「わたしがチュライ基地W注へ派遣が決まったと話すと、機関兵の多くはまずまずだといってくれた。~もっともよいのは戦争に遭遇しないアメリカ空軍や海軍部隊に配属されることだった。
W。参考資料W注
引用
「チュライ空港は、ベトナムのクアンナム省ヌイタイン県にある空港。年間の旅客処理能力は76万人。ベトナム戦争中の1965年にアメリカ海兵隊が建設したチュライ航空基地が基になっている。
W。ベトナム戦争の戦略的拠点、ダナンアメリカ空軍基地の南にチュライ基地。
W。なお、沖縄嘉手納基地からB52戦略爆撃機が直接、ベトナム本土を爆撃した。
私の任務はアメリカ軍道路巡察隊の補助だった。巡察隊の韓国側責任者は下士官で、部下は一行文体の半分にも満たない6名である。全員交代で基地の外郭道路を機動巡察したり、作戦車両を案内したり、道路周辺にある守衛所や橋の安全を時間ごとに確認したりする。
>私が任された地域は最も危険で起動距離の長いとされる1号線(W.ハノイ⇔サイゴン)の周辺だった。
毎日、チュライ基地から海辺のクアンガイまでの道路を往復した。埃の立ち込める中を、鼻先に落ちるプラスティックゴーグルをかけ休む間のなく往来する重装備の装甲車、タンク車、護送車などの車列を安全な道路に案内した。
われわれはいつも朝早く地雷探知機を背負った一個部隊の捜索班とともにちゅっくり作戦道路を探索した。
村落の巡察中の捜索隊から捕虜を引き継ぐこともあり、軍事情報隊へ行くベトナム民間人情報員を護送したり、道路に埋設された罠を発見して道路を閉鎖し工兵隊に連絡することもあった。
>戦場の現場に出かかけてみると、生死の境は常に身近にあった。
後に作戦に参加することになりいっそう生々しく死と対峙することになるが、
>国道1号線周辺においても、ほとんど連日、偶然と幸いが交差しているのだ。
巡察中、埃まみれで暑さをしのぎつつ、渇きを潤すために立ち寄っていたコーラを飲む小さな店があった。
その日もわれわれは濡れタオルを頼んで顔を拭い、アイスボックスに入っていたコーラを飲んで席を立った。
中心街を抜ける前に後方からの爆発音に振り返ると、立ち寄ったばかりの店から黒煙が上がっていた。
我々は慎重に車を戻して離れたところに停車し、手持ちの銃を向けながら店に近づいた。店の半分ほどが吹き飛んでいて四方に死体が転がっていた。負傷者がのたうち回りうめき後をを挙げていた。近距離からロケット砲がぶち込んで逃走したようだ。
アメリカ軍兵士が規則的に出入りする店を狙って白昼攻撃を仕掛けたことは間違いなさそうだった。
アメリカ兵の間に「両足で歩いているベトナム民間人は敵と思え!」という警句が出回っていたのは、そのころすでにこの戦争に対する無策のまま敗北を認めていたことを意味する。
ウエストモーランド司令官の公式見解として
ベトナム全土が自由発砲地帯と布告されたのもそのころである。
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ほかにもすぐ目の前を走っていた輸送トラックがひの塊になり、空中にふっとぶのを見た。対戦車地雷を埋設し、やはり至近距離から電線接触で爆発させたのだろう。こうした小さな作戦は農村地域の地方ゲリラの仕業だった。
↓ ↓ W.ファンソギョンの作風には地に足の着いた軽妙な語り口がある。
アメリカ軍巡察班の運転者は大別して二種類あった。
でこぼこ道の舗装されていない道路を全速力疾走するものと、首をすくめ肩に思いっきり力を入れて注意深く徐行するものである。
早く行こうが、ゆっくりいこうが、道路に地雷が埋まっていれば、どちらも引っかかって死ぬ。
だが、密林から狙撃してくる場合や無線を使って地雷を爆発させる場合は、全速力で通過すると確かに逃げ切れる可能性があった。
だから、我々あはゆっくり走らせる奴に当たると口喧嘩をしたり途中で下車しほかの車に乗り換えたりした。
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いくら海辺の陣地とはいえ、夜になるといつどこから敵が侵入してくるかわからない。
中隊兵力は一個分隊づつ交代で先兵と歩哨兵を防衛陣地に配置し、前方の塹壕で夜を明かす。
夜間に二度ほど急襲された。
真ん中の守衛所に出ていた先兵から、異常な気配を示す無線機の非常信号が2回短く入り、非常事態はすぐ塹壕に知らされた。
我々は交通壕を通って半円形になっている防衛陣地の前方へ移動した。全員が手持ち銃と重火器を配備し待機していたころロケット砲が飛んできた。
しかし、まだ射撃する兵士はだれもいなかった。
敵の射撃が始まり、位置が確認できるまで待機しなければならない。コレは初歩的な鉄則である。
その代わり照明弾がしきりに上空ではじけ、ゆっくり周囲を照らしながら落下する。
ロケット砲が10発ほど落ちる頃になると、射撃地点が掌握できるので対抗砲撃が始まる。そこへ武装ヘリコプターのガンシップが出動する。
捜索小隊が銃剣を銃にさして塹壕から防衛陣地の前に出た。かれらは分隊別に散開し暗がりの中に消えていった。
接近してきた敵はすでに姿を消し闇にまぎれて手持ちの銃で襲撃してきた。
捜索小隊はゆっくり前進し安全地帯を確保し夜の明けるのを待った。
急襲を受けた夜は大抵そのような経過をたどるのだった。
解放戦線の地方ゲリラは抗仏戦争の時から戦っている歴戦の古参兵たちだった。
彼らは自分たちが有利な時や政治的に全世界に戦争の進行を知らせる必要がある場合だけ、犠牲を払い大々的な攻勢に出る。
だがそういうことは滅多になかった。
生きている「敵」の姿を遠方からでも見たのは1回だけ、作戦に出て真昼に捜索偵察しているときだった。
わが中隊は小隊別に分かれて各地域へ投入された。
ジャングルを出ると目の前は青々と稲の育った田畑が、向かい側にはまた濃い密林が連なっていた。
あぜ道の真ん中で、農夫でない戦士が一人で用を足しているところだった。
彼が亡父でないと断定したのは、黒の道胞に円錐型のノンラーを被ってはいるが銃と弾帯を持っていたからだった。
全隊員があぜ道に配置され「伏せ撃ち」を始めると、彼はすくっと立ち上がり、ジグザグに畑の真ん中を突っ走った。
多くの銃口が火を噴いたが、彼は素早く走り去り、いつの間にか密林の中に消えてしまった。兵士たちはいつも中で動く兵士を打つのは難しいといっていた。
「あいつ尻も拭かずに逃げたんだな」のジョークに私も一緒になって笑ったが、相手はアメリカ側にとって」人間というよりも逃した獲物に過ぎなかったのだ。
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対戦車地雷を踏むと
当人の他にいるほぼ全小隊の兵力が殺傷される甚大な被害を被る。
そのため中隊の捜索行軍は、
常に左右と中間に散会するのが鉄則だった。
村に入るときは、
まず左右のブレーキング小隊のうち地形、地物がよい位置にいる小隊が迂回して村の一方の退路を塞ぎ、対角線の位置では別の小隊が後方をsy男子たところで攻撃を任された小隊が村に突入する。
その際、まず経験豊かな戦闘の先兵が前に出て、それを補助する2,3名の先兵が一定の距離を保ちながら後に続く。小隊は分隊ごとに移動し、背後にまた後衛の先兵を立てる。前線と後方があるわけではなくどこから射撃を受けるかわからないからである。
先頭先兵の一時的任務は、通行路の地形地物を観察して「罠」がないかどうかを確認することだった。
また、前方に待ち伏せがないかどうか、その気配を探らなければならない。
先頭先兵は罠の危険に最も晒されるが敵が前方に入る場合は、むしろ危険性が少ない。(W。「戦闘先兵」と翻訳を間違っている。多分、この節の村に入る小隊の陣形に対して潜伏する敵側から見て如何に大きな被害を与えるか、という絵図を頭の中で描き切れていない。先頭の兵士に対して発砲すると、あとに続く小隊全体は即、戦闘態勢に入る。先頭をやり過ごせば小隊をせん滅できる可能性が広ろがる)文意を理解していない。)
敵は通常、部隊の行軍が接近するまで待ち、先頭先兵をそのまま通過させる場合が多い。また先頭先兵が自分の通路上の罠を発見できなかったとしても、その付近の数歩先で未熟な兵士が別の罠に接触する場合も多かったからである。
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W。大岡昇平(本物の小説家)の名作
~日本の戦争文学の最高傑作。簡潔明瞭!ハンスカロッサ「ルーマニア日記」アップしたが手違いで全部抹消になったが、戦争の中の生身の人間性を描いているという点では通じるものがある。
敵の砲撃を受けた場合、その場から後方に逃走すると爆裂にあう機会が多い、前にすすめといってひたすら突撃し帰らぬ人となった寡黙な歴戦の尉官クラスの兵士の姿が描かれてる。その勇者は中国戦線から末期フィリピン戦線の転戦した戦争の先行きに絶望しきって死に場所を求めていた、と大岡は記している。
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「ついに罠がはじけ、爆音と悲鳴と火薬の硝煙が森に立ち込めることがある。
兵士たちは伏せやがて起き上がると、破裂させた本人は飛び散って木の根元や枝に四肢がひっかっている。他の数人は手足を失ったまま、わなわなと震えてうめき声をあげながら倒れている。事態収拾のためまず負傷者から応急措置をし無線でヘリを呼ぶ。~~そこに負傷者や血まみれの遺体を積んで護送すると、兵士たちは全員目を血走らせ敵愾心を燃やすのだった。
>ほとんど気がふれたような状態で村落への侵入が果敢に開始される。
農村と都市の至るところで定期的な軍事行為と共に行われていたゲリラ戦の特性上、両者の区別は難しかった。
60年代半ばを過ぎると、米軍司令部は農村で全国的に「戦略村構想」を繰り広げ米軍が指定した地域を除くすべての森林と田畑、さらには作戦区域内の村落でさえも「自由発砲地帯」を宣言した。
道路は守衛所と防衛陣地に続く戦に過ぎなかった。
夜間になると外国軍兵士はことごとく小銃で身構えている自分の塹壕の外にある広大な地域が敵の掌握地域に兵化することをよく心得ていた。これを米軍司令官は「ヒョウ柄」なる作戦用語で表現した。
それは外国軍が、武装した兵士だけでなく敵対的なベトナム民衆を敵とみなしており、彼らが四方から包囲しているという意味だった。すべての人民を敵とみなさねばならない戦いは最初から間違った戦争だろう。
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しかしそれはベトナムの戦場での幾多の日常的な残虐行為の一部でしかなかった。
またそれは韓国軍にも該当する事件だった。
>私は朝鮮戦争以降、こうした暴力行為が内面化し、
>ベトナム戦争で深まり
>数年後に光州での無慈悲な白昼の殺戮行為が行われたと思っている。
特にベトナム戦争は我々がアジアで他者に対して暴力を行使した最初のケースであり、
ともすれば日本帝国主義の過去を暴きながら自らの過ちを顧みず行った恥ずべき事例だった。
「残らず始末せよ!」という言葉は、相手側の抵抗で死傷者が多く出た村落で、進軍が停滞したとき、当然のように下される命令だった。ある部隊でh人間はもちろんのこと、牛、豚、鶏に至るまで生きているものすべてを全滅させ、見せしめにすることを意味していた。
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ホイアンの外郭にいた旅団の新しい防衛陣地に到着したとき、我々はテト攻勢が始まったことを知った。
わが方は、105ミリ砲を容赦なくはなった。敵はしばらく静かになると密林から韓国語の放送をしてきた。
「みなさん、「私たちはなぜ雀の涙ほどのドルに雇われ、ヤンキーの傭兵なんかになっているのですか?明日は直ちに銃を捨てて故郷に帰りましょう。」
また砲撃が始まった。
しばらくして静かになると、スピーカーが鳴り始めた。「みなさん、砲撃を止めてください。善良な住民を殺さないでください」
こういた戦乱の中、ホイアン市内を北ベトナム正規軍が占領したとの知らせがいり、我々あを投入せよとの命令が下った。
~~~~W。ところが
民間人」風の男は敬礼もせずに今井の書類を中隊長に差し出した。
「転入者を引き受けに来ました」
中隊長は書類に素早く目を通した。
そして名前を呼ばれた私は壕の中からへっぴり腰で立ち上がった。
中隊長は書類を振りかざしながら「先兵をやれる奴はいないのに」中隊長は人事参謀にでもいうように訴えた。相手はミャンマーのジャングル帽をぬいでひらひら扇ぎながら
「死線を超えれば誰でも古参兵になります」
私は前線を離れ、戦場のより深い局面を見せる市場担当に転属することになった。
↓ ↓
後日、急な転属命令の謎は解けた。
母は戦線から届いた「封筒に書かれた部隊の所在地をみて、私が最前線で危険な任務に就いていることに気づいたらしい。
母の頭に浮かんだのは、ペニョン島で中佐か大隊長とかで勤務している近所の青年だった。彼女はまず彼の家を訪ね正確な勤務地を調べた。それから仁川に行き、その当時一月に2,3回程度だった不定期連絡船に苦労して乗り込み、島へ向かった。
彼は義兄(W、姉の夫。両者は高校教師)の高校時代の同級生でもあったので姉たちもよく知っていた。母は民間人はなかなか行けない西部戦線(W.黄海の島)の最前線にまで訪ねていくと、彼は驚き深い感銘を受けたようだ。
そして母に、駐ベトナム司令部を通じて私の転勤をどうにか努力してみようと約束してくれた。