反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

朝鮮戦争前の朝鮮半島と日本列島の時事的な事件の時系列で挙げると、戦争勃発への推移がリアルにわかるが、ロシアウクライナ戦争は違う。資本主義の宿命(欲望)は本国における拡大再生産と相反する利潤率の傾向的低下、なので異なる政治経済体制の世界的攻防、衝突(第1次世界大戦型)が起こる。

 黄 晳暎(ファン・ソギョン、Hwang Sok-yong、황석영1943年1月4日 - 年譜

 「  1964年21歳。韓日会談反対デモに参加。逮捕、警察の留置所で出会った建設労働者(大尉と呼ばれる)とともに南道に行く。新灘津(W。忠清南道)たばこ工場の工事現場で日雇い労働(太田市)。

その後、清州、馬山~(W、慶尚南道)~(W。釜山に近い。1950年~保導連盟事件

1960年3月3.15義挙)。のちに頭部に催涙弾を打ち込まれた高校生の遺体が発見された馬山事件)、同年4月19日の学生革命の導火線。

1970年朴正煕政権は輸出振興のため馬山自由貿易地域を設定し、外国企業を誘致して成功を収めた。のちに設けられた中国の経済特区は、韓国や台湾自由貿易地域を参考

普州などを巡り様々な労働を体験してから禅寺に入るが、息子を探していた母親と出会い帰宅する。

1966年23歳 海兵隊に入隊(徴兵猶予期限が迫って海兵隊に志願)ベトナムに派兵される。

1969年23歳。5月海兵隊除隊。

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     囚人=自伝Ⅱ。W。引用文に見出しを付けた。注釈も入れる

「 日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約 - Wikipedia

W。ファンソギョンは市井の心を大切にする作家である。引用する日韓条約に関する意見はその立場から見た見解で、韓国の一般的な人の意見を反映している、と解釈する。

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数年前から請求権問題に関する中央情報局部長のキムジョンピル(W。長く政治家として政界に関わった)と大平正芳外相の秘密メモの内容が報じられ、日韓会談に対する反対運動が社会各層に広がった。

徴用徴兵はもちろんのこと、国家と個人が植民地時代の被害の保障が、一括してフィリッピンの賠償金額の半分程度の3億ドルで妥結されるというのである。

いうなれば、「日韓国交正常化」させ、東北アジアに冷戦の最後の包囲網を完成させようとする米国の執拗なすすめと仲介によるものだった。

>日韓会談妥結以降、直ちにベトナム派兵が挙行され、米国の強力な影響力を知らされることになった。

パクチョンヒがユンボソンを排除して大統領に就任すると、米国のラスク国務長官が来韓し、日韓会談の内容が明るみになった。

3月ごろから「対日屈辱外交反対、全国民闘争委員会」が結成され、政界、教育界、宗教界、などから広範な反対デモが起こり、

1960年4,19革命(W李承晩追放)4周年記念日を起点とするデモが全国的に拡大した。

60年代の草創期の文化運動は、かつての宗主国日本の影響力が、アメリカの手引きで朝鮮半島に入りこみ

韓国の主導的勢力のほとんどが親日分子といった民族的危機に基づくものだった。⇒W.この辺のとらえ方が韓国の民主化民族主義の一致の原点。日本とは違う点である。日本では民族主義は右翼の専売特許状態。しかしその民族主義アメリカ隷属には関心がない。しかも日本でいう右翼とヨーロッパの移民反対、EU反対の右翼のアメリカに冷淡な姿勢とも異なっている。

日本の右翼は存在論的(ムード的主観的)な日本依拠(ここが絶対基準)によってイデオロギー的には基本的に無節操。また極端な政治主義、領域確保主義、国権主義の一方で経済的な無知、リアル政策論抜きの経済原理主義を特徴とするので、

@右翼が政権を長く担当すると日本経済は窮地に追い込まれる。

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引用に戻る

「そのころ私は複数の大学連合のデモ隊に加わった。~~

やがてデモ隊は京畿道庁裏庭への突入を開始した。

デモ隊が窓ガラスを割って突入しようとすると職員たちは逃げまどいデモ隊はとどまることなく、前進した。

学生や市民がトラックの運転席の屋根をたたいて「***へ行こう」と叫ぶと車はその方向に走り出した。「ゆっくり!」「とまれ!」と大声で叫ぶと車両はその通り動き、

~~通行人に運転できるものがいないかと呼びかけると

必ず何人かの軍隊経験者が現れるのだった。私たちの乗った車はそうして終日走る続けた。

 バリケードがあり憲兵と証警察が自動車と通行人を検問していた。

市民証を見せろというので学生だと答えると、すぐにあちら側に立てと命じた。

彼らは「腕を上げてつま先立ちなる姿勢」を何度も強要してから、近所の派出所に連行していった。

「お前たち車両デモをした帰りだろう」

わたしたちは胸を張ってそうだと応じ、警察は普段なら通行禁止でもビンタをくらわすのに、どうゆうわけは穏やかに対応してきた。

私たち3人は警察車両で連行された。

そこで非常事態宣言が布告されていることを知った。そして深夜まで調査を受け、留置所に収容され2日後に20日間の拘留処分を受けた。

 

>ここで初期の小説「客地」の背景となる世界に案内してくれた「大尉」というあだなの労働者の出会った。

~夕刻、大声で巡査と口喧嘩をしながら中年男はやってきた。

~~彼はうまそうにタバコを吸いながら斜めに寝そべり私に話しかけてきた。

「お兄ちゃん、自己紹介しよう。何人もいるわけじゃないし民主的にやろうぜ。おれはチャンっていうんだ」

私は頭を下げると男は「ところでどうして捕まった?」「デモをやったので」

「あの野郎ども!まだチョッパリ(日本人をさげすむ表現)時代のつもりなんだな」

わたしは彼にどうしてここにいると尋ねた。

「現場監督が伝票をちょろまかすから、いっぱつおみまいしてやったのさ」

~そのころの公共工事の現場ではほとんどワイロによる名目だけの入札制で、利権を得た下請け業者が植民地時の土木工事現場の構造が温存されていた。その後、70年代に鉱山を取材したときも事態は変わっていなかった。

>彼は除隊した海兵隊下士官だった。

工事現場で気骨があって経験豊富だから、一部の同僚が大尉の昇進させたのだ。

大尉は腕がよくさっぱりとした性格だったので、飯場関係者内での信用が厚くみんなが彼を古株の有能な人材と認めていた。年齢は33歳、肩ががっしり張った頑丈な体格で赤みががった日焼け顔であごひげを無造作に伸ばし俳優のバートランカスターに似ていた。

イカの群れを追って、南下すると秋が深まってくる。それからまた農村に戻り秋まで収穫を手伝う。黄金の草原でマッコリをのみ、あぜ道に寝そべって心行くまで昼寝をすると、もはや世の中にうらやましいものは無くなる。そして冬にはまた都市に舞い戻る。

狭い部屋を借りて、、街角やバスの終点や近所の市場の入り口の場所を抑え、ドラム缶と手押し車をととめて焼き芋屋を開く。

 わたしは大尉の話を聞いて胸が高鳴った。

生きるということは、それほど恐れることも苦しむこともなく、空を飛んでいる渡り鳥のように自由だと感じた。

生きてゆくことは、それ自体手応えのある喜びで、苦しい人生もすべてが自分の人性の一部なのだ。のどが渇き飢えたものの食事のように美味しく、すべての瞬間が輝く、そんな人生が他にどこにあるというのだろうか。

 わたしは大尉に連れて行ってもらうことにした。

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>W。日本側の韓国側の意見に反対する人たちは、敗戦日本資本主義の復興は 朝鮮戦争 - Wikipedia

の後方兵站地になることを契機に一気に朝鮮戦争半ばに日本の生産力は戦前のレベルに達した、という側面を見過ごしている。

朝鮮戦争において、太平洋戦争の何倍もの爆弾が投下された。

>韓国側の犠牲者もあらゆる形をとって多数でた。1950年~保導連盟事件

 

朝鮮戦争北朝鮮軍38度線突破前)数年の朝鮮半島、日本列島の争乱、謀略>

W.第2次世界大戦直後、東西対立初期の東アジアの大戦争発生のリアルタイム時系列

W。ウクライナ、ロシア戦争前の状況と似ているところがある。

W。①しかし、北朝鮮軍の南進は、南朝鮮労働系の組織や各地の人民運動に目をつむれば(犠牲にすれば)回避できた。元の38度線に決着した南進は朝鮮半島の人々、中国義勇軍米国兵に犠牲を出すばかりで南進は得るものがなかった。

朝鮮戦争で一方的に物質的利益を甘受したのは日本資本主義と日本国民である。

>当時の東アジアの激動情勢は敗戦国の経済復興として異例の対外好環境だった。

いわゆる55年体制朝鮮戦争の多大な犠牲の上に増長した日本資本主義と日本国民経済の政治的上部構造として

③高度経済成長ベトナム戦争を通じて

@アベ的にいえば、戦争犠牲者や特攻隊の礎。対局でいえば日本国憲法下の平和。

しかしそれらは日本経済成長の大きな要因が東アジアの冷戦体制の枠内における朝鮮戦争ベトナム戦争特需という無機質なファクターであったというよりも手前勝手なイデオロギー的歴史解釈に過ぎない。

それで、今度も同じ位相のイデオロギー対処を国民レベルでやっているのが現状ではないか。

防衛力強化と平和選好対処を超える歴史的趨勢という大きな力が万力のように締め上げる

世界に二度挑戦し敗北したドイツEUNATOの仮面をかぶってウクライナを盾にロシア近辺まで攻め込んでいっている。これを戦略性があると言って良いのかどうか。

>日本は日米安保頼みの米国ハブの2国間、軍事戦略。

>台湾有事というが台湾に米軍は駐留していない。だから、拡大日米安保体制では台湾有事は「日本軍」出動イコールになる。そもそも台湾は中国共産党政権(台湾併合は党是。スローガン。民衆の心とは違う)と国民党が逃げ込んだ国民党の問題(党と党の比重もある)で、本質的に日本とは直接関係がない。中台は経済的な結びつきも強い。民進党台湾にとって経済と政治軍事のバランス、かじ取りが肝。

北朝鮮は王朝にような専制体制で自ら解体して韓国に合流した方が国民のためだ。中国の共産党専制支配は国益を守ることを前提に民主政権に転換した方が良い。ただし普通に考えるとプーチン政権のような空疎な民族主義せいけんができて、東アジア情勢は共産党政権時代よりも緊張する。

>コレの肝は日本国民の多くの富を米国に貢物としてささげる必然性があるということだ。防衛力強化の経済的な基礎はここにある。

④~~~国鉄民営化~~1985年プラザ合意受諾、日本バブル経済崩壊まで継続した。

⑤冷戦体制崩壊後、グローバル資本制に伴う世界市場の拡張と新興工業国の台頭によって

⑥日本資本主義を成長させてきた内外環境は大きく変わった。

@それ以降の日本資本主義の低経済成長は、水が高いところから低いところに流れるような、資本主義経済史の歴史的必然作用(反俗日記では何度も戦前戦後の日本資本主義の世界的立ち位置を数値で示して証明。それによれば日本資本主義は本来のファンダメンタルズにふさわしい位置に回帰しようとしている)の貫徹であって、政治の力や国民の頑張りによって、何とかなるものではなく、もがけばもがくほど国民経済に貧困が浸透する。

@無駄な背伸びはせず、質素、着実に規模にふさわしい政治、経済のパターンを国民間で合意すべきだ。鎖国日本が唯一門戸を開いた質実、合理、自由なオランダのような国造りが日本に最もふさわしい。

>東アジア諸国、韓国、台湾、中国の急成長は

>冷静客観的に見ると戦後日本の経済成長神話を吹き飛ばし

>資本主義とは何ぞや、ということを問うている。

@カネ(資本~よそから流入してもよい)、教育、風土(文化)などの一定条件がそろえば資本主義は地球上のどの地域でも発展する。

@それを目の当たりに証明しているのが上記諸国経済の急速発展である。

@資本主義の宿命(欲望)は本国における拡大再生産と相反する利潤率の傾向的低下、なので本質的にグローバル市場を求める。

自国の欲望が先細ると他国の欲望の喚起をねらって拡大再生産(超過利潤)の領域とする。

 

中国が攻めてくる、ロシアが侵略している。

>本当にそれだけか?

>逆の立場から考えてみる必要もある。

広いまだ開け切っていない中国市場やロシア市場で拡大再生産の自国での行き詰まりをカバーする、それらの国家資本主義独裁の規制を取っ払って自分たちの自由市場にしたいのではないか?

>近代以降の資本主義の歴史の視座から、ヨーロッパ東端と東アジアの情勢を見つめることが必要だ

残念ながらエレファントカーブがそのまま、あてはまり経済地殻の沈み込みが目立つのはこの二つの地域である。日本と旧ソ連地域の「中間層の所得増加率の停滞を下図から差し引く象の鼻の垂れ下がりはもっと高く修正されるという報告もある。それを根拠に経済地殻変動と反俗日記は称している。


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1948年4月3日

済州島四・三事件 - Wikipedia

在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体「西北青年会」⇒W。ファンソギョン客地 ほか五篇』高崎宗司訳、岩波書店、1986。金日成支配当初、北朝鮮西北地域の農村で発生した土地分配を恐れるカトリック地主による農民虐殺事件テーマの問題作。西北青年団は北から逃れてきた青年たちで結成された。    済州島に送り込み、白色テロが行われるようになった。」

   ↓1948年4月19日⇒抵抗は3年以上続く、金時鐘 - Wikipedia

1949年5月26日父の手配でクァンタルという無人島に水筒、炒り豆、五十銭紙幣、学生服を持って逃れる。4日待ってやって来た日本への密航に乗り込むW。この辺の事情は自伝小説に詳しい、脱出前後の模様は迫力ある臨場感同年6月5日に神戸沖(須磨付近)に単身上陸。吹田事件参画(参加者による詳しい証言、研究書が出版されている、国鉄吹田操車場の労働者と豊中方面から行進するデモ隊が結合した大衆行動。当時の時代の雰囲気が解る。)。当時朝鮮戦争の「実質的な勝利」に喜びを覚えるも、

朴憲永 - Wikipedia

朴憲永の処刑に衝撃し、「北共和国への祖国愛」「金日成首領さまへの尊敬」を失う。」

 

②W。済州島事態鎮圧のため出動を命じられた部隊の叛乱。

麗水・順天事件 - Wikipedia

1948年10月19日  朴正煕 - Wikipedia

1948年10月19日南朝鮮労働党に呼応した大韓民国国軍の党員将校が麗水・順天事件を引き起こすと、軍内党細胞であったことが粛軍運動により発覚し11月11日に逮捕ソウル西大門刑務所に送られた[38]。この際、転向して南朝鮮労働党の内部情報を提供したことと、朴正煕の軍人としての能力の高さを評価した白善燁元容徳金一煥ら軍内の要人の助命嘆願により武官免職と共に1949年4月に死刑を免れた。」

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 1949年10月1日、中華人民共和国中央人民政府設立

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  <上記の半島の事態に関連する日本列島での動き>

1947年2月1日 GHQによりゼネスト中止

二・一ゼネスト - Wikipedia

①1949年7月5日 国鉄初代総裁下山失踪⇒轢死

下山事件 - Wikipedia

②1949年7月15日 出勤時、国鉄三鷹駅無人列車暴走死傷事件

三鷹事件 - Wikipedia

③1949年8月17日 東北本線列車往来妨害事件。枕木に乗り上げ列車転覆

松川事件 - Wikipedia

午前3時9分頃、現・福島市松川町金沢)を通過中だった青森上野行き上り412旅客列車。

転覆地点付近の線路継目部のボルトナットが緩められ、継ぎ目板が外されているのが確認された。さらにレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、長さ25メートル、重さ925キロのレール1本が外され、ほとんどまっすぐなまま13メートルも移動されていた。

下山事件三鷹事件に続く鉄道事件として世間の注目を集め、事件翌日には内閣官房長官増田甲子七三鷹事件などと「思想底流において同じものである」との談話を発表[3]した。

捜査当局はこの事件を、当時の大量人員整理に反対し、東芝松川工場(現・北芝電機労働組合国鉄労働組合国労)構成員の共同謀議による犯行と見て捜査を行った。

事件発生から24日後の9月10日、元国鉄線路工の少年が傷害罪別件逮捕され、松川事件についての取り調べを受けた。少年は逮捕後9日目に松川事件の犯行を自供、その自供に基づいて共犯者が検挙された。9月22日、国労員5名および東芝労組員2名が逮捕され、10月4日には東芝労組員5名、8日に東芝労組員1名、17日に東芝労組員2名~~合計20名が逮捕者の自白に基づいて芋づる式に逮捕・起訴されたが、無実を示すアリバイなど重要な証拠が捜査機関により隠されていたことで、死刑判決から5回の裁判を経て逆転無罪で確定した。

広津和郎

宇野浩二

両名以外に

吉川英治川端康成志賀直哉武者小路実篤松本清張佐多稲子壺井栄作家知識人の支援運動が起こり、世論の関心も高まった。

初代宮内庁長官田島道治昭和天皇との対話を書き残した『拝謁記』では、W昭和天皇「一寸法務大臣ニきいたが松川事件アメリカがやつて共産党の所為ニしたとかいふ事だが」「これら過失ハあるが汚物を何とかしたといふので司令官が社会党ニ謝罪ニいつてる」との昭和天皇の発言が記述されており、謀略説を裏付ける初めての史料と目されている