引用
「最も印象的なのは、これらの学識経験者たちが、何千万という普通の日本人が「民主主義」をどんなふうに理解しつつあるか、彼らが何を望む、何を受け入れる意思があるかについてまったく無関心であったことである。彼らが憲法改正のために唯一参照したのは、明治憲法そのものだった。
その他の憲法モデルを無視したばかりか、当時民間グループが発表していた憲法草案を検討することさえなかった。wacwac注①
委員会は、島国的な自己満足と近視眼的な専門知識の哀れな一例として、歴史のその名を残すことになった。
*1W注①
「敗北を抱きしめて」引用
「近衛や松本の憲法改正プロジェクトのほかにも少なくとも12の憲法修正案が1945年秋から1946年3月にかけて提示された。
そのうち4つは政党によるものであった。
公表された順番で言うと
>民間団体や個人から提出されたものもあった。
憲法研究会
引用 「敗北を抱きしめて」
「この団体はリベラルで左翼的な知識人から構成されており、大内兵衛、森戸辰男、すなわち戦時中にその異端な見解ゆえに東京帝国大学から追放されていた二人の著名な学者も含まれていた。」
>「こういった憲法論議に加わった個人の中で、高野岩三郎ほど影響力を持っていたものはいない。W。今までその名を知らなかった。
高野岩三郎 - Wikipedia1871年10月15日(明治4年9月2日) - 1949年(昭和24年)4月5日)wacwac. エリート学者には珍しく局面局面で己の主張に忠実な人生の選択した。
「大学は兄のアメリカからの仕送りで何とか卒業できたという。」
↓
二村一夫『高野房太郎とその時代』(100) 岩三郎 ─ 兄への想い オンライン版書き下ろし連載
wacwac。クリックすると電子書籍として読める。
目次を見ただけで貴重な著作と直感した。
波乱万丈のスケールの大きな生涯。あの時代にこんな人がいたのだ。いや、あの時代だからこそ、か。渡米した高橋是清は訳の分からぬままサインしたら、奴隷として売られ各地を転々として働かされた。幸い房太郎が現地で最初に出会った家族は親切な人たちだった。末尾に配した『囚われたる民衆』からの解放」高野岩三郎に高野岩太郎関連で兄の生涯について触れられている。
二村一夫『高野房太郎とその時代』(100) 岩三郎 ─ 兄への想い オンライン版書き下ろし連載
の内容から、『高野房太郎とその時代』は信頼できる。長編である。
W未読。
1. 生い立ち ─ 長崎時代
(3) 高野家の人びと
(4) 豊かな町・長崎
(7) 文明開化の子
2. 生い立ち ─ 東京時代
(9) 明治初年の東京
(10) 長崎屋繁盛記
(11) 東京の小学生
─ 千代田学校のこと
(12) 父の死
(13) 長崎屋炎上
(14) 越境入学
─ 江東学校へ
4. アメリカ時代
(23) ニューヨーク号の船旅
(26) アルバート・ブレイトン家
(29) 破綻の原因
(33) 「材木伐出場」起業計画
(34) サンフランシスコ商業学校
(35) 職工義友会の創立
(36) 日本最初の労働組合論
(37) 読売新聞の社友として
(30) 労働運動への開眼
(41) ルーシーからのラブレター
(42) 東部への旅 ─ シカゴ万博
(43) 東部への旅(2)
─ グレイト・バーリントン
(44) ニューヨークにて(1)
─ アメリカ海軍へ入隊
(45) ニューヨークにて(2)
─ 組合指導者との文通
(46) ニューヨークにて(3)
─ ゴンパーズと対面
5. 軍艦で世界一周
(48) 東回り航路(1)
─ 大西洋~地中海
(49) 東回り航路(2)
─ スエズ運河~紅海
(50) 東回り航路(3)
─ アデン・コロンボ・シンガポール
(51) 東回り航路(4)
─ シンガポール・香港・アモイ・長崎
(52) 渤海・黄海・長江パトロール
(53) 〈戦時特派員〉に化けた房太郎
(54) 帰 国
6. 労働運動家時代
(90) 治安警察法公布
(91) 運動方針をめぐり対立
(92) 鉄工組合の壊滅
7. 終章
(94) 運動からの離脱
(95) 動乱の中国へ
(96) 青島に死す
(97) 「失敗の人」か?
(98) 日記から読み解く房太郎の日常
(99) 遺された人びと
>(100) 岩三郎 ─ 兄への想い
その1.後に東大総長となる小野塚喜平次らと社会政策学会を設立、学会内の最左派として活動した。また日本文化人連盟を結成。東京帝大では法学部からの経済学部独立に尽力した。弟子には森戸辰男、大内兵衛、舞出長五郎など、のちに著名となる多くのマルクス経済学者がいる。
その2.1919年、東京帝国大学経済学部成立の年に政府の要請により国際労働機関 (ILO) 代表に任命されたが、大日本労働総同盟友愛会などは労働界から選出すべきであると非難(国際労働会議代表反対運動)、同じ意見を持っていた高野は本来無関係のはずであったが筋を通して日本代表とともに東大も辞職した。
その3.翌1920年、請われて大原社会問題研究所の設立に参加。設立時から没年まで所長を務める。大原社研では日本最初の労働者家計調査を実施、労働問題を研究。28年12月日本大衆党が結成され委員長となるが、翌年同党は分裂。
その4.憲法草案要綱は、のちに連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) で憲法草案をつくる際に参考とされ、日本国憲法との類似点が指摘される。高野はこれとは別に大統領制・土地国有化などを盛り込む日本共和国憲法私案要綱を発表。自身の所属する憲法研究会を含め、天皇制存続を容認する潮流を「囚われたる民衆」と称して批判、天皇制廃止を主張した。
その5.敗戦後、GHQによる厳しい検閲に協力した5100名にも及ぶ日本人グループのリーダー格だったのが高野であり、このことが、高野の戦後初代NHK会長就任につながっている[4]。NHKの会長に就任した高野は1946年4月30日に行われた就任挨拶で「権力に屈せず、大衆とともに歩み、大衆に一歩先んずる」とする放送のあり方を説き、民主的なNHKを目指したが、GHQの占領政策が反共に転換したこと、任期半ばにして高野自身が死去したことで挫折してしまった。
その6.妻はミュンヘン留学中に知り合ったドイツ人女性バルバラ・カロリナ[5]。滞在中の1902年に娘のマリアが誕生し、1906年に日本で入籍[5]。マリアはマルクス経済学者の宇野弘蔵と、妹の正子は物理学者の野上茂吉郎[6]と結婚した。茂吉郎の両親は野上豊一郎・弥生子夫妻[6]。
東京における“イースト・ロンドン”*W。高野自身の英文をの翻訳
高野 岩三郎[山本 潔訳・解題]
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10199934_po_645-04.pdf?contentNo=1&alternativeNo=
wacwac。イーストロンドンとはジャックロンドン「どん底の人々」未読。『火を熾す』~面白い!アラスカの物語。アラスカ体験による描写が実にリアル。最後は凍死したのかな?~が潜入取材し発表した貧民街。
カールマルクスの著書にも描かれている。
wacwac。その年代の下層を知る上で非常に興味深い!じっくり読んでみたい。もっともプロレタリア文学の愛好者だったのでおおよそのことは知っている。
目 次
緒 論
§1.イースト・ロンドン短描
§2.東京における三つの典型的貧困地域
a.下谷の万年町 b.四谷の鮫ケ橋 c.芝の新網町
§3.貧民の状態についての諸資料
貧民の状態
はじめに
§1.地域の全般的考察
§2.住民の5階層への分類――以下の報告の範囲
§3.必需品の状態
a.衣服と寝具 b.食料(魚・野菜),明り・燃料 c.住居(家賃・構造等) d.健康・病気 e.窮
民の日々の支出
§4.仕事
a.仕事の種類 b.労働の時間 c.収入
<Wの戦後史>を理解する上での重要人物、要件が記載されているのであえて長々と引用した。
「元東京大学経済学部教授であった社会統計学者・高野岩三郎が、敗戦直後の1945年10月29日、日本文化人連盟の設立準備会の際、戦前から左派の立場で憲法史研究を続けていた鈴木安蔵(京都学連事件で検挙・憲法学者)に提起し[2]、さらに馬場恒吾(ジャーナリスト)・杉森孝次郎(早稲田大学教授)・森戸辰男(元東京帝国大学経済学部助教授)・岩淵辰雄(評論家で貴族院議員)・室伏高信(評論家)らをメンバーとして発足した。1945年12月26日に「憲法草案要綱」を首相官邸に提出し、翌々日に新聞発表された。なお、これにGHQが注目した記録があるため、GHQ案を原型とする現行の日本国憲法の内容に、国民主権などの点で間接的に多くの影響を及ぼした、と小西豊治
その後
「その後高野は象徴ながらも天皇制を残したこの案を不十分であると批判。その批判を「囚われたる民衆」などの言葉でまとめた上で、天皇制廃止・大統領制・土地国有化などを柱とした日本共和国憲法私案要綱を発表。憲法研究会の活動の翌年1946年にNHK会長に就任し、同時に日本社会党顧問としても活動した。
W。長文対談形式。憲法研究会と高野岩三郎、憲法改正前後の政治過程がリアルに語られている。
―「『囚われたる民衆』からの解放」高野岩三郎― 「『囚われたる民衆』からの解放」高野岩三郎―%20-%20一人ひとりが声をあげて平和を創る%20メールマガジン「オルタ広場」. - Google 検索
馬場は読売新聞に招かれ、同社社長を歴任。杉森は早大で教鞭を取り続け、バートランド・ラッセルの研究に事績を残した。
森戸は社会党右派の理論家となり、片山・芦田内閣に文部大臣として入閣。議員引退後広島大学学長に就任した。
岩淵は公職追放を受け、復帰後鳩山一郎の顧問的な存在となって、鳩山政権の実現に力を尽くした。室伏も同様に公職追放を受けたが、復帰後も評論活動で活躍した。
鈴木は戦前から長らくどこにも所属せず独自に憲法研究を続けていたが、戦後静岡大学教授、愛知大学教授、立正大学教授等を歴任。憲法改悪阻止各界連絡会議(憲法会議)結成に参加し、代表委員に就任。憲法改悪反対運動(護憲運動)のリーダーとしても活動した。
大内兵衛 - Wikipedia1888年~1980年
大蔵省の書記官を経て、1919年に、新設された東大経済学部に着任、助教授として財政学を担当した。在任中は労農派の論客として活躍。1920年森戸事件に連座して失職、数年後復職。GHQの占領時には、当時大蔵大臣だった渋沢敬三が、日銀顧問に迎え、東京裁判でも証言台に立った。1949年に東大経済学部を退官後は、1950年より1959年まで法政大学総長。向坂逸郎と共に社会主義協会・社会党左派の理論的指導者の一人として活躍した。
門下の美濃部亮吉の東京都知事立候補を強く支持し、美濃部都政を助けるなど、実践面でも社会主義を貫いた。また、鳩山一郎や吉田茂からの大蔵大臣への就任要請を断ってきた[2][3][4]。社会保障制度審議会初代会長を務め、国民皆保険や国民皆年金の創設などを答申した[5]。
傾斜生産方式で日本の経済復興を促進させた有沢広巳は門下である。
森戸辰男 - Wikipedia1888年~1984年
「森戸事件」
1917年、ロシア革命が発生。1919年、経済学科が経済学部として法学部から独立。1920年、新機運を象徴するものとして経済学部が森戸と同じ助教授だった大内兵衛編集による機関誌『経済学研究』を刊行。森戸は人類の究極の理想が無政府共産制にあるとの考えから、この創刊号にロシアの無政府主義者・クロポトキンの「パンと奪取」という論文を翻訳し「クロポトキンの社会思想の研究」として発表した。このことが上杉慎吉を中心とする学内の右翼団体・興国同志会から排撃を受けて雑誌は回収処分のち発売禁止となった。さらに新聞紙法第42条の朝憲紊乱罪により森戸と大内は起訴された。これをきっかけに東大新人会が森戸らを擁護、さらに各大学の学生団体も森戸と大内を擁護し新聞・雑誌も大きく取り上げ、言論界は大論争となった。裁判では今村力三郎を主任弁護士に原嘉道、花井卓蔵、鵜沢総明、特別弁護人に三宅雪嶺、吉野作造、佐々木惣一、安部磯雄ら錚々たるメンバーが揃い、大審院まで行ったが上告は棄却され有罪が確定。森戸と大内両名は失職した。この間森戸は巣鴨監獄の独房で3ヶ月を過ごした。しかし前述の弁護団を始め有島武郎や長谷川如是閑、後藤新平ら多くの文化人が森戸らを擁護し、有島とは終生変わらぬ交友を持った。
*1:ここに脚注を書きます