「シューシュポスの神話」アルベールカミユ。新潮文庫P11より引用
「 不条理と自殺
ある問題の方が別のある問題より差し迫っているということを、いったいなんで判断するのかと考えてみると、僕の答えはこうだ。
その問題の引き起こす行動を手掛かりにしてだと。
>その真理は真理だからといってそのために火あぶりの刑に処せられるだけの値打ちはなかったのだ。
>地球と太陽と、どちらがどちらの周りを回るのか、これは本質的にどうでも良いことである。
一言でいえば取るにたらぬ疑問だ。
>コレに反して多くの人々が人性は生きるに値しないと考えて死んでいくのを僕はよく知っている。(生きるための理由と称するものが、同時に、死ぬための見事な理由でもあるのだ)
~本質的な問題について、おそらく思考方法は二つしかない。
つまりラパリス的な思考方法とドンキホーテ的な思考方法とである。
@つまり明証性と情熱的態度との均衡によってのみ、僕らは感動と明晰とに同時に至ることができる。
それゆえに、実に目立たぬものだが同時に悲痛極まるこのような主題においては、
@精緻な学識に基づく教壇的弁証法は、
@良識と共感との両者から発するより謙虚な精神の態度に席を譲らねばならぬことが解るのである。
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4月26日受洗 - ウィリアム・シェイクスピア[1]、
第2回の裁判
「1630年、ガリレオは地動説の解説書『天文対話』を執筆した。この書は、天動説と地動説の両方をあくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人の対話という形を取って、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書いてあった。
翌1633年、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた。被疑は、1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった。
1633年の裁判
有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた[46]。
ローマ ミネルヴァ修道院
1633年6月22日
故ヴィンツェンツォ・ガリレイの息子でありフィレンツェ在住、年齢70歳、この裁判所に召喚され、高貴なる枢機卿及びキリスト教世界全体の異端の罪を問う審問官の前にひざまずいております私、ことガリレオ・ガリレイが……検邪聖省により、世界の中心に不動であるのは、地球ではなく太陽であるという思想を信じ、説いているのは、強い異端の疑いがあると糾弾されました。
私は猊下及び、この説で私に不信を抱いた敬虔なキリスト教徒に対し、その強い疑いを晴らすことを望み、誠実かつ心よりの信仰をもって、前述の誤りと異端の教えを放棄し、嫌悪いたします……そして今後は決して、口頭でも著述でも、同様の疑いを抱かせることを表現しないことを誓います。— ガリレオ・ガリレイ、『新科学対話』
その後につぶやいたとされる “E pur si muove”(それでも地球は動く)という言葉は有名であるが、状況から考えて発言したのは事実でないと考えられ、ガリレオの説を信奉する弟子らが後付けで加えた説が有力である。
>「それでも地球は動いている」とつぶやいたと言う逸話が出てくるのは、死後100年以上経った1757年に出版されたバレッティの著作『イタリアン・ライブラリー』で、「ガリレオは、地球は動いていると言ったために、6年間取り調べられ拷問にかけられた。彼は自由になったとたん、空を見上げ地面を見下ろし、足を踏みならして、黙想にふけりながら、Eppur si m(u)ove つまり地球を指して、それでも動いていると言った」と書いているが、その出典は明らかでない。
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反俗日記は思った。
見守り介護宅に新しく導入した2合炊き電気釜。(普通の電気釜のスイッチの入れ方より一手間多い。結局、購買想定者として独身、仕事忙しい、それでも工夫のある生活を楽しみたい層向け⇒手間のかかる操作などお手の物。)
Wは説明書を解読し(特殊な使い方を明記していない)自分では分かり易い使い方を記したつもりの簡単取説を電気釜にそばに張り付けたが、複数のヘルパーさんは、それでも使い方が解らず、炊飯できない状態。
何なんだ、この事態は、と。
そこから「それでも地球は回っている」というガリレオがいったとされる言葉が突然、浮かんできた。
>ちょっと変わった取扱いの電気釜の使い方が解らなくても、彼女らは子供を産み家庭を作りヘルパーさんをやっている。
>現生人類が出アフリカした7万年以上前からガリレオに異端審問で有罪判決が下った17世紀中盤、もっと正確に言えば、天動説にローマ教会が異端断罪しなくなった死後100年以上経った1757年に出版されたバレッティの著作『イタリアン・ライブラリー』までの人類史に通底するのは
>電気釜の取説が理解されない人々の営み、であった。
ガリレオを異端審問裁判にかけたり、魔女狩りをさせた背後というか、その渦中には普通の人々の圧倒的な存在があった。
>それを日本的にいえば世間の常識だ。
@16世紀、戦国時代の和泉国、日野根荘。戦乱の武装勢力の侵入で荘園経営が上手く機能しなくなった元摂政関白九条政基は自ら直接出向いて荘園経営に当たった。
その際、日記に地元の春夏秋冬の風物、荘民の営みを綴ったのが「政基旅引付」。
>その文中の圧巻は村の人々が飢餓対策に貯蔵していたどんぐりを飢えた母娘がその一部を盗んで食ってしまったことに対する過酷な制裁。この母娘はムラ掟を破った科に問答無用に斬殺されてしまった。
>このような事態は今は同調圧力などと云う用語に集約されているようだが、その発生源を歴史資料で突き詰めていくと
>同じ東アジアでも日本の歴史的に形成されたムラは人口の移動が異常に少なすぎる、というところに行き着く。
移動性が少なすぎると結束力(自然的な共同体)が強くなる半面、異端排除は徹底する。絶対的な宗教的規範が乏しいから異端者に誰も助けの手を差し伸べる術がない。斬殺された飢餓線上の母娘に神の救いは元からなかった。
であれば、この母娘は二重に疎外(宗教的共同体的に)されていた。
@話題はとっ散らかるが、先週の有馬記念。
馬券は買わないがテレビ中継で楽しもうとしていたら、いきなり「君が代」歌唱、演奏とくるではないか!
大昔は天皇賞でも君が代はなかった。君が代をやりだしのはごく近年のことだと思う。
自分の考えはハッキリしている。
元々息苦しくなるほど、同調圧力の強い日本社会では、そいういうことをやらなく済む!むしろマイナス効果が目に付く。
ヒエラルキーのトップに象徴天皇制度を持ってきて自らそれに率先して同調する(素振りをする場合もある)ことで手前の都合の良いヒエラルキーを維持するという、のが本懐に過ぎない。物質的、共同政治幻想的な象徴天皇ヒエラルキーとの距離感で自らの心の平安、と地位を得ようとする。
遅れてしまう、世界から。こういう風潮が政治システム化すると。
元から日本語というのはグローバルITシステムにマッチしない言語である。
卑近な話になるが、頭のボケ程度の確認のために二つの単語を覚えて何時でも出てくるようにしている。
一つの方が必ず決まって出てこない。そこで英語の直訳して覚え込んだら先に英語の単語が出てきて日本語の単語はいえるようになった。少なくとも、日本語だけではダメで二つの言語を使うと脳の反応が良くなるみたいだ。
そもそも一応大学では第二外国語の授業がある。その意義は意外にもこういう脳の働きの活性化の役割もある、と想う。
要するに、1つのことに純化すると脳内細胞とその連絡回路は機能を弱める、あるいは偏屈になる。
福沢諭吉も明治維新を論じて耽溺に陥らなかったことが明治維新を達成させた、と総括している。
新型コロナワクチン開発の元となった研究を始め完成させたたのは東欧からアメリカに渡った女性科学者。
この前の養老さんの動画と一緒にアップしようとしたもう一つの動画で、面白いことを云っていた。
アメリカと中国は世界でも特殊な変わった国。
中国は人が多く、70ぐらいの異民族がいる。
アメリカも多人種、各州の独立性は強い特殊国家。
このような特殊環境において国をまとめていくには、共通の価値観を統治者が前面に押し出して偏差値の大きい住民を国民に統合していく必要に迫られている、と。アメリカ流の民主主義はヨーロッパ最先端の技術、宗教を身につけた人々が渡来した物的自然環境に恵まれた新大陸国家という歴史環境を抜きに語れない。この点においてヨーロッパ、日本とは全く条件が違う。
W流に一言でいえば、強烈な国家共同幻想を政権が押し出していくことで国民に一まとめにする。
ところがその両国は自国統治の流儀を世界に転用するから、世界的に問題をばらまいていく。
>日本の一部がまねをしているのは、本当の意味での奥深い日本歴史が形成したムラ社会的共同体の上にアメリカ的な絶対価値観を押し脱すことで、さらに国民を統合しようとしている。巨大イベントのたびに国歌斉唱。
戦前の統治方法のアメリカ的焼き直し。社会学的歴史学的にやる必要がないのにダメ押しをしている。
>当然にも社会全体は窮屈にひとまとまり安全になるかもしれないが、自由な創意工夫が生れる環境は損なわれる。それとアメリカと同じ位相の疎外されたものの暴発殺人事件が多くなる。
@昔イチロー、今大谷がもてはやされているが、あんなものは一定の野球という偏ったルールの中での完成度の達成に過ぎない。日本サッカー界にイチロー大谷に匹敵するプレイヤーは生まれないのは、サッカーに偏屈ルールはなく身体能力と技術が純粋に問われるからだ。自分の野球に熱中した世代だが、アレは見るスポーツではなく自らやって楽しむことに本質があるリージョナルなスポーツ。
国民の実生活に何の関係もない。科学の研究とも全く分野がちがう。経済能力の多元性柔軟性とも違う。
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@ここから先はあまり言いたくない冷厳たる事実がある。
単純な数の問題として
>騙されやすい人々がいるからだますものの存在がある。
>統治されやすい人々がいるから統治する人がいる。~ここの問題は統治されたがっている、と言い換えても良い~
そう云うヒトが一杯いる国は、ドイツのように2回ぐらい失敗しなくては自分のことがよくわからない。イタリアは戦後処理が日独とはかなり違う。
結局このままいけば、日本はよき国の大合唱で歴史的時間の経過に身を委ねる。いろんな日本固有の恵まれた条件はプラザ合意、日本バブル崩壊⇒冷戦体制崩壊以降崩れた。多数が日本は良い国、外国のことを取り上げてもその心根は内向き、外に出る元気、取っ掛かりがない、それで気が済むのだからそれでも良い。
~ネット上で大きな社会問題が起きたときのコメントの多くは割り切って言えばもっと合理的に統治してくださいということに尽きる。もっとも、その統治がリアルに自分に降りかかってくると拒絶する人もいるようなので自分だけは除外した管制高地にでもいるのか。自由にさせよ!という論旨の展開は極少数派。
*究極の所、人と人の関係でもない。人と人間的自然の普遍的な在り方の問題だ!
*前回の記事で載せた養老さんの動画もよくよく考えると怪しいところがある。
@自然との関係が希薄になり人と人との関係だけになるとそのプラスマイナスは2倍になる、という。
確かにもっともらしい。
養老さんの解決策は即物的だ。現代版都会と田舎の自然の参勤交代だが、都市生活者にその物理的な余裕はない。
@それよりも養老さんの自然と人間の2分割法の問題点は人と人との関係が±あっても2倍になれば、人の操作ではどうすることもできない人間的自然が生れてしまうことだ。それは自由意志ではどうにもならない、絶対的外部にあり、自然のように無常に転生していく人間が物質的存在になってしまうのだ。
@この関係を逆転したのは、いわゆる民主主義制度ではなかった。大きく曲りなりという注釈はつくが、物的社会的歴史的条件から当然のことといえる。個々人、個性という最大級の要素も等閑視された。
@それでもグローバル資本制の巨大流動資本の蓄積がもたらす惨禍を修正できるのは、今までの歴史の中にあった政治思想以外にない。