反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

世の中にあまりにも多い悲惨な事実。 救いようのないものの中に神がいる。路傍に神がいる。

  こんな日々が続く。1日の中身がいっぱい詰まっているので年月の経つのは遅い。

 おかず9品買って、用事を済ませてやっと帰ると、見守りケアのひとに2回目のトイレ漏水発生中。半年以上前のような階下の住宅へのダダ洩れではない模様。本人に聞けば近所に助けを求めたという。事情を聴いたが要領を得ないので近所対応は後回しにして、前回買ってきたスポイトで何回も排水管に詰まった取りレットペーパーを押し出して完了。

    階下の人(中年女性)

に連絡して老衰の有無を確認。

その人は新聞の折込チラシで上手に小銭入れを折ってくる。折り方を知りたくて分解してみたが想像以上に複雑だったので大したものだな、と感心した

珍しくこちらの話をよく聴いてくれるヒトで、話しているうちに自治会長の役が抽選で回ってきた当時のことを語ってくれた

葬式があったときは仕事を休んで受付をした、近所の人が用事で頻繁に訪ねてくるので表のガラス戸に目張りをしたことがある、円形脱毛症になった跡は今でも残っている、とか。確かに図太いところは全くなかった。かといって弱弱しいところもなかった。ここまで話してくれるのは自分のはなしにどこか共感したからと、勝手に想像していた。入居年月が経っていないまま、集合住宅全体の公益費を集めるのは事情を知らないだけにまずはこちらから話しかけてみることだと思ったが、やっている途中で皆自分が想っている以上にしっかりした人たちばかりだと分かった。

最後にまた抽選で回ってくるとどうしますか、と尋ねたら「またやるよりしょうがないでしょ。」と。ここでまた感心した。腰の据わり様が違う。

後日、同じ階の町内会長に何をしているヒトなの?に聞くと看護師だった。

前回の大漏水の時に対応したヘルパーさんは「いいヒトだった」といっていた。

前回、謝りに行ったときに玄関に結構念入りに仕上げられた額入りの油絵が何枚もかかっていた。

Wは浮世絵展でたまたま見た東洲斎写楽の大首版画に魅せられて東洲斎写楽の古い画集から切り抜いて貼っている。それを毎回見ていたので話す気になったのかもしれない。

 あと一人、わざわざ東洲斎写楽の版画を飾っている理由を聞いてきた高齢の女性がいた。ばっちり化粧をいつも決めてくる人だった。1年後に道端で出会った時、ふらついていたので少し立ち止まって声をかけた。「今にも主人が部屋から出てきそうな気がする」といっていた。「その気持ちはわかります」などとあの時はこたえたが、すぐ口先だけだと想い返した。自分にはそのような情緒はなかった。

その2年後、膝を患たのか階段を後ろ向きに下りていた。その後、車いすに乗って鼻に酸素チューブを挿入していた。「買い物しますよ」といえば「ケアマネージャーさんがやってくれる」と。今は名簿を見ると籍は在宅のままのようだが本人がいるかどうかわからない。

 ヘルパーさんに時々、スポイトで押し出しくれるように張り紙をした。自分だけが気づいたときの処置では間に合わない。

 部屋で対処していると、近所の人が駆けつけてくれた。

前回の漏水も含めて対処経過を説明し、

 自分の体調不良の現状もできるだけ客観的に説明した。

理解できる範囲で状況を知ることで納得し悪い事態に備えることができる。

前回の5Hの手術前、勇気をもって臨んだ。大勢の患者さんいる待合室の前をベッドに乗せられて通り過ぎる時、手を振ってやりたい気分だった。そんな術前患者がいてもいいじゃないかという訳だ。

数字を勘定しながら点滴に混入された麻酔薬が0、数秒の単位で効く感覚は、病院での多くの死はこんな状態なのだと、後から想った。

医学の発達によって死(病院死が圧倒的多数)は身近なものではなくなったが、逆に病院死は身近で簡素なものになった

 無理やり自分で自分を殺す必要はなくなった。緩慢な死という選択肢もある。

 朝このままズット横たわっていたいと思うことが時々ある先日暗くして寝床にいたら、見守ケアの人が訪ねてきた。そこで己をさしおいて相手にアレコレ介護的説明を繰り返さなければならない状況だった。起き上がると体調が悪かった。説得が効を奏さないのは常識なのにやはり説得してしまう。それでトラブって悩む。

 トラブっても次の日、あっけらかんとやってくる。

落ち込んでいる自分に救いの手を差し伸べてくれているものとばかり思っていたが、その日はいくら何でも、と思ってわざわざ訪ねて行って聞いてみた。

そこで判明したのは、前日のトラブルのことは記憶から削除されているということ。

毎朝、果物をもって様子を見に来てくれるものが来ないので訪ねてきただけであった。 

ハードボイルドタッチが徹底されているのだ。

あっけらかんぶりにがっかりしたあと、風呂を入れてくれとまたやってきた

仕方がなく湯を調節し入れるうちに、もうなんだかあきらめの境地のような感情が浮かんできて、「いつもの足の薬を塗ってあげるよ」といった。拒絶はできないのだ。

 自宅に帰って突然「ジェルソミーナ」邦題「道」の物語が脳裏をよぎった。そうかそういうことだったのか。神々しい存在とは見守りケアのような人なんだ!そこに無垢なる絶対性がある。どのように認知症が法則的に展開しようともその絶対性は崩れない。

 自分が実習でそのような究極系のヒトを恐れ何もできなかったのは、路傍に実在する神々しい存在を予め拒絶し神を見出そうとする心根がなかったからだ。

ジェルソミーナを失って号泣する男は路傍に実在する神々しい存在に気づいたのだ!自分は最後まで全うしようと思った常々想っている諦めることの人間的な大切さ頑張ることではなくあきらめ境地を徹底すること。浜の真砂の一粒の運命に身を任そう。

  ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、流れに浮かぶ泡沫はかつ消えかつ結ぶ手留まりたるを知らず。⇒路傍の神々たちも流れ去っていくよ。

       災難に合う時節には合うがよく候

       死ぬる時節には死ぬがよく候

       是はこれ災難をのがるる妙法にて候

 5Hの手術が終わって全身麻酔から覚めたとき、このまま目覚めなければよかった、と傍らの看護師に言った。

 

 その半月後、隣の認知症の独居老婆は介護してきた夫が人工透析からがん転移で長期入院中に焼死した。

火災事故を受けて駆け付けてきた中年の長男は脳に血が詰まって杖を突いていた。

遠く離れて普段行き来のない次男だけが無傷だった。

救われるものが救われない。

世の中にあまりにも多い悲惨な事実に対して、事実の指摘や嘆きよりも逆転の発想が要る。

救いようのないものの中に神がいる。路傍に神がいる。見いだせないのは主体の問題だ。

 この消火活動で階下の部屋が水浸しになり、小学生の子供を含む一家が浸水被害を受けた。

同時に騒動の最中に認知症の老妻の夫が布団の中で急性心不全で亡くなった。後日近所の知り合いの訪問で発覚したことで、妻は夫の死を知らずに数日を過ごした。子供たちは福祉事務所勤務と消防署勤務と伝え聞く取り残された老妻は、数か月後に施設に入った。

*この記事を仕上げて訪ねていくと、ベットにおかしな布団の敷き方をしていた。

聞いてみると冬の支度だった。

記事を書いた効果で考えがまとまったせいなのか、自然な気持ちで毎年着る重い昔布団を掛けて横になって「大丈夫か」ときいた。OKだった。見守りケアの人は目にうっすら涙を浮かべていたので湿っぽいのが嫌いで記事に書いた主旨をかみ砕いて伝えようとしたが、語っている傍から白々しくなった。まだまだだな。

 

瀬戸内寂聴さんが亡くなった。99歳。

@親戚のおばさんの娘が寂聴さんと女学校の以来の親友で、ずっと長く付き合っていた。おそらく死ぬまで。気前の良いヒトで高価な和服をもらったりしていた。噂話は子供のころ聞いた記憶がある。役所勤めの叔母さんも瀬戸内晴美さんと同じ境遇を実践していた。最後は高校教師と一緒になった。同年代のうちの美人でハイセンスを自覚していたおばさんも飛んだ人でお互い気心があったか、うちによく来ていた。戦前の日本文化否定、アメリカ文化の受容者だった。

子供の私を同等に扱うところがあったので影響を最も受けたヒトかもしれない。プロ野球中日ファン美空ひばりが大っ嫌いだった。

戦争に青春時代を送った、気位の高い小市民家庭の同世代の男は戦場の最前線士官として大量に玉砕、戦病死しているという現実。戦地最前線傾向のある地方ではその傾向が都会より強かったのではなかろうか。残った女世代が同等の?の結婚相手を見つけられないというギャップがある。

寂聴さんは若くして作家を志し才能によってなるべくして流行作家になったひと。瀬戸内寂聴全集の中の故郷と人性を描いた私小説はリアルに迫ってくるものがある。一気に読んだ。有名な仏壇仏具製造販売の店の娘、瀬戸内晴美は身近な存在だった。寂聴さんになってからも云わんとすることは解った。バイタリティーと才覚溢れるひとだった。

    私の母も飛んでいるヒトだった

今頃納得できた偉大なヒト。介護、野良仕事、仕事で不在の夫と鬱陶しい家庭環境。子供の世話が後回しになったのは当たり前だ。母のことが今頃になって解った。いかに自分が未熟人間であったか。

 父は頭がよく手先が器用なヒトだった。ほんとうは学校教師になりたかったのではないか。妹の嫁ぎ先の高校教師と同学年の成績を口にしたことがあると母は言った。地方銀行の幹部で終わった。しかし彼の人生は「家庭生活を放擲した仕事」に尽きる。長男だが家を出るべきだった。一人ひとりの人間は死んでいく存在。最低限度のモノカネがあれば生きて行ける。ましてや子供たちの幸福はカネのあるなしではない。無いものの中で生きていくのが本当の才覚だ。流石銀行員、何もわかっちゃいなかった。若くして認知症を患った。

祖父は男子を最高学府に行かせなかった。理由はある。自らの挫折に学歴無視の理由を見つけた。長男の父の弟は神童と云われていたそうだが、上に行かせなかった。結局、地方財務局の幹部で早死にし妻は田舎の女医をしていた。とにかく、地方の典型的な小市民の家庭ばかりが親戚だった。何処を向いても教師、公務員。その他固い職業。本家というのは戦前に地方の大地主から資産家ブルジョアジー成長し地元資本家と親戚関係を築いていた。

もう一つの分家の当主は大卒後の地方公務員をレッド・パージで追われ家屋敷は大きいが細々とした生活を営んでいた。

 わたしは勉強しろとは一切言われない生活環境で育った。中学生時代、さすがに一切勉強はしないのはまずい、というか成績表が張り出されるの試験前に勉強していると爺さんに早く止めるように諭された。このヒトは1地方に1つの高等師範学校の出で若くして近隣の小学校の校長をやっている途中で肺結核にかかり職を辞し野良仕事に精を出し、引退後もいつまでも<センセイ>と呼ばれる名誉職に就いていた。明治男のご多分に漏れず外面が良く内ずらが悪いタイプだった。教職の立身出世街道の挫折は精神の在り方を鬱屈させた。

そのじいさんが私をかわいがった。学校の成績はぼさーと黒板を見つめているだけでよかった科目がとくいで5を通した。足が速く、小学校の運動会でダントツの1着を繰り返したが釈然としなかった。ただ走るだけだったからだ。通信簿にボール競技に特殊な才能があると書かれたほど野球は得意だった。高校の野球部の投手のストレートを振り遅れながらもライトオーバーのヒットを打ったことは今でも覚えている。軟球の速い球はキチンと振り切り芯に当たれば振り遅れてもライトオーバーの長打になる。練習ではよく左打席にたった。長打は出なかったが芯に当たった。アッパー気味のスイングがなかった、とはそのころから自覚していた。小学校3年ぐらいでカーブが投げられたがポジションはサードだった。長嶋茂雄のつもりだった。徹底的に深めに守って打球を処理しアウトにするつもりだった。どんな打球でも処理できる自信があり、特に遠投は狙わなくても投げただけでよかった。そうやっているうちに早々と遊撃にまわされ試合に出るよようになった。このポジションで上手くいかなかった記憶が今でも残っている。一番難しいのは正面足元を襲うハーフバウンドの強烈なライナーだ。これを処理できずランナーを許した屈辱感!SSの難しさは試合でやったものでなければわからない。スコアリングポジションを守るのはショートだ。投手-捕手間の配球打者の動きがリアルでよく見えるのでポジショニングというか、次を予測し重心の掛け方など特殊技能が必要。捕手の肩に問題があれば盗塁はバンバン来る。小学校5年程度で小さな庭で真上にノックフライを打って、バットを捨てグラブに持ち替えフライアウトにした。ガラス窓の下、50センチのコンクリートに思いっきりストレートや変化球を投げてガラスに当てることはなかった。

 ところが中学時代、突然スポーツにまったく興味が失せた。家庭環境が悪かったこともある。きっかけは同じクラスの成績もよく似て席もまじかだった同級生に興味を持ったことからだった。授業中何かをやっている。見ると戦艦や戦闘機を鉛筆で丁寧に描いていた。抜群にうまいと思った。北京放送やモスクワ放送の愛聴者ではがきを送っては返信が来るのを見せてくれた。当時。雑誌月刊誌「丸」の熱烈な愛読者。少年マガジン、ジャンプは戦記物のイラスト付きに特集を毎号やっていた。それらを見ながら鉛筆画を書いて、北京放送を聴くという異次元の世界が開けてきた。次の年は推理小説に凝った。創元社文庫は徹底的に読んだ。最後まで読み切れなかったのは「月長石」ぐらい。学校の成績は急降下したが偶にやる実力テストは急上昇するので自分でも不思議だった。

家庭環境は最悪だった。高校受験の前夜、夜遅くまで家族内の大げんかをすると始末。

中学時代一貫してハードルのある勉強をする家庭環境保障されず、ついマニアックな趣味の方向に走った。

目指す高校に行いけない、といわれたときは納得し難かった。

実力テストで最優良クラスの席順を決める時に後ろの席順から望む高校受験資格を教師から言われる人が数人いたのは不思議だった。

 しかしいった先の高校は良かった。明るく自由な校風に初年度は馴染めなかったが、慣れると自分にピッタリだった。面白ろ真面目な生徒と先生がいた。もっとも生徒より教師が優秀だったのではないか。親友はジャンポールベルモンド気取りで頭が切れて不良ぽくクラスの女生徒の人気投票で第一位だったが女に無関心をいつも装っていた。

学校カバンは弁当だけ入れてくるのでいつも薄っぺらだった。教科書は全部ロッカーに入れているので持ち運びする手間が省けるというモノだ。こういう生徒は理数系を苦手とするものだが、成績は適度の良かった、授業の中で理解しているようだった。

そいつがなぜか自分に関心を持った。こうと決めたら強引な奴で自宅に遊びにいってもいいか、と突然机の前に両手をついて正面に向いて聞いてきたので、勢いに押されてOKというしかなかった。

来てみると隠遁者風の趣味に驚いたのではないか。そのころ、サリンジャーの「ライ麦畑でとらわれて」の日本語版を修学旅行の自由時間に神田の古本市に一人で探しに行ったり、ウィリアムフォークナーのミシシッピ州オクスフォードの隠遁生活にあこがれ、で修学旅行の小遣いなどをためて買った秋田犬を飼っていて、綿の上下の作業服で飼い犬との日向ぼっこが趣味。フォークナーは力強く粘着質の描写力に感心した。原文で読めばもっとスッキリすると思う。その後でカミユに魅かれた。サルトルVSカミユ論争はカミユの方に一理があると思っていた。サルトルの論法は徹底的に相手をやっつけるスタイルで当時は受けた。その時代にキーワード、アンガージュマンを除くとカミユを上回るものは提起していない。2年の時に「世界の歴史全集」や人「間の歴史」を試験期間中に勝手に学んで、解った気になった。この辺は当時の高校生の定番の教養パターンだった。テストの点数が悪すぎると担任の教師に事情を聴かれたので正直に話した。苦笑いを軽くして試験前にはちょっとは勉強するモノだよとだけ言って、それ以外何も言わなかった。中学時代と違って勉強しなければ成績が急降下する。頭の限界である。若い教師は60年安保ブントで、図書館の静けさに学問生活に目覚め、大学に残るつもりが資金不足で教師になったヒトで古典ギリシア語を朝早起きして学んでいる、といった。

同僚で教師生活の傍ら学問をする教師の噂を何度も授業の中で話した。書庫が凄い、と。その教師が後に大学教授になっているのを古本屋の書棚で知った。担任の教師は前の赴任校の女生徒と結婚していた。ここぞというときに、アジってクラスのモノをやる気にさせる。学生時代もあんな調子だったのだろうか、どこか明るくすかっとさせる気分でクラス中を一杯にした。クラス対抗などで抜群の効果を発揮した。ただし、何かと反抗的な生徒が多く、陰でどうしていたんだろうか。あまり心配をかけるなよ、などと時折言っていたが。放課後の素行不良で校長室に親友と呼び出され、友がビンタされた仕返しに職員室に一人でいって、あんたこそその時赤信号無視で渡っていたではないか、などと言いがかりをつけたので、その後化学の授業では見せしめを受けたが意気揚々としていた。いじめられるのは選ばれししもの気どりだった。

交換留学の若い女性教師の英作文では、クラスのモノが一致して後ろの黒板に英文で今すぐベトナム戦争中止!と大きく書いた。アイルランド系の若い女性教師は「OH!グッドアイデア!」といった後、わたしを前に呼び出し、からかった。アメリカ帝国主義ベトナム戦争反対、解放戦線支持、中国文化大革命支持とかいたのだ。民青は数人いたが目指すものが身近になかったので、活動家ではなかった。昼の休憩時間に誰となく集まって大勢になり喧々諤々、学生運動、安保条約、自衛隊憲法の討論をした。

歴史教科書の書きっぷりや試験問題の出し方を見たときは激しい疑問を抱いてきた。歴史年評を超えた歴史推進の軸を探っていたのは間違いない。

 現役大学入学が至上命令だった。政治の季節の最期に間に合わないからだ。そのためだけに受験勉強をしたが入学後、活動の場を保障できそうな大学の合格ライン到達を確認してから現状維持に切り替えた。もうひっつの大学の試験はキャンセルしその足で合格掲示板を見に行った。父親に初めて勉強のことで叱られた。キャンセルした大学が格上と想っていたのだろうか。クラスのモノは私が大学に行って活動家になるものと思っていた、という。その風をいつも吹かせていたのか。高校3年になると学校や教師は眼中になかった。自分独自の世界があった。私立大学に行くものは相手にされない雰囲気だった。地元の大学にでも行こうか、と親友に相談すると、「ガキ相手に仕事して何が面白い」と一蹴された。侮蔑とニヒルを気取るが彼の特徴だった。確かに教師だらけの親戚筋をみていた。

 入学したとき、男子学生が多く、受験勉強の名残があって高校と全然違う暗い雰囲気にびっくりした。しかし不思議なもので同じように手抜き受験勉強した人間ばかりが周りにいると感じた。一発合格受験制度はあれはあれで有効な選抜手段だったのだ。

大学闘争もその延長の感は今でもぬぐえない。

 入学後、厳しかったのは所謂、内ゲバかな。

相手を殺す論理、意味が見いだせなかったので断った。このままいけば殺すところまで覚悟しなければならないのは自明の理だった。確信がなく殺しておいて取り調べで陥落するのは目に見えていた。殺す方にも確信と訓練がいる。しかし相手のことを認め自分たちの欠陥も解っていた。高校時代に一杯乱読し、政治と理論を相対化する癖が身についていた。あそこで一念奮発し飛躍していれば、どうなっただろうか?強制はされなかった。やる気のあるのは手を上げろ、というだけだった。ハードルを越えると立ち位置が変わってくる。

内部の位階制はある。高卒したばかりのモノがいきなり上になれば、その位置に自分がつくものと思い込んでいた本人は急にやる気をなくす。転向もしないで出てきて人望もあり良いヒトだったけど最初の脱落者になった。都会の小金持ち資産家の息子という出目もある、とおもった。

文学もかじって頭もいいのにそのままいった同級生もいる。話し合った時に理論に必死に純化しているようにみえた。優等生は肝心なところでピュアになる、自己克服力が悪い方に向かう。とみた。

 しかしあのままやって行って長期投獄され転向すれば、その後の活動の持続はなく、今こうしていなかったかもしれない。そういう巡り会わせはある。日和見主義者が最も後まで活動を続けることもある。しかしあんな抜け穴だらけの理論に日和見は当たり前だ。途中からまともじゃないと確信した。

ただし、倫理と状況が許さない。あの時代、あの状況でやってはいけないことはあった。後付けではなく当時、そう判断した。経済学の本は好きだった。中学時代に東洋経済会社四季報に興味をもった。当然株式中継のテレビ番組も長く聞いていられた。資本論も念入りに読みこんだ。

 

  恋愛関係は絵にかいたような敵対関係の中で続いた。

相手の言い分が大局的であると認めた。そこには政治がある。他方の政治は間違っている、とわかった。そのいみで反省を口にしたが、活動をするに至らなかったが、相手の意思を尊重し応援はした。なかなかの美貌のヒトで大人しく素直なヒトだったが大胆なところもあった。高校三年で逮捕されていた。赤軍派時代の森恒夫の手配写真が格好いい、というのでアホ違うか、というと笑っていた。そいういう時代、そう云うヒトもいた。いまより自由な時代だった。

活動を止める根拠がなかった。ある日突然、活動家になった訳ではない。ずっとその価値観を注視し築き上げてきた。一人の中に戦う根拠があるのだから、一人になっても戦うということだ。

 

@自分の関わる人は89歳。来年で90歳。前々から当面90歳を目標に見守ると云っている。その前は集合住宅の金集めの仕事が終わるまで。両立は難しすぎた。手術をしたのはその間だった。白内障が進行し数字の勘定や記録に苦労し間違いが一杯出た。書き直しを1から求められても素直に従った。それでも休まなかったよ。5hの術後、3日ぐらいで病院の階段を上り下りした。本も読んだ。記録もとった。仕事に文句も言わなかった。全うしようとした。あの年は住宅で5人なくなった異例の年だった。

結局自分の場合、運動をしながら肉体的に追い込んでいく習性が抜けきれないことが症状を悪化させる原因なのかもしれないがこれこそが自分流。気が付けば困難な方に一人で向かっている。

あのころも温水プールで4000メートルノンストップで泳ぎ切った。できるだけ速く長く、体が悪くても研究すればできるが、身体によいはずがない。

今回も似たような状況。性だな一種の。

生きるも死ぬも一緒だ。