反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

The internationale。西安(背後に旧長安城壁)、中国ロックバンド街頭生演奏。荘厳な唄ではない。洗練された歌ではなかった。すでにある体制の唄ではなく、その体制を打ち破るために最後の最期まで戦う意思を打ち固める歌だった。なぜロックバンドがあのように唄えるのか知りたい。日中欧の民衆の闘いについて過去記事から。

www.youtube.com

這是最新版本,男主唱沒戴帽子😄好像還有兩段沒唱

 

W。グーグル翻訳

    コメント引用

「これは最新バージョンで、男性のリードシンガーは帽子をかぶっていません😄まだ2つの段落が残っているようです。」

W。
基本、ドラムとギターのアレンジがはまって上手くのっていける。荒削りのままが良い。ビートルズナンバーに例えると、「I saw her standing there」ハンブルグステージ録音盤というところか

ボーカルはアジテーター風。
この動画はボーカルと聴衆の出だしのざわついた雰囲気、途中の音程外しの絶叫調を含めて最後まで、どうした事か記憶に残っている戦いの現場の雰囲気がある。
これ以外のバージョンは視聴者数も多いが、洗練されすぎている。ネット上で視聴できるインターナショナルで闘いの場の雰囲気を醸し出しているのはこのバージョンだけだった。
荘厳な唄ではない。洗練された歌ではなかった。すでにある体制の唄ではなく、その体制を打ち破るために最後の最期まで戦う意思を打ち固める歌だった(歌詞が物語っている)。2021年、城壁都市西安(昔の長安)で~バンドの後ろには大昔の城壁~なぜロックバンドがあのように唄えるのか知りたい。

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redtigerkun.hatenablog.jp

 引用
「江戸時代の一揆、騒動の研究成果は郷土史の分野に発表されているというのが現状のようです。
大きな図書館の江戸時代の書棚の前に佇むと、正面から一揆騒動を扱った書籍は一冊しかありませんでした。
 
 須田努さん系の学者グループの『「悪党」の一九世紀 民衆運動の変質と“近代移行期”』青木書店2002年刊。
この中の須田さんの「若者、悪党という実践者」という論説の一部に甲州騒動の主導者のリアルな実態にピントを合わせた記述が載っています。
 
 この本全体の各論集を以前、読んで共感するところがありましたが、今では疑問に想っています。
 
>幕末世直し一揆の暴力闘争としての特異な現象を挙げて云々しても、
古今東西の世界史的見地からすれば、所詮そんな次元を超えた大衆実力闘争、
もっと進めば農民戦争の実例は数多くあるわけです。
 
幕末世直し一揆の暴力的側面は江戸時代の兵農分離鎖国を大前提とした幕藩体制の暴力支配と幕末公儀の正当性喪失に即応して、民衆闘争の一部が既成の一揆、騒動作法を超えて対応していった、に過ぎません。」
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例えば、宗教改革以前の英仏100年戦争を背景にフランスとイギリスには次のような農民戦争の事態が先行的に発生している。農民戦争に須田等の強調する暴力云々の異常性ファッション的な異様性を適応するとどうなるか。お門違いということになるのじゃないですか
  
  引用、世界史講義録
>イギリスで起きたのがワットタイラーの乱。
 ワット=タイラーは指導者の名前です。これも百年戦争中のことで、農民たちは重税で怒り爆発。この農民反乱はロンドンを占領する。
大成功だね。国王は反乱の代表者と会って、農民の要求を聞いた。
>農民の要求がすごいです。農奴制の廃止!
 
 国王はいったんは減税を約束してこの要求を受け入れるふりをしましたが、後でワット=タイラーと会見した際に、だまし討ちで殺してしまった。
それ以後、反乱は鎮圧されていきました。
この反乱の指導者の一人にジョン=ボールという僧侶がいます。この人の残した言葉は非常に有名。
 
「アダムが耕し、イヴが紡いだとき、誰が領主だったか?」
 
 身分制度そのものを強烈に批判していたのです。
W。
須田の挙げた「編年一揆」の中の事例を見ても、やはり、少な過ぎるから、日本限定の特殊性、を異様性として描き挙げることで、数の少ない特殊例を普遍性に十分、昇華し切れていない解説が気になります。
 
>理論的な意気込みにも拘らず、一揆現場の現象論に終始しているようで、一揆現場とその理論化という両者の繋がりが切断されています
 
 次のような視点で混ぜ返すつもりはないですが現時点での良い悪いの判断は別に歴史的実践を経た事実であります。 
 
 いわゆる「ゆきすぎ」の問題  毛沢東選集 第一巻
 革命は、
客をごちそうに招くことでもなければ、
文章をねったり、
絵をかいたり、
刺しゅうをしたりすることでもない。
 そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかでおとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえめのものではない。
>革命は暴動であり、一つの階級が他の階級をうちたおす激烈な行動である
農村革命は、農民階級が封建地主階級の権力をうちたおす革命である。
農民が最大の力をそそがなければ、何千年ものあいだ深く根をはってきた地主の権力はけっしてくつがえせない。
>いわゆる「ゆきすぎ」の行動は、すべて農村で大きな革命の激流によってふるいたった農民の力がうみだしたものである。
こうした行動は、農民運動の第二の時期(革命の時期)には、大いに必要なことである。
>第二の時期には、農民の絶対的な権力がうちたてられなければならない。農会にたいする悪意をもった批判を、けっしてゆるしてはならない。

>あやまりをただすには、度をこさなければならず、度をこさなければ、あやまりはただせないのである
 
 以上を踏まえて、自己流の「甲州騒動(郡内一揆)」全般の解説文へのまず何よりの批判点は次の各項目になります。
1)新暦の1836年9月27日としたのもその一部です。
ウィキ解説の冒頭に新暦が使用されていますが、そのほかは全部旧暦で郡内一揆の開始を旧暦の8月14日としてみたり、8月20日にしています。
 
 新暦に直すと、現山梨県東部地域の郡内一揆勢が蜂起しだしたのは、秋の米の収穫時期に重なっていることが解り、
異常気象で稲の生育具合が絶望的な状況が飢餓状態に陥っている元々が稲作地帯でなく買い米の多い百姓たちをさらに一掃切羽詰った状態にしていることがわかります。
 
2)次に、やはり幕末農村階層分化の進む底辺では飢餓による野垂れ死の状態があったと想います
@座して死を待つくらいなら、立ち上がっていこうとするには人間として当たり前の精神状態です。
 こういう精神的物的実態はどの解説も余り取り上げていません
 
なぜなら、それらがよりどころとする一次資料は警察検察裁判所が一体になった弁護士や報道のない中で、騒動を鎮圧し罪に問う側の作成した官製資料ですが
史記述の客観性を維持するためには、こういう一揆する側の情状酌量面の事情は想像力に基づくものだから、踏み込んで書かないわけです
しかし当時の現場にはそういう事情が厳然としあるから、率先して一揆を主導したものは命をかけたわけです
 
 また、村方、町方の共同体にはそうした戦いを共にして、正義とみなす気風が脈々と流れていたと想います。
 年貢のムラ請負を円滑に処理する責任性には百姓としての自負心が伴わなければならず、それを視されたり、一方的に踏みにじられた時には体を張ってでも、訴えるという独自の精神世界がありました。
百姓の労働が武士を養っているわけで、当時の百姓も解ってるものは解っていたと思います。
 
3)さらにまた、地域に米の蓄えがないのではなく、あるところに行けば米はあるのです。
 米の価値が上昇している傾向を見越して簡単に売らない傾向の発生や、当然、こうした時期は投機行為として買占めが行われ、いっそう市中に出回る米の現象に拍車をかけます。
 
4)以上は幕藩体制の論理からいえば、豪農や大手米穀商と庶民との私的な相対関係吉宗の享保の改革で相対関係不介入の原則を打ち出している)で処理すべき問題となります。⇒民事不介入ともいうべき論理。
こういう支配層として手抜きした横着な論理から、打ちこわしは非合法でも、百姓は領主に年貢さえ納めていれば良いというアバウトな倫理観で、一揆作法の枠内の留まるものという暗黙の了解事項が成立するわけです。現在の資本制の法体系と次元はかなり違うアバウトでハードボイルドな世界です。 
 
@そのくらいのアバウトな支配の風習あっての、世界に類を見ない米年貢制260年の幕藩体制のそれなりの維持だった、と想います。
 
 5)さらに、米年貢制を頑固に維持する支配層に経済的な構造問題が付きまといます。
 
つまり江戸時代の幕府、諸藩を始めとする武士階級の主たる収入は年貢米であり、米価高騰は収入の増加に直結するため、いくら民衆が生活苦に追い込まれようが高米価を歓迎し、商人らの米の買い占めに対する取り締まりもおろそかになりがちであった。(W。越後屋、お主も悪よのう。何をおっしゃいます。お代官様こそ。の世界)
天明6年10月に江戸町奉行が行った米の小売価格設定も、安価な小売価格を設定するのみで元売り価格には手をつけようとしなかった 
(W。年貢米の売買市場に直結するから手をつけない)」⇒W、2022年2月21日追記。元売り価格設定の最大最高の市場は大阪であった。反俗日記で再三指摘する大阪経済の歴史的地盤沈下の出発点はここ。頂点からの歴史時代(近世近代現代)を経た経済の地盤沈下という視座は見渡したところ何処にもなかった。日本経済全体の停滞傾向も大阪程ではないが歴史の趨勢。派手なことは避けて地道にやるのが最善策。オランダを見習えと言いたい。そういえば鎖国時代日本の唯一の交易国は当時最先端の立ち回りのうまい新興国オランダだった。
 井原西鶴「日本永代蔵」参照。「好色一代男」と裏表をなす作品とみる。一方はカネ(物神崇拝)他方はエロ一元化(色欲耽溺)の価値観で一筋に粋を極めようとした。政治文化の上部構造の上澄みが単細胞的価値一元化、視野狭窄であれば、庶民レベルの価値観もそのレベルに振り回される。大塩平八郎は怒りの決起をした。いしん」登場の前には横山ノック知事連続当選。要は民主政治が政策体系への総合的判断から成り立つものであるとすれば(政治潮流に身を置く自分意識は大事)、ほぼその対極に位置するのが大阪人の政治価値基準であり続けた。カジノリゾート大阪誘致。よ~く考えると立地条件として、横浜は成り立つが(山下ふ頭誘致否決)、大阪カジノリゾート(都心からアクセス不利な軟弱地盤最近埋め立て地~地盤沈下、災害対策どうする~~相手にするのは中国観光客。)がコストパフォーマンス的に無理があるのは中学生程度でも解る。
 
同様の問題を日本近世史の専門家佐々木潤之助は、次のような原理的解説をしている。
「>他の商品との違い、年貢米の米は本来売るために作られたものではなく
農民たちが作ったものを領主が無償で取り上げたものであったから
その価格には生産にかかる経費などは含まれておらず
>価格の変動は需要と供給の関係によって大きく変動した
@米価が高くなることは幕府や藩にとっては都合のいいことだったが、
@都市民特に下層民たちにとっては困ったことであった。」
 
 市場の商品価格に生産コストが反映していないとなれば、価格基準はないに等しいから、国家権力のお墨付きの一種の泥棒市のようなもので市場形成には安心して投機的要素が常に混入し、価格は必要以上に乱高下する。⇒W。「いしん」政治台頭の歴史的源流を見る思いがする。
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 清朝でさえ途中で金納年貢に変更している。ウィキ引用。
 地丁銀制
「 地銀(田畑の所有に対して課された税。地税とも言う)の中に丁銀(人丁、すなわち16歳~59歳の成年男子に課された人頭税。丁税とも言う)を繰り込み、一括して銀納させた。
すでに康煕帝時代に一部で行われていた丁銀の地銀への繰り込み、つまり事実上の丁銀の廃止を全国で実施した。
 
 清代には急激な人口の増加が見られたが、その一因は、地銀制の実施により、従来は丁銀を逃れるために隠されていた人口が表に出て正確な人口が把握できるようになったことにあるとされる。
この制度が行われた後には隠す必要が無くなった人々が戸籍に登録されるようになり、前述の人口増加はこれが原因の一端と見られている。」
W。江戸時代の人口増減との比較グラフは数回反俗日記でアップしているので省略。
      農業の発展と人口爆発
順治帝期の1651年の戸籍登録人口は約5300万、
康熙帝期の1685年には約1億1000万、
1700年に1億5000万、
乾隆帝期の1765年には2億、
1770年から1780年にかけて2億8000万、
1790年に3億、
19世紀前半のアヘン戦争直前の1833年に4億を突破した(数字は全て推定」
@この時代の日中にできた人口比率10対1はそのまま今に移行しています
 
>この人口の爆発的増加の最大の理由新大陸原産の作物トウモロコシサツマイモ落花生などが導入された事にある
これらは水がそれほど豊富でなくとも痩せた土地で育つ作物であり、それまで灌漑が不可能なるがゆえに見放されていた山地に漢民族が進出できるようになった。
>金納年貢に転換したから、新大陸原産の作物の大規模な導入も可能になった?
 
 
 ヨーロッパの事情も貨幣地代が経済発展に大きな役割を果たした。
W。以上のような実際に実現できない形式上の米物納方式に拘った日本近世幕藩体制において末端貧乏封建軍事貴族の苦吟が明治維新の内外政策に繋がったことは否定できないが、その精神主義的な側面の伸長とその延長線上の陥穽にも拘わらず、外部環境に恵まれた一時代的な経済発展とその後退によって、日本の政治経済はグローバル資本制下の幕藩体制のような状態に螺旋的に回帰している(ハチャメチャ地方「分権体制」。日本はおしゃべりな独裁国家である。もっとも世界のいわゆる先進国全てが極点を極めているグローバル資本制に翻弄された、あるいはそれに相応しい政治上部構造になっている。

ヨーロッパの事情も貨幣地代が経済発展に大きな役割を果たした。
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農民の前進と荘園制の解体   世界史講義録引用。
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 農村にも変化があらわれます。
イギリス、フランスでは、農奴身分から独立自営農民と呼ばれる自作農民に上昇するものがあらわれてきます。
 身分が上昇する原因は大きく二つある。
 
>一つは商業の発展と関連がある。商業が発展するにつれて、貨幣経済が農村にも浸透してくる。
貨幣経済に巻き込まれて贅沢を覚えてしまった領主はお金が欲しい。
そのために労働地代や現物地代に代わって貨幣地代を導入するようになります
領主の館や直営地で働くことが減ってくるわけだ。
 
 そうすると、領主の農奴に対する人格的な束縛がゆるくなってドライな地主・小作関係に近くなってくる。
それから、農業技術も発展して収穫が多くなってきていますから農奴も一所懸命に働いて年貢を納めた残りを貯めることが可能になります。
お金を蓄えた農民はその地位を向上させていきます。自営農民として成長してくる。⇒W。フランスの各私有農地の形状をみると古い時代の歪な区分が統合されずそのまま残っている。
それ以前の時代には、現物経済中心で農村にはお金そのものがなかったので、お金を貯めることすらできなかったのですから、ものすごい進歩です。」
 
 W。日本の農村は田畑耕作の年貢システムに縛られていたから、普通の百姓は肥やしを購入する程度に留まり、農間労働は婦女子労働に依存して、生産販売ルートを握る商人搾取もあって、余剰は生まれがたく、結局、半自給の状態を越えることはできなかった。
 従って、農村産品は都市市場相手の生産に限られ、農村の市場形成は進展しなかった。⇒問屋制手工業に留まっていた大きな要因。日本の地方の前期ブルジョアジーは問屋制手工業形態で農村と都市の商品生産販売、金貸しルートを握ったもの中から生まれた。
全人口の85%を閉める農村でカネの蓄積、使用で経済をまわしていないのだから、経済発展には絶対的な限界がある
 
 その調整は米年貢体制の経済規模枠の扶養力内に人口調整をするしかない
①その方法は農村の間引き
②江戸大阪京都などの全国都市の墓場化
 
  東京各所の墓地から出土した江戸時代の江戸の満15歳以上人
 平均死亡年齢 (小林和正, 1967年)
 
出土場所   満15歳以上人骨
       平均死亡年齢, 歳      個体数
        男子  女子     男子  女子 
東京各所   43.9  40.6     116   50
 
>江戸時代の満15歳以上の人骨の平均死亡年齢を男子45.5歳、女子40.6歳と推定している。
>江戸時代は一般的に都市部の方が農村に比べて死亡率が高くて出産率が低い傾向にあり、都市部への出稼ぎを担う農村からの余剰人口を減らすことで全体の人口を調整していたと考えられている(「都市アリ地獄説」)
 
 
 W。それ以上のことでもそれ以下のことでもなく、暴力闘争のリアルな実態の方向には踏み込んでいっても論じるに値するものは少ないと考えます。
W。古いものが新しくなり、やがて新しいものが古くなる。17世紀日本から今の日本にこれが当てはまる。

 古代ギリシア古代ローマゲルマン民族ヨーロッパ支配、ヨーロッパ中世。その停滞の突破口は十字軍遠征=対先進イスラム戦争、そして一神教の殉教精神とゲルマンヨーロッパ的野蛮ミックスのニューフロンティア、アフリカ大陸、アメリカ大陸征服による奴隷労働と金銀、大陸占拠。イギリス資本主義の勃興の礎はここにあった。
 そしてここから先の産業資本制の段階から帝国主義の段階における2度にわたる世界市場の再分割戦(2度目は特殊形態だが本質は同じ)は資本制の「論理」抜きには解釈できない。グローバル資本制の時代の特徴は資本の世界性と架空資本の無政府的過剰流動性、グローバル資本支配地域の縁辺における恒常的低強度戦争の持続である(これら「先進」国における偽民族主義愛国主義政治台頭の基盤である~奴は敵だやつを殺せ!政治家は世の中の森羅万象を知っているがごとく語る~~~ドイツが良い例、2回も世界にチャレンジし敗北してやっと6割程度目覚めた~~。グローバル資本にとって平和状況の世界化はカネの儲けに都合の悪い状況である。

>資本制経済における政治体制は各国一様とするのは昔はイギリス、つぎにUSA。この二つはアングロサクソン型社会形態(カナダ、オーストラリア)のセットでフランスは異次元的要素がある。後進ドイツは別コースの官製組織資本主義で急発展したが、2度の世界戦争で叩きのめされた。日本資本制も官製殖産資本制のコースで発展したが、戦前の生産力は列強最低レベルで明治以来、軍需に偏っていた。社会構造も農村の過剰労働人口(そもそも江戸末期から続く狭隘天変地異激しい人口扶養力の低い土地にもかかわらず寄生地主制度の浸食もあって農村の人口扶養力が低い)を吸収できるほどの工業生産力金融力はなかったので近隣対外膨張の道を選んだ。しかし、ドイツ型資本制経済は二度の世界戦争敗北の結果にもかかわらず、資本制経済発展維持、人々へのその成果の再配分のためにも、合目的なのは歴史が証明している。
日本資本主義もプラザ合意受諾、日本バブル崩壊、東西冷戦終結までは上手く回っていたが、戦前の立ち位置に回帰している。「幻滅」と知日家の本によるとそれまで政治の影に日向に日本資本制の行く末のかじ取りをしてきた高級官僚層のアメリカ流政治経済学による洗脳のせいにしているが、自分も含めた民衆の政治的な無知、政治家の見識と力量不足によるところが大きい。中曽根時代に経済力におごって先進国として当然やるべきグローバル資本制に適応する家族革命を怠たり、旧態依然たる社会的価値観で一元化し多様な社会的なエネルギーの発露を抑制する逆向きの制度改革に熱中したことが大きく災いしている。
なお。「幻滅」という本は今まで知らない視座による大事なことが次々に出てくる割には緻密な論理だてが、著者の年のせいなのかできていないので戸惑うばかりで記事にできないままである。