反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

2回目の大阪住民投票総括(100億円使用。[2020.11.9放送]大阪都構想:その「ウソ」がバレたから、否決された。(藤井聡/KBS京都ラジオ)。コレに対する陰湿な反撃。会計検査院、新たに6億2千万円の不正経理を指摘 総額11億3千万円に。産経新聞。


[2020.11.9放送]大阪都構想:その「ウソ」がバレたから、否決された。(藤井聡/KBS京都ラジオ)

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支持者のうちの張り出されていた直近の地方選挙の「いしん」のポスター。

<大阪を日本成長のエンジンに>藤井聡さんがこの動画の中で言われているような事実は「いしん」支持者の80%~90%に通じない彼らは議論のたたきき台となる数字、事実を直視しないで済ませられる、感性の持ちぬしだから、これからどうしようなどという話は「いしん」政治家と利権支持者(制度が大胆に破壊再編されると政商的不当利権が発生するのは明治維新が証明しているが、いまは封建から近代日本の出立の要件に欠いており、政商が大儲けし大阪の財産が棄損されるらだそれだけ。公的資金注入施設の運営権(大阪ドーム関西空港その他)は政商資本へ)の思惑に任せるしかない。

にもかかわらず財源、権限大阪府一元化の条例を議会で可決し、2度目の大阪都構想を骨抜きにしようとしている。

飽くなき動機は?

江戸元禄時代17世紀後半からの大阪の商人倫理が極まった19世紀中期の天保飢饉に際し、格差拡大の中、で市中人口の4分の1が浮浪状態となる事態に直面し武装決起した大塩平八郎の乱。あれから180年。

ja.wikipedia.org

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一度目は歴史の残る義挙明治維新に向けて幕藩体制の腐敗をただす先駆性があった)ともいわれるが、当時の大阪の中心部のかなりはこの騒乱で延焼した(大塩、大阪城代、相互に大砲や鉄砲などを発し大火災発生)。~その後、安政の大地震が大阪を襲った。

安政東海地震 - Wikipedia

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引用

江戸時代後期の嘉永7年11月4日1854年12月23日)~江戸元禄も宝永大地震<富士山の宝永噴火口の残滓>にあって改元され元禄となった~に発生した東海地震である。ここでいう「東海地震とは南海トラフ沿い東側半分の東海道沖が震源域となる地震のことであり、いわゆ東南海地震の領域も本地震震源域に含まれていたと考えられている

また、南海トラフ巨大地震の一つとされ、約32時間後に発生した安政南海地震ととも安政地震、あるいは安政地震とも総称される。この地震嘉永年間に起きたが[5]、この天変地異や前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ歴史年表上では安政元年であることから安政を冠して呼ばれる」

W.反俗日記で取り上げたのは東日本大震災直後だった。その時まだほとんどこの石碑の存在に言及されていなかった。

www.city.osaka.lg.jp

擁護璽(安政地震記念碑)

安政地震津波碑に看板がつきました - 活動報告 - 四天王寺の .
引用
四天王寺には、「安政(あんせい)地震津波」という

供養石碑が地蔵堂の向かいに建っておりまして、

安政の大地震とは、ちょうどペリー来航の頃の
江戸時代後期の安政年間、安政元年(1854)11月4日
・5日の両日に相次いで発生した「安政東海地震」と
安政南海地震」のことを指すのだそうで、
その時に津波が発生し、大勢の命が奪われたといいます。

安治川、木津川の河口から侵入した津波は道頓堀や長堀、
土佐堀などに入り込み、安治川橋、亀井橋、高橋、水分橋、
黒金橋、日吉橋、汐見橋、幸橋、住吉橋、金屋橋などの
橋は全て崩れ落ちてしまったのだとか

その地震津波による犠牲者を供養するのと、
災害の記憶を後世に伝える為に、町人一同によって
四天王寺に石碑が建立されたということです。

このたび、その「安政地震津波碑」が大阪市史跡顕彰という
名誉ある史跡のひとつに指定され、大阪市教育委員会様から
説明看板を提案していただきました。

 

万が一の時にどういう行動をとればいいのか。
防災意識を高めて、先人の思いを人々に伝え、
いずれやって来ると噂される巨大地震に備えたいものです。

W、ズブズブの埋めて地に博ち場合体リゾートですか。後背地満杯の大阪の夢は近世、近代湾岸埋め立て地の伸びてきたが、大きな限界は自然の巨大な「律動」にある。出来立てほやほやのヒリッピン海プレートのユーラシアプレートへの沈み込み。地球規模の自然の物理現象!

 

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気象庁|南海トラフ地震について | 南海トラフ地震とは
南海地震 - Wikipedia

W.90年~100年周期で南海トラフ震源地として巨大地震が発生している。

気象庁|南海トラフ地震について | 南海トラフ地震とは

引用 W。日本は古来から地震記録が克明に残っている国柄である。天変地異への対処から民族性が培われた。

 

主な地震の一覧

①684年11月26日11月29日)(天武13年10月14日) 白鳳地震(天武地震) - M 8 14、死者多数。亥時(午後9時 - 11時頃)になって大地震があった。土佐津波により大きな被害。~これは日本書紀南海地震とされる最古の記録である

地質調査によれば、東海道沖震源域におけるほぼ同時期の地震痕跡が発見される。

887年8月22日8月26日)(仁和3年7月30日) 仁和地震 - M 8.0 - 8.5五畿七道諸国、京都摂津を中心に死者多数。津波あり。地質調査によれば、東海道沖の地震震源域におけるほぼ同時期の地震痕跡が発見される。

1361年7月26日8月3日天王寺の金堂が転倒し圧死者が出た土佐に被害、特に阿波の雪(由岐)湊で流失1,700戸

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1707年10月28日宝永4年10月4日) 宝永地震南海トラフ全域が震源域とされる) - M 8.6五畿七道諸国、東海地方から九州東部の広い範囲が激震域となる。この地震の49日後に富士山が噴火し宝永山(火口)ができる(宝永大噴火)。死者2万人余、倒壊家屋6万戸余。房総半島から九州まで大津波が襲来し、大坂、土佐の被害が甚大であり、青龍寺や久礼では標高25mの地点まで遡上した。道後温泉の湧出が145日間止まる。

 ⑤1854年12月24日嘉永7年11月5日) 安政南海地震 - M 8.4

1946年(昭和21年)12月21日 昭和南海地震 - M 8.0、被害は中部以西の日本各地にわたり、死者1,330名、家屋全壊11,591戸、半壊23,487戸、流失1,451戸、焼失2,598戸。津波静岡県より九州にいたる海岸に来襲し、高知・三重・徳島沿岸で 4 - 6 m に達した。室戸・紀伊半島は南上がりの傾動を示し、室戸で 1.27 m、潮岬で 0.7 m 上昇、須崎・甲浦で約 1 m 沈下。高知付近で田園15km2が海面下に没した。道後温泉の湧出が38日間止まる。山口県美祢市(旧美祢郡別府村 (山口県)共和村)では秋吉台麓の厚東川沿いの低地に「口径 1 - 11 m、深さ 1 - 5 m の堆積地ドリーネが150余発生した[35]」。この地震の2年前、1944年昭和19年12月7日には昭和東南海地震が発生している。

 

天保年間の大杉平八郎の決起。安政の大地震明治維新第二次世界大戦中の報道されなかった南海地震、昭和大地震を経て170年。

大阪都構想を旗頭とする都構想を頂点とする「いしん」政治はやっていることは歴史的茶番だ。

このような蛮行がまかり通るのは、根拠なき漠たる大阪の発展、東京に対する対抗意識を醸成し続けたジリ貧東京コンプレックス準キー局大阪マスコミの生み出した政治共同幻想でもある。

 

教訓!阿保は大阪だけにしておかないと日本沈没