反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第7回。Japan in the Wake of World War Ⅱ「敗北を抱きしめて」ジョンダワー、上巻。下からの「革命」(食料メーデー)に対して勝者が、民主革命を実現する手段として許されるものと許されないものとの間に明確な一線を引いた。

     第8章 愛される共産主義者と急進化する労働者
 1946年、野坂は、戦時中の軍国主義的なレトリックを戦後の新しい目的に見事に転換して、「いわゆる愛国主義者」を国家を滅亡させた張本人であると厳しく批判すると同時に、「共産党員こそが真の愛国者であり、真の民主主義の護衛隊である」と宣言したのである。

 採決された綱領には、日本共産党は、現在進行しつつある、我が国のブルジョア民主革命を平和的に、かつ民主主義的方法によって完成することを当面の基本目標とする」と書かれており野坂の影響が色濃く反映されていた。
 天皇制を国家の制度とすることには従来通り反対だが、真の民主主義体制が実現した場合に、天皇を宗教指導者として認めるかどうかという、より大きな問題については、一般人民党表に委ねることも可能であろうと提案した。
 

 1945年の暮れには労働組合員は約38万を数えた。
 翌月にはさらに100万人以上の労働者が組合に加入し、
 1946年の終わりには560万人、
 1948年半ばのピーク時には、670万人にも達していた。
>この時期には非農業労働者の半数以上が組合に加入したことになる。
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  W。参考資料 参考資料 Business Labor Trend 2016.2
厚生労働省が昨年12月24日に公表した平成27年(2015年)の「労働組合基礎調査」結果で、推定組織率は前年を0.1㌽下回る17.4%となった。労働組合員数は988万2,000人で、前年の984万9,000人より3万3,000人(0.3%)増加している。
労働組合員数は6年ぶりの増加だ。
特に女性の労働組合員数が、前年より6万6,000人増加し、312万人となった。
また、パートタイム労働者の労働組合員数は、前年より5,000人増加し、102万5,000人となり、初めて100万人を超えた
    推定組織率は17.4%に低下
   労働組合員数(単位労働組合)を産業 別 に 見 る と、
「製 造 業」 が261万8,000人(全体の26.6%)と最も多く、
次いで、「卸売業、小売業」133万7,000人(同13.6%)
公務(他に分類されるものを除く)」87万人(同8.9%)などが続く。
対前年差を見ると、増加幅が大きかった産業は、「卸売業、小売業」5万5,000人(4.3%)増、「宿泊業、飲食サービス業」3万7,000人(20.9%)増などである。
「連合」が689万1,000人(前年に比べて4万4,000人増)、
全労連」が80万5,000人(同1万4,000人減)、
全労協」(全国労働組合連絡協議会)が11万7,000人(同5,000人減)となっている。
     全国労働組合連絡協議会 (1989-) - Wikipedia

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   引用に戻る
「>当時のインフレの影響はかなり深刻で、人々の生活をむしばみ始めていた。
ホワイトカラー層とブルーカラー層の賃金格差が縮小し、ホワイトカラー層の組合加入が目立つようになった。
>民間に比べ公的部門の給与体系がかなり劣悪であったため、特に公務員は共産党の掲げる攻撃的な主張を受け入れるようになっていた。

 

 1946年初頭から1950年末まで
労働争議が6432件、1900万人以上の労働者が参加した。←W。年間、1350件
この中には3048件のストライキが含まれ、500万人の労働者が参加している。
>しかし、争議は賃上げ要求に反するものが半数以上を占め、比較的短時間で終わっている。
*このような労働組合の組織化が進んだ背景には、かつての総力戦への動員のために労働者が様々な会社や産業レベル、また全国レベルで組織されていたという事情があった。
敗戦後お国のために奉仕するという戦時中の大義名分が失われると、既存の労働組合や全国的な連合体は、政治的左翼の動員体制にいとも簡単に取り込まれてしまった。

*同時にもっと驚くべきことは、生産現場の労働者が急進化して、労働外部で、
<生産管理>という過激な運動を推進していったことである。
共産党社会党も公式には支持していなかったにもかかわらず、
個々の企業の従業員が自主的に、事務所や工場、鉱山を占拠し、企業オーナーや経営幹部に相談することもなく操業を続けたのである。
読売新聞、京成電鉄、三井美唄炭鉱を巻き込んだ最初の生産管理闘争は、すべて1945年後半の数か月に発生している。
運動は労働者が自分たちの要求を達成し、占有していた経営機能を手放すことで鎮静した。労働者のこの行為は、企業のオーナーや経営者がわざと経済復興を遅らせ、アメリカによる日本の民主化を断念させようともくろんでいるという信念に基づくものだったからである。労働者は生産を続行することで経済危機の解決に貢献したいと強く願っていたのである。
しかしそれにもまして、生産現場を占拠する経験と通じて、労働者はそれまでの経営者の独占事項とみなされていた基本的決定を自分たちの手で行えるという自信を深めた。
~~いずれの場合も、問題は下からの革命が旧来のブルジョア的な労働慣行、選挙政治を本当に脅かしてしまうのではないか、という点にあった。

 

      赤旗の海に囲まれて

革命の波が高まっているという印象は、1946年春にはますます強くなった。当時の状況を振り返って吉田茂は「赤旗の海に囲まれながらの組閣であった」と感慨深げに語っている。

吉田が敬愛する日の丸の掲揚が征服者によって禁止された後、わずかの間とはいえ、それに代わって町々にたなびいていたのは赤旗だったからである。

 1946年4月総選挙

363の政党から2770人もの候補者が立候補した。

立候補者の95%は新人候補者であったが、その半数以上は5大政党のいずれかに属しており、

敗戦直後の政治・食糧・病気

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>特に保守系候補は、追放された政治家たちの選挙地盤を引き継いでいたために、有利な立場に立っていた。

http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/sankei-kiji.htm

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これに対して左翼系の候補者は、新たな地盤つくりに苦労していた。

日本社会党 - Wikipedia

引用

「945年に新生日本を社会主義によって切り開いていくべく[7]、第二次世界大戦中に身を潜めていた

社会大衆党 - Wikipediaを中心とする戦前の無産政党や労働運動関係者、社会運動家らが安部磯雄らに呼応して結集し結成された」

ja.wikipedia.org

戦前、多方面にわたって活躍した政治家である。Wは名前だけしか知らなかったが、すごい人である。

  野球との関わり

引用

「1901年には早稲田大学野球部の初代部長に就き早慶戦の糸口をつくっただけでなく、日露戦争まっただ中の1905年には同部で野球史初の海外遠征を強行し、野球発祥国アメリカで行われている数多くの技術・練習法などを持ち帰った。安部らはこれを早稲田部内の秘伝とせず著書や指導などによって日本全国に伝えた。これによって日本の野球技術発展の基礎をもたらした。また嘉納治五郎らとともに大日本体育協会を創立した。  

1930年東京六大学野球連盟初代会長就任(1932年の早稲田大学野球部の連盟脱退問題で引責辞任)、1946年日本学生野球協会初代会長就任。

こうした数々の功績から「日本野球の父」「学生野球の父」と呼ばれる。早稲田野球部の本拠地であった戸塚球場は安部が創設者大隈重信を説得して築いたもので、没後「安部球場」、合宿所を「安部寮」と名称を改められた。没後の1959年、この年創設された日本野球殿堂入り(特別表彰)。また2015年には安部球場から移転していた練習用グラウンドの東伏見野球場が安部の生誕150周年を記念して「安部磯雄記念野球場」の名称に改められている。」

   来歴・人物

1924年に日本フェビアン協会を設立。1928年、第16回衆議院議員総選挙社会民衆党から立候補し、衆議院議員当選連続5回。また東京市会議員も務めた。社会民衆党党首、社会大衆党執行委員長を歴任。

1938年3月3日、右翼団体の指示を受けた愚連隊によって襲撃された(詳細は安部磯雄襲撃事件を参照)。

安部磯雄襲撃事件 - Wikipedia

「テロの襲撃理由は、現在、日本は国家存亡の危機に立っており挙国一致体制を構築しなければならない。社会大衆党は、第一次近衛文麿内閣に対して同調し、国家総動員法に対しても最初から賛成の態度を示している。しかし、これは偽装で実際は社会主義実現の企図を捨ててはいない。社会大衆党国家総動員法に賛成しているのは、総動員体制と翼賛体制を利用して社会主義体制に転化させるためである。偽装転向の中心人物である社会大衆党党首・安部磯雄と同党書記長・麻生久に天誅を加えて猛省を促し、社会主義思想を完全に捨てさせるためだったと主張した。

なお、千々波敬太郎は、警視総監・安倍源基から、安部磯雄と麻生久の襲撃を依頼されていた。」

安倍磯雄 引用に戻る

1940年3月

斎藤隆夫 - Wikipedia

粛軍演説 - Wikipedia

斎藤の演説は、軍部批判にとどまらず、軍部に擦り寄っていく政治家に対しても、強烈な批判を浴びせている。

演説後半では二・二六事件を取り上げ、青年軍人の右傾化と軍人の政治介入を批判するとともに、五・一五事件に対する軍の対応が事件の遠因となったのではないか、と指摘している。

この演説は1時間25分に及ぶ長演説となった。

斎藤は、『回顧七十年』で

「都下の大新聞はいずれも第一面全部にそれぞれ大文字の標題を掲げ、私の演説中の粛軍に関する速記を満載して、議会未曽有の歴史的大演説であると激賞した」

 斎藤が

「が行った反軍演説の議員除名問題で、反対の立場を示し衆議院本会議を欠席すると、書記長麻生久の支配下にあった社会大衆党中央執行委員会により、党首でありながら、鈴木文治、西尾末広片山哲、水谷長三郎らとともに党除名処分を受ける。

戦後は日本社会党の顧問。1949年2月10日、83歳で死去。

なお、同志社時代の1898年に、有志学生と共に日本で初めての大学生協同志社消費組合」を結成している。」

  メーデー

マークゲイン

「大衆は曇り空とは裏腹に歓喜のうちに集まった。わたしは日本でこれほどの熱気と自信に満ちた集会を見たことがない」

メーデー執行部はSCAPあての書簡を準備した。

その中で、官僚、資本家、地主、その他の利益集団が~民主革命(W。封建的独裁的圧政の根絶、世界平和を目指す人民政府の樹立、生活防衛、などの政治内容)の真の敵であると指摘している。

 5月12日には、世田谷区下馬の住民によって小規模ながら「米よこせ区民大会」が開催された。コレが後に第二のメーデーである「食料メーデー」に発展していくものである。

この集会には思いがけず野坂参三が参加し、おそらく愛される革命という新しい思想に心を奪われていたから、自分たちの要求を直接天皇にもっていく以外にないと、驚くべき発言を行ったのである。

皇居では衛視とのちょっとした押し問答の末、デモ隊は警護官と小競り合いになったが、ようやく中にいること許され、赤旗の意味などほとんど理解していない男たちや主婦、そして子供たち総勢113人が、宮内庁代表に面会して自分たちの要求を伝えた。

この前代未聞の侵入劇の際、皇居の台所を見た人々は、そこで当然のことながら、一般家庭の食卓では到底目にすることのない食物を目にしたのである。

コレが東京各地に会った配給所前での食料メーデーデモを引き起こし、さらには1週間後の食料メーデーの口火となったのである。

後日、世田谷区の役人が天皇に詫びを入れる書状をおくったと聞いた地元民は、その役人たちをじしぃくに追い込み、後任は選挙によって選出されたものにするように要求した。コレは草の根のヒト微tの民主主義的な意識が行動になって表れたという意味では印象深いものである。というのも戦前の政治体制の下では、軍部が台頭する以前から、任命職である役人の濃厚なネットワークを通して隅々までに権威的な支配が及んでいたのだが、この時の強力な主婦軍団をも含む地元民によってそれが自邸されたからである。

 しかし5月半ばのこれらの出来事は、思想的に見れば奇怪な矛盾の塊であったことは明らかだ。

その最大の理由は、民衆の抗議運動が天皇へ上奏する形をとったことにある

>5月19日の決議文では、天皇を君主及び最高権力者と位置付けており、国民の意思に沿った適切な措置をとるように天皇によろしくお願いしていた。天皇がそうすることによって、日本を飢餓と後輩に導いた、堕落した政治家、官僚、資本家や地主を排除できる。    

 下からの革命が、思想として混乱状態にあったことがこうした陳情からはっきりとうかがえる。

 あたかもマッカーサー元帥に当てられた手紙が、最高司令官に対するこびへつらいと平和民主主義への賛歌が混ぜ合わさっていたように、左翼を辞任する人々が、奇妙なことに天皇の絶対的権威に訴えかけるという伝統的なやり方を取ることによって、民主的な人民政府を創設を求めるこの運動に汚点を残したのである。

徳田は天皇裕仁と人を冗談の種にして喜んでいたかもしれないが、本当の上段は、彼の党が、この激しい激突の中で、君主制を認めてしまった点になったのである。

 最高権力者である天皇に訴えるというやり方は、時代の流れから見ると異様さが一層際立つ。

というのも、当時は国民主権をうたった新憲法の草案が発表され、男女平等の参政権が認められて初めての総選挙が実施され、さらに職場での伝統的労使関係が問う労働者によって否定され、女性の政治参加た学生による自治拡大の要求が行われていた時だったからである。←W。かなり前のタイの民衆運動と国王の関係に似ている。

 民衆運動側にとって

遥かに重大で予想できなかったのは、SCAPが厳しい態度に出たことだった。

>日本に民主的な政府を樹立する過程で、日本人による『実力行使』がどの程度

まで許されるのかという問題は『降伏後におけるアメリカの初期対日方針』という政策ン文書の中で述べられている。

>最高司令官は自らの指揮下にある部隊の安全並びにその他の基本的な占領目的が脅かされた場合に限り、コレの介入してよいことになっていた。

>それ自体は矛盾に満ちてはいたものの、政府の腐敗と無能力に対する人々の挑戦を象徴する歴史的な出来事であったのに~~~

単なる暴民支配の一歩という汚名を着せられることになってしまった。

>この事件は勝者が、民主革命を実現する手段として許されるものと許されないものとの間に明確な一線を引いたことを告げるものだった。

しかもその境界線は保守派に有利なように魅かれたのである。←W。朝鮮戦争による南北分断、米軍駐留を支持基盤とする独裁政権下の民主化運動と野党の政権樹立まで至る長い運動圏と議会圏の連係の政治過程を想うと、日本のこの時期の歴史は切迫感にかけている、と感じる。日本の戦後史は東アジア東端列島や東西冷戦体制という日本にとって絶好の恵まれた環境を抜きに語れないような気がする。だから、その大状況が大きく変質した条件で日本がどのような化学変化を引き起こすのか、という基本視座が必要になる。            次回に続く