反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

デメンシア介護の愚痴に終始するが、糸口を見つけよう。

 どのような観念操作を頭の中で繰り返しても困難介護現場に直面すると、最悪の対応しかできなくなった。スイッチオンになって冷静さを失ってしまう自分が情けない。過去の事例によってトラウマの回路が出来上がっているようでどうにもセルフコントロールできない。この状況は自分よりも相手に多大な大な悪影響を及ぼしている、と思うと身の置き所がなくなる。

>ただし転居しなかったことに後悔はない。ここは良いところだ。地域にそれなりに溶け込んでいる。

>コレも介護と役職の両方を曲がりなりにも担ったおかげだ。

感謝する。まず本人に。この人がいたから今の自分がある。近所の人たちに。ここに至る自分の人性は偶然そうなったのではなく、分かれ道に際し自分で選択した結果だ。

だから自分自身が身をもってこの環境を引き受けるしかない。

 

 昨年の春ごろの結論めいた文章を書き連ねた画用紙が見つかった。

その結論は今と同じだった。

ということは、以降10か月未満ズルズルと現場対応に終始してきたわけだ。現場対応失敗→自己反省→現場対応失敗→自己反省→現場対応の繰り返しだった。

 しかし、悪化する症状の渦中でこの悪循環からの脱出の糸口が見つからない一方で、混迷する本人を放置できないという気持ちから再度現場対応に向かう自分の弱気を奮い立たせるために自分の歴史観を否定する戦争人間、織田信長の無慈悲性、残虐性の悪漢の論理に救いを求めようとした。コレはあたりまえだが、何の力にもならなかった。

 最弱者への大義を云々するに至ったが、現場対応の役には立たなかったが真実である。

    <現状とその延長線上に想定される状況>

 ①不可逆的に進行する症状→中核症状である記憶障害、見当識障害の症状進行とともにBPSD(行動心理症状)~主として過去回帰妄想、人物形状誤認、カネ執着ゆえに少額の生活費の置き所も難しくし、移動させる。家探しをしなけれな発見できないような微妙な置き場所は記憶から消えその度に家探しを繰り返し、その騒動に巻き込まれたWは混乱し騒ぎを大きくし、トラウマ発症させて、意気消沈する。

割り切って対応しているつもりが、困難介護現場に直面すると介護者Wが混乱状態に逆戻りするまるで短絡スイッチが入ってしまうようだ。そういう自分が情けない。

*服薬管理、金銭管理が厳しくなっている。←神経疼痛系の薬3種類(筋肉、神経、精神+カロナール<アセトアミノフォン~解熱鎮痛の頓服を1錠>常用~服薬の混乱(欠落服薬、過剰服薬)は一気に精神体調不良を発現し、自分で頓服や常用薬の服薬などの処置をすることはできず、地域のヒトの世話(この間、自分が対処してきたのでそれなりのノウハウが治めてきた。)になるか救急車騒ぎになるしかない

 >洗濯はできる。~洗濯後衣類のしわをのばし、一枚一枚物干しざおに投資て干すという手間の体力のいる複雑困難作業(IADL)ができる。~

要件への対応はあやふやになっている。セールス勧誘を断るのはWの仕事である。

総じて複雑困難動作(IADL)の大部分はWが強力にサポートまたは代行しなければ回っていかない。

*ADL(習慣動作、行動)がまだきちんとできているのが強みで在宅継続の根拠となっている。

 ADLができることと、IADLの多くができないようになっていることの落差が大きいのが本人の個性である。

天性の運動能力の高い人である。だから習慣になっている日常動作はいままでできている。IADLに相当する洗濯ができるのもそのためだろう。毎朝、沸かしたお茶と白湯を肉親となくなって夫の遺影に捧げる。

この状態を接するとつくづく教科書的理解には大きな限界がありデメンシア介護は個性重視なのだと納得する。

②現場対応失敗事例が積み重なった双方のトラウマ発現。

本人側に慣れてきたような素振りや言葉が出てきたがWはまだ発展途上だ。

③介護者の心身状態の悪化。

このままではもたない。一方的にWだけの反省の繰り返しは、理屈では分かっていても理不尽感が付きまとう。

意思疎通を単純化しなければならないのがつらい。この領域は苦手だ。活字人間のWはそういうコミ能力を持ち合わせていない粗雑な人間である。ちょっと複雑な問題になると会話のキャッチボールができない。その時解ったつもりのなっていても記憶から削除されている。だったら、わかったつもりはWの一方的な感情に過ぎない。そんなことがたびたびだった。

が、説明を要する問題は在宅生活上のポイントになることであり、黙って実行したら在らぬ大きな誤解を招く。

デメンシアのひとには説明説得は悪い印象を与え効果が上がらないと教科書に載っている。

じゃあどうすればいいのだろうか?とってつけたような介護顔、姿勢は以前から嫌ってきた。そうしなくても昔、それなりに成果もあげてきたという経験もあって、やらないことにしている。

トラウマ短絡スイッチさえ入らなければ何とかなるのに、コレは介護鬱かもしれない。

誰にも胸の内を打ち明けることもできない、Wの中で処理してきた

近所のヒトに聞かれるが話す内容には限界がある。気遣ってくれてありがたいが、解決できる方途は自分率先であると考えている。誰かが率先してやってくれるわけではない。それが例えケアマネであっても。そういう構図が手に取るようにわかる。

Wがケア放棄すれば、Wのやってきたことをだれかが代行してくれる構図が描けない。デメンシア見守りケアとはそういう性質のものである。だから在宅続行は家族に大きな負担がかかる。内部と外部の車の両輪は望ましいが、内部に介護力が伴わなければ絵に描いた餅だ。Wの介護力に限界が来た。

>やはりW短期記憶のヒト、複数人物誤認状態の影響はこれまで何とかごまかしてきたが症状進行とともに毎度超えなけれなならないハードルになっている。

>親しい一言で納得がなければ説明に入るしかない。

>説明が長くなれば説得になり話の内容よりも悪感情が優先される。

ところがその内容は在宅生活続行の重要なポイント。

アルコールを逃げ道にすると楽になれるが、大手術後内臓が脆弱になりアルコールに弱くなった。加齢もある。

 この症状の一般的な大きな特徴は外向きの対面は短い交流の中では確保できるが、身内、内部において症状のリアルな現状がはっきりとでる、ところ。だからそこまで症状が進行しているとは思われないが内部で対応するものは苦労している苦労している結果が何とか体面を保てる状況維持である。だから中のものが外に訴えなければ症状の現状は解らないことが多い。ところがそとにオープンにすることを本人が嫌がる。

制度側のヒトに対しても本人の対人関係の重要ポイントは対面の維持であり、話の中身ではない。

 もうひとつは、過去の記憶にインプットされている人たちのアイデンティティーはしっかりと刻まれているが、短い記憶のヒトは上手くインプットされない。

Wは短い記憶の中のヒトであり、個人が特定されていない最悪の状況下にある。

だから、大事なことを理解してもらうまでに説明を要し、場合によれば説得する事態という、やってはならない次元で理解してもらおうとするから結果的に説明の中身ぬきに嫌われるが、いづれも在宅生活をやっていくうえで超えなければならない大事なことと位置付けているのでWは苛立ってくる。

 原理原則的な対応なんて本当にWのような立場に立てばできるのだろうかという疑問が付きまとう。

100点満点でなくてもいい、60点70点でも良いと、と指摘されているが、この症状は不可逆に進行するのだから、過去の60点70点の介護は症状進行した時点では50点や40点赤点になり(だから介護者の混乱が生れる)、双方にトラブルの痕跡を残し介護者は立ち上がるエネルギーを必要とする。

こんなことは介護の原則に一切触れられておらず、救済の糸口は制度側への相談や利用に決まってなっているが、実情とかなりかけ離れているのじゃないか?

介護保険制度は始まった当初はともかく政府の方針のもと事業所の経済の原理が優先されざる得ない今の制度側に救いとれるだけの体制があるのかみんな自分たちの仕事の範囲を狭めて耐えしのいでいるのが現状だ。

犠牲になるのは制度の中にいる最弱者だ。さらにいえば、制度にインクルードされない弱者である

れいわ新撰組の記事に書いたが<不条理>は政治の課題を超えた個人の課題が多いが、<不幸>は政治の課題である。<不条理>の意味も知ろうとしないで軽々しく使うべきでない。山本太郎の文脈で使用している不条理は民主党政権時代に菅直人首相が間違って使ってネット上で批判されたのと同じ不条理である。<不条理>とは哲学的特殊用語である。

Wの直面している状況は最弱者の介護であり不幸はあっても不条理ではない。

 

ホワイトボードによる当日の日程の表記。カレンダー、日付曜日明記のデジタル時計使用による分包の服薬管理。やれることはすべてやってきたつもりだがそれでも飲み忘れ多発、飲みすぎもある。

 

         <制度側の対応>

1、金銭管理。→公的管理下にあるがそれでもトラブルが治まらない。それもあてWはトラウマ状態。そればかりでは無く中核症状、周辺症状が進んできて、思わず気が引けることもあり、関わらないでそっとしてあげたほうがいいのかもという疑念が生れる。しかし服薬管理など在宅生活上困ることがある。

>本人の思ったことが事実になり、思っていないことは事実ではない。なので客観的事実と離れた主観の中で事実が存在する。だったら、脳へのインプットは客観的事実の反映ではなく主観の中に既に存在するので、蓄積された過去の記憶は鮮明、短い記憶は不鮮明は自然の成り行きだ。

Wの知りたいのはそういう現象の発生するそのメカニズムだが具体的説明をネット上で読んだことがない。

アミロイドβというたんぱく質がたまってだとか、記憶障害によるインプットアウトプット機能の障害をイソギンチャクの蝕しに例えるなんてのは現象の説明に過ぎず、認知症の本質をざっくり説明するものではない。

下等動物にもある原始部位、機能である大脳辺縁系の3つの部位のうち海馬と視床が障害を受けると、その代わりに偏桃体が代役を務める機会が多くなり過度の負担がかかる。デメンシアのヒトの日常生活に接すると海馬や視床の障害の代役に偏桃体に過度の負担をかけて生きているのが解る人間的要素が情動に頼ってバランスを欠いている幼子のような認知力なのにプライドは高く遺伝的性質と人生行路の経過で得たキャラクターが純粋化し肥大化しているので、意思疎通ためには介護側に特別な配慮が必要である。基本的に人間嫌いのWが苦手とするところである。

<偏桃体>

恐怖感、不安、悲しみ、喜び、直観力、痛み、記憶、
価値判断、情動の処理交感神経に関与。←W。過負荷がかかっているのが神経性疼痛という症状に出ている。

<海馬>

目、耳、鼻からの短期的記憶や情報の制御。←W。アルツ型デメンシアの特徴は海馬の障害である。レビー小体型、脳血管型のデメンシア症状と一緒にしている人がいる。まだ啓もうは地域レベルに浸透していない。違うと断言すれば押し付けがましい説明になる。
恐怖・攻撃・性行動・快楽反応にも関与。

<海馬傍回>←W。風景をきちんと捉えられていない、歪んでいる擬人化している。

自然や都市風景など場所の画像のような
地理的な風景の記憶顔の認識に関与。

一人の人物像を統一的に把握できないのは場所と顔の画像認識がそもそも客観的な存在の頭脳への正確な反映ではない。加えて記憶障害が邪魔している。

 

視床

脳の構造のうち、間脳の一部を占める部位。 また、広義の脳幹の最吻側部に当たる。 嗅覚を除き、視覚、聴覚、体性感覚などの感覚入力を大脳新皮質へ中継する重要な役割を担う。

大脳辺縁系のおはなし | 前帯状皮質 | 帯状回 | 扁桃体 | 視床 | 視床下部 | 海馬 | 歯状回 | 脳弓 | 乳頭体 | 海馬傍回 | 側坐核 - Akira Magazine

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2、ヘルパーさん、ケアマネさん。→週2回訪問介護、事実上掃除だけ。

Wの日常的見守りケアと対応があるし、症状の割には本人は無理をしても社交的に接するので苦労してやることがない状態(なかなかできないこと!Wには絶対にできない!立派だ!)。

公的資金の流れが厳しい中にあって介護事業所は経営者の大きな方針によって現場の介護対応がかなり違ってくるのではないか。

ざっくりいえば一般的にアルツ型デメンシアのヒトは外向きは内側よりもよく映り、しかも、本人の置かれた裸の状態はWの日常的対応で覆い隠されているので当事者能力の希薄になっている本人への対応で事足れりという方向に流される。だからこんな楽な利用者はいない、ここの仕事は楽だというヘルパーさんは云う。要介護1のデメンシアの人がそんなわけがない。コレは偉大な本人の個性のなせる業である。Wはそれに助けられてきたが、それがずっと続かないところにきている。

立ち往生をしているWの悪影響を受けるは本人だ。

何とか打開の道筋をつけられないのか。

制度を利用すれば何とかなる風な解説は、現状の介護を反映してないふた昔前の状況だ。

相談しても具体的な対応策がなければ、どうにもならない

Wが引けばこれまでやってきたルーティンワーク(朝夕の服薬見届け管理。スケジュール告知)だけでもヘルパーさんが肩代わりできるのかどうか?

デメンシア介護の基本は日常の見守とケア対応なので時間と仕事範囲の制約のある訪問介護でどの程度カバーできるのか。

部屋掃除は几帳面できれい好きな本人なので、本人のできないところを重点的にやるようにして残りの時間を有効に活用してほしい。

家事援助にきてわーとからだけ動かす掃除をして帰るのは神経を使わないのでこれほど楽なことはない。体験者は語るである。

 ただこれだけは云える。ヘルパーさんが入っている間は任せているという気がしてWは気が楽になる。

デイサービスは本人拒否。

長年の友人の吹込みもあって施設も絶対に入りたくないという。それは当たり前のヒトの云うこととヘルパー事務所の責任者は云うが、特殊環境のヒトには当たり前の感覚が大きなマイナスに作用する。限定施設入所規定コースのものにとって残酷なのだ。訳の分かったヒトはきちんと説明していた。

そもそもデメンシアの人に金を貸し続けてきたのはどういうことなのか。律儀に返すからまた借りてあてにしてきて症状進行して悪性金銭トラブルの要因になりWの見守りケアの障害になった。情に厚いのは結構だが闇雲な善意はアクに転化する事例である。

3、訪問診療。

訪問の医者が身体的健康状態を強調して本人のモチベーションを上げるのは大賛成だが、生活指導を全くしないのはどういうことか未だにわからない。食事はきちんとととれてますか?薬をきちんと飲めてますかは聞いたことはない。

 健康ヨイショに終始するともともと体の健康とデメンシアがアンバランスなので、加齢で身体能力の衰えを超えた動きをして怪我をして一気に動けなくなる可能性がある。>事実転倒してわき腹を強打したが本人は痛みを感じるようすがなかった。ヘルパーさんは打撲傷は後で痛みが来るなどとありきたりのことをいっていたが、ばかばかしいので丁寧に説明しないことにした。飲んでいる複数の神経性疼痛薬の影響が大きい。デメンシアの影響もある。後で判明したが初詣の神社の3段の階段を両手をつかなければ上がれなくなっているのにはびっくりした。足腰の弱ってきたことも転倒につながった。

そんな状態で不用心の勧めになりかねない健康ヨイショ一辺倒ではダメだ。

そういう訪問診療の様子に立ち会うといったいこの人等は何のためにきているのか疑問に感じる。最弱者が在宅生活で自壊するのを待って施設収容の道が開けるのを待っていると勘ぐってしまう。

Wの目の届かないところで最弱者に新聞定期購読を承認させたことは今でも許せない。

某同じ組織政党でも投票勧誘はあるがそういうことは一切やらなかった

電話で断るだけではダメだと判断したWが出向いて説明しお互い了承し連絡しておきますなどといっておきながら、集金に来た時、たまたま居合わせたので事情を説明するとしつこく粘るさまは普通の新聞の拡販そっくりで、つい声を荒げざる得なかった。

後で本人に聞くとまったく連絡がついていないかった、すみませんでしたとはいったい何なんだよこれはと思った。

 老認介護の亭主ががんの手術入院中、デメンシアの独居に取り残された老妻の焼死事件ではこの夫妻は長らくその新聞日曜版を取って馴染みがあるのに何の特別な接触もしないで新聞代金のみの回収に終始していた。それはないだろう。