宝暦13年5月5日(1763年6月15日) - 文政10年11月19日(1828年1月5日))
宝暦8年10月2日(1758年11月2日) - 天保2年1月6日(1831年2月18日))
W。同時代の越後と信州在住の人だった。日本独特の近世、コメ年貢制度の幕藩体制から庶民のエネルギーがあふれ出ていた。
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日本型封建社会の特徴は鎖国の下(東アジア地域は鎖国)、幕藩、海外封建社会よりも人口比において比率の多いより軍事貴族を養うためにコメ年貢制度の主軸を数度の改革をしながらも曲りなりにも最後まで維持していたことである。
W。下図の注目点。
明治維新の主体となった薩長土肥勢力の下級軍事「貴族」はその対百姓平民比が大きく、生活再生産をするための十分な資金が供給されず、平民レベルの生活をするものが多くいた。
対百姓平民比が大きくなった主要因は関ケ原の戦いの結果おいて外様大名に位置付けられ以前の領地が一気に縮小されたにもかかわらず、侍身分のリストラが行われないまま、藩は抱え込んだためである。土佐藩の場合は戦国時代の戦乱の渦中で土佐長曾我部が四国全土に勢力圏を拡大し織豊時代に制圧されたが、徳川側の土佐の山之内は過剰な侍を適切に整理しなかった。
なお、この図では毛利、長州藩のサムライ比が表記されていない。推定では薩摩を含む九州地域の11,85を大幅にオーバーしていたものと思われる。
東北地方のサムライ比の多さは史実に当たったことがないのでわからない。
しかし、近代以降の東北地方の困窮は風土的環境以外に、江戸時代に生産性の低い土地にも関わらず、多くのサムライを養っていたことと無縁ではない、と推測する。多くの武士を養ってもともと、困窮状態の百姓が商品経済の発達によってさらに困窮すれば、必然的に高利貸しなどの手段を用いて寄生地主の土地所有が拡大する。
江戸時代の身分制度と人々の暮らし | 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
W。僧侶(227448人~0,76%)人別帖(今でいう戸籍)は寺が請け負っていた。中世ヨーロッパの教会とほぼ似たような役割だろうが、その宗教性は一神教のキリスト教徒違ってあいまい分派的で曹洞宗(臨済宗とともに巨大禅宗派、良寛はここの出身、宗派のヒエラルキーは確立していたとみる。そこから離脱するのは近代につながる人間的行為である。)に端を発した葬式仏教のしきたりが一般化していた。
江戸時代の総人口: 3200万人
百姓 : 約85%
武士 : 約 7%
町人 : 約 5%
僧侶・公家・えた・ひにん : 約 3%
江戸時代の社会構造図 2つの幕藩体制 | Professor's Tweet.NET
W。村役人は世襲的に固定している。良寛の実家は名主兼神職の名家。華美な服装で馬にまたがり、帰るところは遊郭、良寛はこういった青春時代をおくり18歳で名主見習いになったが出奔し地元の光照寺で頭を丸めた。そこに後に師になる用事できていた国仙和尚に出会い随行し玉名の禅寺に行った。
@この図で一番大事なところは、日本型封建社会の再生産は
@石高制と年貢村請負で成り立っていたという点だ。
@世界中で当時、石高制と年貢村請負を最後まで維持していた国はない。
>日本型封建社会の特殊性が近代以降の日本の支配層と住民の基層の心性に引き継がれた。
その1.近代化後発国にもかかわらず統治層とその機構の集団規律は近世社会の発展に逆行する石高制度の維持を汲々と行うことによって養われた。コレが金納年貢に早々と転換していたら、支配層の集団規律は薄れただろう。また統治の根幹の武力支配が早期に揺らいでいただろう。
その2。年貢村請負はとんでもない集団責任社会を農村と農民に押し付ける。検地によって村の耕地の生産力をコメの取れ高に換算し、ある一定の搾取率(ほぼ40%~50%)の石高を封建軍事貴族に上納する。総人口85%、町人層を含めると90%の生産力が自らの再生産の消費を除いた剰余生産を僧を含めた統治階層の再生産に寄与しなければならない。それを一手に責任をもって請け負うのは村役人たちであった。
@したがって、日本型特殊封建社会における日本の農村と農民の間での支配秩序は実に濃密なものであった。
その3。したがって日本近代社会は統治する側とされる側、
>ともに集団規律の異常に高い社会であり、両者は2層に分断されていない。支配層と別の社会が水面下のように2層分解的に存在し続けた中国社会との違いはここであり、今のこの心性空間は引き継がれている。
@図の下の解説は日本型封建社会の特徴をかいつまんで説明している。ただし、反俗日記のような観点はない。
将軍は、大名に領地を宛行(あてが)うかわりに、大名は将軍に軍役を中心としてた大名としての勤めを持って将軍に奉仕するという封建的主従制を基本に作り上げられたものです。これは中国の封建制度、つまり皇帝を諸侯が藩屏(はんぺい)として守るという体制を援用したもので、藩という呼び方も、大名を諸侯と呼ぶのもこれに由来します
>W。中国の歴史は諸侯の反乱によって動いた!皇帝は諸侯によって民衆蜂起(日本ではこの機会がなかった。民衆パワーは歴史に登場していない。)をきっけけに倒された。
兵農分離の過程では、武士は城下町に集住し、村とは切り離されることになります。また、町には武士の生活を支え、村で必要な加工品を提供するために商人や職人が集住します。兵農分離は、農商分離でもあるのです。
>W。「武士は城下町に集住し、村とは切り離されることになります」
反俗日記の観点では重要な指摘。
農村と農民の生産と居場所(ムラ~地域)から、武力が取り除かれ城下町の軍事力に結集された。
さらに、支配的階層の持つ知力が農村地域から引き抜かれ、農民は世界観を得る方途を失いただ目の前のことだけに目を向けざる得なかった。
以上から考えていくと、在農村の寺の知的な役割は大きかったはずだが、中国経由の仏教教義は難しすぎる。自己啓発主眼の教義でもある。良寛さんはなにやっていたのかな?個に生き個に死んでいったのかな?そういうのって宗教の世界性とは別次元にあったと言わざる得ない。
石高制ですね。そうした意味でいえば、石高制は耕地を基準とした江戸時代における価値表示の総体といえるかも知れません。いずれにしても幕府や藩は、直接生産者である百姓から村の責任で年貢を徴収し(年貢村請制)、その年貢米を全国市場に投入することで財政運営を行ない、それらを維持するために対外的には鎖国政策がとられるといった、その政治社会体制の全体を広義の幕藩体制というのでした。
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なお、時間の都合上、海外の封建制における貴族層の割合を具体史実をもって示すことができなかった。
>フランスで4%~5%(大土地所有封建制)
>イギリスはもっと多いだろう。
時間を見つけて調べることにした。