W。反俗日記 2019年11月28日付
「1986年日米半導体交渉の結果、日本企業は市場占有率を維持するため、韓国企業に技術供与をし、1990年代には台湾企業に技術提供した結果、現地企業は強大化し市場において日本企業をはるかに凌駕するようになった。~~日本限定の経済と政治の自然の流れ違うかな?企業のカネもうけ指向は無政府的欲求レベルなのだからこのような動向を押しとどめるのは統制経済しかありえない。
>同じ次元の事態が螺旋的に繰り返されていると思うが米中貿易摩擦の行方はどうなるか?
米国側は香港、新疆ウイグル、北朝鮮などを政治焦点化して揺さぶりをかけているようだが、
W。問題意識その1。
USAが中国との間に80年代中期のプラザ合意受諾の日本のような事態に持ちこめるかどうか。」
W。問題意識その2。
すべての政治問題の根源は国家権力の問題である。
民主党政権に至る政治過程で小沢一郎が掲げた政権を取るという大目標、方向付けは正しい。山本太郎も同じ意匠ではあるが政治センスない。政治家、政党次元でどうこうではなく庶民も肝に銘じたほうが身のためだ。なぜならば引用部分の、国家と経済の関係の事実があるからだ。
************************************
真昼の盗人のように~ポストヒューマニティ時代の権力~
スラボォイ、ジジェク
引用
「中国のマルクス主義的な社会理論が描こうとしている世界情勢は簡単に言えば、冷戦時代の世界情勢と基本的に同じである。
資本主義と社会主義の戦いは世界規模で弱まることなく続いている。
そのため、今日敵対する二大勢力はUSAと依然として社会主義国である中国なのだ。
中国における資本主義の急速な発展は初期ソビエト連邦で言われていた<新経済政策W。新経済政策/ネップ/NEP>の記念碑的な事例とも蒸されている。それゆえ今の中国に存在するのは、新型の「中国的特徴を持った社会主義」であるのだが~
>つまり共産党は権力の座にとどまり市場の力を厳しく管理支配しているのである。
>この見地に立てば、過去数十年間の中国の経済的成功は、資本主義の潜在的生産力を証明するものではなく、資本主義に対する社会主義の優位を証明するものと解釈される。」
~~
「我々は次のような中国の立場に真理の一面があることを認めねばならない。
この上なく野蛮な資本主義の中にあってさえ、だれが国家装置を管理するかが重要なのである、という立場に。
古典的マルクス主義(新自由主義イデオロギーは両者とも、国家を資本の再生産という要求に従う二次的なメカニズムに還元する傾向にある。
コレによって両者は経済的プロセスにおける国家装置の積極的な役割を過小評価する。
今日我々は資本主義を国家を操る(悪い大きな狼)として物神化すべきでない。
国家装置は経済プロセスの中核において活動しており資本の再生産に関する法的及びそのほかの(教育的、エコロジー的)条件を単に保証するだけでなく、それ以上のことをしている。
国家は、実に様々な形態をとりながら経済行為主体そのものとして活動する。(国家は破産寸前の銀行を救済し選ばれた産業を支援し、防衛装置やそのほかの軍事設備を食中する)
例えば今日の合州国では、生産の約50%に国家が介在しているのだ。
>100年前は、生産における国家介入の割合は5%~10%であった。
マルク主主義者は国家<社会主義>からこの教訓を学ぶべきだった。
国家<社会主義>において、国家は経済的な行為主体及び統制者であったし、またそれゆえにそれが何であれ、資本家階級なき国家であったからだ。←W?資本家階級の支持が国家社会主義の重要な要素であった。
~実際には、あるしゅのマルクス主義的な分析家は、国家<社会主義>をせつめいするために「国家資本主義」という胡散臭い用語を使うけれども←W。たしかにいくら読んでもピンとこなかった。
だが階級としての資本家のいない資本主義国家がありうるのだとすれば、資本家家が経済において重要な役割を果たす非資本主義的な国家は、どの程度想像可能であろうか。
>中国モデルは明らかに不適当であるが~それは社会的不平等の爆発的拡大と強大な権威主義的国家との結合である。
(←W。中国はスターリン主義党専制資本主義体制かな?その党が資本主義拡大再生産過程に不可避となる社会的不平等に対する調整機能を政策において権力行使において回避傾向にあり、生産力発展第一主義であれば、被搾取階層の労働と生活は人権レベルの問題になる。この場合、党と官僚、経営者が資本家階層を事実上形成しているので資本家がいないことはない。むしろ上意下達の指示系統(トップダウン)で合理化されている。ただし、機構維持費がかさむ。内をまとめるために外敵必要。)
だからといって、社会生活の諸領域において資本主義的な要素に訴えかける強力な非資本主義的国家の可能性をアプリオリに排除すべきではない。
資本主義の要素を限定的に許容しつつも資本の論理が社会の全体性を重層的に決定する原理になることは許さないことは、可能なのだ。
~~
根本的な問題は、国家をどう扱うか、ということなのだ。国家の外部に社会というものを想像できるだろうか。我々はこうした問題に直ちに対処しなければならない。
将来の解決を待って、それまでは国家から安全な距離を取っている、そんな暇はないのだ。
チャベスとマドゥロの代わりとなる本物のラディカルな政治を行うベネズエラの左翼はなぜ存在しなかったのか。
チャベスに反対する際の主導権は、なぜ極右の手に渡ったのか。
~意気揚々と反チャベス闘争の主導権を握り、我々こそはチャベスの経済政策の失敗によって苦しむ民衆の声でであると主張する極右の手に~←W。チャベスは急進的すぎたもっと穏健やり方があった、という政治潮流が世界中に存在している。戦うべきでなかったと。
~W。チャベス批判。汚職、ベネズエラの天然資源をもって国際企業と取引し資本主義と妥協した。と著者は挙げた後、
では政府は何をなすべきだったのか。
W.ボリビアの穏健改革。モラレス大統領、リネラ福大統領はチャベスのような過ちを避けた。
2019年11月11日 BBCニュース
ボリビア大統領が辞任、不正選挙の指摘受け やり直し選挙へ - BBCニュース
モラレス大統領が辞任、メキシコとベネズエラは同氏を擁護(中南米、ボリビア) | ビジネス短信 - ジェトロ
>だがこの二人はベネズエラに比べてより穏健で民主主義的な形の政治の枠内にとどまる以上のことをしたのか。
*この行き詰まりを打開するためには、
>おそらくその第一段階として、進歩への執着を捨て代わりに
<置き去りにされた人たち>~神々がそして市場が置き去りにした人たちに目を向けるべきである。
~取り残された人々という問題である。
コレはありがちなことだが神自身は<資本>の声に耳を傾けたように思われる。
>だから、<取り残された人々>という問題は、グローバル資本主義における今日の経済苦境と関係があるのだ。
>難民の一部にもなれず自国の混乱から抜け出せなかった人々だけがまさに<取り残された>者なのではないか。
>本当の難民はヨーロッパに住むことを望んでいない。彼らは母国で、不自由なく暮らすことを望んでいる。
西洋の列強はこの望みをかなえる代わりにこの問題を<人道的危機>として取り扱う。コレによって列強は、難民を受け入れ当事者である下層階級の人々との間で疑似文化的な敵対関係を設けるのであり。この時両者は、政治的経済的闘争を「文明の衝突」的な闘争へと変容させる軋轢の中に置かれてしまう。難民に対して単純でロマンチックな空想を抱くべきではない。
~
難民は本国国民のうち比較的野心的な人々、成功への意志を持った人々である。そして真のプロレタリアートはむしろ、本国にとどまりそこによそ者として取り残された(「残り物」神に引き取られない断絶されたものといったありったけの宗教的意思を帯びた)ひとびとのことなのだ。
>グローバル資本主義の趨勢とは、われわれの80%が<取り残された者>になるということである。
第3回連載に続く
***********************************
参考資料 資料を探していると興味深いブログ記事を見つけたので。時間を見つけてじっくりと閲覧させていただく。資料も満載だった。面食らうほどだが。頑張っておられる。大したものだ。