の世界が浮かんできた。世にいう災害文学という意味ではない。自分の体の中から自然に「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」という冒頭の一節が沸き起こってきた。
そして、今また自然と浮かんできたのは今昔物語集 - Wikipedia
の自分の好きな説話の世界だった。
コロナ渦である。
いったん収まったかに見えてまた感染確認者が増加している。
調べてみると今、世界のコロナ状況は次のようになっている。
スペインで高まる欧州「第2波」の懸念 カタルーニャでナイトクラブ閉鎖 - BBCニュース
反俗日記では過去のコロナ関連記事や理研小保方スタップ万能細胞批判記事を連発していた頃の若干の遺伝子、免疫学習によって、日本のコロナ感染の波が終息したかに見えたとき、「そんなはずはない、他者を巻き込んだコロナとの長期戦に備えてきた自分の基本的な考え方が~ただし、物的準備は6月いっぱいごろには尽きると計算していた~、間違っていたのか」という悪い癖である現実を観念先行で証明しようという、ドツボにはまったのか、と自省した。
しかし、第2派が始まった。
でも自分は間違っていなかったという思いは少しもない。
それよりも落ち込んでいる。
さんの存在はコロナ渦で知った。福島原発事故後の現地の住民被ばく処理にもかかわったヒトで、原発事故のウォチャーは了解済みだろう。Wは原発事故の関して、一番最初の街頭デモにも参加したが、反原発の人たちや運動からは持論の違いから距離を置いてきたのでその名を全く知らなかった。
その意味で、事実行為において検証不足だが、コロナ渦の発言、実務行動に接しネット世界で出現する専門家の中で最も腑に落ちる。
>直近の児玉氏の世田谷区と連携した(臨床)調査結果にショックを受けている。
~2020年、7月31日追加修正。
世田谷区長の保坂さんと連携した世田谷方式には若干の危惧がある。
大量、迅速、最新機器を導入した検査体制と隔離と治療の事後処理に要する費用は区の資源を超えたものとならないだろうか?世田谷区が突出して優良な体制ととっても、区外からコロナウィルスが次々に持ち込まれるので、その分を差し引くと費用対効果はどの程度になるのか。
>ただし、資金面さえクリアーすれば、一点突破全面展開とまではいかなくても突出した体制が他に広がる可能性がある。まず、実行である。
W。下記の認識は勘違いから論を立てているのかもしれない。(2020年7月31日加筆)
>検査対象者の中に無症状で新型コロナの抗体を持っていない人がいる。
>コレ、どういうことかとW流に解釈すれば、無症状新型コロナ抗体検出されず、状態にある人は
@新型コロナ系ウィルスの初発の宿主である、コウモリなどのウィルスに感染していても普段と変わらない元気な状態で動き回れる、言い換えると、感染症の発生源として<ステルス型スプレンダーになりうる可能性を常に潜在させている、ということだ。
@そのステルス型スプレンダーが只今現在生きて活動しているヒトの中にいる。
@新型コロナウィルスはコウモリ型宿主から人間の中に種保存の最適の住処を見つけた。
@新型コロナウィルスの感染者が重症化したり死亡すると、種の保存の原理から言えばウィルスはその時点で立ち往生する。
@ところが、無症状、抗体反応見つからずのヒトが増えると、ウィルスは人から人へ住処を移し生き延びる「絶対的な可能性」を保持し続けることができる。人為的な免疫がない限り。
@このパンデミックの大渦中で、新型コロナウィルスは世界65億の現生人類のなかにコウモリなどの動物に替わる最適な種の保存宿主を遂に見出した。膨大な感染拡大、世界的な感染環境の変化は新型コロナウィルスRNA配列などの質の変節に至った。
@不安定物質こそが、その中に爆発的な衝撃力を抱え込んでいる。ウランがそうだ。
@半導体にもある種、そういう側面がある。
@考えようによっては、人間の在り様にもそういうところがある。ヒト由来の惨事が発生する。
@新型コロナウィルスも不安定で揺らぎやすいRNA構造を持っているがゆえに、その変化によって破壊的な衝撃力を発揮する。
>そう考えるていくと、どうした事か、と。
****************
反俗日記の特徴は物事を突き詰めていったときに、ともすれば、散文的なところを拠り所とすることである。
そこで、かつての方丈記から、<今昔物語>へ。ふたつとも、高校生の頃に接してぐっと来たものが再びぶり返しているという次第で、それが精神の里帰り,とは解っていて、この記事を書く前に資料を調べ、どうした事か、と考え結論を試みたがまだ定着させることができなかった。
****************
前回の記事の今昔物語集 - Wikipedia
を参照しているときに、気になった個所があった。
その1。
「文体
原文(鈴鹿本)は平易な漢字仮名交じり文(和漢混淆文)(ただし、ひらがなではなくカタカナである)で書かれ、その文体はあまり修辞に凝らないものである。一方、擬態語の多用などにより、臨場感を備える。芥川龍之介は「美しいなまなましさ」「野蛮に輝いている」と評している(『今昔物語鑑賞』)
極力、どの地域の、何という人の話かということを明記する方針で書かれ、それらが明らかでない場合には意識的な空欄を設け、他日の補充を期す形で文章が構成されている。」
その2。
「影響・評価
河合隼雄によると、『今昔物語』の内容は「昔は今」と読みかえたいほどで、ひとつひとつの物語が超近代(ポストモダン)の知恵を含んでおり、その理由としては、当時の日本人の意識が外界と内界、自と他を区別しないまま、それによって把握された現実を忠実に書き止めている点にあるとしている。
>ポストモダンの問題意識は、それがデカルト的(心身二元論的)切断をいかに超越するかにあり、その点で『今昔物語』は真に有効な素材を提供するとしている。」
wacwac。戦前の世界大戦に至る時代に超近代が一部知識人の間で論じられた。
このウィキの内容を踏まえて、この記事を書く前に資料に当たってみた。戦闘的唯物論者として全うする、コレが目標。自ずから出口はある。
***************************************
***************************************
W。参考資料①
「宇治拾遺物語1212年~1221年は今昔物語1120年~1125年の約100年後に書かれた。「佚書『宇治大納言物語』11世紀成立(宇治大納言源隆国が編纂したとされる説話集、現存しない)から漏れた話題を拾い集めたもの、という意味である。」
3物語は時代を経て同じ説話が多いが、相互関係は今昔物語は出版後あまり流布しなかかったので私家本のような扱いを受けていたものと思われ、<宇治>と今昔の説話の一致は大納言物語を今昔が引き継いだからである。
宇治拾遺物語はエンターテイメント性が意識されれているようだ。
W。参考資料② Wの問題意識に沿って調べているとこの長文ブログに行き当たった。非常に分かり易く優れた考察である。今昔物語の特集記事を始めてから一番感心した記事である。