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意図は行動思考の記録。つぶやくことでリアルな状況の外に一端出て中に帰るため。BLUE toothやgpsを使わなければ見守りケアをやっていけない事情もある。
日本の新型コロナ対策の実情の肝は結局、下図の厚労省のグラフが示すように、中央地方、行政機構の民生方面の施策実行力に由来するものといえる。もともと先進国では遅れていた民生方面の施策実行力にたいして、新自由主義に煽られる形でのリストラのやりすぎや中曽根時代の守旧回帰の施策の選択によって今があると解釈できる。長期にわたる国政の間違ったベクトルに進んできた結果がコレだ(大阪都構想はその慣れの果て、究極形態。学術的にも間違った政治方向であると証明できる落とし穴に向かって直進する典型的な新自由主義の施策である。推進者は未必の故意の科にある)。←国政にとって反面教師になる。
このグラフの事実は事実として押さえておく必要がある。統治機構が統治機構としての民に責任を果たす体制になく、大事に際して、民の同調圧力の喚起に頼る社会は息詰まるような空気を蔓延させる。表向きは自由を標榜するが中身は不自由極まりない空気に流される社会。コレが日本だ。
その只中で生き抜いていくには、どうあるべきなのか、今回の「パンとペン」~社会主義者、堺利彦と「売文社」の戦い~黒岩比佐子著。を連載するにあたってのテーマだ。
PCR検査の実施件数
衛生研、保健所の実績は伸びていない
検査件数の増加は金儲け民間検査会社などの増加分である。
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なお、黒岩比佐子 - Wikipediaさんは1958年5月1日 - 2010年11月17日。
「2010年11月17日、すい臓がんのため東京都中央区の病院で死去。52歳没[1]。
2011年、『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』で第62回読売文学賞(評論・伝記部門)を没後受賞。」
その間の事情は
①久方ぶりのジュネーブ | Tyees_Cafe - 楽天ブログ
引用
「悲しいニュースです。「ノンフィクション作家、黒岩比佐子さん死去」(11/17 朝日新聞)、「黒岩比佐子さん死去 52歳ノンフィクション作家」(11/18 読売新聞)。死因は膵臓がんとのこと。52歳。がんと闘っておられることはツイートやブログで知っていましたが……ショックです。また、とても残念です。
ご本人のブログ「古書の森日記 by Hisako 古本中毒症患者の身辺雑記」のタイトルにあるとおり、まさに古書の森に生きた方。最近の著作は、そのように古本の世界にどっぷりと浸かり、紙の世界を歩き回った方でないと書けないようなものばかりでした。」
「堺利彦は大逆事件とその前後について「日本社会主義運動史話」で語っている。
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W資料 反俗日記、ロシア人民の意志党、関連の記事を参照!大逆事件を相対化する
第3回「遥かなる革命~ロシアナロードニキの回想~。新しい革命的世代の代表者である10歳20歳年下の新囚人の彼との間にあの越え難い溝、あの相互の心理的無理解は存在しなかった。
最終回、「ロシアナロードニキの回想」ヴェーラフィグネル著、田坂訳、1980年批評社。~多義的多元的現在的解釈可能。
「大逆事件とは、1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。」
「1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童ら11名が、1月25日に1名(管野スガ)が処刑された。特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明、峯尾節堂、岡本穎一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治。
赤旗事件で有罪となって獄中にいた大杉栄、荒畑寒村[5]、堺利彦、山川均は事件の連座を免れた。 なお、本事件の弁護を担当した平出脩も1914年(大正3年)に35歳で急逝している。
W。資料終わり
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引用開始 戒厳令下の遺体引き取り
「それによれば、当初、堺は死刑判決を受けるのは数人ではないかと予想していたらしい。幸徳秋水は狙い撃ちされた格好だったのでおそらく助からないだろうと覚悟していたようだが、それ以外の無実としか思えない人々にも死刑判決が宣告された、堺の受けた衝撃はどれほど大きかっただろうか。
判決(1911年 1月18日)の四日後の1月22日(土曜日)、堺は多すぎ夫妻、石川三四郎 - Wikipedia、吉川**の5人で、秋水ほか数人と面会した。しかし、それが最後の面会になった。典獄(監獄の長)にあとは明日にしたまえといわれ、あきらめて帰ったが、23日は日曜日で面会できないことにだれも気付かなかった。
24日の朝10時ごろに(1911年1月24日<月>)再び行くと、今日は面会できないと断られた。その朝から幸徳秋水らの死刑を執行していたのだった。
東京監獄(W。巣鴨拘置所。その跡地はサンシャインビル~その地理関係は後の記述を理解するうえで必要!)では極秘にしていたが、面会できない理由を尋ねても返事がなく、そのただならぬ様子から、死刑が執行されていることを堺は察した。
吉川**(このような漢字の読解には手間がかかるので**とした)によれば、入り口の看守が気の毒そうに「実は執行命令が来て、今頃はもう4人目あたりをやっていると思います」と教えてくれたという。同乗した看守がつい口を滑らせたらしい。
堺はその日何をしたのかを自分では書いていない。だが悲しみに暮れている暇もなく、彼はすぐ各地の処刑された人々の家族や親族に悲しい電報を打っている。さらに、12人の遺体の引き取りや葬儀遺品の取り扱いについてなど、今やすべてが彼の判断を待つ状態だった。
発足したばかりの売文社が同志の<情報センター>としての機能を発揮した最初の機会が、大逆事件で処刑された人々の遺体引き取りと葬儀だった、という事実はあまりにも悲しい。だが、売文社が存在しなければ、各地にばらばらになっていた同志たちと連絡を取ることもできなかったのである。
当時、大逆事件の「犯人」と顔見知りだというだけで、無事ではいられないという恐怖に駆られた人も多かった。それほど警察の捜査が執拗で大規模だった。事件への関与を宇あたがわれたくない人々は変名を使って姿をくらませた。ほとぼりが冷めるまで潜伏したものもいた。家族や親せきから、これを機会に社会主義から足を洗うように説得され、同氏に背を向けて去る者もいた。
その中で堺はわずかに残った大杉栄、石川三四郎、吉川**ら数人の同志と、処刑者の一部の親族とともに、25日午前11時頃東京監獄に遺体の引き取りに云っている。
「東京朝日新」記者の松崎天民と「報知新聞」記者の毛呂正春が、これについて記事を書いている。
その日、東京監獄は約80人の看守と景観に取り囲まれていて、何かひと騒動起こるのではないか、という厳重警戒態勢だった。25日は第1回の「遺体搬出」という事で、夕方になって、ようやく幸徳秋水ら6人分の棺だけが引き渡された。
監獄の北側にある不浄門から6つの棺が運び出されると、堺等はそれを荒縄で縛り、丸太棒を通して担いで落合火葬場まで運んだが、途中で何度も警察官や私服刑事に行列を止められ、身体検査されるなどの妨害を受けている。その落合火葬場にも警官が数十人配置され、30分以上歩いて堺たちが到着すると、その場にいるものを全員検束して新宿署まで連行した。
検束の理由は、逆徒の火葬にこんなに大勢が参加するのは穏当ではない、というほとんど言いがかりのようなことだった。当時、大逆事件の被告たちは「逆徒」と呼ばれている。←W。この辺の権力機構の上意下達ぶりは(忖度する下は過剰権力行使)今も変わらない。一方で本質的に民に対する責任性は放棄するシステムと心性は今も同じだ。生身の人間がこうした極限状態に置かれたらその心性はいかようであるのか。それでも打って出ることの中に腰の据わった民主政がある。
だが、堺はその前に、それでなければ一歩も引けないという抗議を認め、警察は数台の人力車を集める指示を出す。人力車が揃うまで時間を稼いだ堺は、仮想する前に棺の蓋を開けさせて、親友の幸徳秋水を最後の別れをした。その首周りには、紫色の広い帯状のあざが鮮明に残っていたはずである。結局新宿署に連行された堺らが解放されたのは深夜2時だった。
26日の夕方にも、堺は残りの棺を引き取るため、大杉らと一緒に再び東京監獄へ向かう。
典獄と相談した結果、異読から連絡がなく、どう処置すればいいかわからない遺体は監獄内に置いたままにして、
管野スガ - Wikipediaら4人の棺を引き取った。
その日も前日同様に物々しい警戒で、落合火葬場につくと、死体引き取り人になっていた堺為子(W。堺利彦の初婚妻病死後、2度目の妻)
貴司山治宛堺為子書簡 ︵全八通 - 立命館大学
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/614/614PDF/takasyo.pdf
だけを火葬場に残して、あとは全員新宿署へ同行を求められている。気丈な為子は立った日地理で深夜の火葬場に残り、下層が終わると骨を拾って、27日の明け方に遺骨を抱いて帰宅した。
その後、行き場のない遺骨はしばらく堺が売文社で預かることになった。堺の娘の真柄は『私の回想』の中で次のように書いている。
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私が8歳の時、赤旗事件で出獄後、初めて売文社の看板を掲げた東京四谷南寺町の父の床の間に、こじんまりとした白い風呂敷包が、5つ6つ並んでいた。
そして人の出入りがいつもより多く、その前に座り込んで話したり、妙にざわざわしていた。表に出ると、うろうろと家の様子をうかがっている私服刑事尾行君がいる。~~
年長の男の子に「お前んとこじゃ、天皇陛下を殺そうとしたんだぞ」と小突かれた。
わたしは解らないままに、大それたことが自分の親の周囲で起こったということを感じ、また殺すという言葉に刺激され、私まで大悪党の片割れのような気になって、大いに形見狭く思ってすごすご家に引き返した記憶がある。
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8歳の子供にも、異様な雰囲気は忘れ難かったのだろう。世間の冷ややかな目、官憲の執拗なまでの警戒、監視と尾行、あるいは恫喝。こういた絶え間ない攻撃にも屈せず、胸をえぐるような苦しみに耐えながら、堺利彦は軽視者の遺骨を自宅の床の間に安置して、最後までその世話をした。
12人の遺骨は堺から引き取り人の手に渡されて、それぞれの事情に応じて埋葬された。だが、当局の干渉で、墓石を立てることを禁じられ、目印としてわずかに小石を置いてだけの墓もあった。
次回に続く