反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

今の世に文学であることは<数寄>なのだ。貴司山治メモリアルサイトと「ゴーストップ」。鴨野長明メモ(11資料)。

 今回の記事は1月4日(火)に大幅に追加編集した。現時点の拙い意見をそれはそれとして記すことが反俗日記の立場を貫くことになると思ったからだ。

1つはプロレタリア文学がずっと気になっていたものとし旧文をそのままにしておけなかった。「ゴーストップ」に立ち入った意見が必要だった。そのためには当時の政治環境についての意見を整理する必要に迫られた。後者は幼稚な段階に留まっているのは承知である。前者は自信がある。

第2。日本経済政治に対しての意見が必要に思えた。我流であるが、率直な意見。このトレースの大きな方向は間違っていない、と確信している。

>全体の主旨はどこかに行ってしまったが仕方がない。コレが流儀だ。

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 正月用に図書館から一杯本を借り出してきた。ほとんどの本はざっと目を通しただけで興味が失せた。貴司山治「同志愛」新プロレタリア文学精選集ゆまに書房。厚さ3、5cm400P。登場人物の設定に違和感を覚える。もっとも当時の有りのまま、だったのかもしれないが。作者には興味を持った。幼い頃の記憶にその名前が刻み込まれていた。そこでネット検索してみたところ、下記のサイトを見つけた。今の世に文学であることは<数寄>なのだ。世の中がこうなっているあ~なっている、社会、経済がどうのこうの客観的な分析から、行動を導き出せないタイプの人間である。

 「方丈記」「発心集」の作者、鴨長明に関連する膨大なネット資料や唐木順三「中世の文学 無常」の鴨長明関連を読み進めるうちに、再確認した。

ito-jun.readymade.jp

W。語り口調は近年、NHKで大物作家の懐かしのインタビュー録音を再放送していた番組の解説者(文学誌編集長)とよく似ている。偶然の一致なのか、その編集長がまねたのか?

1)志賀直哉 

http://ito-jun.readymade.jp/nhk-omoide/01siga.mp3

3)芥川龍之介

http://ito-jun.readymade.jp/nhk-omoide/03akutagawa.mp3

4)菊池寛

http://ito-jun.readymade.jp/nhk-omoide/04kikuti.mp3

5)宮本百合子 

http://ito-jun.readymade.jp/nhk-omoide/05miyamoto.mp3

W。「この天才作家(W。作品を読めば女流作家ではNO1の文才があった、と解る!党員作家みたいな立ち位置になってしまったのでその実力が正当に評価されていない。)が付き合ってみるとても厄介な性質の人と解ってきた。」⇒要するのお嬢さん育ちが世間でて角が取れずにそのまま表に出るから厄介。そんな人が身近にいる!中條百合子の父親は日銀本店の設計者。典型的な都会の小ブルジョア家庭の出身者。1)志賀直哉、女性版。

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プロレタリア大衆小説 ゴー・ストップ 発禁初版復刻

W。一気に読了した。面白かった。

http://ito-jun.readymade.jp/go-stop/gostop-honbun/gostop1.htm

「ゴー・ストップ」1955年戦後版に付された作者自身の解説(抜粋)

                  貴 司 山 治 (伊藤純・編注)

引用

「鳥羽のような型のテロリストは、大正時代の労働運動の内部にはいくらでもいた。しかし私が「ゴー・ストップ」に鳥羽を英雄のように書いたというゴウゴウたる当時の非難には、そういう理由では対抗できなかった。
 ……
 鳥羽の行動は私の「塩田争議資料」中からの抜粋であって、鳥羽が塩田争議の同志と巡りあうなどという話のつけたりも、そのせいである。……

*多くの資料が残っている大正15年~昭和2年の鳴門塩田争議でみても、暴力団の介入、それに対抗する自衛団の結成などで、暴力行為が頻発した。組合側の暴力実行者として警察に追われながら逃げおおせ迷宮入りになった事件もあったようで、関西から逃げてきた鳥羽の設定はそれらを反映しているようである。1967年の徳島の郷土史岩村武勇氏への手紙でも「行動隊の責任者はMだった」と逃げおおせた人物の実名をあげている。

W。他のプロレタリア文学作品群と違ってこの小説が出色なのは、鳥羽を登場させたところにある

>あまたのプロレタリア小説よりも椎名麟三の若き日の大胆活動家時代を描いた小説(ある意味悪漢小説)がなぜ面白いのか、完成度が高いのか。

結論を先に言えば、椎名麟三の作品には当時の大胆活動を包み隠さず描く力がある。才気あふれ周囲の人々を活動のために犠牲にすることを厭わない彼の大胆な行動力は読者に一種の痛快な悪漢小説を読む思いにさせる。実際、当時そういう人物は一杯いたと想わせる実在感がある。

 鳥羽が登場する展開になるとそれまでの下町庶民生活や労働運動の舞台が最先端の社会風俗に一挙に広がりを持ち解き放たれたように感じる。お決まりのプロレタリア小説の陰隠滅滅、やられっぱなし、隠れっぱなしの舞台設定からは逸脱しているのは間違いない。しかし爽快感を読者に与える。もっと言えば、小林多喜二蟹工船」よりも面白い。⇒善悪二分、劇画チックで小説の体をなしていない。大昔、あの小説を読み終えるのは苦痛そのものだった。「党生活者」⇒陰隠滅滅4畳半プロレタリア文学の象徴。

下町の大きなガラス工場の一斉組合結成は当時の情勢から治安警察案件とやくざの介入に対して運動側に赤色組合主義的な「全国規模のセンター」である評議会が出てくれば当然にも労働運動、地域闘争の場面に収まらず、社会闘争の様相を濃くし、当時の社会風潮や政治情勢と労働運動の接点が必然化する。それを労働者側の登場人物を配して描き切るためには、この小説のそれまでの登場人物の政治的な変身では無理があり、新たな舞台回しの役割として鳥羽のような人物を配する以外になかった。

>下町工場の労働組合結成時の紛争に対して治安警察とやくざ暴力団が直接介入した舞台設定の小説に、「鳥羽のような型のテロリストは、大正時代の労働運動の内部にはいくらでもいた。」リアルな労働運動側の実情を描くことに内部から大きな非難が集中したのは、鳥羽の最期に登場する場面に典型を見たのだろう。逃亡先で治安警察の厳重包囲された鳥羽が所持していたピストルで最先頭の突入してきた警察官を撃ち、

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渡辺政之輔 - Wikipedia

1899年明治32年9月7日 ‐ 1928年昭和3年10月6日

関連個所引用

1928年昭和3年)、国際連絡の帰途、台湾基隆で挙動不審ゆえ刑事に誰何された際、隠し持っていた拳銃で刑事を狙撃(翌日、死亡)したため官憲に追われ、包囲され自身の拳銃で自殺した[注 1]。」⇒劇画チックなシーンではなくリアルな事案を踏まえている。

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その勢いで銃器を所持しない包囲網を逃亡者2名を従え、まるでモーゼの出エジプトの場面のように突破するシーンであろう。(当時の情勢ではあり得ない!と想うこの小説は毎夕新聞に連載されたが、本として発行直ぐ発禁処分になった。それでも多くの本が市中に出回った。

モーゼの出エジプトのようなシーンに轟々たる非難が集中するのは当然としても、そのシーンの一部は事実に踏まえている

>いずれにしても発禁処分は免れず、戦線への大弾圧は避けられない情勢だった。この小説のタイトル、<ゴー、ストップ>はその象徴であり、文中にも大弾圧を予測する指導者の発言がある

「27テーゼ」を具体化する党の大衆化、機関紙の確立活動)によって、大弾圧必至になるのだから、文芸の表現の自粛は所詮枝葉の問題にすぎず自由を尊重すべきだった。~その路線は社会ファシスト論と表裏一体~~~<闘争激化戦術をとって社会民主主義勢力との統一戦線追求ではなく違いを際立たせ労働運動の主導権を握る戦い>によって合法性が確保されると見積もっていたのか。⇒社会ファシスト論は独ソ不可侵条約と後の反ファシズム統一戦線への呼び水的役割を果たした

@以下は編集追加した。自分でも考えの足りなさを自覚している。

   ↓

 なお、社会民主主義政治がソ連邦共産党大会でいわゆる共産主義と改名された歴史はその1として国際的な社会民主主義運動の20世紀初頭の世界的な金融寡頭制による戦争と対抗する革命の時代におけるロシアなどの皇帝支配資本制下の政治経済環境における適応形態であったロシア革命の闘争形態から決定的な影響を受けた

当時、自然発生的に起こった労働者兵士の評議会を統治権力にするためにはあの方法しかなかった。その他の方途では皇帝は外国勢力の介入によって復権し市民革命的政治状況はロシアと世界情勢にその経済条件がないのだから定着しなかったと思う

 

 その2。スターリンの一国で社会主義が可能論とその実行、軍事主義と植民地半植民地解放がミックスされて共産主義とされるようになり、その源流である社会民主主義は否定された。

 

 中国共産党は安門事態以降の改革開放の政治路線の正統化、と統治権力行使、共産党の行動の自由確保のために過渡期社会主義論を綿密に研究し整合性求め理論的な基礎付けを行った

の方向は一貫して統治権力を行使するものとしての一応の筋道が立っている。

文化大革命の国内騒乱において権力者はそのよって立つ理論的な基盤も問われた。その成果が天安門事態以降の権力のよって立つ理論的な基盤の整合性をその継続性の中で求める方向に向かわせた。統治する者、政治弾圧する者にも理論と法制の確信が絶対に必要だ。

>ただし、中国共産党政権も中国史専制と人民の相克の習いに沿って中国人民の海に消えていくだろう!政治権力と人民に二層構造は変わらない。

 他方。ソ連共産党、その作業をロシア革命後、70年を経過した社会で社会民主主義政治が実行可能だと勘違いし一気に政治権力を社会民主主義化し経済権力を資本制化しようとした。コレは権力政党の慢性的な停滞傾向を示すものだ。Aからその条件もないのにBに乗り移った大間違いである

結果、国力は一気に弱体化し、経済は私的ルートに簒奪され、プーチンが登場する羽目に陥った。

その3。レーニン「国家と革命」を反俗日記で再検討したとき、後段において世界各国の統治形態を分類し、イギリスやスイスのような議会主義的な統治形態の歴史の長い国では、闘争形態(戦術と政治路線)をそれに合わせることが必要だと主張していることに注目した。

 その4.日本のような一党が政権を握り続けている国は民主無きおしゃべりな独裁国家というほかない。同じように国王がいて長期政権、というか統治者の政策の振幅が小さく国民合意の幅が狭い国は北欧諸国があげられるが日本とずいぶん様相が違う。

 結局日本の「市民革命」は敗戦によるGHQ改革に代替えされ(ドイツ革命はヒットラー以前)、市民個々人やその結びつきは資本制下の民主に変化途上で、朝鮮戦争の特需が降って湧いてくると同時に、戦前の政治支配者の復活とその中核である政党の政治経済基盤が打ち固められその内外に日米軍事同盟のタガがはめられた。政治反対派はそれに従属する立ち位置に固定された(市民性が資本制下の民主に変化途上で挫折したのだから1票行き先は戦前普選次元と変わり様がない)。ことに日本資本主義は長期停滞するとこの傾向は強くなる。振り子は一方にしか触れない。

新聞マスコミ特権は敗戦後の総選挙で戦前勢力の横滑りを見たGHQが我流の市民革命が国民に行渡らないため、その宣伝媒体の優遇措置をとったものであったが、日本資本主義の長期停滞の様相を異録すればするほど、独裁長期政権免罪のあらゆる手練手管を使ってのおしゃべり媒体となっている

>高度経済成長とその余勢が効力を出来たのは80年代のプラザ合意までであり、日本バブル崩壊と冷戦体制崩壊とともに日本の経済成長力の環境が取り払われ、同時に新興工業国がグローバル資本制下で急速発展し、日本の世界工業製品市場への競争力を弱めさせた。

@結果、日本資本制支配者層は、国内の労働力商品の強搾取に利益を求めるようになり、人々は大きくならないパイの分け前争い、既成のヒエラルキー内の席取り争いに駆り立てられるようになった。

 この事態を過剰生産と過少消費。

だったら、政府が財政金融膨張政策をとればいい、と捉えるのは間違いだ!

なぜならいったん内で失われた生産力は外国が代替えしているのであり、円の力で外国から輸入しなければならないからだ。円の後ろ盾となるのは日本経済の力、煎じ詰めると国内総生産力なのだから、それが停滞すれば外国からの購買力も停滞し、モノの循環が停滞すればカネが循環しても商品価格の上昇はあっても内外の購買力は下がる。

MMTは大間違い、その環境にあるのは世界通貨の位置を未だずり落ちていないアメリカだけであり日本がそれを取り入れるときは、戦前の高橋是清財政金融政策のような事態になって最終出口を失って引き返せないところに至る。

日本のMMT論者の意見を聴いているとそれが会計経済主義のようなものか、経済原論的な域で立ち止まって、自らのリアルな政策を展開できないこと気づく

例えば田中角栄日本列島改造論のようなもの、身近ではアメリカ政権の嘘っぽいグリーンニューディール的な政策を展開する代わりに、現金融財政政策の批判で済ませている。アンチテーゼであってもジンテーゼになっていない。

そういう幼稚なことに熱心になっているよりもまず政権交代による政治権力を握ることが先だ。そして民主の徹底だ。

MMT論者の云うような政策が効力を発揮するのなら現長期政権が、導入しているはずだが、徐々に導入しつつあるというのが正確な見方だリフレ派による日銀批判で出てきたのは国債の大量買い付け、アベノミクスだった。それでも経済の実勢は停滞すればあと残された政治権力維持のための誤魔化しの道は金融財政膨張政策しかなくなるのは理の当然だ

ただし長期政権は反対勢力や世界市場の激変に追い詰められるまでに至っていないため、金融財政膨張政策がスローに押しとどめられているだけでいつでも最後の切り札として用意されている。

この政治感覚がないのはノー天気と云われても仕方がない。

>所詮、ケインズ政策程度の実行価値しかないものを羊頭狗肉している様にみえる。

>以上が、デフレと称される長期経済停滞の真相である。

 

@敗戦後の東アジアや世界の冷戦体制環境に最大に恵まれ発展してきた日本経済戦前の立ち位置。工業生産指数は列強の中の下位レベルに戻ろうとしているだけだ。外側の環境を主因に発展してきた経済に内発的な発展力は乏しいままだった、ということだ。

>経済発展の勢いの持続している中曽根政権時代に内発的なヒトの力による発展力を獲得する制度改革を獲得するチャンスだったが、逆方向のことをした。役所事務でハンコ廃止がつい最近などあり得ない事態。欧米先進国に家族革命が進行している頃、日本では専業主婦家庭モデルによって逆改革が行われた。

@今言われている改革は、経済の取り分争いの口実、ヒエラルキーをそのままにしての成り上がるための改革でアリ、結果としてパイの大きさが変わらないのだから、急激な階級差の拡大に寄与するだけだ。

>それを承知でやっている。

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 ここから旧文に戻る。

>ゴーストップの英雄視批判は当時の共産党の政治路線に沿うものでなかったから、という他ない。

        ↓

「革命運動に生きた渡辺政之輔と丹野セツ」現代の労働研究会代表 小畑 精武 | コラム/温故知新

引用

「27テーゼと渡政の客死

「日本問題に関する決議(27テーゼ)」として、コミンテルン執行委員会で採択された。渡政は11月に帰国。12月には日本共産党の最初の綱領的文書として、日本共産党拡大中央委員会で全員一致確認された。

「27テーゼ」を具体化する党の大衆化、機関紙の確立活動に渡政は取り組み、「赤旗」創刊の辞を執筆。第一回普通選挙を戦う。28年の3・15共産党弾圧を運よく逃れ潜伏、9月に鍋山貞親と上海へ党務でむかった。10月、さらに台湾の共産党支援に向かった。6日台湾の基隆港で警察から不審者と見られ銃撃戦となって、客死。自殺か、他殺か?結論は不明のまま。」

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>引用

「しかし私が「ゴー・ストップ」に鳥羽を英雄のように書いたというゴウゴウたる当時の非難~」

英雄のように描いてはいけなかった、という非難があったならばどのように描くべきだったのか、という対案が白熱のリアル小説展開を追求する以上必要であったが、当時のこういう方向での批判は党路線の対置に終わっていた、と想う。そのような政治方針に限定した批判をするのは幹部としては簡単なことであり怠慢でさえある。しかしそれで、この小説が小説としての広がりと奥行き、読者の願望を叶えられたのか、と問わなければならない。はっきり言えば、のような自主規制はプロレタリア文学を狭路に追い込む道だった当時のプロレタリア文学、労働者人民の多くの犠牲を見据え描きながらも、戦後のいつ頃からは文学史上のエピソードのようになった。

 この小説にも描かれているように、共産党活動家が表面に出て合法運動を繰り広げる政治路線に転換すれば、当時の力関係からすれば、必ず一斉検挙という事態に遭遇し、戦線は非合法状態に置かれる。国際的な情報網の乏しい当時としては無理なことだが、1920年代後半から30年代への世界情勢展開の中で日本の運動を位置づけていく、という大きな視野も必要で、いずれにしてもプロレタリア文学の自主規制は、激動の時代において全く枝葉の問題でアリ、プラス面よりもマイナス面があまりにも大きすぎた。

>国内の力関係においていずれ国家権力の大弾圧に会うのだから、文芸は文芸としての領域を守り広げ豊富化すべきだった。それが当時の人々の闘いの軌跡を後代に生き生きと残す道だった。

 

 志賀直哉は言った「主持ちの小説はダメだ」。

表現がイデオロギーに大きく制限されると読者が想像力をはばたかせる小説空間が貧弱になる、と言いたいのだ。

 小田実は左翼小説があれば、右翼小説もあると三島由紀夫豊饒の海」を上げた。無理やり読んでみるとそこにあるのは三島流イデオロギーの狂気の世界だった。神主の唱える祝詞に共鳴し陶酔状態に陥った列席者と登場する昭和天皇皇道派2,26事態正当化の世界から市ヶ谷の事態へと道は真っすぐつながっている。小林多喜二蟹工船も読了に苦労したが、これには吐き気を模様した。

 なぜ戦前の国軍や国家に己の存在を溶解し陶酔できるのか、まったくその感覚が理解できない。右翼心理の不可解なところはここだ。しかも自分は世間の人よりも右翼個人が身近にいた。人として最高に良い奴だった。独自の世界と雰囲気を持っている。

 ただしその見解は現状否定の代替えにローマン的文学的独自世界を対置するだけで社会経済分析に踏み込もうとはしなかった、点を批判した。右翼の政治的な本質は国家主義であり、そこで己の政治欲求が満たされると日本経済がどうなろうと人々の困窮にも余り意に介さない。経済分析を政治の芯に置かないのだから、そういうことになる。だから言っている。右翼が政権を握るとロクなことがない。日本軍の主体を占める日本の農村の人と心の素朴な原風景に憧憬を抱いているようなところもあった。大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」でビートたけし演じる農村出身古参兵がちょうどそれに当たる。しかしその素朴さが捕虜に対する暴力性に転化する、所まで大島は描き切っている。日本のアジア膨張の裏側がコレだ。ナチスドイツが確信犯なら、素朴な日本兵未必の故意犯か。

しかしイデオロギーでその人の考えや行動を退けるべきではないと想っていた。何よりも当人は実をもって反体制を実行していた。

 鈴木邦夫さんが云う様に左翼でも右翼でも嫌な奴は嫌な奴、良い奴は良い奴だ。

もっとはっきり言えば経験上、左翼一般に嫌な奴が多い。

ここが日本左翼の人格的な限界だろう。だから内輪で始まった亀裂がとんでもないほど拡大し始末に負えなくなる。ここで冒頭の宮本百合子=厄介なヒト評を想いだす。アレは女だけのケースではない。男にもいる。もっと質の悪いのが大勢。

マルクスレーニンをそのまま受け入れ運動の中で人格形成するそうなるのかもしれない。右翼は個人単位で動く。左翼は組織単位を重視し人格はそこで形成されるのだから、組織が歪めば歪んだ人格が大勢を占める。

養老氏に連合赤軍事件はいじめの象徴のように云われて、関係がない自分も侮辱された思いがするが、反体制をつらぬくためには個人を滅却する術を身につけなければならないのも事実だ。はっきり言えば、反体制の活動家は人間的な面白味を消した人格が多い。

前のその人を熟知しているものとして久々に会うと、人間的な面白みをすべてそぎ落とされた人物が目の前にいると感じた。その作った人格は外部のモノには信用できない。内輪だけで通用するものじゃないのか。

右翼はなんだかんだ言っても既得権とのつながりができる立場である。

高校時代、長い成績急落の間、乱読したので文系書物を批判的相対的に読む癖が身に染みていたので、鵜呑みにすることはできなかった。マルクスには終始一貫、違和感を覚えた。その政治論を歴史と経済史に照らし合わせて読み込めば、古さがあまりにも目立ちすぎた。マルクス市場原理主義の誰かさんがいったように学者さんで、それはわれわれ世代の共通認識だった。ただし共産党宣言を初めて読んだときは、歴史教科書に記された各統治者の権力と対比して、その富を生産する無告の人々という漠たる二重構造への想いを解き明かしてくれたような気がした。書かれた歴史は階級闘争の歴史だった、との総括は世界史を丹念に読んだ身には腑に落ちるものがあった。マルクス経済解説書から資本論を読み込んだとき、経済決定論純化したが、そこからレーニンに至る道は新鮮だった。レーニンは読者をその気にさせ、行動に駆り立てる独特の文章のリズムがある。毛沢東にもそういうところがある。革命は人間同士の闘いの中で生きた人間の力が起こすものであり革命を起こす主体が特定されるものである。そういった意味でマルクスには社会状況分析はあったが独立した革命論はなかった。しかしそれを労働者運動に持ち込んだことから混乱を拡散し惨憺たる結果に終わり自分はその任にあらず思い知り、時すでに遅しだが一粒の真砂として生きよう、と断定した。

>文学の世界は直接行動につながることがある。個別徹底が可能な<数寄>の世界と世間、社会とは切断されている場合もある。

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         鴨長明メモ

W.唐木順三「中世の文学 無常」教養不足で読み飛ばすところが出るのは仕方ないが、精緻な論旨を辿っていくとナルホドと感心する。

資料1

www.kotensinyaku.jp

資料2

kiss-hojoki.webnode.jp

資料3

ja.wikipedia.org

資料4

方丈記に対する誤解 :: 方丈記に、似た運命

資料5

方丈記の分析 :: 方丈記に、似た運命

資料6

ja.wikipedia.org

資料7

『方丈記』大ヒット記念!スーパーミニマリスト・鴨長明に独占インタビュー | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

資料8  W。この資料は作者が現地探索をしているので非常に参考になる。

note.com

資料9  W。資料として価値がある。現地写真重要。

鴨長明(九)晩年と死|日本の歴史 解説音声つき

承元2年(1208)長明は大原を後に、日野に移ります。日野は醍醐と宇治の中間。笠置山を背に負った、のどかな山里です。

鴨長明の遍歴

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W。日野方丈庵現地。地図下は近年まであった大きな湖(京都競馬場などは埋めたて跡)

日野

承元2年(1208)長明は大原を後に、日野に移ります。日野は醍醐と宇治の中間。笠置山を背に負った、のどかな山里です。

 

法界寺

法界寺があり、承久の乱で衰退しますが、長明の時代には広大な伽藍が広がっていました。

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。鴨長明1155年1216年7月26日

引用

日野は『方丈記』の著者である鴨長明の住んだ地であり、親鸞の生誕地としても知られる。かつて山城国宇治郡日野と呼ばれたこの地は日野家の領地であった。日野家藤原北家の一族で、儒学や歌道をよくした家柄である。」

W。官位官職を失った鴨長明の隠遁先に支援者がいて生活の糧を得ていた。

資料10

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

引用

「「心の師とは成るとも、心を師とするなかれ」と。 =感情の先生にはなってもいいが、感情を先生としてはいけない 直訳的な言い方だと 感情を支配する立場にはなっても、感情に支配される側になってはいけない つまり、 感情は自身でコントロール(制御)するものだから、感情(欲望)に翻弄されるな と言うニュアンスですね。」

W。唐木順三「中世文学 無常」鴨長明の項によれば、結局、長明は<発心>にたどり着いたことで、自力本願で人知れず阿弥陀の元に帰ることに最高の価値を置いた。

資料11

兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書新書 – 2017/11/18

bunshun.jp

W。吉田兼好が取り上げられるようになったのは没後、ずっと後。世の中の物的な側面が充実しだした時代。

引用

本書はその系図吉田兼倶(かねとも/一四三五~一五一一)による偽作であることを示す。兼倶は自身が構築した神道の体系の権威を高め、吉田家の家格の上昇をはかるために、当時知名度の上がっていた兼好を一家の系図の中にとりこんだ。系図に記載された兼好の父や兄弟などは赤の他人、官歴にも根拠はなく、吉田家に箔をつけるために、いわば下駄をはかせたキャリアを書き込んだものだという。これまでの伝記研究は、ニセモノの系図から出発して、兼好の人物像を組み立てていた。」

「出家前の若き兼好は、北条氏の一門である金沢氏に仕えて右筆(書記)をつとめ、京都と鎌倉を行き来していた。金沢文庫所蔵の古文書には「卜部兼好」の署名がのこり、さらに彼の通称が「四郎太郎」だったこと、母や姉の動向まで知ることができるという。鎌倉幕府滅亡後には、室町幕府の要人に接近して重宝され、晩年には歌人として名を成し、死の直前まで四つ目の勅撰集への入集に執着していた。調子が良くて、どこにでも顔を出し、未練がましいところもある人だったのだろうか?

 著者は、兼好の「遁世」の意味についても再定義する。彼の遁世とは世を捨てて悟りすますのではなく、むしろ身分や礼式にとらわれない非公式の領域に属する者として才覚を発揮し、有力者の庇護を得て生き抜くための方便であった。

 本書によって私たちははじめて素のままの兼好を知り、自由な気持ちで『徒然草』に向うことができるといえる。同時に、兼好自身の「遁世」と、作品の随所で語られる無常観との関係を検証しなおさなくてはならないだろう。」

ぴすけす

2017年12月25日に日本でレビュー済み

Amazonで購入
引用 W。このレビューは面白い、参考になる。ナルホドそういう読み方ものあるのかと「徒然草」にチャレンジしてみたくなる。
 中学校の教科書にさえ載るくらいの古典のことだから、作者に関してもう知られる限りのことは知られている、と誰しも思う(少なくとも評者はそう思っていた)。その思い込みを片っ端から粉砕してくれる快著。これほど衝撃的な新知見を、しかも盛りだくさん、啓蒙書で披露してもったいなくはないのだろうか・・・などと余計な心配をしたくなる。日本の中世文学に関する専門知識は必要ない。まっさらの素人(評者がそう)でも昂奮して読める一冊です。
「京都吉田神社の神官を務めた吉田流卜部氏に生まれた出自、村上源氏一門である堀川家の家司となり、朝廷の神事に奉仕する下級公家の身分、堀川家を外戚とする後二条天皇の六位蔵人に抜擢され、五位の左兵衛佐に昇った経歴」を小川剛生は「造られた虚像」「出自や経歴はまったく信用できない」と小気味よく斬りすてる。

 断じるにはむろんそれだけの根拠がないといけない。社寺や公家の日記・記録などの記述を丹念におさえていることは専家として当然なのだろうが、評者には誰でも見ようと思えば見られる類いの資料を用いて鮮やかに読み解く=読み替える手際に感歎した。
たとえば我々もなじんでいる「兼好法師」という呼びかた。
兼好は七つの勅撰和歌集に十八首採られているが、その際の作者表記はすべて「兼好法師。そして侍品(これは公家社会での身分秩序における最下層を意味する)以下の出家者は「凡僧」と呼ばれて「○○法師」と表記されるのだそうな。
だから、
>五位の左兵衛佐になっていたのなら、「遁世しても必ずや俗名で表記されたはずである」。ナルホド。勅撰のような格式の高い集においてはこういう慣行は厳守されるだろうからな、と納得する。明快にして強力な論証。
@官位従五位鴨長明出家しても俗名で歌を発表している。ただし、最晩年に書いた「方丈記」は出家名を記している。したがって、和歌の作品に兼好法師と記すことはあり得ない。
 この例だけでなく一体に、鎌倉末期から南北朝の社会における常識・慣行のなかに対象を置いて見直していくのが小川さんの学風であるらしい。兼好の行動圏である六波羅周辺の住民層を検証して、「武士・宗教者・金融業者などがひしめく新興都市」と位置付け、そしてその空間のなかに是法なる法師の行動を追いかける所など。『徒然』百二十四段で賛美されるこの坊さんの、土地・金融取引の実態を跡づけた上で(「実に敏腕の経営者」)、「金融や不動産売買で巨万の富を得ようと、是法の進行と矛盾することはない」。ナルホド。七百年前の都びとのメンタリティーがいきいきと伝わってくる。
殊に、個人の自我の発露や創意よりも伝統や秩序を重んじた中世社会にあっては、人の発想・行動には必ず倣うべき範型が存在する。和歌でいえば「本意」というところ。あるいはクルツィウス風にトポスと呼んでもいいだろう。「当時の社会では、自らは公的な場でどのように振る舞えばよいのか、相手に対してはどの程度の敬意を払えばよいのか (W.下賀茂神社、河合社の神職が叶わず後鳥羽上皇に新たな社の神職を与えられて断った鴨長明は上層社会の掟を徹底的に破った。後は徹底的に隠遁するのみ。<数寄>に徹し芸事と和歌の道が開け最後に方丈庵から発心の希求に至る。ある意味上流遁世者の王道を歩んだ。―――すなわち書札礼、路頭礼といった作法を知ることが重要な教養であった乱世であればあるほど、その後の復原力もまた強く働いた」。最後の一句は史眼の冴えを示している。
詳密な伝記の再検討でありながら、作品の読みにあらたな角度を提供しているのも、優れた研究である証拠。
兼好さんは「何事も古き世のみぞ慕はしき」、と内裏のくまぐまをほとんど恍惚として賛している。過去の栄光の回想、という通説を著者はここでも退ける。兼好が実際に目にしたのは官庁御殿が連なる大内裏ではなく、「里内裏」(洛中の廷臣の邸を借り受ける)だったと指摘するのである。ナルホド。これだと、目の当たりにしているごく標準的な調度に「これこそ内裏!」とコーフンしているミーハーの姿が浮かんでくるわけだ。
当時は、内裏に一般住民が入り込むこともふつうだったらしい。殿上人などは狩衣で儀式に臨むな、という禁令が紹介されている。略装だと公家が群衆に紛れてしまうのである。「我先争って紫宸殿に昇り、禁廷を埋め尽くす見物人の存在が前提となっている」というから可笑しい。そして、「兼好の内裏へ抱いた憧憬は、この日に内裏につめかけた住民のそれと違いのあるものではなかった」

 この兼好像はすこぶる清新。この男の手になるものとしてあらためてあの本を思い浮かべてみよう。なにやら斜に構えた隠者の独り言はやがて音を潜め、かわっていかにも「町のひと」らしい好奇心と身ごなしの軽さと、少なからぬ軽佻さとが横溢するシャープなエッセイという姿がせり出してくるようである。かの有名な小林秀雄の文章(これも教科書の定番だったものだ)の、思わせぶりが阿呆らしくなる。
乱世でありながら活気に満ち、下剋上が横行しながら伝統が賛美されるケッタイな時代生きた、これまた矛盾だらけのケッタイなやつがものした一代の奇書。本来『徒然草』は教科書になんぞ採るべきではない、じつに愉快な読み物なのだった。