今回の記事は1月4日(火)に大幅に追加編集した。現時点の拙い意見をそれはそれとして記すことが反俗日記の立場を貫くことになると思ったからだ。
1つはプロレタリア文学がずっと気になっていたものとし旧文をそのままにしておけなかった。「ゴーストップ」に立ち入った意見が必要だった。そのためには当時の政治環境についての意見を整理する必要に迫られた。後者は幼稚な段階に留まっているのは承知である。前者は自信がある。
第2。日本経済政治に対しての意見が必要に思えた。我流であるが、率直な意見。このトレースの大きな方向は間違っていない、と確信している。
>全体の主旨はどこかに行ってしまったが仕方がない。コレが流儀だ。
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正月用に図書館から一杯本を借り出してきた。ほとんどの本はざっと目を通しただけで興味が失せた。貴司山治「同志愛」新プロレタリア文学精選集ゆまに書房。厚さ3、5cm400P。登場人物の設定に違和感を覚える。もっとも当時の有りのまま、だったのかもしれないが。作者には興味を持った。幼い頃の記憶にその名前が刻み込まれていた。そこでネット検索してみたところ、下記のサイトを見つけた。今の世に文学であることは<数寄>なのだ。世の中がこうなっているあ~なっている、社会、経済がどうのこうの客観的な分析から、行動を導き出せないタイプの人間である。
「方丈記」「発心集」の作者、鴨長明に関連する膨大なネット資料や唐木順三「中世の文学 無常」の鴨長明関連を読み進めるうちに、再確認した。
W。語り口調は近年、NHKで大物作家の懐かしのインタビュー録音を再放送していた番組の解説者(文学誌編集長)とよく似ている。偶然の一致なのか、その編集長がまねたのか?
http://ito-jun.readymade.jp/nhk-omoide/01siga.mp3
http://ito-jun.readymade.jp/nhk-omoide/03akutagawa.mp3
http://ito-jun.readymade.jp/nhk-omoide/04kikuti.mp3
http://ito-jun.readymade.jp/nhk-omoide/05miyamoto.mp3
W。「この天才作家(W。作品を読めば女流作家ではNO1の文才があった、と解る!党員作家みたいな立ち位置になってしまったのでその実力が正当に評価されていない。)が付き合ってみるとても厄介な性質の人と解ってきた。」⇒要するのお嬢さん育ちが世間でて角が取れずにそのまま表に出るから厄介。そんな人が身近にいる!中條百合子の父親は日銀本店の設計者。典型的な都会の小ブルジョア家庭の出身者。1)志賀直哉、女性版。
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プロレタリア大衆小説 ゴー・ストップ 発禁初版復刻
W。一気に読了した。面白かった。
http://ito-jun.readymade.jp/go-stop/gostop-honbun/gostop1.htm
「ゴー・ストップ」1955年戦後版に付された作者自身の解説(抜粋)
貴 司 山 治 (伊藤純・編注)
引用
「鳥羽のような型のテロリストは、大正時代の労働運動の内部にはいくらでもいた。しかし私が「ゴー・ストップ」に鳥羽を英雄のように書いたというゴウゴウたる当時の非難には、そういう理由では対抗できなかった。
……
鳥羽の行動は私の「塩田争議資料」中からの抜粋であって、鳥羽が塩田争議の同志と巡りあうなどという話のつけたりも、そのせいである。……
*多くの資料が残っている大正15年~昭和2年の鳴門塩田争議でみても、暴力団の介入、それに対抗する自衛団の結成などで、暴力行為が頻発した。組合側の暴力実行者として警察に追われながら逃げおおせ迷宮入りになった事件もあったようで、関西から逃げてきた鳥羽の設定はそれらを反映しているようである。1967年の徳島の郷土史家岩村武勇氏への手紙でも「行動隊の責任者はMだった」と逃げおおせた人物の実名をあげている。
W。他のプロレタリア文学作品群と違ってこの小説が出色なのは、鳥羽を登場させたところにある。
>あまたのプロレタリア小説よりも椎名麟三の若き日の大胆活動家時代を描いた小説(ある意味悪漢小説)がなぜ面白いのか、完成度が高いのか。
結論を先に言えば、椎名麟三の作品には当時の大胆活動を包み隠さず描く力がある。才気あふれ周囲の人々を活動のために犠牲にすることを厭わない彼の大胆な行動力は読者に一種の痛快な悪漢小説を読む思いにさせる。実際、当時そういう人物は一杯いたと想わせる実在感がある。
~
鳥羽が登場する展開になるとそれまでの下町庶民生活や労働運動の舞台が最先端の社会風俗に一挙に広がりを持ち解き放たれたように感じる。お決まりのプロレタリア小説の陰隠滅滅、やられっぱなし、隠れっぱなしの舞台設定からは逸脱しているのは間違いない。しかし爽快感を読者に与える。もっと言えば、小林多喜二「蟹工船」よりも面白い。⇒善悪二分、劇画チックで小説の体をなしていない。大昔、あの小説を読み終えるのは苦痛そのものだった。「党生活者」⇒陰隠滅滅4畳半プロレタリア文学の象徴。
下町の大きなガラス工場の一斉組合結成は当時の情勢から治安警察案件とやくざの介入に対して運動側に赤色組合主義的な「全国規模のセンター」である評議会が出てくれば当然にも労働運動、地域闘争の場面に収まらず、社会闘争の様相を濃くし、当時の社会風潮や政治情勢と労働運動の接点が必然化する。それを労働者側の登場人物を配して描き切るためには、この小説のそれまでの登場人物の政治的な変身では無理があり、新たな舞台回しの役割として鳥羽のような人物を配する以外になかった。
>下町工場の労働組合結成時の紛争に対して治安警察とやくざ暴力団が直接介入した舞台設定の小説に、「鳥羽のような型のテロリストは、大正時代の労働運動の内部にはいくらでもいた。」リアルな労働運動側の実情を描くことに内部から大きな非難が集中したのは、鳥羽の最期に登場する場面に典型を見たのだろう。逃亡先で治安警察の厳重包囲された鳥羽が所持していたピストルで最先頭の突入してきた警察官を撃ち、
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1899年(明治32年)9月7日 ‐ 1928年(昭和3年)10月6日)
関連個所引用
「1928年(昭和3年)、国際連絡の帰途、台湾の基隆で挙動不審ゆえ刑事に誰何された際、隠し持っていた拳銃で刑事を狙撃(翌日、死亡)したため官憲に追われ、包囲され自身の拳銃で自殺した[注 1]。」⇒劇画チックなシーンではなくリアルな事案を踏まえている。
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その勢いで銃器を所持しない包囲網を逃亡者2名を従え、まるでモーゼの出エジプトの場面のように突破するシーンであろう。(当時の情勢ではあり得ない!と想う)この小説は毎夕新聞に連載されたが、本として発行直ぐ発禁処分になった。それでも多くの本が市中に出回った。
>モーゼの出エジプトのようなシーンに轟々たる非難が集中するのは当然としても、そのシーンの一部は事実に踏まえている。
>いずれにしても発禁処分は免れず、戦線への大弾圧は避けられない情勢だった。この小説のタイトル、<ゴー、ストップ>はその象徴であり、文中にも大弾圧を予測する指導者の発言がある。
(「27テーゼ」を具体化する党の大衆化、機関紙の確立活動)によって、大弾圧必至になるのだから、文芸の表現の自粛は所詮枝葉の問題にすぎず自由を尊重すべきだった。~その路線は社会ファシスト論と表裏一体~~~<闘争激化戦術をとって社会民主主義勢力との統一戦線追求ではなく違いを際立たせ労働運動の主導権を握る戦い>によって合法性が確保されると見積もっていたのか。⇒社会ファシスト論は独ソ不可侵条約と後の反ファシズム統一戦線への呼び水的役割を果たした。
@以下は編集追加した。自分でも考えの足りなさを自覚している。
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なお、社会民主主義政治がソ連邦共産党大会でいわゆる共産主義と改名された歴史は、その1として国際的な社会民主主義運動の20世紀初頭の世界的な金融寡頭制による戦争と対抗する革命の時代におけるロシアなどの皇帝支配資本制下の政治経済環境における適応形態であったロシア革命の闘争形態から決定的な影響を受けた。
当時、自然発生的に起こった労働者兵士の評議会を統治権力にするためにはあの方法しかなかった。その他の方途では皇帝は外国勢力の介入によって復権し市民革命的政治状況はロシアと世界情勢にその経済条件がないのだから定着しなかったと思う。
その2。スターリンの一国で社会主義が可能論とその実行、軍事主義と植民地半植民地解放がミックスされて共産主義とされるようになり、その源流である社会民主主義は否定された。
中国共産党は安門事態以降の改革開放の政治路線の正統化、と統治権力行使、共産党の行動の自由確保のために過渡期社会主義論を綿密に研究し整合性求め理論的な基礎付けを行った。
この方向は一貫して統治権力を行使するものとしての一応の筋道が立っている。
文化大革命の国内騒乱において権力者はそのよって立つ理論的な基盤も問われた。その成果が天安門事態以降の権力のよって立つ理論的な基盤の整合性をその継続性の中で求める方向に向かわせた。統治する者、政治弾圧する者にも理論と法制の確信が絶対に必要だ。
>ただし、中国共産党政権も中国史の専制と人民の相克の習いに沿って中国人民の海に消えていくだろう!政治権力と人民に二層構造は変わらない。
他方。ソ連共産党は、その作業をロシア革命後、70年を経過した社会で社会民主主義政治が実行可能だと勘違いし一気に政治権力を社会民主主義化し経済権力を資本制化しようとした。コレは権力政党の慢性的な停滞傾向を示すものだ。Aからその条件もないのにBに乗り移った大間違いである。
結果、国力は一気に弱体化し、経済は私的ルートに簒奪され、プーチンが登場する羽目に陥った。
その3。レーニン「国家と革命」を反俗日記で再検討したとき、後段において世界各国の統治形態を分類し、イギリスやスイスのような議会主義的な統治形態の歴史の長い国では、闘争形態(戦術と政治路線)をそれに合わせることが必要だと主張していることに注目した。
その4.日本のような一党が政権を握り続けている国は民主無きおしゃべりな独裁国家というほかない。同じように国王がいて長期政権、というか統治者の政策の振幅が小さく国民合意の幅が狭い国は北欧諸国があげられるが日本とずいぶん様相が違う。
結局日本の「市民革命」は敗戦によるGHQ改革に代替えされ(ドイツ革命はヒットラー以前)、市民個々人やその結びつきは資本制下の民主に変化途上で、朝鮮戦争の特需が降って湧いてくると同時に、戦前の政治支配者の復活とその中核である政党の政治経済基盤が打ち固められその内外に日米軍事同盟のタガがはめられた。政治反対派はそれに従属する立ち位置に固定された(市民性が資本制下の民主に変化途上で挫折したのだから1票行き先は戦前普選次元と変わり様がない)。ことに日本資本主義は長期停滞するとこの傾向は強くなる。振り子は一方にしか触れない。
新聞マスコミ特権は敗戦後の総選挙で戦前勢力の横滑りを見たGHQが我流の市民革命が国民に行渡らないため、その宣伝媒体の優遇措置をとったものであったが、日本資本主義の長期停滞の様相を異録すればするほど、独裁長期政権免罪のあらゆる手練手管を使ってのおしゃべり媒体となっている。
>高度経済成長とその余勢が効力を出来たのは80年代のプラザ合意までであり、日本バブル崩壊と冷戦体制崩壊とともに日本の経済成長力の環境が取り払われ、同時に新興工業国がグローバル資本制下で急速発展し、日本の世界工業製品市場への競争力を弱めさせた。
@結果、日本資本制支配者層は、国内の労働力商品の強搾取に利益を求めるようになり、人々は大きくならないパイの分け前争い、既成のヒエラルキー内の席取り争いに駆り立てられるようになった。
この事態を過剰生産と過少消費。
だったら、政府が財政金融膨張政策をとればいい、と捉えるのは間違いだ!
なぜならいったん国内で失われた生産力は外国が代替えしているのであり、円の力で外国から輸入しなければならないからだ。円の後ろ盾となるのは日本経済の力、煎じ詰めると国内総生産力なのだから、それが停滞すれば外国からの購買力も停滞し、モノの循環が停滞すればカネが循環しても商品価格の上昇はあっても内外の購買力は下がる。
MMTは大間違い、その環境にあるのは世界通貨の位置を未だずり落ちていないアメリカだけであり日本がそれを取り入れるときは、戦前の高橋是清財政金融政策のような事態になって最終出口を失って引き返せないところに至る。
日本のMMT論者の意見を聴いているとそれが会計経済主義のようなものか、経済原論的な域で立ち止まって、自らのリアルな政策を展開できないこと気づく。
例えば田中角栄の日本列島改造論のようなもの、身近ではアメリカ政権の嘘っぽいグリーンニューディール的な政策を展開する代わりに、現金融財政政策の批判で済ませている。アンチテーゼであってもジンテーゼになっていない。
そういう幼稚なことに熱心になっているよりもまず政権交代による政治権力を握ることが先だ。そして民主の徹底だ。
>MMT論者の云うような政策が効力を発揮するのなら現長期政権が、導入しているはずだが、徐々に導入しつつあるというのが正確な見方だ。リフレ派による日銀批判で出てきたのは国債の大量買い付け、アベノミクスだった。それでも経済の実勢は停滞すればあと残された政治権力維持のための誤魔化しの道は金融財政膨張政策しかなくなるのは理の当然だ。
ただし長期政権は反対勢力や世界市場の激変に追い詰められるまでに至っていないため、金融財政膨張政策がスローに押しとどめられているだけでいつでも最後の切り札として用意されている。
この政治感覚がないのはノー天気と云われても仕方がない。
>所詮、ケインズ政策程度の実行価値しかないものを羊頭狗肉している様にみえる。
>以上が、デフレと称される長期経済停滞の真相である。
@敗戦後の東アジアや世界の冷戦体制環境に最大に恵まれ発展してきた日本経済は戦前の立ち位置。工業生産指数は列強の中の下位レベルに戻ろうとしているだけだ。外側の環境を主因に発展してきた経済に内発的な発展力は乏しいままだった、ということだ。
>経済発展の勢いの持続している中曽根政権時代に内発的なヒトの力による発展力を獲得する制度改革を獲得するチャンスだったが、逆方向のことをした。役所事務でハンコ廃止がつい最近などあり得ない事態。欧米先進国に家族革命が進行している頃、日本では専業主婦家庭モデルによって逆改革が行われた。
@今言われている改革は、経済の取り分争いの口実、ヒエラルキーをそのままにしての成り上がるための改革でアリ、結果としてパイの大きさが変わらないのだから、急激な階級差の拡大に寄与するだけだ。
>それを承知でやっている。
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ここから旧文に戻る。
>ゴーストップの英雄視批判は当時の共産党の政治路線に沿うものでなかったから、という他ない。
↓
「革命運動に生きた渡辺政之輔と丹野セツ」現代の労働研究会代表 小畑 精武 | コラム/温故知新
引用
「27テーゼと渡政の客死
「日本問題に関する決議(27テーゼ)」として、コミンテルン執行委員会で採択された。渡政は11月に帰国。12月には日本共産党の最初の綱領的文書として、日本共産党拡大中央委員会で全員一致確認された。
「27テーゼ」を具体化する党の大衆化、機関紙の確立活動に渡政は取り組み、「赤旗」創刊の辞を執筆。第一回普通選挙を戦う。28年の3・15共産党弾圧を運よく逃れ潜伏、9月に鍋山貞親と上海へ党務でむかった。10月、さらに台湾の共産党支援に向かった。6日台湾の基隆港で警察から不審者と見られ銃撃戦となって、客死。自殺か、他殺か?結論は不明のまま。」
**
>引用
「しかし私が「ゴー・ストップ」に鳥羽を英雄のように書いたというゴウゴウたる当時の非難~」
英雄のように描いてはいけなかった、という非難があった。ならばどのように描くべきだったのか、という対案が白熱のリアル小説展開を追求する以上必要であったが、当時のこういう方向での批判は党路線の対置に終わっていた、と想う。そのような政治方針に限定した批判をするのは幹部としては簡単なことであり怠慢でさえある。しかしそれで、この小説が小説としての広がりと奥行き、読者の願望を叶えられたのか、と問わなければならない。はっきり言えば、そのような自主規制はプロレタリア文学を狭路に追い込む道だった。当時のプロレタリア文学は、労働者人民の多くの犠牲を見据え描きながらも、戦後のいつ頃からは文学史上のエピソードのようになった。
この小説にも描かれているように、共産党活動家が表面に出て合法運動を繰り広げる政治路線に転換すれば、当時の力関係からすれば、必ず一斉検挙という事態に遭遇し、戦線は非合法状態に置かれる。国際的な情報網の乏しい当時としては無理なことだが、1920年代後半から30年代への世界情勢展開の中で日本の運動を位置づけていく、という大きな視野も必要で、いずれにしてもプロレタリア文学の自主規制は、激動の時代において全く枝葉の問題でアリ、プラス面よりもマイナス面があまりにも大きすぎた。
>国内の力関係においていずれ国家権力の大弾圧に会うのだから、文芸は文芸としての領域を守り広げ豊富化すべきだった。それが当時の人々の闘いの軌跡を後代に生き生きと残す道だった。
志賀直哉は言った「主持ちの小説はダメだ」。
表現がイデオロギーに大きく制限されると読者が想像力をはばたかせる小説空間が貧弱になる、と言いたいのだ。
小田実は左翼小説があれば、右翼小説もあると三島由紀夫「豊饒の海」を上げた。無理やり読んでみるとそこにあるのは三島流イデオロギーの狂気の世界だった。神主の唱える祝詞に共鳴し陶酔状態に陥った列席者と登場する昭和天皇や皇道派2,26事態正当化の世界から市ヶ谷の事態へと道は真っすぐつながっている。小林多喜二の蟹工船も読了に苦労したが、これには吐き気を模様した。
なぜ戦前の国軍や国家に己の存在を溶解し陶酔できるのか、まったくその感覚が理解できない。右翼心理の不可解なところはここだ。しかも自分は世間の人よりも右翼個人が身近にいた。人として最高に良い奴だった。独自の世界と雰囲気を持っている。
ただしその見解は現状否定の代替えにローマン的文学的独自世界を対置するだけで社会経済分析に踏み込もうとはしなかった、点を批判した。右翼の政治的な本質は国家主義であり、そこで己の政治欲求が満たされると日本経済がどうなろうと人々の困窮にも余り意に介さない。経済分析を政治の芯に置かないのだから、そういうことになる。だから言っている。右翼が政権を握るとロクなことがない。日本軍の主体を占める日本の農村の人と心の素朴な原風景に憧憬を抱いているようなところもあった。大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」でビートたけし演じる農村出身古参兵がちょうどそれに当たる。しかしその素朴さが捕虜に対する暴力性に転化する、所まで大島は描き切っている。日本のアジア膨張の裏側がコレだ。ナチスドイツが確信犯なら、素朴な日本兵は未必の故意犯か。
しかしイデオロギーでその人の考えや行動を退けるべきではないと想っていた。何よりも当人は実をもって反体制を実行していた。
鈴木邦夫さんが云う様に左翼でも右翼でも嫌な奴は嫌な奴、良い奴は良い奴だ。
もっとはっきり言えば経験上、左翼一般に嫌な奴が多い。
ここが日本左翼の人格的な限界だろう。だから内輪で始まった亀裂がとんでもないほど拡大し始末に負えなくなる。ここで冒頭の宮本百合子=厄介なヒト評を想いだす。アレは女だけのケースではない。男にもいる。もっと質の悪いのが大勢。
マルクスやレーニンをそのまま受け入れ運動の中で人格形成するそうなるのかもしれない。右翼は個人単位で動く。左翼は組織単位を重視し人格はそこで形成されるのだから、組織が歪めば歪んだ人格が大勢を占める。
養老氏に連合赤軍事件はいじめの象徴のように云われて、関係がない自分も侮辱された思いがするが、反体制をつらぬくためには個人を滅却する術を身につけなければならないのも事実だ。はっきり言えば、反体制の活動家は人間的な面白味を消した人格が多い。
前のその人を熟知しているものとして久々に会うと、人間的な面白みをすべてそぎ落とされた人物が目の前にいると感じた。その作った人格は外部のモノには信用できない。内輪だけで通用するものじゃないのか。
右翼はなんだかんだ言っても既得権とのつながりができる立場である。
高校時代、長い成績急落の間、乱読したので文系書物を批判的相対的に読む癖が身に染みていたので、鵜呑みにすることはできなかった。マルクスには終始一貫、違和感を覚えた。その政治論を歴史と経済史に照らし合わせて読み込めば、古さがあまりにも目立ちすぎた。マルクスは市場原理主義の誰かさんがいったように学者さんで、それはわれわれ世代の共通認識だった。ただし共産党宣言を初めて読んだときは、歴史教科書に記された各統治者の権力と対比して、その富を生産する無告の人々という漠たる二重構造への想いを解き明かしてくれたような気がした。書かれた歴史は階級闘争の歴史だった、との総括は世界史を丹念に読んだ身には腑に落ちるものがあった。マルクス経済解説書から資本論を読み込んだとき、経済決定論を純化したが、そこからレーニンに至る道は新鮮だった。レーニンは読者をその気にさせ、行動に駆り立てる独特の文章のリズムがある。毛沢東にもそういうところがある。革命は人間同士の闘いの中で生きた人間の力が起こすものであり革命を起こす主体が特定されるものである。そういった意味でマルクスには社会状況分析はあったが独立した革命論はなかった。しかしそれを労働者運動に持ち込んだことから混乱を拡散し惨憺たる結果に終わり自分はその任にあらず思い知り、時すでに遅しだが一粒の真砂として生きよう、と断定した。
>文学の世界は直接行動につながることがある。個別徹底が可能な<数寄>の世界と世間、社会とは切断されている場合もある。
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鴨長明メモ
W.唐木順三「中世の文学 無常」教養不足で読み飛ばすところが出るのは仕方ないが、精緻な論旨を辿っていくとナルホドと感心する。
資料1
資料2
資料3
資料4
資料5
資料6
資料7
『方丈記』大ヒット記念!スーパーミニマリスト・鴨長明に独占インタビュー | 和樂web 日本文化の入り口マガジン
資料8 W。この資料は作者が現地探索をしているので非常に参考になる。
資料9 W。資料として価値がある。現地写真重要。
承元2年(1208)長明は大原を後に、日野に移ります。日野は醍醐と宇治の中間。笠置山を背に負った、のどかな山里です。
W。日野方丈庵現地。地図下は近年まであった大きな湖(京都競馬場などは埋めたて跡)
承元2年(1208)長明は大原を後に、日野に移ります。日野は醍醐と宇治の中間。笠置山を背に負った、のどかな山里です。
法界寺があり、承久の乱で衰退しますが、長明の時代には広大な伽藍が広がっていました。
承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。鴨長明(1155年)(1216年7月26日
引用
「日野は『方丈記』の著者である鴨長明の住んだ地であり、親鸞の生誕地としても知られる。かつて山城国宇治郡日野と呼ばれたこの地は日野家の領地であった。日野家は藤原北家の一族で、儒学や歌道をよくした家柄である。」
W。官位官職を失った鴨長明の隠遁先に支援者がいて生活の糧を得ていた。
資料10
引用
「「心の師とは成るとも、心を師とするなかれ」と。 =感情の先生にはなってもいいが、感情を先生としてはいけない 直訳的な言い方だと 感情を支配する立場にはなっても、感情に支配される側になってはいけない つまり、 感情は自身でコントロール(制御)するものだから、感情(欲望)に翻弄されるな と言うニュアンスですね。」
W。唐木順三「中世文学 無常」鴨長明の項によれば、結局、長明は<発心>にたどり着いたことで、自力本願で人知れず阿弥陀の元に帰ることに最高の価値を置いた。
資料11
兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書) 新書 – 2017/11/18
W。吉田兼好が取り上げられるようになったのは没後、ずっと後。世の中の物的な側面が充実しだした時代。
引用
「本書はその系図が吉田兼倶(かねとも/一四三五~一五一一)による偽作であることを示す。兼倶は自身が構築した神道の体系の権威を高め、吉田家の家格の上昇をはかるために、当時知名度の上がっていた兼好を一家の系図の中にとりこんだ。系図に記載された兼好の父や兄弟などは赤の他人、官歴にも根拠はなく、吉田家に箔をつけるために、いわば下駄をはかせたキャリアを書き込んだものだという。これまでの伝記研究は、ニセモノの系図から出発して、兼好の人物像を組み立てていた。」
「出家前の若き兼好は、北条氏の一門である金沢氏に仕えて右筆(書記)をつとめ、京都と鎌倉を行き来していた。金沢文庫所蔵の古文書には「卜部兼好」の署名がのこり、さらに彼の通称が「四郎太郎」だったこと、母や姉の動向まで知ることができるという。鎌倉幕府滅亡後には、室町幕府の要人に接近して重宝され、晩年には歌人として名を成し、死の直前まで四つ目の勅撰集への入集に執着していた。調子が良くて、どこにでも顔を出し、未練がましいところもある人だったのだろうか?
著者は、兼好の「遁世」の意味についても再定義する。彼の遁世とは世を捨てて悟りすますのではなく、むしろ身分や礼式にとらわれない非公式の領域に属する者として才覚を発揮し、有力者の庇護を得て生き抜くための方便であった。
本書によって私たちははじめて素のままの兼好を知り、自由な気持ちで『徒然草』に向うことができるといえる。同時に、兼好自身の「遁世」と、作品の随所で語られる無常観との関係を検証しなおさなくてはならないだろう。」
2017年12月25日に日本でレビュー済み
断じるにはむろんそれだけの根拠がないといけない。社寺や公家の日記・記録などの記述を丹念におさえていることは専家として当然なのだろうが、評者には誰でも見ようと思えば見られる類いの資料を用いて鮮やかに読み解く=読み替える手際に感歎した。
この兼好像はすこぶる清新。この男の手になるものとしてあらためてあの本を思い浮かべてみよう。なにやら斜に構えた隠者の独り言はやがて音を潜め、かわっていかにも「町のひと」らしい好奇心と身ごなしの軽さと、少なからぬ軽佻さとが横溢するシャープなエッセイという姿がせり出してくるようである。かの有名な小林秀雄の文章(これも教科書の定番だったものだ)の、思わせぶりが阿呆らしくなる。