wacwac。この記事を書こうとして、フト、はてなブログの上を見ると与えられたお題は<この夏大活躍>だとさ。嗤える。皮肉なんかな?ま、いいだろう。
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~ケンボックス〜高品質な詩的日記~
今昔物語と宇治拾遺物語の違い、醜い話・笑い話の内容比較 - ケンボックス〜高品質な詩的日記
>今昔物語集の著者は、どういう視点で人間や社会をとらえたのだろう。
>一体何故、何のために今昔物語集を編纂したのだろう。
>そもそもこの膨大な説話集は、何故生まれたのか。
その何故ということを読み解く際には、
@他の説話集との書き方の違いを明確にして導き出すのが有効と信じた僕。
僕のこの長い考察に付き合ってくれるかな、
@今昔物語集の存在に興味津々の僕のつぶやきに。
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まとめ> 今昔物語集と宇治拾遺物語集の違い
今昔物語集 宇治拾遺物語集
説話数 1000話以上 197話
編纂時期 1120年頃 1220年頃
醜い話 世が醜いという事実を伝える 話の最後の教訓を伝える
笑い話 笑いの先にある教訓を伝える 単に面白いという事実を伝える
両説話集には共通する話が八十一も存在している。
いずれも源流を遡れば『宇治大納言物語』というひとつの説話集に
たどり着くと考えられているが、『宇治大納言物語』はすでに散佚してしまった説話集である。
両説話集を読み較べ、そこにある差異を明らかにしてゆくことが、
今昔物語集の特徴を掴む唯一の方法であろう。
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最初に、それぞれの説話集に書かれた最も醜い部分を取り上げる。
今昔物語集の W記事を短くするための内容は主略。前回記事の参考資料①参照。
巻29第25話 丹波守平貞盛取児干語 第廿五 [やたがらすナビ]
巻二十九第二十六話の「日向守■、書生を殺す語」
巻二十九第二十四話の「近江国の主の女を美濃国に将て行きて売りたる男の語」
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wacwac参考資料
口上
引用
「その選択の大まかな目安として、「教科書に出ない」ということがあります。国語の教科書に出ている古典文学で、面白いと感じることはまずなかった、というのが私の実感です。同じ作品でも、教科書でカットされた部分が面白い!のは、体験的実感です。「教科書に出ない」理由はさまざまあるでしょうが、あまりに残酷、あまりに性的、あまりに政治的、あまりにバカバカしい・・・。そしてあまりに人間的。そんな「あまりに・・・的」な「今昔物語」こそ、私がここで皆さんにご紹介したいものなのです。「今昔」の中には、現代の社会では、巧妙に覆われ隠微に隠されてしまった、人間の野生・人生の実相が躍動しているように思えるのです。」
(★は、「教科書に出ない度」を表わします。)
阿弥陀の聖(ひじり)、人を殺してその家に宿り殺されること(巻29.9(★★)
産女、山科に行き鬼に会って逃げる話(巻27.15)(★★)
達智門の捨て子の話し(巻19・44)(★★)
染殿の后、鬼のために乱れる話し(巻20・7)(★★★)
清水の南の辺りに棲む乞食(こつじき)、女を使い人を騙し殺す話し(巻29・28
鳥部寺参詣の女、強盗に襲われる(巻29・22)(★★)
女、乞食に捕らえられ、子を捨てて逃げること(巻29・29)(★★★)
破戒僧綺談(巻31.03)(★★)
食べ物二題(巻31.31と32)(★★★)
丹波守(かみ)平貞盛、児干(じかん)を取りし語(巻29.25)(★★★)
一方の宇治拾遺物語を探してみると、これほどまで醜さが強調された話は存在していない。
巻十三第八話の「出雲寺別当父の鯰になりたるを知りながら殺して食ふ事」
巻十四第四話「魚養の事」は妻子を唐に残して日本に帰った遣唐使の話
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こうして今昔物語集と宇治拾遺物語の醜い部分を比較してみると、下記のようなことが分かってくる。
両説話集の共通点として、醜い行動をする人は、あるべき姿と現実の姿とのギャップを強調され、仕立てあげられた悪役である。
権力者は弱者をいたわり、親は子供を愛すべきだという社会道徳上のあるべき姿があり、一方でそれを無視して私利私欲に走る現実の姿が話中に描かれている。
そのギャップが大きくなるような話が設定されており、もっともらしい理由を付けて行われる悪事に弱者たちが翻弄される。
無力な者の側に読み手を感情移入させるのが、説話集での醜い話の典型だということができるだろう。
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両説話集の相違点を深堀してゆくと、今昔物語集では遠慮のなさが浮き彫りになってくる。
いずれの悪役の行動にも救いの道だとか、同情の余地がない。
自分のエゴを他人に押し付けるだけの醜い姿を、どこまでも手を加えることなく
書こうとしている様があるではないか。
平貞盛も日向守も使用人も、追い込まれていた立場にあったとはいえ、
彼らが他人を裏切ったことは事実である。
そして彼ら全員が、その行いの罰を受けていない。
彼らによって不幸になった人がいる半面で、当の張本人である彼らは
それまでと変わらない生活を続けているのだ。
こうして醜い行動をした本人らを生かし、被害を受けた弱者たちだけに不幸を押し付けさせる。
主張した者、権力を持つ者を一方的な勝者にして話を終えるところが
今昔物語集における醜い話の型である。
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一方の宇治拾遺物語は、比較するとやや遠慮がちで、最後まで悪役を演じきっていない。
悪行そのものではなく、最後に示される教訓こそが中心と考え、
その結論につなげるための構成なのではないか、と推測することができる。
父親の化身であるナマズを食べた息子は、その罰で死んでしまう。
娘の羊を救えなかった父親もまた、悩んで死んでしまう。
魚養の両親に至っては、その後にどうなったかすら記載がなく、
話が全く別のことに向けられて話が終わる。
挙げた三つの説話には、本当の悪役を見つけることができないのだ。
こうして、両説話集の醜い話を比べるとひとつの仮説が浮き上がってきた。
挙げた三つの説話には、本当の悪役を見つけることができないのだ。
こうして、両説話集の醜い話を比べるとひとつの仮説が浮き上がってきた。
今昔物語集では、話を通して何かを伝えることが目的ではない。
現実の姿そのものを描くことが目的でないか。
宇治拾遺物語では、物語の最後にある教訓を伝えることが目的ではないか。
醜い話だけを最後まで続けても教訓にはつながらないから、
途中で話を変えてゆく必要性もこの仮説で説明できる。
このように今昔物語集と宇治拾遺物語には、現実の姿を描こうとしたものと、
教訓を伝えようとしたもの、という違いが存在するのではないか。
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仮説を別の角度から考察するため、今度は醜いものではなく、笑い話を比べてみることにする。
今昔物語集の巻二十八第十話「近衛の舎人秦武員、物を鳴らせる語」
禅林寺の御壇所で高僧と話をしていた秦武員という近衛の舎人が、
誤って大きなオナラをしてしまう話だ。
そこは僧侶たちが集って勉学をする御壇所というあまりに厳粛な場所であったし、
秦武員は武士たちを統率する将曹という重要な役にあったことから、
周囲の誰もが何も言えずに沈黙が続いていた。
時間を空けてようやく武員が「哀れ、死ばや」と恥ずかしがる発言をしたことで、
座から爆笑が起こり、武員がその場から退散したところで話は終わっている。
オナラした武員がすぐに謝れば良かったし、周囲の人々も音を聞いたらすぐに笑ってしまえば
良かったものを、中途半端に間が空いてしまってお互いに失敗したと思ったことだろう。
このまま何も言わないと自分が辛いだけだし、時間が経ってしまったから
謝るのも違うと思ったのか、「恥ずかしくて死にたい」と素直な気持ちを出して、
武員がその場をやりすごしている。
武士の頭である武員の威厳と、そこが厳粛な御壇所であったことが、
オナラというあまりに単純な恥ずかしさとのギャップを引き立てて、
この話に絶妙な面白さを加えているのだ。
この武員は日ごろ愉快に話をする人で、その時も機転を利かせて「恥ずかしくて死にたい」と言った。
並の人なら知らん顔を続けるだろうし、それでは場も白けてつまらないところを、
武員が絶妙な言い方をしたことに好感を持つ。
失敗したら早く謝るとか、時間が空いてしまったらユーモアを入れて謝るといいだとか、
そういう教訓がこの話から伝わってくるではないか。
話の最後には「此も彼も否不云で居たらむは、極く糸惜なむかし」とあり、
何も言えずにただそのまま座っているのはすごく可哀そうなことだという教訓で結ばれている。
この説話は笑い話であるが、それ以上に機転を利かせることによって
ピンチをチャンスに転換できた武員の知恵と温かな人間性を、この笑い話からは読み取るのだ。
巻二十八第三十八話の「信濃の守藤原陳忠、御坂に落ち入りたる語
受領を一期務めればそれだけでひとつの財をなしたと言われていた受領階級のがめつさが
笑いの対象なのだが、それは次の連想につながる。
租税の取り立て役である受領がそんなに強欲な性格であれば、
任地ではさぞかし取りっぱぐれなく租税を徴収した「名」受領なのだろう。
役人のしたたかさに結び付け、元の不幸な事故を忘れてしまうぐらい、話を笑いへ転換させている。
現に陳忠は「宝の山に入りて、手を空しくして返りたらむ心地ぞする
『受領は倒るる所に土を掴め』とこそ云へ」と周囲に教訓を垂れて、
それを笑い話にするのではなく本当に悔しがっているのである。
受領たる者かくあるべき、という素直な教訓として捉えることもできるし、
「然許りの事に値ひて、肝・心を迷はさずして先づ平茸を取りて上りけむ心こそ、
いとむく付けけれ。増して便宜あらむ物など取りけむ事こそ、思ひ遣らるれ」と
民衆から皮肉たっぷりに褒められるところがまた笑い話になっている。
いずれにせよ、命を失っていたかもしれないピンチにおいても、
もっと稼ぐチャンスに変えた陳忠の人間性というか、商売根性は見事であるし、
それがこの笑い話に魅力あるものを加えている。
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巻二十八第十六話「阿蘇の史、盗人にあひて謀りて逃げし語」は、
深夜まで京の宮中で仕事をしていた書記官が、西の京の自宅まで牛車で帰るときに
盗賊に襲われてしまった時の話だ。
盗賊たちが牛飼童を追い払い、牛車の簾を開けると書記官が全裸で座っている。
「こはいかに」と声をかける盗賊たちに対して、
「東の大宮にてかくのごとくなりつる。君達寄り来て、
おのれが装束をばみな召しつ」と書記官が笏を持ちながら、
上司に言上するようにかしこまって言うものだから、盗賊たちはみな大爆笑して
そのまま何も取らずに退散していった、という話だ。
話の最初には「車に乗りて大宮下りにやらせて行きけるに、着たる装束をみな解きて、
片端よりみなたたみて、車の畳の下になほく置きて、その上に畳を敷きて、
史は冠をし、襪をはきて、裸になりて車の内に居たり」という説明がある通り、
書記官は深夜の京の大通には盗賊たちがはびこっていることを知っており、
大変高価な仕事用の衣服をあらかじめ隠しておいたのである。
しかも書記官は盗賊たちが呆れて、それ以上何も盗む気にもさせないよう、
大爆笑させる効果を準備している。
裸のくせに冠と笏は忘れていない。
さらには盗賊たちを高貴な人を指す言葉である「君達」と呼び、
「召しつ」という尊敬語を使いながら、かしこまって返事をすることで、笑いを生みだすことを成功させた。
一計を案じて相手を出し抜くことが美徳であって、騙された人こそが悪だという
中世の現実的な社会を見ることができるし、それを笑いに変えていて面白い。
そこまででも十分な笑い話として完結しているのだが、この説話には
「さて、妻にこの由を語りければ」と続きがある。
帰って妻にこの一件を話したところ、「その盗人にもまさりたりける心にておはしける」
と妻に笑って感心されているのだ。
最後は「この史は、極めたる物言ひにてなむありければ、
かくも言ふなりけり、となむ語り伝へたるとや」と結ばれており、
この書記官のしたたかさ、機転と用心深さを称賛し、笑い話だけに留めることなく
教訓へと結びつけたところで話が終わっている。
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一方の宇治拾遺物語では、巻一第十五話の「大童子鮭盗みたる事」
そこには教訓はないし、政治も文化も人間の身分差もない。
ただ読む人を笑わせるためのエンターテインメントだ。
腰の鮭を、女性器の裂けと読み替えて、裸にすればどんな高貴な女性でも鮭ぐらい出てくる、
とこじつけているのである。
鮭と裂けの駄洒落を思いついた人が、駄洒落を言いたいがために
この話を作って語ったのではないだろうか。
懐に鮭を隠す大童子も不自然だし、町中で着物を脱ぐ人も不自然だ。
あまりによく出来過ぎた駄洒落だから、現実の騒動の記録ではなく、
市井で流行していた下品な駄洒落を記録したものだと思えてしまう。
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宇治拾遺物語の笑い話はどれも面白い。それも実に面白い。
純粋に腹を抱えて笑うことができるし、誰にでも分かる共通の面白さがある。
疑ってみれば、どれもそれが実話だとは思えないほど、上手に出来上がっている笑い話である。
実話かどうかでは問題ではないし、教訓がなくていいと、著者が思っていたのではないか。
現実の出来事だけでは満足な面白い話にできないから、
そこに若干の加工をすることで、より面白い話を作り上げようとしたのではないか。
今昔物語集の笑い話も面白いのだが、その奥に待っているものは教訓であって、
話全体を単純な笑いが支配しているというわけではない。
一方の宇治拾遺物語の笑い話は、後先を考えることなく、
笑う瞬間の面白さだけを楽しむことができるような話の構成になっているのが対照的だ。
『宇治拾遺物語』の性的な話題が@『古今著聞集』@などに比べれば明らかなように、
決して陰湿ではなく、おおらかな笑いに包まれていると言われるが、
「大童子鮭盗みたる事」や「小藤太聟におどされたる事」に確かなように、
性に関する話が宇治拾遺物語では明るく書かれている。
教訓じみたものを最後に据える
>今昔物語集にも、巻二十五第二十五話の「弾正弼源顕定、摩羅を出して咲わるる語」のように性に関する笑い話がある。
実際に笑いを取ったものの、話の最後には「されば、人、折節知らぬ由なき戯れは
すまじき事なりとなむ、語り伝へたるとや」と結ばれているのだ。
今昔物語集では性を笑いにするどころの話ではなく、最後は逆にそれが失敗した原因だとして、
性に否定的な教訓になってしまっているのだ。
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『宇治拾遺物語』の方がはるかに詳しく、物語の作り方が丁寧であり、
一般的に内容をより細かく描写していると言われるが、それは結論を教訓や笑いという
明確なものに持ってゆくための伏線として考えてみることにしよう。
@今昔物語集では人間の行動そのものを見せることが目的だから、
@細かい説明を補う必要性はなく、ただ現実のままを書けばよいのである。
@現実描写の細かさはあっても、それはまぎれない現実を伝えるために必要な時に描写が細かくなるだけのことだ。
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同じ食事風景でも今昔物語集の「鎮西の餌取の法師、往生せる語」では
「この持て来たる物共を食するを見れば、牛・馬の肉也けり」と、
ごく最低限の言葉で終わらせている。肉食をする法師の話とはいえ、
食事内容の部分が教訓の趣旨とは無関係であったからである。
一般的に大衆に受け入れやすいのは、
現実のままの姿から読者向けに加工されている宇治拾遺物語であろう。
現実のままを映し出している今昔物語集は、生々し過ぎて時としてつまらなく、
一般的には受け入れがたいところがある。
しかし、悪行篇など、『今昔』本来の趣旨からいえば番外の物語のほうが、
仏教説話や名人譚などよりはるかに生き生きしているという意見もある。
人の醜い欲望が隠すところなく表れているのが悪行であるのだから、
ありのままの姿を語ることが今昔物語集の意図だと考えれば、
悪行などは事実記録の格好の材料である。
著者も一層の興味関心をもって書くことができたため、
そこに生き生きとした文章が生まれたのではないか。
説話における一方の境地は知恵という美しい話、笑い話であろう。
その対極にあるのが醜い話であって、人間の醜い姿そのものが映し出されているから、
今昔物語集の著者には魅力的に映ったのも頷くことができる。
@説話が書かれた時代は、貴族・皇族から武士へと支配者階級が移ってゆく過渡期であった。
@実に二世紀もの時代をかけて緩やかに移行していったものである。
@民衆にとって個人の力では逃れられない大きな流れが世の中には存在しており、
@そこから救ってくれるのが浄土往生という仏教への信仰である、ということが古い価値観であった。
>しかしそうした価値観にも徐々に限界を感じてきていた民衆は、
@権力者の横暴から個人の英知によって逃れられることを知り始めていた。
@これら説話集からは古代的な律令法や価値観の終焉と中世的な価値観の成立の狭間にあり、
@権力への服従と個人の生命力の間で悩みつつある民衆の姿を見て取ることができる。
それはまだまだ遠くからの足音とはいえ、東国武士が活躍する力強い様に顕著だ。
宮廷女房たちが作った非現実の王朝物語にはない人間臭い話が説話集には収められている。
それも今昔物語では日本全国だけにとどまらず、舞台は天竺から震旦まで、
登場人物も神仏・天皇から盗賊・妖怪まで、笑い話から醜い話まで、
>説話集は人間の生存環境を一通り網羅するほど、広い世界を題材として取り扱っているのである。
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夢幻の物語から、現実に即した説話へ。
@説話集の視点は、あくまで民衆から現実社会を見たものが中心である。
先の醜い話と笑い話の逆転現象を解く鍵として、
@誰に読んでもらうための説話集かという切り口で紐解いてみることにしよう。
@今昔物語集には読者という考え方はないとされる。
十二世紀頃の成立から、誰にも読まれることなく保管され、
江戸時代中期の亨保五年(1720)に井沢長秀によって「考訂今昔物語」が
一般大衆向けに開放されるまで、六百年間も一部の関係者だけに
秘められていた説話集なのである。
@それが自分のためだけの説話集とすれば、
@他人に分かりやすくするための説明を加える必要性はない。
>だからこそ笑い話を一人笑いだけに留めることなく教訓を求め、
>醜い話には事実記録のために徹底した現実描写を、
今昔物語集の著者が追及するようになったのではないか。
@基本的には自分だけが分かる内容であれば良かったのが今昔物語集であろう。
@自分が分かっているから細かい状況描写などは最小限に留め、
ただ醜い現実の把握と、一人で笑うのではなく笑いの先に教訓を求めようとして、
今昔物語集は説話を書きあげられていったのだ。
+++++++++++++++++++++++++++
@【ことのなりゆきを徹底して追求し、ついに究明しえずに断念した絶望的な結果の言明、
不信の表明が今昔物語集と言われる。
千話を書き重ねていった結果、最後の答えが出ることはなく自己矛盾に陥り、
ついには未完のまま終焉を迎える。自問自答の今昔物語集だからこそ、
最終話がないのは自然ではないか。】
+++++++++++++++++++++++++++
序文に「世の人、これを興じ見る」とあるように、
宇治拾遺物語は明らかに多くの人々に読ませることを前提として書かれた物語である。
醜いものにはフタをしながら教訓を入れることで読みやすいものを作り上げた。
笑い話には誰でも何を考えずに笑うことができる単純な話を目指した。
「いろいろおもしろいことを語って読者の気をそそっては、最後は何がいいたいのかわからない、
読者を煙に巻いてしまうような語り口なり表現が非常に多いので、
『宇治拾遺物語』はまさに狂惑を方法とした作品であるし、
『宇治拾遺物語』はむしろ最初から行方を追わない。
@おぼめかし、あいまいな内にことを溶暗させてしまうとも言われるが、そこに迷いはない。
@なにしろ読者に読んでもらうこと自体が目的だから、書くべき話が尽きたら
@そこが最終話になりうる性質の説話集である。
宇治拾遺物語の方がより笑いの効果を持っている。
読者を想定して書かれていれば、それは群で楽しむということにつながるからだ。
@今昔物語集では読者があることをそもそも想定しておらず、
宇治拾遺物語では読者ありきの文学を作った。
@著者が何のために書き、読者にどう読ませたかったか、という意思の違いが、
両説話集の性質の違いを説明する鍵となる。
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今昔物語集の名前の由来となった「今は昔」「となむ語り伝へたるとや」という
最初と最後の定型の書き方は、
@自らの語りこそ唯一正統な伝承である保証を得る方法であったことから採られたのであろう。
はっきりと言いたいことも書いてあるはずなのに、著者と限られた周囲の人たちにだけ
分かればよいはずの今昔物語集だが、
@そこでこの最初と最後の決まり文句を常用することで、
@本来自分が言いたかったはずの今の言葉が、あたかも昔から伝承されてきた
一般的な既成事実と同化して、うやむやになってしまうことには違和感がある。
一般的な既成事実と同化して、うやむやになってしまうことには違和感がある。
しかし書かれていることはおよそ伝承とは言い切れないことも多々あるから、
定型踏襲という口語りの伝承を擬装することによって、語りの主体を確立し、
書くことの自由を得、伝承そのものから解放されたと考えることもできる。
++++++++++++++++++++++++++++++++++
また、即ち、今昔物語集は自己の語りを正当化するために過去を仮構し
対象化しているというように、今昔物語集は伝承を隠れ蓑として利用していると解釈できる。
一見すると妙なところで説話を書き上げた責任をよそに転嫁して、
著者が自分の存在を隠そうとしているようにも思える。
++++++++++++++++++++++++++++++++++
そこには紫式部はつくり物語のそらごとゆえに、
地獄の苦患のなかにあると言われていたような事情があった。
そらごと・虚構を通して、この世にある人の有様の真実を追求するのがつくり物語であって、
@院政期の人々はつくり物語を否定的に捉えているという価値観が存在していた。
>「今は昔」「となむ語り伝へたるとや」で入口と出口を統一した今昔物語集は、
@全話が実話であって、決してつくり物語ではない、という主張と捉えることができる。
@【醜い世の中はありのまま書き残してしまおう、つくり物語のように虚構を書いても
地獄に落ちて苦しむだけだ。】
笑いは笑いで楽しむが、それだけではなく今を生きている我々がその笑いから
@どんな生きる教訓を得ているのか、それを中心にして世の中を記録しよう。
【今昔物語集のこんな編纂意図】を、私はそこから感じ取る。
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宇治拾遺物語では、自分が行っているのが事実の記録だけではないことを
はっきり意識していたし、それを読者にも理解させようとしていたからではないか。
それは先に述べたように笑いを【純粋に楽しむ説話集、醜い世の中を生き延びる教訓を得る、
という実践的なものを取り入れた説話集にしようとする編纂意図】があったからこそではないか。
宇治拾遺物語の序文には気になる一文がある。
「五月より八月までは平等院一切経蔵の南の山ぎはに、南泉房といふ所にこまりゐられけり」
「もとどりをゆひわげてをかしげなる姿にて、むしろを板にしきて、すずみゐはべりて、
大なる打輪をもてあふがせなどして、往来の者、上中下をいはずよびあつめ、
昔物語をせさせて、我は内にそひふして、かたるにしたがひておほきなる双紙にかかれけり」
と序文に書かれている。
避暑地・宇治にある貴族の別荘で、寝そべりながら話を聞いて書き込んでいった書物だとは
信じることができないのは、宇治拾遺物語の内容が完成されているからである。
この序文が言いたったことは、そのぐらいのんびりした雰囲気で書いたので、
決して固く読まないで欲しい、という著者の意図ではないか。
ましてや「我は内にそひふして」とあるのだから、著者の源隆国本人は
話し手と直接面と向かって話を聞いたのではないと捉えることができる。
簾越しに聞くか、あるいは間に誰かを挟んだことになる。
しかし、そんな間接的なやりとりでこれだけの説話集が書けるとは誰も思わないだろう。
@どこかの寺院で、とある著者が、常人離れした根気を持って
@千数十話という膨大な説話を書き上げた、ストイックなものが今昔物語集である。
@肩肘張ることなくリラックスしながら書かれた 宇治拾遺物語との書かれ方の違いに、
@両説話集の性格の違いの一端を見ることができる。
今昔物語集に序文が残されていないのは残念だが、それは偶然だろうか。
推測が許されるのならば、
@序文というもの自体が今昔物語集になくて、
@それは読者を想定せず自分のためだけの説話集であったから、他人に前提となる状況を
理解させるための序文というものを書く必要性がなかったからではないか。
@横暴な権力者の気まぐれで自分がいつ危険な目に合うかもしれない。
@今日の笑いは楽しいものの、明日は笑っていられるか、
@あるいは本当に明日も無事に生きていられるかすら民衆が信じられない時代であったのだ。
@そんな時代に生きた人々にとり、現実の姿をありのままで残し、
@生きる知恵として教訓を考えるのは自分の生きた証を刻む術であったのだろう。
@今昔物語集にはこうした人々の必死の思いが込められている。
>自分の命はいつ終わりを迎えるか分からないが、そうなった時でも自分が書き残した説話集は
>自分が生きた記録として永遠の命を持ってゆくのだ。
自分と読み手たちがそこにいる場だけ楽しめればいいエンターテインメント性を含みつつ
書かれた宇治拾遺物語との決定的な違いがそこにある。
【芥川龍之介は「今昔物語について」の中で、今昔物語集を「野生brutalityの美しさ」と評した。】
【荒削りで洗練されていない生の話のくせに、そこが妙に美しい。】
【生きようとする人々の真剣な思いを話中から読み取って「野生の美しさ」と表現】した
芥川の評価には多いに共感できる。
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こうして今昔物語集を読み解いてみると、【美醜同居の美しさ】という表現が私には浮かび上がってくる。
@美しいものは美しい。
それに加えて、つくり物語との決定的な違いである、
@醜い人間の姿までもが含まれている@点において、そしてそれを宇治拾遺物語と比べて
あからさまに書きあげているところに、今昔物語集の特性を見る。
+++++++++++++++++++++++++++
<醜いものも美しいのが、今昔物語集なのである。>
+++++++++++++++++++++++++++
今昔物語集は読み手のために書かれたものではなく、現実社会の正確な記録として、
またそこから教訓を得て生きてゆく人たちの力強い様を描いたものである。
こういった特有の世界観を持ちながら書かれた説話集が今昔物語集なのであると、
宇治拾遺物語との醜い話と笑い話の内容比較を通して説明することができる。
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別話
今昔物語集とは、庶民の価値観が書かれた説話集
巻二十八第十五話には、海賊に襲われた僧が勇猛なことで有名な
伊佐の入道能観をとっさに名乗り、見事に海賊を追い返したという話がある。
頼れるものは自分自身の才覚だけであって、見破られて殺されるのも覚悟の上であれば、
嘘を突き通す度胸が本物であれば生き延びることもできる。
@嘘をつくことが悪と言うよりも、一計を案じて相手を出し抜くことが美徳であって、
@騙された人こそが悪だと、この話は語りかけてきている。
【流転する時代に巻き込まれ、死が身近だった時代に生きる人間たちは、
常に死を意識していたし、その死に抵抗しようと全力で運命に立ち向かっていった結果、
命を取り留めた】という成功譚は今昔物語の代表的な美談だ。
古代の貴族社会から武士台頭の中世までには、
実に二世紀もの長い歳月をかけて緩やかに移行していった歴史がある。
藤原氏が摂政・関白を独占して政治の実権を握った時代から、
@律令法による古代的な<貴族・天皇支配の時代は長かった>し、
@その後の平清盛に始まる平氏の支配、源頼朝ら鎌倉武士が日本の政権を担う時代まで、
@京都の貴族・皇族と地方の武士階級が支配を交代していった
@長い時代の中から今昔物語は生まれている。
平家物語の盛者必衰の理を体現するかのように、繁栄しては衰退してゆく貴族たちに、
台頭してはまた別の武士に滅ぼされてゆく武士たち。
@生も死も不確かな時代の中では、人々は王朝時代にあった優美なものよりも、
【もっと身近でもっと人間臭いものを求めていった】のではないか。
それが証拠に、今昔物語の本朝部に登場する主人公の多くは源氏物語のように
【特権階級の人ではなく、一般庶民】であるのだから。
+++++++++++++++++++++++++++
貴族文化から生まれた王朝文学では、雅でないものには焦点を当たることは少なく、
美しいものが取り上げられている。そこに庶民の感情や生き様が入る余地はない。
今昔物語のような説話文学は王朝文学の対極に位置しており、
どんな低俗なものでも自分自身が直接目で見て確認しなくては引き下がれない、
という民衆の視点にまで下がってきている。
+++++++++++++++++++++++++++
巻三十第一話
色男の平中が、どうしても自分のモノにできない美女に懸想をして、
恥ずかしがらせてやろうと便器を調べ、美女が仕掛けていた金の糞を見つけるのも、
幻想を幻想に終わらせるのではなく、
自分で最後まで解決しようした人間の行動が説話になったものだ。
王朝時代の人にもこうした行動があったのだろうが、それが文学に残るだろうか。
いや、風雅の世界に生きた人々がこうした話を文字に刻むことはなかっただろう。
グロテスクなシーンも今昔物語の世界では取り上げられている。
+++++++++++++++++++++++++++++
平貞盛は自分の悪性の瘡を治すためだけに胎児の生き肝を捜し、
息子の嫁の腹を裂けと言うし、実際に台所で働いている下女の腹を割いたりしている。
その上で、この治療法を教えてくれた医者を、己の出世と世間体のために殺して
口封じしようとするなど、あまりに惨い話までが生々しく語られているのも、今昔物語ならではだ。
この話だけが特殊だったのかもしれないが、少なくとも当時の人々の間では
@こうした必死の生存競争が行われていたことを読み取ることができるし、
確かにその一部を今昔物語の話の中で垣間見ることができるのである。
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権力者の横暴もまたひどい。
中国の国王が百丈の卒塔婆を石工に造らせたが、
他国でも似たものが造られるのを阻止しようと、その石工を殺そうとした話には
権力者のエゴが隠しようがないぐらいに出ているし、その危機を石工夫婦が
機知で切り抜けた場面には庶民ロマンの軽快さがある。
古代では権力者からの強制を逃れる術を庶民は持たなかったが、
今昔物語が書かれた時代にはそれも個人の勇気と知力によって克ち得る可能性を秘めていた。
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与えられた苦しみにも信仰心を持って耐え抜くことで救われるのは
受動的な仏教の救いの世界であるが、民衆は自分たちが能動的に行動することで
救いを獲得できるということを、身をもって知っていたのだ。
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鬼や盗賊の姿を描く暗黒の物語に民衆の貧困を見ることができる。
無人の寺で賊から襲われた女性が、命こそ優先であるから諦めて犯される場面もある。
自分の子供を犠牲にして暴漢から貞操を守った別の女の話でも、
相手の男が乞食だったから子供の命と引き換えにしても
自分の身体を守ろうとしたと考えるならば、
身分階級こそがその女を突き動かしていたものと思うことができる。
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今昔物語では話中に美人を登場させたいときに、風貌のどこが美しいかを描くことよりも、
生活様式の品位や全体の趣味で美人をイメージ付けたように、
@やはり身分階級意識は当時の人々にとって強いものだったのだろう。
@奪おうとした男も必死ならば、守ろうとした女も必死。
@互いに必死を生きる中でも、当時なりの価値観によって人々は動かされていたのだ。
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武士の力が眩しく描かれている。
明尊僧正が三井寺へ往復する道中に
武人の平致経に警護を命じるが、出発姿では平致経と下人一人だけと
頼りない警護だったのだが、歩くごとに道脇から武士仲間たちが無言で共に加わってゆき、
終いには三十人もの黒装束の武士たちが警護していた。
目的を済ませて京都へ戻るにつれ、逆に仲間たちが無言で順に姿を消してゆき、
最後には平致経と下人一人だけとなった。
それらが無言のうちに行われたというところが、
武士たちらしい生死を賭けた訓練と以心伝心の賜物である。
まだ貴族支配の社会が残っている今昔物語の時代に、
刀の音を鳴らして歩いてくる武士の姿を取り上げたところに、
今昔物語の編者たちの先見の明を感じることができる。
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古代では貴族たちには優雅こそが大事だという価値観があり、
今昔物語時代には何よりも命が大事だとする庶民的な価値観があり、
その先の中世では名を惜しめという武士たちの価値観がある。
>その中でも一番強烈なものは、やはり何よりも命が大事だという
人間臭いらしい必死な動機ではないだろうか。
>生き延びることへの執着心。悟りを開いて死に甘んじる仏教の姿ではなく、
貪欲に生きることこそが人間本来の美しさだと、今昔物語の編者たちは伝えたかったのだろうか。
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それは世の仏教信仰とは相反する意識であるから、公にはできなかったものと推測できるのだが。
そもそも宗教には支配者層が権力を正当化するために便利なように作られてきた歴史がある。
中国の儒教は官僚支配構造のために生まれた歴史があるし、
ヒンズー教は階級社会を正当化するものだ。中世ヨーロッパの宗教改革は
上からの束縛から脱出するために民衆が巻き起こした運動である。
鎌倉仏教は国家からの自立と個人の救済を趣旨として生まれたものであり、
この今昔物語の貧民たちもまた、崇高な仏教ではなく
純粋に人間解放を求めていたと捉えるともできる。
しかしながら、人間解放へと向かおうとしても当時はまだ闇の時代であった。
古代権力支配の力が残る中で、先が見えない民衆らは
それでも自由への道へと向かおうとする意思を持ち、
「今は昔」の仮の物語を組み立てることで将来を模索し、解放への道筋をつけようとしたのではないか。
「今は昔」の言葉を額面どおり捉えれば過去のことを言っているように思われるが、
実際は過去にまぎれて自分の将来を仮定しようとしたのではないか。
千話に及ぶ膨大な説話集を一人の人間の人生で体験できるものではない。
人は自分が経験したものしか書くことができないのだから、
編者が呼び止めた人から珍しい諸国の話を聞いて書き留めたものに
手を加えて編纂したのが、この今昔物語なのであろう。
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巻十六第二十話
勇敢な夫が相手に騙されつつも、
妻の機転によって好機を得て相手を退治するという、
若い夫婦が協力して困難を脱してゆく美しい話がある。
強い夫とそれを支える妻という、日本の理想的な夫婦のあり方には違いないが、
他の話では生々しい人の欲望や生き様があり、言わば醜さと美しさが矛盾なく同居して、
それが不思議と輝いているのが今昔物語の魅力であろう。
美徳だけが強調されているところを見て、
今昔物語を知った気になるのは片手落ちと呼ぶべきものだ。
運命の非情さにも容赦がない。
貧しさゆえに別れた前の夫とは知らずに、また結ばれたことに気付いた女が、
わが身の不運を思って息途絶えてしまった話なども、容易に幸せな結末に結び付けず、
そこで死を迎えさせてしまったところに今昔物語の厳しさがある。
同じく貧しさゆえに別れた男女のうち、別の豊かな男にもらわれた女が、
農作業中の落ちぶれた元夫を偶然見つけてその貧乏に同情し、着物を与えた。
そしてそのまま東と西に生き別れる男女の、なんとも残酷の時の流れ。
希望を与えずそのまま冷たい運命に引き裂かれて話を終わらせるところに非情さを伺うことができる。
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この説話集に所収された話の量は格別であり、それまで巷にあふれていた仏教説話を
ほぼ網羅しており、古代日本における仏教説話集の様相さえある。
@それも主役は人間だけではなく、動物や信仰までもが主役になりえたということは、
@世界は人間を中心としては回っているわけではなく、
@【神々や精霊など人間が制御できない何か大きな輪廻転生のようなものが支配していた】、
いう考え方に違いない。
それまでの裕福層を中心とした物語とは変わって、一般庶民から僧侶、賊から武士、
貴族に天皇、菩薩から鬼や蛇など様々な立場に沿って書かれている。
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@そこには本当の意味での主役が存在しない。
王朝文学に本当に共感できたのは限られた裕福な貴族層だけであったのだろうが、
今昔物語では庶民を含む世間一般全体が読者になる可能性を秘めるようになっている。
全ての人が読んで、全ての人が登場人物になりえて、全ての人が笑われる立場になる。
@今日笑っている自分が、一歩間違えば明日には
@笑われている自分になるかもしれないという危うさは、
@明日死んでも不思議ではない、
@と【死をありふれたもの】として受け止めていた当時の人々には身近なものだったのかもしれない。
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混沌とする時代の中で、人々は現在や未来がどうなるか予想ができなかった。
@今は昔、として昔を例にあげる方法が精一杯だったのだろう。
太平記や平家物語が今を生きる人間に焦点をあてて自分の身の回りの
人間像を描いたのとは違い、@今昔物語では昔に生きた人間として話を組み立ててゆくなかで、
故人たちを非難してもしかたないことであるから、そういう人物が過去には存在したのだ、
という事実を描き、@それは必然的にありとあらゆる人間像を
描き出す物語を完成させることにつながった。
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源隆国の宇治大納言物語など、いくつもの書物が出典と考えられているが、
それにしても膨大な物語の数は尋常ではないし、
そもそも編纂された意図さえも不明なのが今昔物語だ。
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内外の仏教説話がまとめられているところから推測すると、
仏教僧による修行目的の書だったのかもしれない。
別の観点で言えば、混乱の世の中を憂う一人の人間として、
その時代を生きた証拠を残そうとしてまとめた書物なのかもしれない。
仮に複数の僧が作ったものとすると、ある程度の仏教の知識を持つ知識人たち、
それも現在を疑問視する人々で、かつ未来を切り開こうとする意思があった人たちなのだろう。
彼らは過去と現在を書物に封印するために今昔物語を作ったのか?
いいや、連歌や歌合いのように美しい連想を楽しむ、
一種の知的娯楽のような感覚でなかったのか。
そこではアイディアが現実を飛び越えてゆく。
元となった話に沿っていても、イメージはそこに閉塞されたものではなく、
互いに思い切った面白さを競い合うように新しい物語を生んでいったに違いない。
現世を未来に残そうとする意識よりも、ただ目の前の世界を物語に
詰め込んだだけだったと考えて不自然はないと思う。
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野生の美しさ、と評した芥川龍之介の指摘は最もだ。
王朝文学の優美さは地に足がついていないのでつまらなく、
台頭した市民層による中世の文学も豊か過ぎてつまらない。
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台頭せず、時代に流され、貧しいままの市民層の視点で描かれた物語、
田舎である東人を馬鹿にしている都人の笑いが聞こえたと思ったら、
東国の兵馬どもが勇ましく駆けてくる馬の音が聞こえそうであるし、
荒削りのままで洗練されていない文体は今昔物語の魅力である。
所詮、王朝物語は限られた貴空間だけで行われていたものであって、世界が狭い。
それに引き換え今昔物語には当時の世界まるごと、庶民生活から宗教世界まで、
京都周辺を中心とはしているものの日本各地からアジアまで、
あらゆるものが詰め込まれたアートボックスなのである。
宗教が湿っぽく語られているかと思ったら、低俗な事柄が感情豊かに描かれていて、
全体的に陰気から笑いまで豊かに含んでいる。
地上の左右から高低まで、あらゆる人間の姿を地図に描こうとしたのが今昔物語ではないだろうか。
この説話集には人の醜さと貧しさが否定できず、そこに人の生命力の美しさというものまでが矛盾なく同居している。
この今昔物語の世界感の広さこそ、野生の美しさを感じさせてくれるものであるし、わたしがひきつけられた魅力的なものなのである。