真昼の盗人のように~ポストヒューマニティ時代の権力~ スラボォイ、ジジェク
W。以下、納得のいかない論理の飛躍が突如出現する。
1917年10月ロシア社会民主労働党多数派(ボリシエビキ)の10月ペテルブルグ武装蜂起100周年に当たる今、シジックは突如、<普遍的な>大衆蜂起<特殊な>政治組織そして10月武装蜂起の際のレーニンの決断(二重権力状況<憲法制定会議と労働者兵士評議会>の混乱は革命側の勝利か反革命側の勝利にしか行きつくしかなくその状況を解消するには今こそ武装蜂起をという党内多数派を説得しての政治決断>と軍事革命委員会を主導したトロツキーの指示したクーデターの技術を取り上げ次のように指摘する。
引用
「これはレーニンにとって、遠い将来に向けた理論的なプロジェクトではなかった。
1917年10月彼は「我々は2千万といわずとも1千万の人々からなる国家装置をすぐにでも作動させられる」と主張したのである。
>この作動の瞬間の持つ推進力こそ真のユートピアである。(下線強調シジック)
われわれはレーニン的ユートピアの(厳密な意味でのキェルケゴール的意味での)狂気を手放してはならない。
スターリン主義はそれと違い、どちらかといえば、現実主義的な常識(コモンセンス)への回帰を現している。
しかし、10月のその時のレーニンは
引用
「頑なに主張するレーニン(W。二重権力状態における一斉武装蜂起の機会を逃したら反革命に敗北する)は、自分の党の<中央委員会>の多数派から嘲笑され孤立していた。しかしながらレーニン個人の介入が必要だったとはいえ、10月革命の物語を分別のない大衆に直面しながらも徐々に自分のヴィジョンをこの対象に押し付けていった孤独な天才の物語に変えるべきではない。
>レーニンが成功を収めたのは、彼が主張が党の幹部を迂回して革命のマイクロポリテックスと呼んでみたいものと共鳴したからであった。
>革命のマイクロポリテックスとは要するに、草の根の民主主義が、すなわちロシアの大都市周辺で突如現れ、「正当な」政府の権威を無視しながら自分で事を運ぶ地方委員会が、驚異的、爆発的にに広がったことである。
コレは今まで語られなかった10月革命の物語であり、理想に燃えた冷酷な革命家からなる小グループがクーデターを成し遂げた、という神話の裏面である。」
またシジックは10月革命の軍事革命委員会を主導したトロツキーのクーデターの技術に注目する。
引用
「その活動の中心は、バリケードで、警察や軍と対峙することではないのである。トロキーの真の新しさは~国や市の政府機関の技術部門を攻撃することに決めたことである。」
「彼にとって暴動は技術の問題に過ぎなかった。」
~以下詳しい内容はシッジク 「真昼の盗人のように」P173~P177参照。
W。云わんとすることは理解できるが納得はできないのは、日本的思考と今のリアル状況に釘付けになって精神の自由空間が確保されていないこともある。
まず足元の状況を理解し、精神を解放する必要がある。
美術の教科書などで見たサルバトールダリのこの絵やムンクのこの絵がこれほどリアルに感じ取られるとは思わなかった。昔、見たときは上手い絵だが奇をてらっているとしか思えなかった。
しかし、昔、美術館に通っているうちに抽象絵画に魅かれるようになった。一つの絵画はある状況のすべてを含み語れるのだ。抽象絵画には包摂力と発信があり胸に迫ってくる。
そしてダリの絵を想いだしたとき、その世界は真実だと感服した。ムンクの絵もしかり。もう一つの心象風景とまさに現実を描いたリアリズムなんだと。
<記憶の固執。
小説の散文が描き上げた世界にもそういう力がある。太宰治のあまり知られていない小説をたまたま青空文庫で見つけたとき、小説家とは何かを知った思いがした。自分の弱み欠陥、間違いの自覚をあそこまでぬけぬけとさらけだせる太宰治は才能はもちろんだが強い人である。売文が先行して彼をそうさせたのか、いずれにしても日本的な人ではある。命を懸けるまでした軌跡への突き詰め方が足りていない。
安岡章太郎の「海辺の光景」は自分のモチーフになっている。何か変だ。あまたの説明、解説よりも一編のリアルな私小説が認識を決定づけるとは。
それと魯迅「阿Q正伝」も身につまされる。そういった読み方をしなければならなかったのだ。
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あいまいな日本の私 - 大江健三郎「あいまいな日本の私」に見る、戦後の引き受け方 - シミルボン
引用
「大江健三郎「あいまいな日本の私」に見る、戦後の引き受け方
このスピーチは、奇妙なことに、川端康成への参照が行われている。
「日本語の作家として、初めてこの場所に立った川端康成は、『美しい日本の私』という講演をしました。それはきわめて美しく、またきわめてあいまいな(ヴェイグ)ものでありました。(……)」
禅僧の詩について「ただこちらが自己放棄して、閉じた言葉のなかに参入するよりほか、それを近いする、あるいは共感することはできないはずの禅の歌。/どうして川端は、このような歌を、それも日本語のまま、ストックホルムの聴衆の前で朗読することをしたのでしょう?」
「さて、正直にいえば、私は二十六年前にこの場所に立った同国人に対してより、七十一年前にほぼ私と同年で賞を受けたアイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イェーツに、魂の親近を感じています」
川端康成「美しい日本の私」(1968)との対峙
引用
「「美しい日本の私」は日本の美をアピールしまくっている。
具体的に出てくるものを挙げれば、
道元、禅、西行、雪月花、自然の美、良寛、『雪国』、芥川龍之介の自殺、太宰治、一休さん、茶道、書、禅問答、さとり、日本庭園、枯山水、花道、やきもの、『伊勢物語』、『源氏物語』、『枕草子』、もののあはれ、『新古今集』、『古今集』
である。
時代も種類も違うものを「日本の美」をして、いっしょくたにするのは、結構無理があるような気がする。だが、日本人なり日本の美なりとぼくらが言うときに、往々にして犯しがちな無理である。これらがいっしょくたになって、自身の作品に流れ込んでいるという見方を川端は提示する。
無理は無理だが、西洋の価値観が支配的だった時代に、「日本の価値観」をアピールして理解させなければという必死さがなかなか胸に来る部分もある。←W。なぜ日本代表選手?になってしまうの?一個人としての意見はないのか。日本で文学活動をしていた時に日本をしょっていなかったはずだ。いつごろから日本VS世界を意識しだしたのか?
『私の作品を虚無と言ふ評家がありますが、西洋流のニヒリズムといふ言葉はあてはまりません。心の根本がちがふと思っています。道元の四季の歌も「本来ノ面目」と題されてをりますが、四季の美を歌ひながら、実は強く禅に通じたものでせう。』
と言って締める。
「禅」と言えば、なんとなく東洋の神秘的な感じがしてしまって煙に撒かれるようなところが今でもあるが、この文章もそんなような気がしてくる。
大江は、そこを批判している。「あいまい」で「神秘的」で「閉じた」日本の美学を川端が提示したことを批判しているのだ。
代わりに、開いた像を大江は提示する。
外国の作品の引用
マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』(アメリカ、グレートアメリカンノベルと呼ばれている)
セルマ・ラーゲルレーヴ『ニルス・ホーゲルソンの不思議な旅』(スウェーデン)
川端康成「美しい日本の私」(日本)
ウィリアム・バトラー・イェーツ(アイルランド)
ウィリアム・ブレイク(イギリス)
日本近代の文学において、
もっとも自覚的で、かつ誠実だった「戦後文学者」(日本)
W・H・オーデン(イギリス→アメリカ→オーストリア)
ジョージ・オーウェル(イギリス。『1984年』が有名)
フランス・ルネサンス文学と思想の研究者、渡辺一夫 - Wikipedia
W。参考資料。ドナルド・キーン『日本人の戦争 作家の日記を読む』
引用
「僕がとくに興味を持ったのはあまり多くは引用されていなかったが、内田百の『東京焼盡』と渡辺一夫の『敗戦日記』で、機会があれば読んでみたい。
最後に平野啓一郎との対談が載っていて、安部公房がアメリカ人からチーズをもらって、食べて、「あ、これは日本人でも喜ぶだろう」と言ったという話をキーンが紹介している。日本人は自分が日本民族を代表すると思いがちである、と。
たしかにそのような傾向は自分にもあると思って、考えさせられた。
例えば僕などはこの『日本人の戦争』を読むと、戦争はいけない、とか、言論統制はよくない、などと思うわけだが、いまの日本にはそのように思っていない人がわりといる(らしい)。で、僕には、戦争に反対しない人がいるということがよく理解できない。
これなども自分が日本を代表すると思いがちの例だろう。
自分とは全く異なる考えの人がいるという、多様性を理解することはひとつの課題だろう。←W。それはグローバリズムのイデオロギーなのではないかという疑問がわいてきている。反移民の対極が多様性容認であったが、問題が激化するにつれて包摂、普遍性への統合の積極性でしかしか状況をいい方向に変える道がないと。」
W。参考資料 渡辺一夫の『敗戦日記』を読む
W.なかなか読み応えのある長文。後で検討する。
フランソワ・ラブレー(フランス)
金芝河(韓国)
鄭義、莫言(中国)
クリストフ・ニーロップ(デンマーク)
バッハ(ドイツ)
モーツァルト(ドイツ)
大江光(日本)
「敵国アメリカの文章を、戦時中に読み、その影響を受けるような「文学共同体」や「開かれた国である日本」の強調こそが、川端の日本像を更新するべく大江が行った戦いである。←W。大江健三郎の村上春樹批判の根底には日本と世界の二元論がある。村上春樹を無国籍文学と批判する。村上春樹世代の文化のトップランナーはもうすでに日本を超えたところに己の世界を構築していた。
川端が、「日本の美の純粋さ」を謳い上げたとしたら、大江は、「日本の雑多さ」を現わしているのだ。」
戦争、近代化、引き裂かれた日本(ambiguousであるがvagueではない)
「もはや、日本は、自然と神秘の東洋に安穏としてはいられない。戦争がそれを許さない。戦後、科学技術によって知られる国家として生まれ変わったこともまた、それを許さない。この、戦争とテクノロジーで倫理的にも美的にも宗教的にも精神的にも荒廃した戦後の日本を引き受ける。その上で、文学にできる「癒し」を考える。それが、大江が文学で行おうとしていることである。」
ユマニスムとは何か。・・・簡潔に教えて下さい
ベストアンサーに選ばれた回答
「ヒューマニズムの語源となった言葉であると思います。
中世期のヨーロッパでは、教会が政治権力を掌握し、「教皇の無誤謬性」によって、哲学をはじめ、人間のあらゆる思考を統制していました。ガリレオが地動説を唱えてとき、その考えは教会が認めている天動説とは違うから、異端者であるとして、破門しました。←W。Aカミユはガリレオにとって地動説は破門されても説を唱え続けなかったのだから自らの命を懸けて守るべきものではなかったとしている。哲学の根本問題は生きるか死ぬか、である。
ルネッサンス期になって、人間復興が叫ばれ、宗教の束縛から逃れる意識が芽生えました。やがて、ルターやカルバンが宗教改革に乗り出し、その運動が先鋭化して、旧教と新教は血なまぐさい戦いをするようになりました。エラスムスをはじめとしたユマニストと呼ばれる人々は、旧教側にも新教側にもつかず、「寛容」を説き、人間の思想の自由を主張したのです。この考えはやがて、フランス革命やアメリカ独立にも影響を与えていったと思われます。」
『私は(…)小説家である自分の仕事が、言葉によって表現する者と、その受容者とを、個人の、時代の痛苦からともに恢復させ、それぞれの魂の傷を癒すものとなることをねがっています。(…)その痛みと傷から癒され、恢復することをなによりもとめて、私は文学的な努力を続けてきました。
それは、日本語を共有する同朋たちへの、同じ方向づけの祈念を表現する作業でもありました。(p16)
(引用者註、知的障害を持った息子の作った曲について)しかもその泣き叫ぶ暗い魂の声は美しく、言葉としてそれを表現する行為が、それ自体で、かれの暗い悲しみのかたまりを癒し、恢復させていることもあきらかなのです。(…)芸術の不思議な治癒力について、それを信じる根拠を、私はそこに見いだします。(p17)
そして私は、なおよく検証できてはいないものであれ、この信条にのっとって、二十世紀がテクノロジーと交通の怪物的な発展のうちに積み重ねた被害を、できるものなら、ひ弱い私みずからの身を以て、鈍痛で受けとめ、とくの世界の周縁にある者として、そこから展望しうる、人類の全体の癒しと和解に、どのようなディーセントかつユマニスト的な貢献がなしうるものかを、探りたいとねがっているのです。(p17)』
引用
「ひ弱い私みずからの身を以て、鈍痛で受けとめ」という言葉は、何度読んでも沁みる。先にほんの少しだけ触れた、ユマニズムの文学観がここで生きている(「私の文学の根本的なスタイルが、個人的な具体性に出発して、それを社会、国家、世界につなごうとするものなのです」p3)。←W。演繹法ではなく帰納法。やっぱりそうなのかなぁ~。論理的なものより感覚的なものを自分の纏めとしてしまう。個別状況を突き詰めると全体に到達できることもありその際、獲得した全体像は確固として記憶に残る。
国家や政治や科学のようなデカい何かではなく、弱い一個人の身体のレベルで考えること、人間のレベルで考えること、その上で、世界全体の「意味」を捉え、かつ、「想像力の方向付け」や「人類全体の癒しと和解」への貢献を探ること。
それは簡単な道ではない。不可能ではないかとも思う。
核兵器や原子力と戦う一個人、というものを想像してみればいい。勝てそうに思えない。最初から絶望するだろう。
>しかし、そう考えないという想像力を持つ自由はある。
勝てないかもしれない巨大な敵に、それでも戦いを挑む自由はある。結果を事前に決め付けないような柔軟な想像力を持つ自由はある。」
もう一度、人間に戻って!
引用
「大江はこのように書いている。
「私はしばしば嘆息するように、この叫び声を繰り返してきたと思います。Je suis nouveau un homme!」
「Je suis nouveau un homme!」、すなわち、「もう一度、人間に戻って!」
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引用
「エピステーメーとは、ギリシア語のドクサに対比された「真の知識」を表す言葉で、知が活動するための、基盤や土台のことをいう。知が活動西欧の近代社会の成立過程を批判的に考察し、権力が知識に結びつき、人間の思考を無意識の内に支配する知の構造が形成されることを解明した。
中世ルネサンス、古典主義の時代(17~18世紀)、近代以上4つの時代において、知のエピステーメーは、中世からルネサンスまでは「類似」を特質とし、古典主義時代には「同一性と差異性」に基づき、数学のように理性による比較分析が行われ、近代に入り、「人間の誕生」が見られたという。こうした考察から人間は無意識のうちにその時代や社会の支配的な知の構造に規制されていることが結論づけられた。
ある文化のある時点においては常にただひとつのエピステーメーがあるにすぎず、それがあらゆる知の可能性の条件を規定する。それが一個の理論として明示される知であろうと、実践のうちにひそかに投資される知であろうと、このことに変わりは無い。 」
近代社会
引用
「フーコーは近代批判を行う。近代社会は、学校・軍隊・工場・病院・裁判所・監獄などの制度や施設を通じて、人びとを一つの社会規範に落とし込める。規制や監視し、無意識的に規範に服従することをつくりあげ、そこから逸脱されたものを狂気として排除する。このことは真理などの知性も例外では無く、知性は社会の権力構造によって型にはめられ、権力に逆らったものは非真理として否定される。
フーコーは、このような人間の内面的意識を拘束する社会の規範構造を明らかにすることによって、それにとらわれた自我を解放し、自由に思考する知性をそなえた真の自己を回復しようとした。」
狂気
引用
「フーコーによれば、狂気と理性、異常と正常の区別は歴史的過程の結果として生まれるとした。狂気そのものはなく、社会を支配する権力と結びついた知識が正当とされ、そこからはずれたものは、狂気と認定されるにすぎない。中世においては、狂気は社会で通用している知識や政治への批判の源泉とみなされ、一定の社会的な位置を認められていたが、近代社会の成立とともに学校・工場・裁判所・監獄の制度ができると、一転、狂気とされて排除された。このようにしてフーコーは、「理性」「主体」などの西欧近代の既成的な概念を脱中心化していく。 」
『狂気の歴史』
「『狂気の歴史』(1961年)、近代における(狂気)という概念の成立過程を明らかにし、理性と狂気の区別が、歴史的過程から生まれることを明らかにした。近代社会の成立と共に理性的な社会規範が人びとを規制し、その裏で社会規範からはずれた異質な者は、非理性的な〈狂気の人〉として排除された。この書によりフーコーは脚光を浴びるようになる。」
『言葉と物』
「『言葉と物』(1966年)、ルネサンスから近代までの学問の歴史を分析した。この書物の出版から構造主義の代表者と見なされるようになった。人間が主体となって歴史をつくるという人間中心主義に疑問を投げかけ、歴史をそれ固有の存在としてとらえ、現在の諸問題への関心をもとに、歴史を現在とのかかわりに従って系譜学として叙述されるべきものだとした。 」
『知の考古学』
「『知の考古学』(1969)が出版されたが、構造主義から離れて権力論問題にいく。以降、『監獄の誕生』や『性の歴史』もまた権力の問題について書かれた。 」
『監獄の誕生』
「『監獄の誕生』(1975年)、近代以前の社会では、犯罪者には公開の場で鞭打ちなどの体刑が行われたが、近代からは、監獄がつくられて、犯罪者は身体を拘束されて精神を矯正される。監獄に収容された人間は、常に監視され、権力に従順な身体であることを強要される。その象徴的な例として、ベンサムが考案した一人の監視者が多くの囚人を見張ることのできるパノプティコン(一望監視施設)があげられる。近代社会は、軍隊・監獄・学校・工場・病院などの組織によって、人間の身体を訓練して個人を規律化・規格化し、権力に従順なものにつくりかえる。 」
『性の歴史』
「西欧の近代社会においては、支配的な知と権力の枠組みの中で、すべての人に規範的に強制される規格が<主体>とされるが、古代ギリシアやローマでは、自己を統制・訓練し、自己抑制によって適度に快楽を楽しみ、人生に美や倫理の価値を与える自己の主人が<主体>とされる。」
『はたして自分は、いつもの思索ととは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるために不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ』(『性の歴史』)
『哲学(哲学の活動、という意味での)が、思索の思索自体への批判作業でないとするならば、今日、哲学とはいったい何であろうか。
自分がすでに知っていることを正当化するかわりに、別の方法で思索することが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば、哲学とは何であろうか?』
(『性の歴史』)