W。前回の記事に挙げた参考資料(千夜千冊)をざっと読んでみたが、ピンとくるものはなかった。結局①910夜「神仏習合」に終わっている。だから、この記事の冒頭に挙げた大層な目標は達成できそうにもない。各専門分野の研究者はいてもこの辺の壮大な構想をもって研究する学者さんはいないのだ。しかし、現日本人の無宗教性、無党派性(自ら属する政治潮流という意識性は現ドイツにあって、日本には決定的に欠如)には間違いなく。いしん期の神仏習合破壊⇒廃仏棄釈、国家神道形成が影響している。古代的な日本人の基層精神構造云々なんて、地歴的地政学的な日本列島の位置とその原住民意識の形成史で簡単に理解できる。そこに特殊性はあっても神秘的なモノなどどこにもない。
>今流行っているオミクロン株の日本上陸も欧米に比べてかなり遅れてきた。日本列島住民はそれだけ欧米社会となつながりが薄い、ということだ。中国にもそれがいえる。大陸国家内での完結度が高い。分裂貿易経済発展国家韓国は世界つ繋がらねければ生きていけない。
>そもそも日本語という言語体系はアルファベッド表音言語の真逆に位置すると想う。
@もっともチョムスキーの言語学では世界共通言語まで立証的に辿れるらしいが。
@人類の起源はアフリカにアリは今の考古学的な事実。出アフリカ下現生人類の西ルート組や東ルートの一部はネアンデルタール人と混血した。同時代に共存していた証拠があるのだから(縄文人と弥生人の共同も考古学的事実)、ごく自然の成り行きだ。白人系に新型コロナ感染率が高いのもその遺伝子的な影響があるらしい。
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神仏習合 逵日出典 六興出版 1985
<反俗日記の長い前説>
神仏習合の研究は、戦前、本格的にできなかった、事実をまず押さえておく。
①神仏習合の研究は日本の宗教思想の起源、変容に関する考察に限らず
②日本歴代支配層の支配的思想史、
③民衆側の習俗史、抵抗史の根幹に位置するテーマであり、
④当然にも天皇制イデオロギーのよって来る根源を取り扱うことになる。
>⑤さらに日本の世界資本主義勃興期における東アジア東端付加体列島における遅れた資本制への転換点である絶対主義専制政治によって採用された廃仏棄釈の精神史に及ぼした影響が、今においても継承されいるイデオロギー風土を問うものとならざる得ない。
W。末尾の但し書きが気になったので冒頭に挙げておく。
参考¶神仏習合については、柳田国男の『山宮考』をはじめいくつもの先駆研究があるが、1950年代の村山修一『神仏習合思潮』(平楽寺書店・かの有名なサーラ叢書)で本格的な研究が始まった。
いまでは宇佐・三輪・八幡・地蔵・大黒天など大半の個別的神仏習合の議論が深まっていて、2~3年、目をそらしているとドッと中身が変わっているというふうになっている。
ただし、神仏習合論は決してやさしくはない。
>誤った議論も少なくない。たとえば岩波新書の『神仏習合』は読まないほうがいい。
『神仏習合 (岩波新書)』(義江彰夫)の感想(14レビュー) - ブクログ
⇒W。この部分が気になったのでネットで概要を調べてみた。読後、感想文に頼るしかなかったが、相当厳密な論評の一方でW注釈、素朴な読後感が載っていた。
それらを総合したうえでの直感では岩波新書の著者の神仏習合を論じるにあたっての根底的イメージに丸山真男、最後の本格的な研究課題である日本思想のパターン分類がある、と感じた。
丸山はそこで当時、林秀雄に代表される日本的なイデオロギー(論証省略、日本の地政学的風土に全面的に寄り掛かった感覚的言語でばっさり切り捨てる、結果現状肯定。分析的な三島由紀夫はここに留まることができず日本思想として純化していった。小林秀雄は常識を提示するが三島は文学の狂気に突き進む以外になかった。)の本質的な動態を原始的な自然信仰、氏族の祭政一致などの古代的なイデオロギー⇒まさに神仏習合以前の信仰習俗(本居が指摘した状態)基底層とみなし、
その上にその時代状況のヒエラルキーに都合の良いイデオロギーが「便宜的に」次々ととっかえひっかえ乗っけられる、としている。
なお、丸山の当該論文はWの力不足で途中で投げ出したが、パターンの発見という意味では的を射ているにしても論証に手間取っている感がしてついていけなかった~欧米思想史を引き合いに出せば事は簡単だったがその道を断ち日本思想史の枠内で片付けようとした。)
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そういう方法論を念頭に著者が「神仏習合」を考察すると、次に挙げる素朴な読後感になる。
「学生時代から何度も読み返している。日本における神道と仏教の融合はどう起こったのか。仏教伝来のときもそうなのだけど、政治的に仏教の性質が都合のよい点を持っていて、でも天皇家の正統性が続く日本では、神仏習合というかたちで存在するしかなかったのかなと思う。神仏習合自体は日本という国に合わせたスタイルというだけであって、その意味において「特殊」とも言いがたいか。すべて同書の解釈が正しいとも言い切れないところはあるのだけも、仏教を学ぶなかでの日本における解釈書として読むもよし、日本史における土地所有概念のありかたを学ぶために読むもよし」
W。丸山の日本的イデオロギー2層説は失敗作だといわれている。Wには難しすぎて解らなかった。
一番手っ取り早い論証方法は西洋思想史、中国思想史と日本思想の形態変節を対比させればよかった。丸山のデビュー作のように日本軍国主義とナチズムを対比させる手法を採れば読者には分かり易いが、デビュー作はあくまでも日本思想史の専門家としての随筆的短編のようなもので、同じ手法をとることはなかった。
回りくどい書き方をしているが、この感想文の筆者のような見解が、丸山手法を念頭に置いた新書「神仏習合」読後感に出現するのは、当然とおもう。
@岩波新書「神仏習合」には、習合前後のリアルな過程が、間違って記述されているから、この本を何度も読みこんでもこのような感想が出てくる。
神仏習合という共同幻想の最たる特殊領域にたいして専門分野の踏み込んだ分析をスルーし、基底と著者が想定する経済決定論というか社会必然論のようなアプローチに代替えしているから、こういう感想文が生れる。
日本の中途半端な古代律令社会の信仰領域のリアルな有様の解釈にその時代の土地所有関係やそれに基づく収奪関係を代替え的に説明することが妥当であるはずがない。
渡来した仏教を国是に中央朝廷側が支配関係(国家的所有は見せかけ理念)を決定実行したとしても、その全国支配体制は旧来の自然神、氏神信仰に密着し地元に君臨する地方豪族の支配系統に依拠していた。
以上の二重性が神仏習合の原初形態だが、二重性は二重性として当事者にまったく意識されない。
>朝廷中央「権力」の支配意志的な仏教共同幻想駆使と地方豪族、民衆の土着信仰は、この時点で二重構造を持っていたというよりもお互いの共同幻想が混然一体化していた。この際のヒエラルキーはカースト制とも呼べない原始的な彩を持っていた。
「山椒大夫」は名画にもなっている有名な説話だが、当時のストーリーは勧善懲悪ではなく、中央朝廷支配が地元の奴隷労働を駆使する豪族によって支えられていた歴史的事実を是認するもので、山椒大夫は成敗されず(むしろ中央に貢献する地元支配者の位置付け)、ただただ、母子の生き別れの非運を嘆く説話だったという。
今昔物語などの説法に従うと、山椒大夫は成敗されない。なお、<母と子をかどわかした者ども>もたいして悪行とされていない、と想う。人身売買は普通に見られた。それがこの時代の原風景。羅生門もその種の説話の風景があってリアリティーを持つ。
近代の感覚とは異次元の世界が中世にはあったが、近代的感覚が常識なっている作家が、物語として創作すれば勧善懲悪や白黒決着のつかないファジーな評定に焦点を当てる。反俗日記が中世に魅かれるのは、そこに近現代のヒューマニズム以前のむき出し素朴な人間の原風景をみるからだ。現代もイロイロ云う、いろいろあるが人間は死んでいくことに変わりがない。しかしこの絶対的な事実が身近にあるかどうかの違いは大きい。
>天皇家の正統性や批判的な見解などWは全く関心を持たずにここまで生きてきた。反俗日記にアップした堀田善衛の東京大空襲で焼け野が原になった東京をさまよいながら「方丈記」を連想し、大打撃を受けた下町の天富岡八幡宮に行幸した天皇に跪いて「私たちが至らないばかりにこんな有様になってしまいました」と口々にいう人々に言及し制度の上に胡坐を~云々の言葉は重い、とおもう。
だが一体、天皇側の主体は、具体的にどうしたらいいのだろうか?
この時の記事で、今上天皇の富岡八幡宮再訪と住民代表の懇談の写真を挙げた。
多分、堀田のその文が載っている全集(近衛文麿の奉文批判。藤原定家明月記と方丈記の対比や古今東西の文明論も所収)を今上天皇は読んでいたと想う。何となく趣向が重なる、とみていた。
「国民を想う祈りができなくなった」が、引退の理由だった、とおもうが、日本史の研究者として想うところはあっても発信する場は希少すぎて消えるほどだ。
しかし、天皇引退は日本史研究者として究極の選択だった。
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>しかし、歴史的な事実には徹底してこだわる。
子供のころから、その神社仏閣は一体だれがどのように具体的に作ったのか?そこに視線がいった。その作業をした人々が創り上げた。
戦国時代、織豊時代までの日本史は民衆史観でも通用する。そこから先は社会構造、経済構造が民衆を縛っている。江戸時代の民衆のリアルな状態を掘り起こすような視点や研究があるが、無理があるようだ。ただし、鎖国していたせいで育った日本独特の文化には興味がある。
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神仏習合 逵日出典
千夜一夜 松岡正剛
明治になって日本の宗教史上、最悪の出来事がおこった。神仏分離令、いわゆる廃仏毀釈が断行されたのである。明治維新にはこの未曾有の悪夢が重なっていたことを忘れてはいけない。
それはともかくとして、この神仏分離令によって大御輪寺も大神神社の若宮になることが決まり、仏像も壊されそうになった。
本書は十一面観音ではなくて、また聖林寺でもなくて、大御輪寺に最初の焦点をあて、そこからしだいに神仏習合・和光同塵の奥へ入っていこうという内容になっている。
すなわち、大神神社は奈良末期平安初期から大御輪寺を併存させていたばかりでなく、平等寺や浄願寺といった神宮寺をもっていたという話が起点になっている。
>大神神社の近くには若宮の大直弥子神社があって、これがかつての大御輪寺だったのだという。
@そうだとすれば、奈良期における三輪信仰とはそもそもが三輪山という神体山を背景にした“三輪の神宮域”という寺社域だったのである。
古代日本の神祇信仰は磐座(いわくら)や磐境(いわさか)や神奈備(かんなび)といった、なんとも曰く言いがたいプリミティブな結界感覚から始まっている。
>アマテラスやコトシロヌシといった人格神から始まったわけではない。
>「場所」の特定が最初だった。
神社は、そこに神籬(ひもろぎ)や榊(境木)や標縄(しめなわ)などを示し、「ヤシロ」(屋代)という神のエージェントともいうべき「代」を設定することから発生した。
>やがてこの「場所」をめぐって自然信仰や穀霊信仰や祖霊信仰などが加わり、
>さらに部族や豪族の思い出や出自をめぐる信仰がかぶさって、しだいに神社としての様態をあらわしていったのだと思われる。
この時期に、「祓い」の方法や「祝詞」などの母型も生じていったのだろう。
アニミスティックな要素やシャーマーニックな要素がこうして神祇信仰として整っていく。
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ところが氏姓社会が登場し、有力部族の筆頭にのしあがった蘇我一族の仏像信仰が登場してくる。
ひとつは、部族的な信仰と氏族コミュニティが実質と形式の両面から離合集散をくりかえしていったことである。これによって「場所どり・信仰どり」ともいうべき神祇合戦がおこなわれた。
>けれどもこの神祇合戦は、神の数がおびただしく多い日本列島という国土のなかでは、互いに対立するよりも、むしろ互いに融合しながら交じっていったことが多かった。
>もうひとつは、「仏」をどう扱うかという問題が急浮上した。神像をもたない神祇にとって、彼の地からやってきた仏像はかなり異色異様なものである。それをどう扱うか。
しかしながら、欽明天皇が百済の聖明王から招来された仏像を「きらきらし」と言い、
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@初期の仏像が「蕃神」とも「漢神」(からかみ)とも呼ばれたように、
@日本人にとっての「仏」は最初から“神”だったのである。仏教は当初から神祇の範疇としても捉えられる土壌をもっていた。
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もっとも蘇我と物部の争いのように、トップで「仏」をとるのか「神」をとるのかという二者択一になっていくと、支配層にとっては決定的なマスタープランの選択になっている。
>そこで聖徳太子の時代にもっとも蘇我と物部の争いのように、トップで「仏」をとるのか「神」をとるのかという二者択一になっていくと、支配層にとっては決定的なマスタープランの選択になっている。
そこで聖徳太子の時代に仏教こそが「三宝」となり、以来、日本の支配者は鎮護国家のもとの「三宝の奴」となったのだが、
では日本各地でヤシロ化していった場所でも神仏の激しい選択がおこなわれたかというと、そういう過激な競合はおこらなかった。
むしろここでは神と仏は融合していったのである。
以来、日本の支配者は鎮護国家のもとの「三宝の奴」となったのだが、
W。日本的な律令国家と一致。
中央(仏教こそが「三宝」となり、以来、日本の支配者は鎮護国家のもとの「三宝の奴」となった)+地方豪族(「場所」をめぐって自然信仰や穀霊信仰や祖霊信仰などが加わり、
>さらに部族や豪族の思い出や出自をめぐる信仰がかぶさって、しだいに神社としての様態をあらわしていった)
その最も決定的な証拠が神宮寺や神願寺であった。
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時代が進むにつれ、日本の各地は産土神(うぶすながみ)で埋められていった。
初期は神体山を中心に山宮が想定され、
ついで里宮が、田畑が重要になってくるとここに田宮が加わった。
海辺では沖合の奥津宮、途中の島などに想定された中津宮、岸辺の辺津宮が組み合わされた。
***
一方、時代が進むにつれ、各豪族が氏族寺を建てていく。蘇我の法興寺(飛鳥寺)、巨勢の巨勢寺、大軽の軽寺、葛城の葛城寺、紀氏の紀寺、秦氏の蜂丘寺(広隆寺)、藤原の山階寺(興福寺)などである。これに百済寺や四天王寺などの大官大寺が加わった。
こうなると、寺院塔頂に勤務する僧侶・尼僧たちの規約が必要になる。僧正・僧都・律師などが決まり、服装をはじめとする服務規定が生じていった。とくにどのような経典を読み、どのように儀典をおこなうかが重要になってきた。
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@こうして<鎮護仏教システムが中央官僚>によって築き上げられ、東大寺の華厳ネットワーク(国分寺・国分尼寺)のように中央から地方へというシステムの流出が試みられはじめたのである。
↓
が、まさにその時期、地方では神宮寺が次々に発生していったのだ。スタートは8世紀のことだった。気比神宮寺、若狭比古神願寺、宇佐八幡神宮寺、松浦神宮弥勒知識寺、多度神宮寺、伊勢大神宮寺、八幡比売神宮寺、補陀洛山神宮寺(中禅寺)、三輪神宮寺、高雄神願寺、賀茂神宮寺、熱田神宮寺、気多神宮寺、石上神宮寺、石清水八幡神宮寺などである。いずれも7世紀から9世紀のあいだに登場した。
@神宮寺や神願寺が建立された事情には、たいてい“神託”が関与している。
>その“神託”を読むと、神が苦悩しているので仏の力を借りたいというような主旨がのべられている。⇒W。古代ギリシアの神々のように人間に都合によって神々を独り歩きさせ政治意志を貫徹させる。
>こうして神宮寺では「神前読経」がおこなわれ、「巫僧」が出現し、寺院の近くの神社を「鎮守」と呼ぶようになっていく。
のみならず石清水八幡の例が有名であるが、
@神に菩薩号を贈るということすら進んで試みられた、「八幡大菩薩」がその賜物だ。⇒W。神様仏様の良いところ取りをしてミックスし、オーバーラッピングした=神仏習合
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>かくして、これらの地方に始まった神仏習合の流れが、
>やがては本源としての仏や菩薩が、
>衆生を救うために
@その迹(あと)を諸方に垂(た)れ、神となって姿をあらわしたのだという「本地垂迹」や「権現」の考え方に移行していった。
@この動きはとまらない。11世紀半ばには「熊野の本地」に知られるように、各地で「本地仏」を争って決めていくというようなことさえおこる。春日五神はそれぞれ釈迦・薬師・地蔵・観音・文殊の本地仏となり、熱田神は不動明王にさえなったのだ。
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なんとも逞しいというか、なんともご都合主義的だというか、それとも、なんとも編集的だというべきか。
@注目するべきはこのような本地垂迹説を編み出したのは、
@すべて仏教の側の編集作業だったということである。⇒W。プリミティブな自然信仰をを本源とする神様側に理論的基礎付けは無理
「仏様の力を借りる」とは神様側の意向ではなくて、仏様側の神仏習合の意志だった。
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もうひとつ注目しなければならないことがある。
@このような本地垂迹が進むなかでついにこの編集に逆転がおこり、神社の側からの逆本地垂迹がおこったということ、
@それこそが度会や伊勢や吉田による「神社神道」というものとなっていったということである。
聖林寺の十一面観音だけでなく、仏像を見るときは、それがどこから旅をしてきたかということを見なくてはいけない。
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W注釈
の感想
長い引用
「古代から中世にかけて隆盛した神仏習合の様相を、主にその社会的背景から論じた書。神身離脱に基づく神宮寺の建立、怨霊信仰などの神仏習合的言説が、どのような社会的要因から生じたのかを考察する。
本書は神仏習合的言説を成立せしめた歴史的・社会的要因を読み解くことを目的としている。しかし、その論述には大きな問題がある。というのも、本書における著者の仏教認識が誤っているからだ。筆者は「仏教の根本は、何よりも、物や人間に対する欲望に人間の罪の源泉があり、罪を償うためには苦行によって欲望の根を断ち、その世界から解放されて悟りの境地に達することこそ究極の目的である、という教説にある」(p75)などとして、仏教を善悪二極対立(罪=悪、悟=善)の贖罪宗教と捉えているのだが、これは全くの間違いである。なお筆者は、儒教も善悪二極対立で語っている他、阿弥陀浄土信仰をキリスト教のメシア思想やゾロアスター教の影響下に生まれたものなどと語っており、その宗教知識の正確性には大いに疑問符が付く。
本書の問題は、この間違った仏教理解に基づいて神仏習合を解釈していることである。例えば、神身離脱について筆者は「社会の発展の結果、私有財産を有するようになった豪農や地方豪族がそれに罪悪感を覚え、私有を罪とする仏教に共鳴してその思いを神々に仮託した」と述べている。しかし、仏教は財産の私有を忌避こそすれそれを罪としている訳ではないし、そもそも地方豪族たちが財産の私有を悪と捉え罪悪感を覚えたという説自体疑問である⇒W。ほんとうにこんな幼稚なことが述べられているのか、現物を読んでみたいが。
また神身離脱を語る物語はあくまで仏教の価値観(神々もまた六道輪廻する衆生である)に基づいているのであって、そこでの神々は仏教から独立した(「本来の神道から外れて罪業に苦しむ」)存在として語られている訳ではない。さらに、筆者は怨霊信仰を(私有を罪とする価値と個我に目覚めた)没落貴族たちと密教が結託した反王朝社会運動と解しているが⇒W。何を根拠に?、これについては寧ろ民間の疫神信仰との関連を考慮すべきだと思う。(筆者は民間の御霊会を王朝の残酷さや罪を糾弾するものとしているが、実際にはこうした御霊会では個人としての怨霊は意識されず疫神が念頭に置かれていた)。
その他、末法思想に一言も触れずに平安期の浄土信仰を語ったり、本地垂迹などにおける神道側のアプローチに言及しなかったり⇒W。廃仏棄釈を論じる当たって神道の発端は絶対に無視できない!と、その主張には問題が多い。資料の扱いについても、鎌倉時代成立の『北野天神縁起』に見られる思想をそのまま道真死亡直後の社会通念とするなど雑な点が見られる。全体として神仏習合の本質を語っているとは言えず、おすすめはできない。」