反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

 東洋においては,孔子にしろ,老子にしろ,釈迦にしろ,その思想は「科学」ではなく,「教説」であった.理論ではなく,教えであった.知識的・理論的関心よりも,行為的・実践的関心の方がより顕著

      W。 動画、南船北馬の精神史を活字にして吟味する  福永光司

荘子老荘思想=無為の教えで気だけ切り捨て行くきすすての方向、

有為の教え、積み重ね、努力を積み重ねていく。それに対してでききるだけ切り捨てていく。身軽になる生き方。それで道という意味が人間存在を人間存在たらしめる根源に真理。

ですから十強でいうと上帝といえば最高の神ですけれども、その上帝位を上程位として成り立たせている根源の真理が道(タオ)ということになって、

つまり宗教を宗教として成り立たせている根源の哲学。

Q儒教が人の在り方、いわば人の存在を前提にして、こうあるべきだとというような形の一種の道徳律。

ですから儒教の教えは政治倫理の教え。

Qそうじゃないんだ人間とはもっと根源的に考えると、こういうものなんだ。

宇宙と人間の根源にある心理。

戦国時代は朝起きたら、その日の命が有るかないか保証ないという、そういう状況の中で人間とは何か、自分が生まれてきたということはどういう意味を持つのか、やがて死ぬということは大きな中でどういう意味を持つのか、人間とはどこからきてどこへ行くのか。そういった問題を考えざる得ない状況におかれて道の哲学が成立した。

老荘の哲学のスタート点は自分の命というのがどのようにしてできたのか、その命を全うするためにはどのようにしたらいいか、その日の命が有るかないか保証はない、という状況の中で人間とはないか

>全生保身⇒制を全うし身を保つ

道教の最高の理想。

保身ということに対して儒教のほうでは、極端な話ですが<身を殺す>して<仁>をなす。

荘子では命を最高の価値とする。

政治も軍事も経済も命を全うするために考えられなければならない。

命を全うするためのサーバントでしかない。

それを逆に政治倫理のために命を捨てるということを説く教えは、どこかずれていつのではないか。

せいをまっとうするということ。

コレは老荘の重要な要素ですけれど<身>つまり身体を非常に重視する。

生身の体で命を考えていく。

ですから医学と結びつき、薬学と結びつく。

漢方医学というのはもともと道教から始まる。

です過多老荘思想荘子の段階で生老病死に対して一つの哲学が整理された。

Q儒教が忠孝、仁という一種のイデオロギーに対して全く180度違う

ですから儒教の立場から言えばとんでもない思想

Q反体制ですね

かつて私もそういってそれはお前の同調している老荘哲学というのは大変危険な思想である、と忠告されたことがありますけれども

 

ただし老荘は生を全うすることを根本として、生を全うするためにはどのようにしたらいいかということで

①まず最初は

鬼の道、鬼道というか巫女さんの道。シャーマニズムからスタートする神様にお願いするということで

②そのうちに人間の自力で開発しなければいけないということで、

医学薬学が第2の段階で展開していきます。

③医学薬学で展開していきますが、技術的な問題よりも一体命とは何なのか、という命の哲学が第3の段階。

人間の命というのは宇宙の大きな命の流れ。そこから個の命が生まれてきて一定期間この世の生活を過ごす生まれる前の宇宙の大きな命に帰っていくんだ、という命の哲学

が完成する

こんどは

第④の段階。命を全うするということを現実世界で実現しようとすれば

>やはり政治の良し悪し。経済の問題。社会の在り方。軍事、戦争というような、そういう問題を考えなければ命を全うするという問題は解決できない、というようになって中国では5世紀ごろになって儒教との接合点ができてくる。

>ですから4世紀を境にしてそれまでの老荘道教というのは反体制、体制を批判する側だったが、4世紀5世紀のころから体制内に代わる、

>それから唐の時代のように皇帝の宗教に、道教がなる。そこのところは一応区別しなかればいけませんけれども生老病死ということで命を最高の価値として、命を全うするということを最高の目標にして、政治も軍事もそれのサーバントである、という位置づけをしなければいけない、というのが老荘の哲学。

わかりやすく言えば命を体でとらえるということ。霊魂というかそういった嘲笑的なことではなく生身の体で命をとらえていく、そのためには医学が必要であり薬学が必要であり、良い政治が必要であり、科学技術が必要である。

Q漢の武帝あたりから儒教、それに対抗する道教、それはやっぱり中国文化、あるいは通語句の思想というものの中に、この二つがないまぜになっている?

互いに助け合うという面もあるわけです

荀子では老荘の哲学というのは天を知って人を知らず、という批判に対して老荘の哲学の側からは

儒教は人を知って天を知らないもの

宇宙大自然の中に人間を位置付けている当店でが老荘の思想は過ぎれているけれども、現実世界を処理するとという点からいうと、無能力だと。

孔子の哲学では生老病死に関しては答えが出せない、ということで対立するのですが4世紀5世紀のころから皇帝が道教に信者になる。結局皇帝の不老不死の欲求と道教が一致。

皇帝であっても公の政治的人格としては秩序の形成者、つまり儒教を信奉するけれども個人の生活では道教の信者になる、という現象が5世紀ごろの中国文化の中に出てくる。

Qある人格の中に二つが~。

ですから定年までは儒教でやるけれども定年になって在野の人となれば老荘の哲学、あるいは道教の信者になる、というケースが中国では非常に多い。

Q中国での儒教道教の文化の違い、と中国の北と南の文化の違い。(南船北馬

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W。①参考資料

newspicks.com

あらゆる視点から世界を見る

引用

「有名な「胡蝶の夢」の話のなかで、紀元前四世紀後半の中国の思想家、荘子は、わたしたちを常識的な世界の見方から脱却させようとする

きみがたんなる人間ではなく、本当は人間になった夢を見ている蝶だとしたらどうだろう。人間であることを超えて、あらゆる視点から世界を見るとはどういうことか理解できれば、おのずと人生を存分に体験できる。

わたしたちはすでに、おのずと世界を存分に体験するとはどういうことか知っている。
「フロー」体験をしているときがそうだ。フローとは、なにかの活動に完全に没頭し、今していること──サッカーでも油絵でも読書でも──への歓喜にわれを忘れる心理状態をいう。この超集中状態になることを「ゾーンにはいる」という人もいる。

人生のあらゆることにこれと同じような興奮をおのずと感じられるようになるはずはないと考える。ところが、荘子の見方はまるで違う。すべての視点から世界を見ることを学び、〈物化〉を理解できれば、宇宙のあらゆることへの理解が深まると考えた

荘子』は、いかに世界のあらゆるものが、移動と相互作用、流転と変遷のダンスをたえず踊りつづけながら、ほかのあらゆるものに転変しているかを繰り返し強調している。時がたつにつれ、あらゆるものがおのずからほかのなにかの一部になる。この変化と移行の過程は刻々と起こっている。
草は育ち、死ぬと腐敗し、その〈気〉はほかのものに注がれる。草にいる虫は鳥に食べられ、その鳥は今度はもっと大きい鳥や動物に食べられる。その大きい生きものもやがて死に、腐敗し、大地の一部になり、土や草やそのほかの要素に変化する。
終わりのない変化と転変の循環のなかで、あらゆるものがゆっくりとほかのあらゆるものになる。
鳥が飛ぶのは、翼を用いるという天賦の才があるためだ。風向きや下の地形の変化に合わせて空中に浮いてただよう。鳥はおのずから道に従っている。
魚は泳ぐ。魚もえらとひれを用いるという天賦の才を授かっている。それを使って流れに合わせて水中を動きまわる。魚もおのずから道に従っている。立ち止まって、「よし、流れがこっちに向いているから、ここで向きを変えたほうがいいな。よし、今度はあっちだ。あの岩をうまくよけなくては」などと考えたりしない。
荘子によると、道は、相反するように見えながら、実際は互いに補完しあうこの二つの要素がたえまなく影響しあう過程だという。
陰陽は常に循環して互いにバランスをとる。

道〉に従わないのは人間だけ

変化が満ちあふれる世界のなかに、たった一つ例外があると荘子はいう。全宇宙でただ一つおのずから道に従わないもの。それはわたしたち人間だ。
わたしたちだけが、おのずから道に従っていない。それどころか、流転と変化に抵抗することに全人生を費やしている。
わたしたちは自分の意見が正しい(そして、ほかの意見は当然ながらまちがっている)と言い張る。
これは、わたしたちの天賦の才である理性のためだ。
人間にとって、おのずから道に従うとは本当のところなにを意味するのだろう。
わたしたちはこの「おのずから」とか「自発的に」ということばを聞き、それが意味するところは知っていると考える。なんといっても、わたしたちは自発性をあがめる文化に生きている
わたしたちは、自発性を自分らしくあることや、幸せの向上や、個人の充足感と同一視している。
そのため、「さあ、自発的に自分がやりたいことをやるぞ」などと考えるかもしれない。

技よりもまさる〈道〉に重きを

時とともに繰り返し牛をさばくにつれて、しだいに悟るようになった。さまざまな肉目や腱に逆らうのではなく、皮、肉、骨のあいだのあらゆるすきまを見つけられるようになった

とはいえ、このようにさばくには、考えすぎても分析的に取り組んでもいけない。どの肉も同じではないからだ。荘子によれば、〝技よりもまさる〈道〉〟に重きをおく必要がある。

平日に肉をさばき、週末には羽目をはずしていたわけではない。何度も何度もひたすら肉をさばきつづけるという謙虚な姿勢によって、やがて流れに身をまかせてさばけるようになり、ついに〈おのずから〉の境地に達した。

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W参考資料2

https://www.eco.nihon-u.ac.jp/about/magazine/kiyo/pdf/76/76-25-46.pdf

    初期ギリシア哲学者の実在観

引用

「 プラトン哲学の始まりは「驚異」(θαῦμα,θαυμάζειν)の感情にあるといっている(『テアイテトス』155D).「驚き」が知恵を愛するものの情だというのである.アリストテレスもまた『形而上学』の冒頭で,「すべての人間は,生まれつき,知ることを欲する」と述べ,つづいて哲学の動機は「驚異」の感情にあるといっている.人間は「物事の現にそうあるのを見て,その何ゆえにそうあるかに驚異の念をいだくのである」(『形而上学』983a13-15)というのである.真理へのこうした純粋に知的な関心がギリシアにおける哲学の始まりであり,したがってまたそれは科学の始まりでもあった.

 この点は,東洋の場合とは少しく事情が異なっている.

 

 東洋においては,孔子にしろ,老子にしろ,釈迦にしろ,その思想は「科学」ではなく,「教説」であった.理論ではなく,教えであった.どのようにすれば人生の苦から救済されるか,どのようにすれば身を修め,家を斉へ,国を治めることができるか,どうすれば自然と和して生きることができるか.それは,一言でいえば,人間はどのように生きるべきかについての教えであった.そこには知識的・理論的関心よりも,行為的・実践的関心の方がより顕著である.ギリシアにおいては,「汝自身を知れ」(γνῶθι σεαυτόν)を思索のモットーとしたソクラテスのような人物を除いては,哲学者の思索はもっぱら外なる自然へと向かった,一方,東洋においては,賢者の思索はひたすら内なる心界へと沈潜したといえるだろう