何の脈絡もなくふと頭に浮かんできた。最弱者なんだと。それをすっ飛ばして、腰が引けていた。それを理屈で代替えした。
安岡章太郎「海辺の景色」、太宰治「姨捨」、サルバトールダリ<記憶の固執>、ムンク<叫び>。反革命である。黙って野垂れ死にしない。Wは革命をやる。そのためには戦うべき現場が必要。
2019年、部屋の模様替えをしているとマジックで書き記して画用紙が2枚見つかった。
内容は昨年暮れから新年にかけてのトラブル対処の結論と同じ論調だった。
ということは、2019年同じ否定形の姿勢で対処してきたことになる。
「2019年になって変わった」、と言われたことが何度かあった。
Wの手術、身近な<老、認>介護の悲惨な事件を教訓化する過程(死者のほとんどは今風野垂れ死に、という総括は間違っていないが、その現実に抵抗すべきなのにWは反対側に向かっていた)で当初の理念は顧みられることなく色褪せ、逃げ腰の日常対処とその失敗→理念喪失のままの意気消沈→声掛けしてくれた→日常対処の復活の繰り返しだった。
間違っていたWに一所懸命、耐えてくれた。
そして一所懸命生きている姿に間違いはない、美しい。コレが真実である。
もっと早く気づけばよかった!助けるのは当たり前だ。
どうしてこのことに気づかなかったのだろうか?
理屈倒れということだ。理念が現実に対応しない理屈に終始していた。
明日からやれることを実行しよう。