日本の読者へ
引用開始
「~~日本にせよ合衆国にせよ、戦後を理解するためには戦争事態を理解する必要があるからだ。
>戦争は世界を破壊する。それは単純な死の恐怖と物質的破壊以上のものである。
>戦争は権力を再配分する。戦争は半永久的に社会を変え、制度を変える。←A
>戦争は生き残った者たちの意識を深く、長く変える。←B
W。AとBの分野で、ダワー初版1999年以降の変容が急激に進行しており、そこに対する問題意識を持って引用し、立ち止まっていく。
*W。AとBの視座を持つに至ったダワーの経過を引用しておこう。
「私が学問的研究を始めたときには、かなり型にはまった伝統的な方法を実行していた。
わたしの最初の本は『吉田茂とその時代』というテーマで、使った資料はほとんど公式文書や教養あるエリート層の書いたものであった。
しかしその後、前に述べたように私は「歴史家の病気」にかかり、1941年から45年の日米戦争を研究したが、そのころまでには、人間の「ハラワタ」から込み上げるような激情、つまり敵を悪魔と思わせ、男たちを殺戮行為へと導く感情についても関心を持つようになったていた。
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w。中世後期近世軍事貴族による軍事独裁が継承されてきてその精神性文化性によって庶民は影響を受けてきた。軍事貴族たる支配層には統治者としての規範があったが一方的に統治されるばかりの庶民には自律的な倫理観は育たず、大勢順応、従順の規範が刷り込まれタガが外れた場合の動物的レベルの野蛮性が潜在していた。60年代70年代の矮小な政治レベルでは異様な野蛮性が露呈した。
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わたしがベトナム戦争(W。1938年生まれ、ベトナム戦争当時は研究者をしていたと思われる。日本60年代70年代の戦いは欧米のように家族家庭の深部に至る文化革命に結実せず、風俗に流れ、やがて半封建的残滓の底流が形を変えてダワー出版後、表面に浮上した。日本においてグローバル資本制、新自由主義政治が本格化したのは21世紀に入ってからだ。そうしたグローバリゼーションにダワー指摘の<敗北を抱きしめた戦後体制>が適応力を減じ、「古いもの」が鎌首をもたげてきた。)を意識していたことは明らかであるが、同時に、伝統的な歴史家が決して深い注意を向けてこなかった人間の思考や行動を理解の対象とすることにも、わたしは努力してきたのであった。
わたしは、日常生活の中の力学やそれを形作る構成要素を観察し始めた。
例えば映画、漫画、歌、マスコミや宣伝文句、その他、仏の人々の思いが観察できるものなた、なんでも注意を向けた。」
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~~ならばなぜ日本だけが例外なのか。
そう問うとき、政治や民衆意識の中にある固定観念に気づく。
英語を話す地域では日本が例外的な国だというのは、一種の決まり文句になっている。
どんな国も、どんな文化も「ユニーク」なものであるのは当然だが、日本の場合には、「ユニークの中のユニーク」とされることがしょちゅうなのである。
いわく、日本は単一民族の国である。
それが和の精神に深く支配された文化であり社会である、それはほかの国、文化、社会とは、根本から、永久に、違っているのだと。(只今現在、キーボードの左前方のダワーの翻訳本(岩波)は縦字の日本語、打ち込みは横文字文章。こんな器用なことをやっているのは日本のほかにあるのかどうか。
「アラム文字から派生したウイグル文字・モンゴル文字・満州文字では縦書きに変化している。」「現在では使用されていないが、おそらくは漢字に大きな影響を受けたと考えられる西夏文字、契丹文字、女真文字もまた縦書きが主に用いられた。
>しかし、漢字とハングルは現在ではいずれも左横書きが発達している。」
「ウイグル文字から派生したモンゴル文字は、縦書き専用という特徴のため、パソコンの表示において大きな制約が出てしまっている。 」
東南アジア
「ベトナムは漢字文化圏に属し、かつて漢字やチュノムを縦書きで書いたが、現在ではラテン文字による左横書き正書法のクオック・グーを使用する。
タイ文字、クメール文字、ビルマ文字などはインド系の文字であり、いずれも左から右に向かっての横書きを使用する。
マレーシア、インドネシア、フィリピンなどではかつてインド系の文字やアラビア文字を使用したこともあったが、現在はいずれも左横書きのラテン文字を使用する。」
W。ウィキを読んでも、なぜ縦書きにこだわっているのかの理由がはっきり示されていない。言語表現形態は思考の中枢を規定する。←言語学の常識!
英語を小学校で教えることよりも、漢字を横書きに統一するほうが先ではないのか。
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私自身はそうは思わない。
しかし多くの西洋人が、そして日本人自身が、その通りだという。
この本の英語版が出版されて間もないころ、森喜朗首相が、日本はほかの国や文化と違って、「天皇を中心とする神の国」だという悪名高いスピーチを行った。
わたしはコレに非常に腹が立った。
なぜか?
これは研究者として理解している日本ではないからだ。
わたしは日本に住んだことがあり、多くの日本人を知り尊敬もしている。そうした一人の人間としての私が理解している日本ではそれはないからである。
森首相が述べた「日本」は戦争中の宣伝屋たちが宣伝した「日本」である。
それは歴史の特定の時期の、それも酷い時代の「日本」であり、国際的に大きな誤解と害悪を招きかねない、自国中心の政治イデオロギーの色彩を帯びた「日本」である。
私の見る「日本」は画一的でもあるが、同時に複雑で矛盾に満ちた「日本」である」
~
アメリカやヨーロッパの社会、文化、政治、の複雑な歴史のいろいろな側面を一般読者伝えるために書かれた本は、毎年、アメリカ合衆国ではおびただしく出版されている。
>ところが日本に関しては、そうした多面的なアプローチによる研究はまれであった。
コレが本書が多くの受賞作選定委員会の目に留まった理由であろう。
>英語の出版界で売れる日本関連図書は、南京大虐殺のような第二次世界大戦での残虐行為に関するものか、芸者や禅のような異国趣味をそそるものか、いずれかであるのがふつうである。
~私が努力したのは、敗戦の後で日本の人々が直面した苦難や課題を伝えることであり、敗戦に対して日本人が見せた多様で、エネルギッシュな矛盾に満ちた、素晴らしい反応を描くことであった。
>出版の後、人前にで話すとき、私は時々「複数者plurals」という言葉を使うようにしている。
コレは英語では簡単な言葉であるが、日本語では少々わかりにくいであろう。
わたしはこんな風に話をする。
「日本文化」だとか「日本の伝統」だとか、そういうものは実際には存在しないのです。
Wダワー引用。混合と無常を指摘している。「ところが日本もまた複数の異質の要素を含み、常に変化してやまない社会であり、単に奇妙な「天皇を中心とした神の国」などではないことを(W、東アジア東端付加体原住民としての地歴性に規定された混合と無常社会!)この本のように数百ページにわたって示されるのは、英語の読者には珍しいことだったのである。
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「実をいうと「日本」さえ存在しません。
W。こんなアプローチをしなければ理解できないと研究者が感じてしまう「日本」は異様ではないのか?
逆に、わたしたちがかたらねばならないのは、「日本文化たち、japanese cultures であり、日本の伝統たち→ジャパニーズトラデイッショナルズなのでのです。
私たちは、「日本たちJapans」というべきなのです。
そのほうが日本の歴史の事実に近いし、今日の日本社会の実情に最も近い。
>そう表現することによって
>日本を世界の中で比較することができ、本当に新しい、目の覚めるような日本理解が可能になるし、←W.一理はある!日本自身が単眼志向を売りにしてきた側面がある。世界各国に対する見方として普遍的に複眼でありたい。しかし、アメリカを報じるマスコミは複眼だが、日本情報は単眼に流れているのじゃないか。それへの対抗として日本たちも方法としてありかなとは思う。
>今後もそうするように我々は即されることになるのです、と。そしてこれはこの本で私が実行しようとしたことである。
W。この本の邦訳題名「敗北を抱きしめて」には違和感がまず芽生えた。
そこで、原題を調べてみると、直訳では<日本における第二次世界大戦の目覚め>だった。
上巻 第3部 さまざまな革命
第6章 新植民地主義的革命
第7章 革命を抱きしめる
第8章 革命を実現する
とある。
一部を眺めただけだが、これらの章は敗戦直後、憲法制定前後の日米の政治事情を精緻になぞって、アメリカ側の実情に詳しく非常に納得のいくものであった。
例えば、日本降伏の遅れ、頑強な抵抗は、一部で言われいるように、それによって日本占領時の抵抗を恐れて、天皇制がまずもって日本国憲法に書き込まれたのではなく、早めに降伏しておれば、アメリカ側の日本理解の主流、知日派は元々天皇制を存続させた占領政策に都合の良い斬新的な改良で済ませるつもりだった。
ところが日本軍の頑強、異常な戦争手段による抵抗によってニューディールリベラル派や中国派あるいは左翼が主導権を握り新植民地主義的一挙改革が実行された、と。
ならば、そういった戦争経過や直後の局面が冷戦構造の深化によって取り除かれていくと新植民地主義的改革は否定されていくのだが、
その場合の政治課題は
>戦争は権力を再配分する。戦争は半永久的にに社会を変え、制度を変える。←A
>戦争は生き残った者たちの意識を深く、長く変える。←B
特に、戦争によって、深く長く替えられた日本国民の意識性、政治性、あるいは文化性、生活習慣がどこまでどういった過程を通じて、支配層の思惑通り変転させられるかどうかだろう。
この記事の末尾のダワーの論説を文字通り受け止めると、
混合と無常の精神性、政治性、文化性である付加体列島原住民は支配層の思惑を混合していくであろう。
そして、日本の文化たち、日本の伝統たち、とどのつまりの
ジャパンズ「実をいうと「日本」さえ存在しません。」という異様状況をグローバリズムの反面である差別,差異主義の台頭に呼応して、ますます深化させていくだろう。
ダワーの日本への接近の方法は敗戦直後は新植民地主義的革命の時期という立場であり~当時の日本共産党はマヌーバー的に米軍解放軍と規定。別の意味で従属した党派~(そのシンパシーの部分を省くと)、それは新植民地主義現地の革命(それは変わり身、適応に過ぎず「古いもの」は一掃されず沈潜するが時代状況への適応性はある。なぜか?混合、無常の本質ゆえだ。確たる本物はどこにもないのだ。)などできない日本の限界点をきっちり抑えていないので大きな限界がある。植民地革命ができないのだから支配層の隷属性、国民レベルの属国性が色濃くの残るのは理の当然である。
現在の日本は敗戦によって底流に押し込められた精神性文化性を適応的に浮上させグローバリズムに立ち向かっていこうとしている。
>もとよりトランプのアメリカもその歴史性にふさわしい立ち振る舞いをし差別、差異主義の全世界的発信源になっている。ヨーロッパもしかり。
>冷戦体制崩壊後進展したグローバル資本制の第3期に区分される(アメリカ一極①、中国など周辺部の台頭によるグローバル資本制の経済発展②。中心部の資本蓄積過程の変容による中間層の没落と階級格差の拡大、およびそれに見合った上部構造の選択、戦後の政治構築物の破壊③)画期的時代状況が進展している。後戻りはなくその方向に世界は進展する。
先進諸国の政治上部構造は政治反動が選択され本質である階層間の乖離が大きくなる。
ゆえにさらに政治反動が進展する趨勢にあるが、
中進、途上国ではグローバル資本制による人間解放的要素が見られる。日韓両国の軋轢(人間を叫んだのは良くも悪くも韓国側だ。この日本側視点から言えば安保、フィリピンのように日米地位協定破棄したり変えることはできない。イングランドはEU脱退した。)や中国のコロナ風邪騒動(急速経済発展に環境整備が追い付いていないというひずみ、初動対応が間違っているような気がする。)もこの方面から認識することができる。
コロナ風邪騒動への対応を冷めた目で見ると日本が解る。そもその情報発信源が限定されれているところに構造的な問題点がある。こうしたマスコミ特権はほかならぬ敗戦GHQ占領の置きみあげである。支配層は自分の得になるものは改めない。特権は手放さない。損になることはなし崩し的に修正する。あるいは換骨奪胎して中身をなきがごとくする。