反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

Japan in the Wake of World War Ⅱ「敗北を抱きしめて」ジョンダワー、下巻。第4部、様々な民主主義。第14章検閲民主主義。映画監督亀井文夫「日本の悲劇」「戦争と平和」まで目がいき届いている。

   引用

  映画を検閲する

亀井は左翼ではあったが共産主義者ではなかった。1920年代終わりにソ連でドキュメンタリー制作技法を学び(W。映画史上不朽の名作「戦艦ポチョムキン」のエイゼンシュタインの新技法、編集作法は当時では最先端だった)帝国陸軍マッカーサー元帥の司令部との両方に上映禁止の処分を受けるというユニークな経験をした。

1939年に中国での戦争を記録した陰鬱なドキュメンタリー映画「戦う兵隊」(内輪では「疲れた兵隊」と呼ばれていた)は公式には軍部の援助を得て作られたのだが、「敗北主義的」だとして即座に回収されてしまった。

「日本の悲劇」W、このタイトルの映画は3本ある。亀井→木下恵介

椿弓里奈の”映画に愛されたバイプレイヤーたち”第6回 時代に蝕まれた家族 木下恵介監督の「日本の悲劇」 - シネフィル - 映画とカルチャーWebマガジン

最近のものはWno興味の埒外につき省略する。


日本の悲劇(予告)

映画の内容は予告編の社会現象を前面に出したものとまるっきり違う。シングルマザーが水商売をしながら子供を育てたが、その優秀で期待をもって成人に育て上げた子供たちに捨てられる話である。最後のシーンで絶望し切った望月優子の母は東海道線熱海駅のホームから列車に飛む。その意味で亀井文夫の戦争と社会を描いた「日本の悲劇」とはまるっきり違う。Wの身の回りに現在版これに類することが発生し、「日本の悲劇」というタイトルで一端記事をアップしたが、個人のリアルなことを取り上げていることと、各「日本の悲劇」を通底する問題意識を抽象化できなかったので削除した。

 ザックリといえば、現在の貧者の家庭崩壊はカネの問題に一層、純化し、付随的に近親者の問題が発生している。

直近に制作された「日本の悲劇」も中身は見ていないが、そういうことだと思う。

木下恵介の「日本の悲劇」は近親者同士の人と人の触れ合いと軋轢がテーマになり得るほど人と人が接近しあって生きていた時代(生きていかざる得なかった)の物語である。だから子供の「裏切り」は悲劇たり得るがそこに「日本の」とかぶせられると大げさである。

W.冒頭の小太鼓の音の独特の刻みはゆきゆきて神軍原一男監督のBGMにアレンジされている。


The Emperor's Naked Army Marches On Full Subtitulos en Español

「日本の悲劇」の制作も、民間情報教育局からおおよそ同じような形で強力な支援を受けていた。しかし、

チャールズ・ウィロビー - Wikipedia少将自らの介入で、封切り約3週間後、プリントもネガもすべて没収されてしまったのである。←W。経歴を読むと当時のアメリカにもかなりいたナチス(枢軸国)に理解の深いアメリカ人だったようだ。この項については、我等の生涯の最良の年 - Wikipediaウィリアムワイラー監督のドラッグストアーの喫茶部のナチスびいきの男との乱闘シーンを参照

 ウィロビーの介入は、吉田茂首相の要請によるものだった。亀井の天皇の扱い方を不敬とみた吉田が、ウィロビーの側近二人に、この冒涜的作品を一緒に見てくれるよう説得したのであるウィロビーの側では、天皇の戦争責任を問わない占領軍の政策が暗に批判されていることのほうにもっと困惑していた。←W天皇制民主主義定着がマッカーサー中枢の戦略方向だった。マッカーサーGHQ憲法制定グループに示した3ガイドライン、①天皇制を守る、②不戦条項、③封建制撤廃

 このドキュメンタリー映画の弾圧は、基本的に、天皇の戦争責任に関する真剣な論議が姿を消した歴史的瞬間を画していた。吉田と一緒にこれを見たアメリカ人の一人によれば、このような「天皇のラジカルな扱いは、暴動や騒乱を誘発する」かもしれない、というのがこの映画押収の表向きの理由だった。

~亀井とそのスタッフはそもそもこのプロジェクトをCIEの係官に進められて実施に移したのであって、その後も忠実に検閲手続きを踏み、公開の公式承認儲けていた。

製作者の岩崎はこの映画の回収命令が出たと聞いて驚愕したし、ウィロビー自身も、このドキュメンタリーが実際には検閲方針に違反していなかったことを非公式に認めている。

>亀井自身は、自分はその7年前の帝国陸軍とのトラブルのころから変わっていないが、「こっちが変わらないだけではなくて、社会情勢も実はあまり変わっていない、本質的には同じではないのかと考えた」と皮肉を込めて述懐している。←W.吉田茂のような天皇主義者さえも監視対象にならざる得なかった戦時体制だったということだ。日本支配層の中で拡大し切った戦線が後退局面に陥ると戦争戦略の相違もあった。

 「日本の悲劇」の上映禁止処分はSCAPの「デモクラシー」が実際のところ何を意味するのか推し量ろうとしている人たちに、少なくとも3つの教訓を与えた。

 第1に、絶対権力が、執拗なだけでなく、恣意的であること。

結局、事例から判断するところ、GHQが検閲処分したのは、降伏前の日本における軍国主義と権力の乱用に対するに日本人自身による批判であり、まさに占領軍が推進したいとしているような自由で批判的な論議だったといえる。←W.天皇制民主主議をGHQが推し進めているのだから当然、天皇制を維持してきた官僚機構、政治機構も保守しなければならない。言い換えるといわゆる国体(3位一体)は戦前よりもブルジョア的意匠に衣替えされて残ったのだ。

 第2の教訓は

真剣な批判には、耐えがたいほどの値札が付くことがある、という現実だった。映画、印刷媒体、そこで働く人々も同じように、真に思うところを表現することにかかる会計帳簿上のコストのほうを気にかけるようになった。

 第3の教訓は

イデオロギーである。検閲の目的は変わっていた。

その標的は、軍国主義超国家主義から左翼へと、ゆっくりと確実に、振れていった

亀井文夫山本薩夫は野心的な長編、戦争と平和を完成させようとした1947年にはずっとはっきりしていた。←W。東アジアにおいては国共内戦朝鮮半島の情勢は緊迫度を増していた。1947年、済州島蜂起。

 内容は長い間、戦死したものと思われた兵士が戦争が終わって帰郷すると妻は親友と結婚していた、というストリーでD、W、グリフィスの1911年の革新的な映画「イノック、アーデン」の翻案である。←W。その後もこの手の名作が作られた。

戦争と平和」は「日本の悲劇」と同じように最初は公式に奨励された。ただしこの場合は、新憲法の理想をうたいあげる映画として、GHQ の意向に従って日本政府が奨励したのである。

 東宝憲法第9条反戦理念を訴える長編映画を作ろうと、その監督として亀井と山本選んだ。

完成した映画は民間検閲部に提出されたが、たちまち、「いくつかの共産主義宣伝路線」に沿っているとして厳しく批判された。

6月中旬に書かれ極秘メモでは「デモを称賛している。天皇を不名誉な集団と同一視している、降伏後の日本の飢餓と道徳的腐敗を過剰に露出している」とされていた。

このメモには「戦争と平和」は「日本の悲劇」と同じ要注意のカテゴリーにいると記されている。

 この共産主義宣伝路線についてもっと具体的に記述したメモによれば、

例えば労働争議とデモの場面では、「社会不安の煽動とSCAPに対する批判」として削除された。

「デモ行進する者たちが、言論の自由や十分な食料を要求する膜やプラカードを掲げ、沿道で見ている者たちが歓呼の声を上げ、行進に飛び入りし、といった場面は、SCAPの検閲制度に対する批判と労働争議の奨励を示唆する」というのがこのメモを書いた検閲官の説明だった。

 ならず者のスト破りが出てくる場面も大幅にカットされた。

天皇制支持の超国家主義者との関連を示唆するというのがその理由だった。こうした場面は、主要登場人物の一人がスト破りたちに、「アメリカのギャングを想わせる手法」で袋叩き似合うところもあり、必然的に「とうまわしのアメリカ批判」になる、というのである。

 またカメラに背を向けた男が街娼と交渉しているほんの短いショットと、キャバレーの壁にハリウッド女優のポスターや破棄人のヌード写真が飾られている部分についても「戦勝国に対する批判」と道徳的腐敗の「共産主義的」強調であるとみなした。

 CIE係官たちは、銀幕上のキスシーンは自由であり、民主的だと受けあったが、相手かまわぬ接吻とジルバなどの夜の娯楽とが混じったこの映画のシーンは

「このような公共の場での愛情表現はアメリカの影響であることを示唆し、合衆国に対する批判」になるとした。 

 検閲官を怒らせたのは、占領下の社会的政治的状況をあからさまに描写したシーンが多かったのだが、「戦争と平和」は最初から最後までお涙頂戴の反戦ドラマである。

 戦時公報が出て何年もたってから中国から帰還した主人公が、妻がすでに自分の親友と結婚していたのを知る。親友のほうも、中国での戦争体験によって、精神に異常をきたすほどの深い傷を負っているが、主人公の息子にとってはすでに事実上の父親である。

妻はこの悲惨な生活条件の中で2度目の家庭を内職をして支えている。そして観客はそれぞれの心に焼き付いているたくさんの光景が映し出される。

~~戦闘の恐怖、中国人の苦しみと寛容、東京の空襲、不潔極まりない戦後の生活環境、たくましい浮浪児や子供のような売春婦、旧軍人の腐敗、食うや食わずの生活から快楽主義への逃避。このすべての悲惨と腐敗の責任はいったいどこにあるのか?

 映画は~コレが検閲官の気に障ったのだが~その責任は、戦争に向けて天皇中心の社会教化をうまく利用した「強欲な者たち」にある、とこたえていた。

 戦争のショックから精神を病んだ復員兵が、自分の置かれた苦境に気づき、狂気に駆られ、再び戦場にいると勘違いして「天皇陛下万歳」と叫ぶ場面について、検閲官はこれを「SCAPに対する批判」と判断した。

 「SCAPは天皇制を承認しており、この場面は、天皇を想っているのは正気をなくした元兵士だけだと示唆することによって、天皇制を軽視する試み」というのがその理由だった。

 こうした削除にもかかわらず「戦争と平和」は公開され(17か所、30分削除)敗戦後の日本を描いた最も気骨のある映画となった。この時代の苦悩、汚らしさ、緊張、希望、情熱、をハラワタで感じたまま伝えたことでは、実に稀有な映画だった。

~~

戦争と平和」でも、最終的にあの時代の政治的社会的雰囲気を正しく伝えることができなかった。

>理由は単純で、そこにアメリカ人がなかったからである。占領は存在していなかった。外国の権威がそこに見えなかったからだ。

特に占領初期には、映画作家、写真家、さらには視芸芸術家たちも、アメリカから目を背けるように指示された。

>この禁止令にも例外が許されることはあったが、それは健やかで優しい征服者の姿が映し出される場合だけだった。

 映画監督の山本嘉次郎が、占領終了して間もなく当時の東京での撮影がどんなに難しかったかを回想している。

すっかり焼け野が原になったとなった土地はもちろん、米軍兵士、ジープ、英語の看板、占領軍に接収された建物など、すべて写してはならないことになっていた

山本の映画台本の一つから「焼け出された」という言葉が削除され、別の映画では飛行機の爆音がサウンドトラックから消された。当時の日本では飛行機は飛んでいないのだから、その音は米軍の飛行機を想起させるしかない、占領に対する批判を意図するものと解釈された。

「占領下」のスクリーンは、新しい創造の世界を映し出すだけではなかった。

あるはずのものを見えなくした。

 >しかしこの公式な規制緩和を誤解してはならない。

>なぜなら1947年以降、検閲は新しい衣装をまとい、1949年にも終わることがなかったからである。実際増殖し続けるCCDきこうは、数の上でピークを迎えたのは1948年だった。

リベラルな高官がGHQを去って保守的なテクノクラートがその後任に就任するに応じて、検閲はより厳しく、恣意的で、予測不能になっていった。

特に印刷媒体については隠微で陰険になった。出版社、編集者、作家の多くは検閲が事前から事後になったことで自由になったと感じるどころか、それまで以上の恐怖を感じた。

すでに発行された新聞、雑誌、書籍、が占領軍当局に不許可と判断され、回収を命じられた場合、その経済的打撃は痛烈だったからである。

経済的不安感があるとき、検閲があいまいで恣意的であることはSCAPの目的に特に都合よく作用した。すでに市場に出た商品が検閲にひっかる危険をあえて冒せる出版事業者などほとんどいなかったからである。

>その結果、占領が進むにつれて、用心と自己検閲はますますあからさまになった。

>この委縮戦術はほかの形でも現れた。

プレスコード違反ではないが、どうも好ましくない、と思われた記事については、留め置いたり、わざとどこかに置き忘れたりして、締め切りを台無しにするという手をつかうGHQ高官がいた。日本共産党機関紙赤旗からCCD に提出された物議を醸し出しそうな記事にはよくこの手が使われた。

 また、占領期間中ほぼ一貫して供給不足だった紙の配球に非公式に手心を加えることで、GHQ高官が出版社に褒賞や罰を与えることができた。

 もう一つ呼んでいいもの悪いものを決めるうえでGHQの行使した陰険な影響力が、外国図書の翻訳許可である。これにはCIEのブラウンのかの承認が必要だった。

 もっとあからさまな手段としては気に障る作家や編集者を即刻首にせよと要求することもあった。

~すなわち沖縄は、その戦略的好位置のために、アメリカによる極めて厳しい管理の下、秘密のベールにすっぽり覆われたまま連戦化の大規模軍事基地へと変貌させられているところだった。

>占領期を通して、というより、1955年になる間で、沖縄についてのニュースや論評は報道メディアに一切登場しなかった。

事実上目に見えない県である沖縄の流刑地としてのイメージは、誠に説得力があった。←W、雑誌の発行責任者は編集責任者を解雇しないと沖縄に送ると恫喝された。

 日本評論と改造の事件はあからさまにイデオロギー的でもあった。

それは、検閲の主たる標的がすでに右翼思想ではなく、左翼になったことをはっきりと示していた。メディア界ではそれは秘密でも何でもなかった。デモクラシーの新たな敵として左翼にはっきりと照準を定めるプロセスに他ならなかった。

このとき、事前検閲の対象として残された28の定期刊行物のうち(合計60万部)、26誌は進歩的左翼的出版物だった。極右は2誌だけ合わせた発行部数は約4000だった。

日本のオピニオン誌としてもっともよく知られている雑誌が含まれていた。

中央公論(8万部)、改造(5万部)、世界の動き(5万部)毎日新聞社発行の週刊誌、世界評論(5万部)、世界(3万部)

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