反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

コロナ風邪騒動、店頭からトイレットペーパーが消えた。マルチチュードの耐え難い欲求とは長期にわたって仲良くする。こうした事態を通じて心と身体を鍛える源泉が個々に必要な時代状況はさらに進行する。

 2,3日前に近所の家のトイレにトイレットペーパーの不足を確認し、いつものように大パックの良品を買ってきてあげるよと量販店に向かった。道中、朝のネットニュースで量販店からトイレットペーパーが消えた、という情報が頭の片隅をかすめた。

店頭にいつもずらっと並んでいるはずのトイレットペーパーやティッシュの大型トレイの中身は空っぽだった。見事に。思わずあきれ果てた。日ごろその前に立ち止まっている商品を吟味している人を見かけたことがない。いじましい買いだめの跡だった。その向かい側の広いスペースは業者さんが買いに来る材料まで売っているガーデニングのコーナー。トイレットペーパー、テッシュのスペースは閉店後、シートをかぶせて軒先に放置されている。結果、店頭の過半を占めるスペースは大量安売りをモットーとする量販店のランドマークのような役割を果たす。そこが空っぽになれば焦りと渇望感を募らせる効果を発揮する。で、街中に買い求める、という玉突き作用が発生する。もうこうなれば立ち止まって考えられないが、その騒動の一端はこういった量販店の現場の風情にあるのではないか。

 呆気に取られて少しの間、眺めていると、自転車に乗った中年の男のヒトが、「**の**スーパー知っている?一杯並んでいるよ」と教えてくれた。Wはトイレットペーがどこに売っているかなどどうでもよかった。想いの一端を共有したかったがすれ違った。

 ヨシ!それなら、いつも行くスーパーに出向いて確認してみよう。

 スーパー3Fの日用品雑貨売り場はめったに利用しないのでどこに何があるかわからなかったが、レジ付近で中年のおばさんたちが(Wには同じような風体にしか見えなかった)小パックの再生紙と思われるトイレットペーパー全員、1つづつ携えてお互いに会話なく黙々とレジに向かっていた←会話なく黙々、1つづつがポイント。日本人はまじめ、保守的にばらけているのであって、体制への軽信はある。せめてお互いの会話があれば、何かが変わるチャンスが生まれる。

そのひとりにトイレットペーパーはどこに売っているのですか?と尋ねると、ぶっきらぼうに「その辺にあるでしょ」。内に少しは理不尽感を秘め再生紙のトイレットペーパーなど買わなきゃならない羽目に陥ったと思いつつ1つづつ下げている。2個ぶら下げている人は皆無だった。が、怒りはない。あればきっぱりと退散する。経験則もない。トイレットペーパーなど究極には必要ではない。

サバイバル的な環境に適応性の高い人とそうでない人はいる。知能の問題ではない。技術的問題は大いに関係する。こういった時に買いだめに奔走する人はサバイバル本能の強い人であることは間違いない。

普段このスーパーにトイレットペーパーを買いに来る人は少ないせいか、陳列棚は少し入ったところにあったが、そこにはくすんだ色の再生紙のトイレットペーパーが2,3パックしかなく値段を確認すると、¥298だった。いつも日用雑貨品を買いに行く量販店では大パックのエリエールが¥598である。

 てぶらで帰ってきたWは事の次第を黙っておこうと思ったが、説明しても解ってくれないのを承知で、電気ガス、情報手段、など一々挙げて具体的に説明し、一番不可欠なインフラは水だ、トイレットペーパーなどなくても済むなどと頭の中にいつも「戦争状態」が居座っているWは結論付けた。ペーパーの不足分はWのものを補給した。

トイレットペーパーは究極のところなくて済ませられるものだが、紙おむつなどはどうなるのか?ほかにも不可欠な生活必需品はある。USAなどでもこういう騒ぎが発生しているらしいから日本だけの現象ではない。

 Wに過去にアップした「反俗日記」の関連記事が駆け巡る。

>江戸時代の貧者の騒動の記事。一揆騒乱は反俗日記の大テーマだった。大塩平八郎武装蜂起。

ユダヤ人へのポグロムの多発した20世紀初頭のロシアにおいて1917年革命、内戦が遂行された意味を現時点から問い返す必要もある。

>同列に置かれてしかるべきなのは日本の米騒動。時期も丁度1917年ごろだった。

*買占めに走っている人たちをアントニオ、ネグリ云うところのマルチチュードの抑えがたい欲求に突き動かされている人たちとみなせばどうだろうか

>過去も現在もリアル、マルチチュードってあんな存在形態を普遍とまではいわないけれど、アリなのかもしれない。

反俗日記 

2014-02-23

1936年新暦9月27日~10月6日、甲 州 騒 動(郡 内 一 揆)考。-幕末公儀の正当性の喪失と民衆蜂起の秋(とき)。 - 反俗日記

引用 反俗日記

「この中の須田さんの「若者、悪党という実践者」という論説の一部に甲州騒動の主導者のリアルな実態にピントを合わせた記述が載っています。

 この本全体の各論集を以前、読んで共感するところがありましたが、今では疑問に想っています。

>幕末世直し一揆の暴力闘争としての特異な現象を挙げて云々しても、
古今東西の世界史的見地からすれば、所詮そんな次元を超えた大衆実力闘争、
もっと進めば農民戦争の実例は数多あるわけです。

>幕末世直し一揆の暴力的側面は江戸時代の兵農分離鎖国を大前提とした幕藩体制の暴力支配と幕末公儀の正当性喪失に即応して、民衆闘争の一部が既成の一揆、騒動作法を超えて対応していった、に過ぎません。

例えば、宗教改革以前の英仏100年戦争を背景にフランスとイギリスには次のような農民戦争の事態が先行的に発生している。農民戦争に須田等の強調する暴力云々のファッション的な異様性を適応するとどうなるか。お門違いということになるのじゃないですか。 

 <世界史講義録>

>>イギリスで起きたのがワットタイラーの乱。
 ワット=タイラーは指導者の名前です。これも百年戦争中のことで、農民たちは重税で怒り爆発。この農民反乱はロンドンを占領する。
大成功だね。国王は反乱の代表者と会って、農民の要求を聞いた。
>農民の要求がすごいです。農奴制の廃止!

この反乱の指導者の一人にジョン=ボールという僧侶がいます。この人の残した言葉は非常に有名。

「アダムが耕し、イヴが紡いだとき、誰が領主だったか?」

 身分制度そのものを強烈に批判していたのです。

須田の挙げた「編年一揆」の中の事例を見ても、やはり、少な過ぎるから、日本限定の特殊性、を異様性として描き挙げることで、数の少ない特殊例を普遍性に十分、昇華し切れていない解説が気になります。

>理論的な意気込みにも拘らず、一揆現場の現象論に終始しているようで、一揆現場とその理論化という両者の繋がりが切断されています。

 次のような視点で混ぜ返すつもりはないですが現時点での良い悪いの判断は別に歴史的実践を経た事実であります。 

  いわゆる「ゆきすぎ」の問題  毛沢東選集 第一巻
 革命は、客をごちそうに招くことでもなければ、文章をねったり、絵をかいたり、刺しゅうをしたりすることでもない。
そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかでおとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえめのものではない。

>革命は暴動であり、一つの階級が他の階級をうちたおす激烈な行動である
農村革命は、農民階級が封建地主階級の権力をうちたおす革命である。
農民が最大の力をそそがなければ、何千年ものあいだ深く根をはってきた地主の権力はけっしてくつがえせない。
>いわゆる「ゆきすぎ」の行動は、すべて農村で大きな革命の激流によってふるいたった農民の力がうみだしたものである。

>あやまりをただすには、度をこさなければならず、度をこさなければ、あやまりはただせないのである。

2)次に、やはり幕末農村階層分化の進む底辺では飢餓による野垂れ死の状態があったと想います。
座して死を待つくらいなら、立ち上がっていこうとするのは人間として当たり前の精神状態です。
 こういう精神的物的実態はどの解説も余り取り上げていません

 なぜなら、それらがよりどころとする一次資料は警察検察裁判所が一体になった弁護士や報道のない中で、騒動を鎮圧し罪に問う側の作成した官製資料ですが、
史記述の客観性を維持するためには、こういう一揆する側の情状酌量面の事情は想像力に基づくものだから、踏み込んで書かないわけです

 しかし当時の現場にはそういう実情が厳然としあるから、率先して一揆を主導したものは命をかけたわけです。

 また、村方、町方の共同体にはそうした戦いを共にして、正義とみなす気風が脈々と流れていたと想います。
 年貢のムラ請負を円滑に処理する責任性には百姓としての自負心が伴わなければならず、それを無視されたり、一方的に踏みにじられた時には体を張ってでも、訴えるという独自の精神世界がありました。
百姓の労働が武士を養っているわけで、当時の百姓も解ってるものは解っていたと思います。

3)さらにまた、地域に米の蓄えがないのではなく、あるところに行けば米はあるのです。

米の価値が上昇している傾向を見越して簡単に売らない傾向の発生や、当然、こうした時期は投機行為として買占めが行われ、いっそう市中に出回る米の現象に拍車をかけます。

4)以上は幕藩体制の論理からいえば、豪農や大手米穀商と庶民との私的な相対関係(吉宗の享保の改革で相対関係不介入の原則を打ち出している)で処理すべき問題となります。

 こういう支配層として手抜きした横着な論理から、打ちこわしは非合法でも、百姓は領主に年貢さえ納めていれば良いというアバウトな倫理観で、一揆作法の枠内の留まるものという暗黙の了解事項が成立するわけです。

現在の資本制の法体系と次元はかなり違うアバウトでハードボイルドな世界です。 
 そのくらいのアバウトな支配の風習あっての、世界に類を見ない米年貢制260年の幕藩体制のそれなりの維持だった、と想います。

  反俗日記、引用終わり。

>だったら、説教したり侮蔑したりする側の人たちにWは同調できるはずがない。

もっとダイナミックにいこう。

 過去記事を読むと、6年前には意気軒高だったのがいつの間にやら弱虫になっている自分を発見した。世間にあまりにも譲歩しすぎた。介護反省の繰り返しでメンタルが弱った。

 がしかし冷静に周囲を見渡してみると底辺で真面目に生き続けた人たちはいっぱいいるが、一皮めくると死にざまや生き様は野にあるものとしか思えない状態の人たちが短期間に身近に多すぎたも事実だ。両者は分岐明確だが(だから結び合えない)繋がって混在しているから実に不思議な世界だ。コレが日本なのか。特殊、極少部分なのか、判断がつきかねるが、ここ数年身近に発生した事実の延長線上に自分がいるとは、認定できる。Wは明らかに後者に連続する。本質的に悪人が今に至って善人面をしてすごしているは滑稽、阿呆の類である。日本の下層市民的社会構成の一側面がこうだったのを今まで知らな過ぎた。高度経済成長以降の資本制搾取の結果がここに実在し沈殿する。その非人間的綻びをたった数年の間に一身体現して死に破綻していった人たちを身近に見てきた。江戸時代の年貢村請負に汲々としていたムラ社会に通底するものがある。(上記の引用部分を読めば論理的にそれ以下だ!侍を食わせている「お百姓」さんと売るものは我が身だけの賃金奴隷の差異がある。それがばらけると、コロナ風邪便乗買い占め騒動になる。それでいいのだ!マルチチュードは。

>下記に引用した白井聡の外部に出るが欲望の作法の取得ではあまりにもデリケートすぎる。外部に出て労働者が労働者でなくなるのが解放へに道筋!は正解。

引用

「つまり戦いは<外部>を志向するものとなる。
かくして階級にとってプロレタリアート総体にとって外部的な意識こそが、労働者の意識となるのです。
 ひとことでいえば、労働者は労働者でありながら、労働者であるがゆえに、その意識において労働者でないものになる。

~~

介護者は介護の外部を志向することによって、外部的な意識を獲得し、

介護者は介護者でありながら、介護者であるがゆえに、その意識において介護者でないものになる!

***************************

*直近の記事で、手元に文章をコピーした白井聡、アントニオネグリの解説文。

引用 白井聡 21世紀世界の欲望として再生するレーニン

「つまり、資本制にとって、労働者階級とは矛盾そのものなのだ、といってよい。

************

 W.以下の記述はマルクス「賃労働と資本」において端的に示された概念であり、労働価値説に基づく一面の真理とうけとめる。市場→G(生産手段、労働力商品)→生産過程(価値創造、~単純化すると支払い労働~労働力商品の再生産費用+剰余価値~単純化すると不払い労働)→G増殖した価値→市場での価格への飛躍。

************

なぜなら、それは剰余価値の源泉としてのシステムを支える根本的な主体であると同時に、

そのシステムと絶えず抗い、究極的にはそれを否定しようとするものであるからだ。

それゆえ、資本主義が発達、進歩するということは、この矛盾の転移された結果なのである。

剰余価値生産物の横領、搾取が等価交換の原則にもかかわらず←W?等価交換の見かけ原則ゆえに正当化される正当化されうるとすれば、それは、資本によって社会全体が進歩する、そしてその果実はやがてすべての社会構成員に及び、長期的には不等価交換は等価交換に是正されるであろうという一種の共同幻想が成り立つことによってである。(新自由主義のトリクルダウンの理論はまさしくこうした論理を純粋型に体現している)

>ゆえに、いいかえれば、搾取を永続化し、搾取に対する抵抗を鎮圧し続けるためにこそ、資本は進歩しなければならない。

この意味でネグリの考えによれば、様々な意味での資本主義の発展(生産力の上昇、技術の高度化、労働の組織化、物質的生活の変革、等々)は階級闘争の産物の他ならない。←W。階級闘争は自然発生的でありとあらゆる形態がある。

労働者階級に対する搾取が存在するにもかかわらず、資本主義は進歩的であるのではない。

論理はその逆であって、労働者階級に対する搾取が(したがって階級闘争が)存在するがゆえに資本主義は進歩することを強制されるのである。

以上のような論理構成は、

>資本の増殖への衝動ではなく、マルチチュードの抑えがたい欲求が、フォーディムからポストフォーディズムへの資本の転換をもたらした、とする後のネグリの理論構成と軌を一にしている。

  3、レーニンと現代

引用

われわれ先進資本主義国の住民は、まごうことなき反革命の時代に生きており、<左翼小児病>患者に出会うこともない。

それにもかかわらず、次に見るレーニンの言葉は、我々の時代における困難の所在を正確に射抜いている。

 彼はプロレタリアの党の規律を強調し、プチブルジョア的な無軌道性、より一般的にはコミュニズムの実現にとって最大の障害となるであろうプチブルジョア的なもの一般との長期にわたる、したがって粘り強く続けなければならない戦いの必要性を強調して次のように述べている。

   レーニン

「階級を廃絶するとは、地主と資本家を追い出すこと、-我々は、これを比較的たやすくやり遂げたーだけを意味するものではなく、小商品生産者を廃絶することも意味しているが、彼らを追い出すことはできない。かれらをおしつぶすことはできない。

彼らと仲良く暮らしていかなければならない。非常に長期にわたる、斬新的な、慎重な組織活動に行って初めて、彼らを作り替え、再教育することができる(またそうすべきである)

~集中した大ブルジョアジーに打ち勝つことは何百万もの小経営主に打ち勝つよりも千倍も容易である。小経営主は、日常的な、日ごとの、目に見えない、とらえどころのない腐敗作用によってブルジョアジーに必要な結果、ブルジョアジーの復活を支える結果そのものを実現している。いくらかでもプロレタリアートの党の鉄の規律を弱めようとする(特にプロレタリアートの独裁の時期に)者は、事実上プロレタリアートに背いてブルジョアジーを助けるものである。」引用終わり。

 この件は本当に古臭いであろうか?

否である。ネグリは「レーニンのこのくだりは本当に素晴らしい」という感想を表明しているが、筆者はそれに賛同する。レーニンの定式は決して古びていない。

>今引用した一節の<小商品生産者>や<小経営者>といった言葉フォーディズムによって黄金時代を迎え、今日急速に減少、没落しつつある中産階級>に置き換えてみるならばレーニンの云っている今日的なアクチュアリティーが浮かび上がるはずだ。

 先進資本主義諸国において、フォーディズム的蓄積体制の下で分厚く形成された中産階級は、賛美の対象であり続けた。それは政治的には「民主主義の健全な基盤」であり、経済的には「市場の堅調な成長の原動力」であるとされてきた(今もされている)。

 だが、この階級が没落をはじめ、そこへの参入できる人々の数が次第に減少しつつある中で、本当の問いが発生ざる得なくなっている

すなわち、「民主主義」とはだれのための民主主義であり、「市場」とはだれのための市場なのか、と。

 カジノ資本主義によって距離をむさぼる者たちや、規制緩和や民営化にハイエナのごとく群がって暴利を得る者たち、といった新自由主義のもはや見慣れた光景における登場人物たちの道義的失墜は、2008年の危機以来、だれの目にもすでに明らかになっている。その絶対数がたいして多いわけではないコレらの手合いを絶滅させることは、「比較的たやすくやり遂げ」られるのだ(もちろんまだやり遂げられていないが)。

>しかしながらそれをやり遂げたところでどのような光景が出現するのだろうか

おそらくそのときには、次第にそれへの参入障壁が高くなるが、しかしそれでもなおかなりの程度マジョリティーであり続ける中産階級の集団とそこからはじき出された、あるいはそもそも参入できなかった、ますますその数を増大させる貧者の群れが表れであろう。

前者は、階級的な転落可能性に脅かされつつ自己防衛のために攻撃的になる

その攻撃性は、心理的正当化を無意識に意図したイデオロギー的自己目的化として現れるだろう。

「この船にはもうこれ以上の客は乗れないのだ!あなたにはこの船に乗る資格がないが私にはある!」~これが彼らの合言葉である。

ブルジョアイデオロギー改良主義のある部分がほめそやしてきた「民主主義」と「市場」はこれらの人々のためにあるのであり、彼らは大ブルジョアジーイデオロギー(すなわち今日では新自由主義)に容易に同一化する。

 没落する中産階級の攻撃性がこの階級によって支えられてきた「民主主義」と「市場」の正当性を掘り崩し、それらを事実上排除のための機構でしかないことを白日の下にさらけ出す日は、さして遠くないであろう。

 だが問題は、それでもなお有効であり続けるであろう、レーニンの指摘した「日常的な日ごとの、目に見えない、とらえどころない腐敗作用」にいかにして対処するのか、というところにある。

 より具体的に言えば、中産階級に参入できないにもかかわらず、そのイデオロギーと同一化する群衆が必ず生じる(小泉郵政解散総選挙が示したのはその典型である)という問題である。

 中産階級の今日のイデオロギー新自由主義のそれである以上、中産階級イデオロギーと同一化する中産階級の群衆もまた新自由主義イデオロギーを奉じることとなる。

そうなれば、新自由主義は少数の大ブルジョアジーにしか直接的な階級基盤を持たないイデオロギーであるにもかかわらず、それは社会全体のイデオロギーとなる

 「途を見つけ出す手がかりのために、ネグリのいう<自律アウトノミア>という言葉を挙げておきたい。

運動によって実践された様々な試みと相まって、この概念の含意は多様な者であろうが、

 <Wは自分を超える自分を志向し<外部>に出ようともがく個人の在り方に還元しタイトルの立場に到達する>

>今述べた現代のイデオロギーのアリーナの情勢にかんがみて強調すべきと思われるのは「自律」には「欲望の自律」も含まれているに違いないであろうことだ。

われわれがどのような生き方をする社会をどのように欲するのかということ、コレが筆者のイメージする「欲望の自律」である

 自律した欲望を持たない限り我々の欲望は中産階級のそれを漠然となぞるものである他ないであろう。←中産階層の欲望をなぞることのないWだが、自律した欲望、欲望の作法を身に着ける所まではいかない。

新自由主義の攻勢をはっきりと視野に入れた晩年のフーコーが唐突に古代ギリシアやローマへの言及を通じて「快楽の活用」や「自己への配慮」を語りだした理由も、おそらくはこのような文脈に位置づけられる。

 それは、<欲望の自律>がますます困難になる世界の中で<自律的に欲望する作法>~を今一度見出そうとする先駆的な試みであったように思われる。

 してみれば、やはり問題は欲望なのだ。

縮小する(おそらく日本では間もなく現在よりもいっそう劇的に)中産階級を羨望(せんぼう)し、

 とにもかくにもそこに入れてもらうことを望み、運よくそれがかなったならばあとは脱落しないことだけをひたすら追求するという生き方をするのか、

それとも、自らの、自分自身の<欲望の作法>を探し求め身に着けるのか。

どちらの選択がこの世界を変えることに結びつきうるのかは言うまでもないだろう。

そうであるならば、われわれは「何をなすべきか」に刻まれたレーニンの文句に少々手を加えてこう言わねばならない。

「我々に正しく欲望する術を与えよ、しからば全世界を覆すであろう」

鍛え上げられた欲望が集団的に渦巻くとき、それはそのままわれらの党の基礎となるだろう。」

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階級闘争が資本主義社会の社会構成に先立つものであるとすれば、いついかなる時でも~~それがどれほど下火であるように見える時でさえも~~階級闘争は常に存在するのであり、その意味でそれは「自然発生的」である。

したがって組織化の任務←W?は、いわば特定の「階級構成」からその源泉である闘争へと遡る(W。原文は遡行~そこう~)ことを可能にする。

この<遡り>は労働者階級が自らの「階級構成」を理解する(W。体感する身体化する)という意味でその自己理解を可能にするものであると同時に

その<階級構成の破壊>~< >はW。階級形成や固定ではなく階級構成の<破壊>がなければ、解放はない~へと向かうこと。

すなわち筆者が2冊のレーニン論(未完のレーニン<物質>の蜂起を目指して)で強調したように

>現存する社会の<外部>との出会いを可能にするものである。

 自然発生性的に常に存在する「搾取に抗する戦いは、ここにおいて発展を目指す戦い、すなわち搾取からの解放の諸条件の構築を目指す戦いにもなるのです。

つまり戦いは<外部>を志向するものとなる

かくして階級にとってプロレタリアート総体にとって外部的な意識こそが、労働者の意識となるのです。

 ひとことでいえば、労働者は労働者でありながら、労働者であるがゆえに、その意識において労働者でないものになる。←W。キーポイント!徹底的に外部に出て総覧し内部にかえる。Wは自分の意識を現場のたこつぼ状態に閉じ込め外部に出ていなかった。自分の限界を超えるのは経験を積んだ修養や聖者の領域(実際にその種の説明がされている)に接近することではなく徹底して外部に出る思考回路の獲得しかない。!