「学校に通い始めて3,4か月くらい経った頃の頃、朝早く凄まじい雷のような音が何回か聞こえてきたかと思うと、大人たちが異常に慌てふためき始めた。
学校に行くと、先生から今日は早く変えるように言われた。
永登浦駅に着くと人々が突然ばらばらと四方に散り、近くの消防署からサイレンの音が聞こえた。自転車の乗ってやってきたおじさんが、街路樹の下の自転車を止めてを振りながら私を呼んだ。「ぼく、こっちに来なさい。そんなところでいると銃で撃たれるよ」
わたしは何が起こったのかわからないまま木の下に行った。次々と飛行機が行きかい、まるで太い竹の棒で床板をたたいているような音がうるさく響いた。
飛行機の音が遠くなると人々は店舗が並ぶ軒下に沿って歩みを図るように進んだり走ったりしていた。
姉たちが学校で聞いてきた話によると戦争が起こったとのことだった。
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W、市民生活と無関係に遂行される内戦の軍事作戦
~~敵の大量殺傷を狙ったリアルな攻防戦では大自然災害のときの公的救助活動の場合とは違って市民は自己防衛するしかない状態に放置される。市民にとって突然の「大災害」なのだが、異常事態に対する主導権は治安警察を含めた軍事機構に移る。軍隊は敵と戦う機構であり、市民を守らない!⇒緊急事態法~~
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「翌日から家の前の通りに避難民が押し寄せてきた。
父が言ってきいてみると、京畿道の北部地域から川を越えてきたとのことだった。
軍人を満載したトラックが列を作って反対方向に進んでいた。
夕方になると、嵐の到来を知らせるかのように遠くから砲声が聞こえてきた。その不穏な気持ちを掻き立てた。
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私たち家族が避難の途に就いたのはソウルが占領された後だったか、前だったか、確実なことは解らない。
ただある夜、心臓がチジミ上がるような爆音が続けて聞こえてきたことを覚えている。
それは後で知ったのことだが、漢江鉄橋を爆破する音だった。
南方の方に避難しようとして鉄橋を渡っていた車両が、すべて橋から滑り落ち、多くの人が無残な死を遂げた。
>当時の李承晩政府は、人民軍がソウル近くの政庁にいりミアリとうげをこえてやってくるまで、「ソウルは最後まで死守する。市民たちは動揺するな」という録音放送をずっと流し続けていた。
>そのくせ権力を持つものは自分たちだけでさっさと南の方に逃げて行ったのだ。
>そうしておいて撤収兵力がまだ漢江以北にいるにもかかわらず、漢江鉄橋を爆破してしまった。
>そのことで民心が怒り心頭に達するや、後に責任者だといって大将だったか誰だったか、一人の将校を銃殺したという。
わたしたち家族は、雨の降る早朝家を出た。下の叔母は大田に夫の知り合いがいるからと、先に南の方に入っていた。
私たちは仁川の方から戻ってくる避難民一行と出会った。仁川方面の様子を聴くと全員踵を返した。背でに人民軍が入ってきたという噂だった。
こうしてぐずぐずとしているうちに人民軍と国防軍が対峙する戦線に置かれるという状況におちいってしまった。
広い道からぼんやり見える農家を訪ねて行って、そこで少しばかりのカネを払い一晩泊めてもらった。葦のござで家族全員が輪になって夕食を食べた。
通り過ぎる軍用トラックの前の席には運転手と指揮官が乗り、後ろには兵士が乗っていた。前方に向かってしぃう銃を構えた変死が何人か一番前に立ち、残りは後ろに座っていた。みな完全武装し木の枝や草の葉っぱをつけた鉄兜を被っていた。
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大人たちはもう避難せずソウルの家に戻ろうと決めたようだった。大人たちは双方の前線が過ぎ去れた都心地に戻るつもりだった。
>私たちは道でであったほかの非難民一行と共に、近くの田んぼの縁にある水路の下に入って夜を明かすことにした。~私たちは排水トンネルの中で二晩過ごした。
W「全員銃殺しろ」
最初の朝早く、軍人が近づいてきた。
暗かったのでどちらの軍人なのか判別できなかった。彼らは懐中電灯で一人づつ照らし様子を探って去っていった。
2日目の早朝、別の軍人がやってきた。彼らは南、あるいは北の偵察隊か捜索隊だったに違いがない。
軍人は土管の中を懐中電灯で照らし、それを振りながらみんな出てくるように言った。
父は私を負ぶっていた。母は二人の姉の手を握り、私たちの横にぴったりとくっついて立っていた。私は父の背中に頭をつけていた。父の大きな息づかいが大きく聞こえてきた。
軍人の中で指揮官と思われる人が質問した。
「お前たちはだれを支持するか。李承晩博士か、金日成将軍か」
誰も勇気をもって答えるものがいなかったが、しばらくして誰かが金将軍だと答えた。
彼はすぐ軍人に連れ去られて暗闇に消えた。
再び返事しろと言われた。誰も返事しないでいると識者が言った。
「全員銃殺しろ」。そうしてカチッと弾を込める音が響いた。
そのとき父が何かを言った。この瞬間の話は、母が後に何回も繰り返したのですごく鮮明に記憶に残っている。
「私たちは政治が解らない善良な市民です。どちらを支持していいのか教えてください」すると彼らは魔法にかかったように何か一席ぶった後、全員中にいるように言った。それ方付近で銃声が聞こえ、いち早く姿を消した。
私たちは暗闇にぺたりと座り込んでいた。
私たちの他に何人か子供がいたが、不思議なことに泣いたりぐずったりするものは誰もいなかった。
母は彼らは国防軍の服を着ていたが、人民軍の偵察隊に違いないといった。
朝見てみると、将軍を支持するといったその人は、農家で何か食べさせてもらっていたそうだ。
>まだ開戦初期だったこともあり、殺気立った南と北の兵士も、市民を傷つけたりしなかったのである。
W。初めて人が殺されるのを見た。
ソウル占領の経緯 ①<北占領下にファンソギョン一家戻る>⇒米軍仁川上陸②<米軍、南軍占領下>
③⇒中国義勇軍参戦<北占領>1951年1月4日1,4後退。ファンソギョン一家列車で南に避難。停戦までテグで生計④米軍再反抗、再び米軍南が占領、ソウルに戻る
1953年7月に停戦が成立
引用
「前線がはるか南に移動した後に、やっと私たちは家に戻ることができたがその途中。
私たちの家族といくつかのグループが小さな風呂敷包みやリュックサックを担いでは死に向かっていた。
母の横に沿って歩いていた私の手首を誰かがそっと握った。仰ぎ見ると、綿入れのズボンをはいた男だった。
私はそのまましばらく歩いていると、母はその男から私を引き離してくれた。
「おやおやどうしたのその服?」といいながら母は私のズボンをひっくり返してたくし上げるふりをした。ズボンの中に何も隠し持っていないことをわざわざ見せていたようだ。
真正面の人民軍の兵士たちが歩哨に立ち、仁川方面からくる人の検問をしていた。
黄色い軍服に幅広の赤い肩章をつけた彼らは銃身にいくつかの穴の開いている
ソ連製の
タバル銃を持っていた。
私たちは列を作って順に通り過ぎて行った。すると前の方から叫び声が聞こえあっという間に、あるヒトが土手の下の田んぼに向かってダダダッと降りて行った。みんなびっくりしてみると私の手を握ていたあの男だった。彼は青々と育った稲が生えた田んぼにドボン飛び込んだ。土手の上に並んで立った二rの軍人が銃を撃ち続けた。その人はそのマン田んぼに倒れて起き上がらかった。
母は後に、タバル銃を持った軍人がその男のズボンを下ろすように言っていた、男は中に軍服を着ていたようだと話した。
橋を渡って少しづつ工場地帯に入っていった。
爆撃でめちゃめちゃに破壊された建物が目についた。髪の毛のように絡まった鉄筋、コンクリートの塊と弾の跡が生々しく残った壁と割れた窓ガラス、まだ煙がくすぶる続けている崩れた屋根、それ方道端に粉々になっても得たトラックもあり、砲身が曲がったタンクもあった。
その上には服もなくなり黒く焦げた人の形だけになった、一体の死体がひっかかっていた。まつぉの後ろにも同じような姿をした物体が一つあった。
戦争が通り過ぎて荒れ狂った町内に戻って感じたことは、2回目のソウル撤収の後に家に戻った時に感じたものと重なっている。
W子供と戦争
北朝鮮軍の軍人たちがことらに向かって行進してきた。
~ショートカットの女性兵士や背の低くまだ幼い私より少しばかり年上ぐらいの軍人もいた。
私は町内の子供たちと駅前まで行って、たくさんの人民軍兵士とタンクに乗っていた兵士を近くで見学した。タンクに乗っていた兵士たちは子供たちを呼んで一人づつタンクの中を見学させてくれた。
~~
大人たちには過酷な歳月と思われたが、子供たちは、見た目には特に怖がったり悲しがったりしていないようだった。
それどころか、自分の仲間と一緒にいる戦場の子供たちは、むしろ喜々として楽しんでいるようにすら見えた。
いずれにせよ遊びの材料には事欠かず、飢え死にさえしなければ、学校に通うよりずっと面白いことがどんなにたくさんあったことか。
空腹だったり体調が悪かったり、悲しかったりしたときは、ちょっとだけ泣いてしまえばそれで済んでしまう。涙でに滲んだ目をさっとぬぐって振り返れれば、生きること自体が活気を帯びてくる。⇒W。反俗日記で何度も取り上げた坂口安吾「堕落論」はここまでで終わっている。
しかし、本当にそれだけなんだろうか。
まるで気づかないうちに凍傷にかかったように、成長するにつけて過ぎ去った日に受けた傷がふいに我慢できないほどうずき始めると、それこそ抜け出すことのできない痛みにもがき苦しむ人々を、私はしばしば見てきた。
私の友人もまた例外ではなかった。
今は故人となってしまったが、彼は一生家族と仲良く暮らすせず、社会にも適応できなかった。
中国人民義勇軍参戦⇒軍慶尚南道テグに避難生計⇒米軍反撃によってW再びソウルに帰る。1953年、朝鮮戦争休戦が韓国の実質的な戦後の始まり、だった。南北分断は固定された。グローバル資本制の圧力と(経済地殻変動)~日本列島はユーラシア大陸側に沈み込んでいる、経済レベルで。ウクライナロシア地域とよく似ている~~東アジア情勢の激動状況によってどのように推移するのか。防戦に回っている中国の経済成長の停滞(中国専制政治史によれば帝国の覇権は伸び切った公共負担の重圧で綻びる)台湾の経済停滞の段階に達すると我慢も限界。東アジアの戦争事態が起こる。
逆も真なり!戦争を絶えずしたがっている、戦争をするしかない社会経済構造にあるものは相手の<脅威>を強調する。
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「わたしたちは、永登浦の破壊された工場や屋根裏と壁だけが残った官舎を仮校舎にして授業を受けた。
年に何度か行き種類もの予防注射をうち、米軍の対民奉仕の車がやってきてDDT散布をした。~そのころの予防注射は腸チフス、天然痘、結核(新型コロナウィルスに対する免疫と関係ある、と言われている)など
~~私は特に腸チフスの予防注射に弱かった。
全身がぞくぞくと悪寒に襲われ、夜になると体が電信柱のように伸びたり縮んだり深い絶望の縁に落ちたかと思うとそこから飛び上がったりした。
学校に行く途中、粗末なバラックが建っている町内に、赤い縄を張り巡らせた区域を見かけることがあった。そこは電線業が広がった地域だといわれた。
>当時の伝染病はなぜか前線から勢いを強めて後方に移っていった。⇒W貴重な指摘である。第1次世界大戦の時のスペンイン風邪パンデミックはまさにそのものずばり。新型コロナはグローバリゼーション<ヒトモノ地球迅速移動>と都市空間が伝染形態と感染のるつぼ、だ。<欲望>の抑制手段がない限り収束はない。
疫病が流行っていると大人たちがはなし、いくらも経たないうちに脳炎も広がり始めた。
今考えてみると、あの騒ぎの中で水道と電気が止まらず供給されたのは、不思議なことだ。
もちろん戦争が都市全体を襲いながら近づいてくる何日間かは電機は止まりはしたが、それでも水道は出続けた。⇒W。電気よりもまず水!水道民営化?いかに人間生存の根本原理から外れているかわかる。
戦線が遠くに通り過ぎた後軌跡のように再び電気が通り、夜10時過ぎには節電だといって、すっかり明かりが消えていたような気がする。
W、その頼もしいインフラの灯りの下、家族そろって虱とりをした下りは割愛する。
W.戦争は自然の大災害と次元が違う、とわかった。人間が発生源だ。だから、朝鮮戦争規模の人的物的ダメージを受けているときでもソウルの水道と電気は通じていた。実にばかげているし滑稽である。ルールある殺し合い。だったら、戦争以外の別のやり方があるだろうに。
引用終わり