同時に共同政治幻想の産物である。

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   引用に戻る

>その「自由」の代償が、そのような顔のある関係から生じる「個のかけがえのなさ」を否定しまうこと、そして、自分という個が結びつく全体であるネイションを排他的なものにしてしまうことなのである。

  W.言っていること理解不能
現代社会の「個人化」は、一方では共同体のしがらみからの「自由」を意味していたが、その自由の価値は、共同体というものを情緒的で全人格的関係からなっているとする、オリエンタリズム的な二元論によって支えられたものだった。そして、「個人化」は、他方では、個の代替不可能性と根源的な偶然性を否定し、それゆえに、「私のかけがえのなさ」と「他者との連帯・共感」を犠牲にしてきた。
そのようなリベラリズムの自由への解放の物語が、新資本主義によるポストモダニズムの体制化とともに、色あせてきた現代にあって、リベラリズムは、ネオ・リベラリズムとともに体制内で「個人化」を推し進めるものとなりつつある。

ポストモダニズムが固定化された近代を資本主義の力によって解体しようとしていたものであったのに対して、

>それは、国家権力によってシステムを改革しようというものとなっている。

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  W。こういう時代状況は1930年代に近似しているが歴史環境が全く異なっている。

以上の問題意識の説明の仕方は時代状況を存在論的に提出しただけであり、学者の仕事はそこを深堀することじゃないのか。

 システムを改革できるだけの力が備わっている強大な権限権力集中型の国家機構であれば、これを奪取し解体再編するという単純素朴な19世紀末ロシア人民の意志党のような政治戦略が現実味を帯びるのじゃないか。

 もっとわかりやすくいえば何はともあれ政権を取って、政策を打ったら何とかなるという政治幻想。

民主党政権に上り詰める政治過程、政権の政治、対国家機構への戦いは具体的に振り返ってみる必要がある。

またこの時期のリーマンショック世界恐慌的事態や福島原発事故状況(ショックドクトリンがあった)、中国船尖閣拿捕事案(政治技術の未熟性があった)など具体的な経済政治状況を加味して教訓とすべきである。

>そうしないと今の野党共闘などは中身が伴わないことになる。

 私見で言えば、周回遅れの野党の政党に対する率直な批判はある。

今頃共闘って?

政党利益の犠牲を払う時期はもっと前にあったはずで、議会圏政党としては時代の流れに対して鈍感すぎるし、決断が遅すぎる。これでは悪い意味での保守政党そのものだ。根強い批判があるのは当たり前と考える。

大昔もそうだったし今も変わらない(もっとも無関心だったからよくは知らないが)。ある意味日本一の保守政党である。上意下達の権威主義的内部関係も古すぎる。あまりにも知らな過ぎたからビックした。

そのような体質の政党に世の中を変える起動力はない。

自分の政治テリトリーに入ってきた者だけを応援する、

これでは広がりと情況突破力ははぐくまれない、潰される

自己変革しなければらならない。それで共闘なんじゃないか。なし崩し的転換はどうかな?