時間不足のためタイトルの問題意識を深化するための資料を挙げておく。
マルクス主義とアイロニー 遠山茂樹における「昭和史」の叙述
パリ・ディドロ大学博士課程 トリスタン・ブルネ
https://www.jpf.go.jp/j/project/intel/exchange/organize/ceeja/report/11_12/pdf/11_12_16.pdf
トリスタン・ブルネについては
専門分野
私の公式な専門分野は、戦後日本における歴史の書き方です。
もっと詳しくいえば、1955年に始まった「昭和史論争」について研究しました。
最近、その経験を経て、日本とフランスの戦後思想史や精神史とその比較について研究しています。
それに関連して、フランスにおける日本のサブカルチャーの受容についても研究しています。
いまから、戦後の精神史に関連するサブカルチャーの歴史を書こうとしています。」
自己紹介・学生へのメッセージ
問題意識の所在を分かり易くするために全面的に引用し注釈する。
はじめに
1955年に出版された、遠山茂樹、今井清一、藤原彰の共著『昭和史』。~~当時ベストセラー~~
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W。1950朝鮮戦争勃発、吉田茂は国会に諮ることなく政令で警察予備隊発足。1951年、サンフランシスコ講和条約、 吉田単独全権委員によって署名され、同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名。1953年朝鮮戦争終了、いわゆる戦後激動期~丸山の云う飢餓民主主義~からの逆コース~~~~読売新聞命名!現時点から修正すると、この用語自体が戦前戦後の東アジア史における日本を無視、切り離した一国主義歴史観。以降、この一国主義情緒史観が続き、アベの安保法制へと収斂。この時期の再軍備は逆コースではなく順コース、つまりノーマルへの復帰。末尾に記されたブルネの日本的歴史観への批判もおおむねこの範疇に収まるものと考える。ジョンダワー敗北を同じ視座。「抱きしめて」カバー見開きキャッチコピー「敗北を抱きしめながら日本民衆が上からの革命に力強く呼応したとき、46年2,1ゼネスト中止改革はすでに腐食し始めていた。身を寄せる天皇を固く抱擁し、憲法を骨抜きにし、戦後改革に巻き戻しの道をつけて占領軍は去った。~~~~が明確になる一方で、いわゆる55年体制における社会党民主化同盟系の支配的なイデオロギー<共産党系も追随>であった反戦平和主義が台頭していく頃、出版された。
なお、この時代から現在に通じる参考資料として最末尾に
フルオープン【7/10 18時半~ライブ配信】「覇権をめぐる米中衝突」が現実に!常時臨戦国の「正体」を露わにした米国と属国日本「朝鮮戦争の正体」が見せる真実!元外務省情報局長孫崎 享IWJインタビューを貼り付けておく。
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全面引用文に戻る。
当時一大ベストセラーとなったこの現代史は、確かにマルクス主義の路線にしたがった歴史書でありながら、執筆者の中で最も令名高かった遠山茂樹の個性的ともいえる歴史学のスタイルが反映されていた。
そこで、今回はとりわけ、この遠山に特徴的なスタイルの本質と意味に焦点をあてて論じることにしたい。
周知のように、戦後の日本では『講座派』のマルクス主義歴史学が熱狂的に受け入れられた。
その理由はおもに二つある。
一つは、
それが明確に民主主義的な立場、すなわち、民主主義を防衛する歴史学としての立場を打ち出したことである。
当時の歴史家の目には、実証主義的な歴史学が中立性に終始するあまり戦争を防ぐことができなかったのに対し、マルクス主義歴史学は民主化を進める歴史学という正当性を保持しているかに映じたのであった。
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W。皇国史観以外の歴史学の中立性なるものを検証していないが、多分無味乾燥な現代史の叙述が続いていた、と思う。
遠山らの昭和史の取り扱い方は、1930年代の講座派マルクス主義文献の発行と同じ位相を持った、それまでの実際の政治闘争が阻害された時期の一種の文化闘争の意味合いがあり、その後の反戦平和意識、とその闘争を積極的に基礎づけた、という意味で先行的な役割を果たした。
講座派マルクス主義の歴史観は次代の民同反戦平和闘争の基礎付けをした。政治弾圧によって押さえつけられたエネルギーが学的世界に出口を求めた。
講座派マルクス主義の歴史分析は大胆で闊達なところがある。
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二つ目として、マルクス主義歴史学が、日本の軍国化と「ファショ化」を説明しうる科学的な枠組みをもっていると観念されたことである。
2. マルクス主義歴史学は大正・戦前の昭和をどう見ていたか。
端的に言えば、天皇制という構造の内部にある限り、政党政治は本当の民主主義ではなく、支配階級の内部での勢力均衡を反映するにすぎないと考えられた。
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W。機械的な歴史観であるが、巨視的に見れば間違いではない。以下、テーマと直接かかわりがないので大幅省略。本文参照。
3. マルクス主義歴史家の役割
重要なのは、マルクス主義の歴史観によれば、戦後歴史学の目的は、日本国民に正しい歴史意識を伝えることだったということである
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W。この手法は現在の歴史修正主義者が使っている。目的は日本と日本国民を元気づけることであり、それを邪魔したり否定する事実は後景化させる。
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この唯物史観に基づく科学的モデル(W.?)は、そこで確立される歴史意識を基礎に国民に自信を与え、日本を民主化とへ導く歴史学であると考えられた。
民主主義で必然的な歴史学である。日本国民は、階級闘争という歴史の客観的な法則や、民主主義の障害という天皇制の歴史的な本質を理解すれば、おのずから民主化するのである
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W。人間存在の本質的不条理、矛盾の発展の戦いを抜きにした啓蒙の同心円的拡大の果てに民主化を妄想している。政治宗教。
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遠山も言うように、新たな現代史叙述は、「歴史を解釈するものとしてではなく、歴史を変革するものとしての歴史学を樹立しようとする意欲の表現」であった(,1952,18 項)。
<4.> 歴史の真の意味をあらわにする物語的な戦略
講座派マルクス主義者による日本の現代史の特徴を探るために、彼らの物語的な戦略に注目したい。
例えば、井上清は現代史の叙述にさいし、それまで天皇制が採用してきた日本史の視点を、闘争の物語によって言語的に逆転する戦略をとった。羽仁五郎の「闘争史」の影響を受けた井上の歴史叙述においては、日本史の真の主体は、支配体制に抗して闘争する国内の様々な集団である。井上が鈴木正四と共著で出した『日本近代史』の大正時代の叙述を読めば、そこでは支配体制である天皇制の時間ではなく、民主主義のために闘争した様々な集団の時間が強調されていることがわかる。この著作の中では、平塚らいてうの新婦人協会や被差別部落の水平社がはたした役割に多くのページが割かれており、まさにそうした人々が、日本の歴史の主体として、歴史の過程において中心的で代表的な運動を担ったのである。
井上の歴史観によれば、日本の歴史は、民主主義を目指す国民の闘争によって構成されなければならないのであった。
同時に井上は、国民や大衆を歴史の発展の原動力とみなすことで、天皇を中心にすえた歴史を日本史から徹底的に排除しようとした。天皇制は日本人の歴史意識を汚染したのであり、歴史における天皇の主体としての立場を奪わない限り、日本国民の解放はやって来ない。些細な点に見えるかもしれないが、その意味でも、井上の歴史学が天皇の即位によって与えられる元号を時代の指標とすることはありえないことだった。井上の歴史学は、闘争を描く歴史であるというだけではなく、それ自体が、闘争する歴史でもあったともいえよう。
それはオーソドックスな科学的な歴史でありながら、日本国民の解放のため、その歴史意識と記憶の奥底に潜む天皇制の残滓に対して戦いを挑んだのである。
W。民衆史観で、自由民権運動以降の昭和史が語れるかという問題にぶち当たり断念した。そうすると、この論文の云う支配階層の動き中心の実証主義歴史記述を採用せざる得ない。ざっくりと総括すると日本の近現代史において民衆が前面に登場する隙間はあまりにも少なすぎた。現代史が忌避される隠れた根拠である。日本の近現代史ほど書かれた歴史は支配層(しかも国内)の歴史である、ということが実証される歴史はない。住民は追従してきた。民衆の動きが歴史の前面に登場しない歴史は細部へのこだわりや、英雄崇拝は出てきても、普通の人に解放感を与えない。だから、井上清や遠山の積極的な塗り替え歴史観や中世史家の斬新な歴史への切込みが話題になる。司馬遼太郎史観がもてはやされるのもこの一環である。
<5.> 遠山茂樹の現代史のスタイル
遠山茂樹(1914-2011)は、
本質的にマルクス主義の歴史家であったといえる。遠山も、講座派的な観点に基づいて日本史の解釈をおこなった。とはいえ、1955 年に出版された現代史のベストセラー『昭和史』を読めば、彼の歴史学のスタイルが井上のものとは異なっていたことがわかる。講座は歴史観は大胆闊達で面白い。
遠山の歴史は、天皇中心の歴史と闘う歴史ではなく、
その歴史を実際に経験した読者の共感をうることを目的としていたのである。
確かに、『昭和史』のはしがきからは、彼の歴史学が支配階級と国民の対立に焦点をあてた典型的な講座派の歴史学であることが明らかにみてとれる。
なぜ私達国民が戦争にまきこまれ、おしながされたのか、なぜ国民の力でこれを防ぐ
ことができなかったのか。
かつて国民の力がやぶれざるをえなかった条件、これが現在とどれだけ異なっているかをあきらかにすることは、平和と民主主義をめざす努力に、ほんとうの方向と自信をあたえることになるだろう(遠山,今井,藤原 1955 ⅱ)。
重要ポイント*********************************W。閉鎖性の強い政治空間と経済グローバル化の矛盾を現状分析の基本視座に据える遠山の手法は、現状分析に使える。
>イ)ある時期から経済のグローバル化とロ)政治空間の閉塞化が世界共通現象になってきた。
1つはコレ。
>ハ)もう一つの基本視座は、経済グローバル化がもたらす経済政治覇権の急速な転換による大きな摩擦。
さらに
>ニ)以上3相互矛盾の激化を推進していくこと。
そのいみで、遠山の「なぜ私達国民が戦争にまきこまれ、おしながされたのか、なぜ国民の力でこれを防ぐことができなかったのか。」という問題意識は個人としても国民としても空虚なアドバルーンに過ぎない。
世界戦争過程の推進がなければ中国、朝鮮の分断独立や日本の一定限度の「民主化」、高度経済成長甘受、国内資産累積アベノミクスはなかった。コレがあからさまな現実。
@この記事が描く遠山茂樹の歴史にはレーニン的な世界市場の再分割戦という帝国主義論の見方が欠けているように思われる。
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遠山が昭和史の執筆にさいしてこの出来事を出発点とした理由は、
①<天皇制の枠組みの中で日本国民が経験した歴史>*(すなわち国民の集合的記憶)*と、
②実際に国民を戦争へと導いていく客観的な下部構造の働き
③とのあいだの距離*を表そうとしたからであった。
必然的に悲劇へと突入する歴史の過程において、
①<天皇制の枠組みがもたらす歴史意識>は、
*国民と支配階級の双方を巻き込む幻想*にすぎなかった、というのである。
>遠山は、@<読者の記憶の中に存在する天皇制>を、
↓
アイロニーによって表現しようとしている
>そうした手法を通じて、読者の経験した歴史に触れようとしているともいえるだろう。
@天皇制の時間によって形成された日本人の集合的記憶に触れるために、あえて天皇制の時間を参照し、
@日本国民の集合的記憶がもつアイロニカルな本質を提起する。
「①かつて歴史はこのように語られた。これほど素晴らしい未来がやってくるはずだった。
みなさんも覚えているでしょう。
②でも結局は、正反対の結果に至ったのです。
③その理由はこうです」
遠山はこのように読者に語りかけ、
彼らの記憶の奥底に触れようとしたのであった。
遠山茂樹の歴史学のスタイルとは、支配階級の歴史意識を混乱した無意味なものとして表象しつつ、彼らが科学的な歴史観を持ちえなかったがゆえに(W。?)、その統治が日本を破局へと導いたこと、幻惑的な歴史によって国民を欺き、みずからの利益の増大を量りながら、彼ら自身、非科学的な歴史観に捕われることによって、アイロニカルにも、自身を含むすべての日本を壊滅させたことを表現するものである。
だが、戦争へと至る大正と昭和の歴史は、支配階級のみならず、被支配階級にも共有されていたのであり、
>遠山のアイロニーは、天皇制の統治下にあった国民自身の経験、歴史意識の混乱にも叙述をもたらそうとする。
W。「意識が存在を規定するのではなくて存在が意識を規定する」。遠山はこの関係を転倒させている。
『昭和史』が五・一五事件(W。戦艦建造比率英米10対日本8に軍縮交渉に不満を持つ海軍士官の犬養毅首相暗殺、統帥権干犯右翼イデオロギー流布)に触れた後、永井荷風の日記を引用するのはそのためである。
永井荷風は「つらつら思ふに今日吾国政党政治の腐敗を一掃し社会の気運を新にする
ものは蓋武断政治を措きて他に道なし。(省略)」と日記に記した。
国粋主義には縁遠い思想をもち、後年同じ日記に軍人の横暴を強くののしった荷風が、満州事変直後、このようにのべているのは、五・一五事件におどろきながら、被告の言動にある共感をもった、国民のかなりの部分の感じ方を代表するものであった[後略]~W。法廷を傍聴する老婆はどうか減刑にしてやってくださいと泣き叫んだ!~「敗北を抱きしめて」参照~
そして軍部と政党・重臣・財閥との間の政治的摩擦が、対立として眼にうつりやすく、そこから軍部や右翼の財閥攻撃の言辞が何か「革新」を意味するかの幻想を生みがちであった(遠山,今井,藤原,前掲書 ,73 項)。
ここで強調されているのは永井荷風の実感のアイロニー的な側面であるが、それは「国
民のかなりの部分」の主体性の本質をなすものとして提示されている。歴史の主体たる国民は、天皇制に対して論争を挑んだ労農階級だけでなく、知識階級や中間階級も含まれる。
『昭和史』が再構成しようとする歴史意識とは、広い意味で捉えられた日本人の主体性であり、それを基盤にしつつ日本人の集合的記憶に触れることで、読者の共感を誘う歴史叙述が目指された。
当然ながら、こうしたアイロニーは、典型的な講座派的唯物史観が指摘するような、天皇制の矛盾の膨張を表現している。
>だが遠山の歴史叙述では、それがもっぱら戦争を経験した読者の記憶につながるための手段として使われている。アイロニーは、その効果として読者を納得させ、感動させるための物語の核心的な手段と化す。
遠山はこうして、国民の大多数が、みずからの記憶と合致する歴史的な構造を受け止め、心を動かされる歴史を書こうとした。
W。一方で、「敗北を抱きしめて」のジョンダワーは日本敗戦前後の歴史過程を豊富な米側資料を駆使してあからさまに描き出すことによって、結果的に日本の読者に今も米主導の戦後世界体制組み込まれた日本内外の現実構造が続いていることを宙吊りにして見せた。従ってこの書に描かれてい戦間期敗戦直後のリアルな事実は日本の読者にとって完璧なアイロニーになっている。
他方、米国の読者には逆に現日本に対しても宗主国アイロニーの効果を果たしたのでないか。
引用
「2016年8月15日、ペンシルベニア州での演説で、
核保有容認発言に対してドナルド・トランプ、への批判のために「(日本が)核保有国になり得ないとする日本国憲法を、私たちが書いたことを彼(トランプ氏)は知らないのか」と発言。
>アメリカ政府の要人によって、アメリカによる日本国憲法の起草を強調することは異例である。」W。日本国憲法の存在ゆえに日本が核保有をできないのではない、とおもう。
このようなアイロニーは、歴史意識の混乱を抽象的に階級によって焦点化するだけではなくて、個人の内奥に潜む感情を表現するパターンとなる。遠山の歴史叙述は、国民の記憶と歴史意識にとって意味の喪失として経験された戦争を、機械論的の講座派マルクス主義の歴史学の分析につなげることができる。
<6.> 遠山のアイロニーの失敗
だが、遠山のアイロニカルなマルク主義歴史学は、失敗に帰したと言わざるを得ない。出版直後にベストセラーとなった『昭和史』であるが、それは評論家の亀井勝一郎の激しく批判の的となった。
亀井は戦争のプロパガンダに参加した浪漫派の知識人で、戦後になって再び転向した人物である←W。戦後再転向は誤り。亀井は職業的転向者である。だから、昭和史を攻撃する。引用「1927年(昭和2年)には「新人会」会員となりマルクス・レーニンに傾倒し、大森義太郎の指導を受ける[2]。社会文芸研究会、共産主義青年同盟に加わり、翌1928年(昭和3年)には退学[2]。
同年4月20日には治安維持法違反の疑いにより札幌で逮捕され、市ヶ谷刑務所と豊多摩刑務所に投獄され、1930年(昭和5年)10月1日に転向上申書を提出し、10月7日に保釈される。その後、1933年(昭和8年)12月、懲役2年(執行猶予3年)の判決を受けた。
この間、1932年(昭和7年)にはプロレタリア作家同盟に属すが、翌年には解散。以後、同人雑誌『現実』(1934年)、『日本浪曼派』(1935年)を創刊し、評論を発表する。1934年、最初の評論集『転形期の文学』を刊行。」
引用終わり
よく知られているように、亀井にとって我慢ならなかったのは、『昭和史』の叙述があまりに人間性を欠いているように思われたことであった。
読み終ってまずふしぎに思ったことは,この歴史には人間がいないということである。
「国民」という人間不在の歴史である。個々の人間の名は出てくる.敗戦に導いた元
兇とか階級闘争の戦士の名は出てくる。ところがこうした歴史に必ずあらわれねばな
らない筈の「国民」が不在だ(亀井,1956,63 項)。W.遠山「昭和史」を読んだことはない読む気もしないが、亀井の期待する国民像が描かれていないだけだろう。庶民は過去も現在未来も一所懸命生きてきたしいきていくが合成の誤謬は巨大なものである。それが遠山の読者共通する体験と記憶を呼び起こし過去に対するアイロニーを掻き立てる戦略である。
亀井は『昭和史』を典型的な講座派の叙述としてみなしていたのであり、その批判の矛先は、遠山の歴史学というより、講座派の現代史解釈そのものに向けられていたといえるだろう。亀井は文学者として、遠山の歴史叙述を、人物の描写が薄っぺらく、官僚が書くような
悪文で 、人間ではなく階級のみを扱った歴史として批判したが、その真の敵は、講座派全体の歴史解釈とスタイルである。
しかし、亀井は、遠山と講座派的なマルクス主義歴史学一般を同一視することで、
>アイロニーによって表現される『昭和史』の「人間性」(読者のアイロニー的な記憶と結びつき、共感をえようとする物語的で文学的な戦略)を完全に捉えそこなったのだといえる。W。なかなか鋭い指摘である。
@遠山の現代史叙述は、唯物史観が無視しがちな政治的事件や軍事的な出来事に注意を払いつつ、アイロニーによって、現代史そのものを満身で経験してきた読者の記憶に触れようとしている。
天皇制に汚染された歴史は、その目的に反する結果しか生み出さず、よって事態はアイロニーによって、風刺として表現されるしかないということ、それが遠山の叙述を通し、伝えられるはずであった。
つまり、遠山の考えた「人間のいる歴史」であった。
興味深いことは、1952 年、遠山自身が、政治的事件や人物描写を欠く歴史を「人間不在」な歴史として批判いたということである。
彼らの歴史には、どこにも人間の姿が出ておらず、階級闘争のぶつかりあう響きは聞
こえない。人間のいない、法則だけの世界。だがそれは歴史ではない。歴史にあって
は、法則は人間のあり方を通してのみ実現する。人間を語ることなしに、法則だけを
取り出すことはできぬはずだ(遠山,前掲書,18 項)
>亀井の批判が、井上清ではなく、『昭和史』に向けられたのは不思議としか言いようがない。
イデオロギー的には真逆の立場にいたとはいえ、亀井も遠山も、彼らが想像した日本国民の歴史への「意欲」に応答し、彼らに受け入れられる歴史を書くためには、そこに人間性を組み込むことが不可欠だと認めていた。両者にとって、人間性のない、人間を描かない歴史は、専門家には受け入れられたとしても、国民たる日本人の心を掴むことは到底できないと考えられていたのである。その主張は、歴史上の人物だけでなく、歴史書を読む人々の人間性に触れるような叙述をすべきだ考える言う点で、共通していた。
当然のことながら、亀井と遠山が人間性という言葉で指し示していた内実は異なる。
亀井にとって人間とは美学的に定義される日本人のことであり、他方、遠山にとっては階級的人間のことである。
>だが人間性が、歴史家、読者、叙述される歴史上の人物にあまねく触れるものとして観念されたされたという点では同じである。
W.以下は込み入った表現だが的を射ている!一国主義的情緒的歴史共同体意識に日本人は存在意義を求めているということができる。ゆえに昔は鎖国近代化、戦後は、激動アジアの兵站基地化の特殊な歴史を歩んできたがゆえに激動東アジア地域の歴史を取り込めないからから遊離する。
>もちろん、こうした共同性の背後には、
>*日本人の記憶の枠組みとその枠組みに対する日本人の感受性*を、
>*日本人のアイデンティティー*
>と同一視するという姿勢があり*、
>*それが戦後日本の歴史観に遺贈されてしまったのだ*
と言うことはできる。
>いずれにせよ、結局、『昭和史』をめぐる論争は 1960 年、解決にいたらぬままに立ち消えになった。W。高度経済成長の始まりがこういった論争の基盤を軟弱にした。硬派の時代がナンパの時代が始まりつつあった。
遠山と亀井の歴史観がイデオロギー的に対立していた限り、両者はそのままのかたちでは交わることはありえなかったであろう。
*だが彼らの論争によって、歴史、特に戦争の歴史を書くさいには「人間性」を反映するべきだという論調が起こり、以降の現代史叙述に強い影響を与えることになった。W。歴史修正主義台頭のころを指しているのか。
>注意すべきは、亀井と遠山の論争は、「人間性」の定義は異なれど、
>それが日本国民の歴史への「意欲」を国民的アイデンティティーの構築と結びつけたことである。W。司馬遼太郎史観もこの一種。司馬遼太郎のものは歴史は歴史として冷めた目で事実資料を探究する裏付けがあるから面白い。
>論争の場における最大公約数はここにあったのだということができる。
最後に、一個のアイロニーとして言及しておきべきは、
>遠山自身が、この論争おいてみずからの歴史学を弁明するにあたって、
*その科学性(唯物史観にしたがった歴史叙述)を前面に打ち出したことで、
>結局その「人間性」にとって核心とも言えるアイロニーを徐々に消失せしめたことである。
1959 年に出版された『昭和史』の新版は、ここに、考えうる限りもっともオーソドックスな唯物史観の書物となった。
W。遠山茂樹はその経歴、大胆で柔軟な視座から推察すると徳田球一ら日本共産党所感派に近い学者のような気がする。
フルオープン【7/10 18時半~ライブ配信】「覇権をめぐる米中衝突」が現実に!常時臨戦国の「正体」を露わにした米国と属国日本「朝鮮戦争の正体」が見せる真実!元外務省情報局長・孫崎享氏インタビュー後編