反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

『人間晩年図巻』(著:関川夏央)。されど~~「晩年」がなかった人たちのことを想うと身が引き締まる~~

最初に以下の記事が目に留まった。

「月収はせいぜい20万」「絶対に仕事なんかじゃない」東大中退のパチプロが明かすギャンブラーの“生活実態”とその“最期”(文春オンライン) - Yahoo!ニュース

国民的スターから市井の人まで、個性豊かな晩年を匠の筆で描き出し、彼らが世を去った〈現代〉という時代を浮かび上がらせる――山田風太郎が著した『人間臨終図巻』の衣鉢を継ぐ21世紀の新たなる図巻シリーズ『人間晩年図巻』(著:関川夏央が各方面で話題を呼んでいる。」ということらしい。

最近では珍しくすんなり読み進められた記事であった。流石作家上手く書けている。

>ニュースの下段に載っている関連記事数本を読んでみた。

特に気になった文藝春秋」編集部 source : 文藝春秋 2015年3月号

bunshun.jp文藝春秋015年3月号に掲載された編集部作の長文にもかかわらず、関川さんの記事に響くものがあった。

その記事の寂聴さんは私生活でも半ば公人を常に意識し演じているように思える。私生活において演じるヒト(私小説的人生を常に意識)への想いはストレートだ。共感の如何に尽きる。瀬戸内寂聴さんの演じる私小説的人生の対極にいるのが、葛西善蔵 - Wikipedia

1887年明治20年)1月16日 - 1928年昭和3年)7月23日)は、日本小説家である。自身の貧困や病気といった人生の辛苦や酒と女、人間関係の不調和を描き、「私小説の神様」と呼ばれた。」⇒W。ずいぶん評価が上がったものだ。<神様>だけは余計だよ!葛西の小説の良さは、同流の川崎長太郎 - Wikipediaを読めばわかる。文学ではないと思う。1901年11月26日 - 1985年11月6日[1]

W。時代背景は全く違う。

葛西の生きた時代は文筆で食える作家は上流階級出身の白樺派作家たちを除いてほんの一握りの超有名作家だけという時代であった(反俗日記は志賀直哉のファン。「クマ」を全文掲載した)。

 葛西は文筆で食える作家のボーダーライン上にいて、自らの私生活を小説の題材にしていた。元より本性の無頼が文学のため野放図に放置されているのだから、家庭や金銭、道徳的トラブルは絶えることなく、それを逆手に取って、というか自らをトラブル発生源とするかのような日常を文学的に掬いとって一種、飄々と描く才があった。

ただの悲惨や残酷な日常を有りのまま描いているのではなく、文学として昇華しているところに読者は惹きつけられる。読んでいると描かれたシーンがリアルに身近に感じ、何とも言えないやるせない気持ちにさせるパワーが簡潔な文体に刷り込まれている。あまりにも周囲と違うハチャメチャぶりに一種のユーモアも醸し出す。あるいは、誰しもがここまで無頼で堕落したいという願望が心の片隅にアリ、そのリアルな実行者がここにいる。文士という造語に何やら納得するものがある。

傍迷惑極まりない男にもかかわらず、妻や子とも、愛人は健気に生活できているから不思議。徹底すればこうなるのか。

W。子供と夫を捨てた寂聴さんも葛西の時代に作家を志していたら、大変なことになってただろうが、多分そのまま夫と子供一緒に暮らしていた、とおもうこの違いは大きい。時代を超えた文学的評価につながるのかもしれない。

寂聴さんの生き様は敗戦後の「日本解放」がもたらしたものであるそのことを中国北京生活や帰国後知った全国主要都市無差別爆撃による実家の戦災、母の焼死、夫子供との別れ、作家志望と成功までの道のり、の実体験を作家らしく大事にしていたからこそ、半ば公人として生きた出家後があった、と想う。

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冒頭に挙げたニュース記事関連『人間晩年図巻』(著:関川夏央で調べていたら、

独特の視点からの批判的な評が目に付いた。身が引き締まる思いがした。

hon-bako.com

引用

魔女の本領
彼らに「晩年」はなかった…『人間晩年図巻 1990-94年』

山田の本はたしか死んだ年齢で集められていたような記憶があるが、関川の本は同じ年に死んだ有名人が集められている形態をとっている。この形式の違いは以外に大きいと思う。現代史として書かれるのであれば、背景としての政治社会状況との関係があるのかないのか。どうしてもそれへの記述が欲しい所だ。

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しかし、個人の死というものは、ほとんど社会性を提示できないそれを示しうるのは、有名人の少数の死の記述では不可なのである。この点、山田風太郎が時間軸が長大とはいえ600人も歴史上の人物の臨終図巻を書いたのは、歴史を描こうとしたのではなくだれもかれも平等であると常に言われる死が実はめちゃくちゃ個性的で、平等でもなく、かといって格差で優劣がつくものではないと言う、このアンビヴァレントな実相のあわいを見せてくれた

wacwacにはこのようなアンビバレント感はない。

宇宙的地球的物質の自己展開の果てが今ここにいるだけ、砂浜の真砂の一粒だ。

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「晩年」という時間は、死んでから決められる時間だ。その長短さえ測れない。長命が晩年を長くしているとも限らない。

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山田風太郎が「臨終図巻」をタイトルにした秀逸さを、関川が「晩年図巻」をタイトルとしたことで何かがこぼれおちてしまった気がする。それは死そのものを徹底して見つめながら人の生を浮かび上がらせた山田の小説家として(医者であったという期本理解があることも無視できないと思うが)の力量と、関川がノンフィクシャンの名手であることの質的な違いかもしれない。関川がこの時代のまだまだ忘れられない死者を徹底的に集めて、調べて、本の重さで人が殺せるほどの本を書いてくれたら、そこにはじめて彼のねらう「現代史」が書けたはず。それを期待している。

なぜ、私がこのような不満を持つかを最後に書いておくと、この時代を後世に引き継ぐべきは政治的な多くの若者の死があったということが決定的に欠けていると言う点なのだ彼らには「晩年」はなかった。その悲しみを強く感じているからなのである。

                           魔女:加藤恵

W。最後の言葉に身が引き締まった。

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hon-bako.com

人間臨終図巻 - Wikipedia

W.人間臨終図巻

なのだから死んだ年齢で整理するのは当たり前なのだが、それにしても膨大な数。

>外国の有名人だけを眺めてみると、山田風太郎の関心の在り様がよくわかる。

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pione1.hatenablog.com