「 1970年の初冬11月13日
空はどんより曇っていた。私はラジオのニュースに大きな衝撃を受けた。
労働基準法の遵守を訴える活動をしていた平和市場(「韓国最初の総合衣類市場で約1,700の店舗が入店しています。もともとは朝鮮戦争時に朝鮮半島北部(現在の北朝鮮)から非難してきた人々が衣類を売る市場でした]
労働者
が、ついに戦いに行き詰まり、労働条件の悲惨さを世に訴えるため、わが身にガソリンを振りかけて自殺と遂げたのだ。(ファンソギョン27歳、1969年ベトナム派兵から帰国27歳。)月刊誌はその後次々と彼の生涯に関する逸話を紹介した。「親友よ。僕を知っているすべての僕よ。僕の知らない全ての僕よ」に始まる遺書の内容と、「僕に大学生の友人が一人いればよかった。そして彼から難しい労働法について教えてもらえばよかったのに」という独白は、多くの人々の心を打った。
特に炎に包まれて最後の絶叫となった「労働基準法を遵守しろ!」「俺たちは機械じゃない!」という叫びは、当時の知識人と大学生に大きな衝撃を与えた。
>今でも私たちの周囲で社会運動にかかわる多くの人々が、「全泰壱(チョン テイル)ショック」で自分の人生が変わったと告白するほどである。⇒W。日本の50年代中期以降の労働運動経緯⇒総評⇒連合に対して韓国の労働運動は長期独裁政権下の圧迫と戦いながら労働組合が作り上げられていった経緯があり異質な側面がある。
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W参考資料①
韓国の労働運動 磯崎 典世
http://www.seikatsuken.or.jp/monthly/hikaku/pdf/200805.pdf
W。参考資料②
韓国の労働排除的政党体制と第16代総選挙
高麗大学政治外交学科 : 教授 崖, 章集
高麗大学アジア問題研究所 : 研究員 朴, 常勲
引用
「80年代初には男性労働者たちを主軸とする大規模工場体制へと転換した。 さらに、 これら労働者たちは1980年代中葉以降、 大々的な民主化闘争に続いて爆発的な組織化と集団的動員の経験をもっており、 この過程で理念的急進性と強い戦闘性を特徴とする労働運動のリ ー ダー シツブの傾向がつくられ、現在まで労働運動の主流としての影響力を維持している。
組織化した社会勢力としての労働運動の政治的影響力は、1997年1月に政府を事実上の機能麻癖状態に追い込んだゼネストの事例によって、 克明に見ることができる。
すなわち制度化された政治領域の内外で、 韓国労働運動の位相と影響力は大きな格差を見せているのである。
比較政治の観点から見ても、 韓国の労働排除的政党体制の継続は注目すべき問題である。
>民主化以降実施された諸選挙において、 進歩的理念あるいは労働者たちの階級的利害を動員しようとした諸政党が獲得した支持率は平均1.1%に過ぎず、 時間とともに支持票の増大が見られるような成長パタ ーンを示すこともなかった。 1.1%の支持率というのは、 組織労働者の10分のlにも満たないのであり、 労働組合として組織可能な全体労働者の50分のlにも満たない大きさである。
産業社会的特性が高度化し、 労働者たちが中心的な社会階級あるいは社会勢力として機能しているにもかかわらず、
韓国ではどうして労働排除的な政党体制を持続することができたのであろうか。
韓国の労働排除的政党体制は
「米国例外主義(American exceptionalism) ならぬ
韓国例外主義の新しい説明体系を必要とするのであろうか。⇒W。日本列島住民には韓国固有の戦闘的労働運動の現場と激烈な政党間競争の展開される共同政治幻想空間の著しい分離状態が理解しがたい面がある。
@政治は政治分野だけに働く<慣性の法則>があるなどという抽象的な説明では判らない。具体的な政治過程を辿らなければ、ピンとこない。
E形成期政党体制の持続的効果
W。書いていることの半分しかわからない。韓国固有の事情があまりにも強すぎる。
W。まず大前提。北朝鮮対峙下の国家保安法(戦前の治安維持法を想起)、独裁体制に抵抗する政党政治活動は米国流リベラル中道政治路線の枠内でしか行えなかったという現実がある。
そういう既存の反政府=反独裁政党に参与することのない、急進民主主義的(1972年平和市場焼身自殺烈士)あるいは社会主義的な政治思想を抱いた政治意識分子が(大学生、知識人)職場、現場レベルに入り御用組合に抗して、あるいは治安警察、暴力団と戦いながら労働者を組織していった戦闘的労働運動の間にはもともと人的組織的物的イデオロギー的大きな開きあったという、事実である。
引用
「韓国において 1987年6月の民主化闘争以降(W、6月民主化抗争へのリアル政治過程⇒全員解雇女子労働者野党本部籠城事態⇒党首国会議員職はく奪⇒出身地、馬山釜山反独裁暴動⇒朴正煕側近KCI長官~~米国流民主主義の思想(自由のため!)によって射殺~~大統領射殺!軍部新大統領。大統領射殺がなければ6月民主化抗争はなかった?それほどに政治世界は労働現場とかけ離れている 。12月の大統領選挙を経て88年4月国会議員総選挙までの約 10ヶ月の時期は、 民主化以降の韓国政党体制の形成期として特徴づけることができる。
この時期は市民が国家権力をめぐる選挙競争で投票できる権利を回復したのみならず、 大々的な大衆動員が行われた。
さらに、 この時期の大衆動員は2つの方向に分岐した。
>1つは、1987年7-9月に集中した労働運動の爆発的動員とその組織化であり、
>もう 1つは、 同年 10月以降本格化した選挙競争である。
@注目すべきは、 大衆動員におけるこの2つの流れは時間的には連続しているものの、 @完全に分離した2つの領域において進行したという事実である。
労働運動の大衆動員は職場に限られ、 都市中産層と保守的マスコミが主導する市民社会からは隔離された。
一方、 選挙競争において大衆動員を主導したのは既存の政党であった。 少なくともこの次元で労働の政治的動員は事実上機能できなかったのである。
さらに、 6月の民主化闘争を主導した運動勢力(大衆的実力闘争であり街頭集会、デモ⇔職場の組合組織化は関連)も既存政党に対して「選択的支持」を表明することによって分裂した。 その結果、政治の空間は既存の勢力によって先取りされ、 労働者たちは一般有権者へと解体された。 この時期の選挙競争が「労働なき民主化」と定義されるゆえんで、ある。」
しかし、 彼らが基盤を置いている政治的支持市場の分画構造は過去のそれとは大きく異なるもので、あったo 韓国ではこれを「地域政党体制Jと呼ぶ。 これは、 全国的に四党体制が成立したにもかかわらず、 地域においてはそれぞれ一党
支配体制の特徴をもっていることを指している。 すなわち、 政党と有権者の連合の構造が「地域Jという地理的分割線によって区画されたのである。 そしてこのような政党体制は、 以後7回の全国的選挙競争においても変化することがなく、 新しい政党の実験も継続して挫折した。 それほど、 形成期政党体制の類型的特性は強い持続性、 変化に対する強い免疫性をもっていたのである。」
韓国政党体制の社会的基盤
W。理解できない。別途に調べる必要がある。
「韓国において地域政党体制が続いているということは、冷戦的国内秩序と権威主義産業化が形づけた国家中心的で垂直的な社会構造に政党体制が結合されているこ
とを意味している。 韓国の諸政党が政治権力に基づいた受恵 一 後援関係に依存して、 地縁、 学縁のような一次的連帯によって政治エリー ト を充員し、 ボス中心の位階的決定構造を特徴とする権威主義期の政党構造を持続させてきたことがその一例である。
、 韓国の政党体制は偏狭な理念的範囲内での垂直的連携に基づいて結束し、 それが水平的機能利益の動員と組織化を絶えず垂直的に分解させる力学として働くことによって、 変化に対して抵抗力をもっ類型的特性を帯びるようになったので、ある。
「韓国は権威主義的構造の上で政治競争のルールと制度のみが民主化 し た一種の
混合体制 (mixed-regime) をもつようになったので、ある。
権威主義的国家の存在、 垂直的社会構造、 冷戦一 反共イデオロギ ーの構造において、 民主化移行期の競争的選挙が労働運動の政治勢力化という結果を生み出すと期待するのは難 し い。」
V民主主義の社会的基盤と韓国の政党体制
「政策と綱領を発展させることを期待するのも難 しかった。
冷戦反共主義の裏返 し でもある自由民主主義を唯一の理念と し て採択することを強要 し 、 自分が急進主義者ではないことを証明 し なければならない政治社会的条件が、 偏狭な理念的代表体制と政党体制を生じさせたのは自然の成り行きであった。
権威主義的国家の存在、
垂直的社会構造、
冷戦一 反共イデオロギ ー構造が、
諸政党に対し てきわめて限られた開拓市(hunting ground) のみを開放 した時、選挙競争が地域政党体制をもたら したのは必然的であった。
VI 脱冷戦と韓国政党体制変化の展望
韓国には「制度政治圏Jと 「非制度圏Jという独特の概念が存在する。
言い換えれば、 政治の制度化 し た領域がきわめて制限的で、
それが包括できない政治的、社会的空間が広く存在 しているということである。
それは、 市民社会の多様な要求と変化にもかかわらず、
@政治的代表体制が冷戦体制下で形成された偏狭な理念的、階層的基盤の上に立っているということを意味する。⇒W。この傾向は韓国だけではなく日本も似ている。東アジアの米国主導ハブの冷戦構造が議会圏の支配政党、マスコミを一定の理念的枠に閉じ込めている。そのことによって市民社会の基本的な要求は分散され支配体制に収斂される。従って何回選挙をやっても国の将来ベクトルを修正することはできない。経済基本動向が行く末を決める。政治関与の範囲は限られている。
>「制度政治圏を構成する諸政党のもっとも大きな特徴は、互いに区別される排他的支持基盤をもっていないという点である。⇒W.韓国の特徴さろう。人口規模の小さな国はみな似たような傾向にあることも確かだ!
「、 政党問の政策的、 理念的違いが政治競争を分画する対立ラインを形成することを難 しくしている。
その結果、 一方で、政党間競争を通 し て参与の包括性が保障できない労働排除的政党体制が続き、
他方、 政党聞の支持市場が地理的にのみ分かれる地域政党体制も持続するようになっ
たのである。⇒W。ようやく韓国議会圏の政治事情がぼんやりとわかってきた。
IMF危機の衝撃が第16代総選挙で階層的対立と して表出できなかったという事実は、 韓国政党体制の変化のためには偏狭な理念的代表体制と垂直的社会構造を主導し てきた冷戦的囲内秩序と権威主義産業化の遺産を共に変化させる必要があることを暗示 し ている。
「冷戦が南北朝鮮の分断と戦争という形で展開 し たため、
>南北が今まで見せてきた政治体制とは異なる何ものかがもたらされることを期 待するのは難 しかった。
@韓国が下からの運動を通 して民主化を達成 し 、
@また下からの運動が強い伝統と して機能 しているにもかかわらず、
@冷戦反共体制の構造(W戦争マシーン)とイデオロギ ーは、
>現在のような政党体制が維持できた社会的基盤の1つであった。」
「そ の後 そのよ う な 政治構造が産業化 と民主化の衝撃 に も耐え ら れた土台 は 、 国 内化された 冷戦的政治、 社会構造で あ っ たとい う 事実で あ る 。
韓国の労働排除的 一 地域政党体 制 も 一種の均衡状態で ある。
IMF危機の衝撃 に も こ の均衡状態 は崩れる こ と がな かっ た 。
しかし、 IMF危機の衝撃が外部か ら加え ら れ、主に経済的次元に限 ら れたのに対 して、
脱冷戦化が及ぼす衝撃 は よ り 構造的で全面的で、 ある」
「 政治学者や労働政党の活動家た ち の多 く は次の2 点 を 指摘 し ている。
1 つは、 現行の小選挙区制 を 政党名簿式比例代表制へと変えな け ればな ら な い と い う こ とである。 地域区で 1 位得 票者のみが当選す る 現行の選挙制度の下では、 労働者の階層投票が現実化す る の は難 し い と い う のである。」
「韓国の非制度圏進歩勢力は、 制度政治圏の特性はその 「保守性」にあるとする。
「このよう に進歩と保守の理念が経済的基礎による区別ではないため、 保守の概念は 「北朝鮮の脅威Jという 誇張された 「仮想の敵」に基づいた反共安保主義に依存している。
進歩の概念も経済的基礎が弱いのは同じで、 既成体制に対しての反対あるいは道徳的イメージが際立つ て強調される。」
る企業別組合体制の制度的条件は、 失業と賃金下落に対する労組の抵抗を個別企業の労使関係の次元へと分解した。
「国際的脱冷戦化が、 グ ローバリ ゼー シ ョ ンのよう に、労働市場において労働運動の影響力を弱める巨視的変化をともなっているという 事実も重要
過去にケインズ主義や社会民主主義が果たしたよう な、労働運動の現実的基礎をもっ理念的、 マク ロ経済的代案を組織することが、 きわめて難しい世界史的条件が今日あるという 事実である。
韓国の労働運動 磯崎 典世 の要点を引用する。
↓
朴正熙政権(61 - 79 年)
「60年代の工業化は労働集約的な軽工業、(繊維・衣服、雑貨などが外貨獲得)中心でしたが、70年代に大統領の独裁を強めた維新体制の下で重化学工業化が推進されていきます。⇒63年に改正した労働法で、複数労組の実質的禁止(政権コントロール下の韓国労総公認)、労働組合の政治活動禁止などを定め、労使協議会による労使紛争の解決を義務づけました。他国とは異なり、労働運動は政党との関係を断絶されたところで活動せざるを得なかったのです。
公務員や国公営企業、国民経済に重大な影響を与える企業の労働者には、団体行動権を制限もしくは認めなくとも良い。
60-70年代の労働組合と労働運動
78-79年(W。朴正煕大統領CIA長官に射殺される。その前のKCIA長官は亡命先のパリで行方不明!)においても軽工業と重化学工業の輸出シェアが各々53.2と36.3
重化学工業化を支えたのは低賃金に依拠した軽工業の輸出+(Wベトナム特需+賠償金)
当時、その産業を支えていたのは、若年の女子労働者で、彼女らによる労働争議が社会問題化(W。日本の新聞も賑わしていた。)
>その背景には、悲惨な労働環境の改善をめざす宗教団体(都市産業宣教会やカトリック労働青年会)の支援や、労働者に自らの権利を説いた労働夜学の存在(学生たちは偽装就職し労働現場にいった)、
@かつら輸出会社YH貿易の女子労働者が、会社の廃業通告に抵抗して野党・新民党党舎に籠城⇒党首国会議員除名⇒出身地の馬山、釜山暴動⇒対応を巡り朴大統領側近CIA長官に射殺。
全斗煥政権(80W光州事態-87 年)の弾圧と抵抗
明確な反体制志向をもつ運動が登場民主化の流れに軍が再介入したという80年の経験から、労働者・大衆を中心とする体制変革の必要性を認識した学生・青年層が、その実現のために労働現場に入っていったことがありました。
>ここに労働運動は組織的に関わっていませんでした。新たに登場した体制変革的な労働運動は弾圧で地下活動を余儀なくされ、一般的な労働運動は企業単位に封じこめられていた。
野党を中心とする穏健な民主化勢力は、労働運動の過激化が軍の介入を招くのではないかと恐れて協議のペースを速め、年内に憲法改正、新憲法の下での大統領選挙が実施されます。「複数組合禁止の原則」を明示し、既存の運動を逸脱する組織に対する法規制を強化
盧泰愚政権(88-92 年)の労働政策
法的には認められない組織であっても、新しい組織が現場で影響力を行使する状況も現れ、こうした「民主労組」勢力が、御用組合の韓国労総に代わる新たなナショナルセンターをつくる運動も進めていきます。
しかし、あまりにも現場での闘争が激しくなり、経済的にも大きな支障をきたすとの理由で反労働キャンペーンが起こり、90年代になると大きな紛争に公権力が介入する動きが再び現れました。
民主労組運動内の路線対立とナショナルセンター結成
強硬派は、大衆を基盤として体制変革、
他方の穏健派は、民主化を徹底化していく方針
W。韓国社会への見方の違いが横たわっている。
穏健派が中心になって、自律的な活動を保障されるよう労働関係法を改正する必要を
掲げ、勢力結集のための民主的なナショナルセンター設立運動が展開され、
1995年に「民主労総」が結成される。
Wこの労働組合の全国団体は下から作り上げたもので日本の総評(朝鮮戦争によるレッドパージに乗じた官公労大企業組合民主化同盟=民同が母体)⇒連合の結成過程と次元が違う。
金泳三政権(93-97 年)期の労働法改正をめぐる動き
1991年にILOに加盟し、OECD加盟を目指す韓国政府にとって、労使関係の転換は国内的問題にとどまらない重要性があったのです。さらに、経済のグローバル化が進む中で、国家主導で開発を行ってきた韓国に対しても外からの自由化圧力がかかり
> 大量解雇を可能にする整理解雇制が、派遣労働制などとともに、労働市場を柔軟化して経済的な効率性を高める制度として導入が議論の対象
二大労総<韓国労総と民主労総>を中心としたゼネストによって、政府与党の意図した労働法を押し戻し、過去の規制は即時またある程度の猶予をもって撤廃されることに確定しましたが、同時に、新自由主義的な制度の導入の流れも明らかになってきました。そして、この流れは外からの衝撃によって加速します。
実施が2年延期された整理解雇制も、すぐに導入しなければいけない状況に至りました
金大中政権の経済政策は、市場原理を貫徹することが至上命題だったので、労使政委員会に参画しても、労働勢力がそこで影響力を発揮することはできませんでした。
民主労総は、労使政委員会を通じた政策形成過程への参加の実効性に疑問をもつようになり、99年2月に委員会から脱退します。
4.労働勢力の隆盛と失速盧武鉉政権(2003-07 年)
民主労総を労使政委員会などに復帰させて協議しようとするよりも、政府主導で対応していこうとします。その間、民主労総は着実に加盟者を増やし、2006年4月には、韓国労総を抜いて最大のナショナルセンターとなりますが、その機関が政府との協議チャンネルをもたない状態が続いています。
経済状況の変化と労働運動 ~の背景には、非正規雇用労働者の急増~
2000年代になると全体の55%を超える。
社会保障制度が確立した後、その財政的な負担が新自由主義的政策への転換を促した先進国とは異なり、韓国の場合は、新自由主義的な経済政策が推進される時期に、社会保障制度の「創設」も課題となったという、一見すると矛盾する特徴
民主労働党の問題
民主労働党は80年代の急進的な民主化運動勢力が結束したもので、当時の2路
線の潮流があります。1つは、非民主的な体制を打倒するには、韓国内の労働者など疎外された階層が中心となった変革を行うべきだとするPD(民衆民主)派で、もう1つは、体制変革のためには冷戦構造を止揚して民族統一をするのがより重要だというNL(民族解放)派です。
後者は、アメリカの影響下で反共独裁が支えられている状態を問題視し、80年代の学
生運動でも主要な勢力を形成していました。民主労働党は、こうした80年代の急進的民主化運動を担った人々が中心になって結成さた。
そして、国内の非正規問題などが大きくなった時期に、民主労働党はNL派が党の主流として全面に出る傾向が見られました。それが、国内問題より民族問題(対北
朝鮮関係)を重視しているとの不信を招いたと指摘されています。
5.現状と新たな方向性
は、第一に、産別労組への転換を通じた交渉力の強化というものです。
民主労総は、所属組合員に産別労組所属への転換を促し、現在は75.6%が産別所属となっています。
そして、例えば、金属産業においては、まだ参加企業は限られているとはいえ産別中央交渉も始まり、金属労組側の強い要求によって、使用者団体も近年発足
したような動きも見られます。
第二に、非正規雇用労働者への対応強化です。
「社会連帯戦略」
具体的には、正規労働者の給与を減額し、年金保険料を払えない低所得の労働者の保険
料を支援するという内容⇒W富裕税導入への布石
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本文引用に戻る
「@彼の死は70年代80年代の労働運動と民主化運動にとって大きな指標となった。
その年の11月から3か月をかけて書き上げたのが「客地」である。
引用
「暴力とピンハネの横行する干拓工事現場で、労働者たちが起ち上がるまでを描いた、黄晢暎鮮烈のデビュー作」⇒W。反俗日記でとりあげた日韓条約反対デモで逮捕され、留置所で出会った海兵隊出身の日雇い労働者「大尉」とともに労働放浪にでて最初に入った飯場の仕事が干拓事業の現場を
だった。そこを舞台にしている。実際の彼らは、その世界で仕事ができて(技術がある)顔の効く大尉の庇護の下、楽な仕事の方に回り(型枠工<大尉>と補助作業<本人>)懸命に働いたが悪天候などの要因でカネにならず、現場監督と通じて建設資材を横流しし、逃走するのである。ファンソギョンは人当たりが良く要領もいい。仕事内容は建設重機も要所要所しか入っておらず、力仕事に頼っていた。
60年代に経験した干拓地の工事現場と飯場での体験をもとに展開する物語であるが、
執筆当時の韓国の現実も、小説で扱った時代とあまり変わらないように思われた。
軍事政権が推進した「経済開発5か年計画」は、
労働集約的な日雇い労働を工場労働に再編成しようとするものだった。
農村は瓦解し、続いてセマウル運動が登場した。
広範囲な小作農と小規模自作農が解体し、彼らを工場労働者に転換したのだ。
こうして大都市周辺に貧民部落とバラックが急造された。それはあたかもヨーロッパの産業革命初期の工場地帯を彷彿させるものだった。
「客地」は全泰壱(チョン テイル)の死に強い影響を受けて書いた作品である。
作品は完成したがどこに発表したらいいかわからない。そこで**が自作詩を発表した創作と批評 - Wikipedia
という季刊雑誌を紹介してくれたのでそこへ作品を送った。
>清進洞(W。「朝鮮の市街地に置かれる行政区画の一つ。 日本の町(町丁・街区)に相当する。)に集まる小規模出版社の代表は、いわゆる4,19世代(1960年4月の学生革命当時、大学生だった世代)を中心に形成されており、外国文学と社会科学を専攻した新進気鋭の知識人が主体だった。
◇「4・19世代」と「386世代」◇ 広島大学 崔 吉城 名誉教授 | 随筆 | ニュース | 東洋経済日報
彼らは言論界をリードしながら、60年第70年代に登場した書き手の作品を季刊誌に掲載し、続いて単行本を出版することで図書市場に新風を吹き込んでいた。
最初に単行本と詩集は出始めたころ、文壇、書店界ではそれが採算に合う商売になるとは思ってもいなかった。単行本づくりは<隙間産業>と称すべきものだった。
専業作家として一人立ちすることも思いもよらなかった。誰かが創作集を出したりすれば、それこそ涙が出るほど感激した。奇跡にも近いことだったからだ。
本の印税どころか雑誌に発表した原稿料さえも、編集者の顔色をうかがいながら、言いなりであり難くいただく。酒の一杯でもごちそうになれば「車代をください」とも言えず、うやむやになるのが通例だった。
50年以降の作家は放浪するルンペンであり、喫茶店や居酒屋を行き来しながら、アルバイトみたいな雑文を書いたり、出版社の時給の仕事をしたりした。教員や新聞社の働き口があれば、運に恵まれている方だった。
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ある日、妻が仕事に出かけ一人息子の世話をしてるとだしぬけに金芝河 - Wikipedia
が訪ねてきた。私は息子を抱いて、彼らに案内されるままに新村の通りにある居酒屋に行った。
するとみすぼらしい身なりの青白い青年が待っていた。 孫鶴圭 - Wikipedia
だった。私たちは店内をはいずり回り一人遊びする息子の傍らで昼酒を飲んだ。
「お前、現場に入ろうとしているんだろう?こいつと一緒だったら助かるんじゃないかな」金芝河 - Wikipediaはそういって孫鶴圭 - Wikipediaを紹介してくれた。
そのころ私は九老団地で働き口を探していたがそのことは話さず挨拶だけにした。
(W自分一人で工場に行く)
工場団地本部に行くと、「戦いながら働こう!」とか「やればできる!」という標語が大きく張り出して有り、その下にさらに「労働力80%きかい20%」と書いてあるのが目に留まった。それだけ団地の当時の状況は、ほとんど労働集約的な仕事だった。日本の下請けとして引き受けた仕事を肉体労働でこなし低賃金にあえいでいたのだ。
当時の日本は、最近の韓国のように、軽工業や多くの人手を要するす事は韓国や東南アジアに下請けに出したり海外の工場に委託していた。そして付加価値の高い先端技術の仕事だけ国内でやっていた。(W1970年代のファンソギョンの見立て通りだとすると、その当時から日本生産資本は海外にサプライチェーンを持っていた。ということはやれることはやっての長期経済停滞だった、ということで構造改革の余地はない。さらなる付加価値製品の創出に失敗し、世界市場における競争相手に負けていったという事実があるだけだ。ゆえに長期経済停滞がある。)
韓国の近代化とは
低賃金を維持するために、農村の土地を持たない農民層に故郷を捨てさせ、都市周辺に集めた安い労働力を養うために、
>穀物の低価格を維持する悪循環のなかにあった。(W、労働力商品の価格はその生活の再生産費で決まる!)⇒日本政府の小麦一括輸入政策もその一種(米価抑えられる)⇒コメ生産ではくえない、⇒都会に集団就職⇒安価な労働力調達。日韓の資本主義の剰余価値の内発的な生産スタイルは基本的に同じ。大きな違いは時系列のずれ。地政学的な位置関係による先発後発の違い。そういう風にシンプルに考えないと韓国経済の急発展は理解できない。
>農民の両親は死ぬ思いで耕作を続け、安い価格でコメを売り、都市へ出た息子や娘は安い賃金で働き、相対的に高いコメを買って貧乏暮らしに苦しんでいた。
>そのころの軍事政権のスローガンは「先に建設、次に分配」だった。
>今でも聞く話だが「パイを大きくして分け合おう!」というのである。中国の鄧小平も同じ趣旨のことを言っていた。
@日本の池田首相は「所得倍増」経済の総量を拡大しその後に分配とは言わなかった。
@先を行くものは楽観的だったのだ。
私たちの間では「民衆」とは何か、との議論がおのずから起きた。
戦後は国民の80%が農民だったが、いつの間にか「1千万の職業」という言葉がはやった。
小作農と自作農は没落し、中農だけが農村に残り、各種のサービス業や行商や都市貧民が増えた。
つまり国民の大多数が労働者、農民、都市貧民、いうなれば一般庶民なのだ。彼らが互いに連体し組織化されたら、独裁政権と戦えるという主張は当然のように思われた。
W。韓国の戦う側の韓国社会の現状分析は、日本の運動圏のようなアジテーションと情勢分析が混在しているようなものではなく、実践に直結するリアルな分析を出し合って、論争する。
わたしはグノの忠告通りある程度の技術が必要で賃金もやや高い工場に就職することにした。(W。日本の光学メーカーのレンズの研磨の仕事)
もちろん自筆の履歴書と兵歴証明書、そして高校の卒業証書のおかげだった。
もし最初に通っていた名門高校をきちんと卒業したら面接ですぐボロを出しただろう。」ある工業高校の夜間部土木科の卒業証書を提示すると、それ以上の質問はなかった。
後日、その工場を止めてドヤに引っ越すと刑事が訪ねてきた。彼は私の住民証」をしばらく見つめてから「通報があったんだ」と告げて帰った。かなりして私の偽装終局を通報したのは仕事をあっせんして切れた李班長だったと知った。
~~~
わたしはグノに工場団地の中でどこの作業条件が最も劣悪で問題が多いか、労働者が最もどこに集中しているか調べてほしんと頼んだ。
私は日本の電子メーカーの大々的な下請けをしている工場に褶曲することにした。
孫鶴圭 - Wikipediaと私は住まいを決めると電子メーカーに急いで履歴書と早津行証明書などを提出した。
わたしはベトナム派兵の経歴と工業高校や幹部の卒業証が、こうした受験において 信頼に値する書類になることを再確認した。
だが問題は 孫鶴圭 - Wikipediaの学歴だった
彼は京畿高校で三銃士(目立った社会政治運動をしたリーダー)の一人といわれていた。くわえてソウル大学の出身なので、それこそ団地のレベルからすればあまりにも無理な学歴の持ち主だった。彼は後にオックスフォード大学に留学もしていたので、自分の学歴をさらに悪化させてしまった。たむなく京畿中学の卒業証明書だけを提出した。
面接担当者は私に何も尋ねなかったが、彼の順番になると上から下までじろじろと見つめていった。
「あんた本当にここに就職する気なの? 京畿中学を出たら京畿高校に行くはずだ。そうしたらそのまま、ソウル大学に入ったはずなのに?君がここに就職しようという魂胆は何かね?」彼は疑われ門前払いされた。かえり道彼は愚痴をこぼした。
「なんだよ!クソ高校じゃ卒業しても就職もできないのかよ」
卒業した学校のために就職できなかったっことは、その後、友人たちの間でしばしば話のネタになり、そこかた京畿夜間部という言葉が生まれ、制度圏(約束された出世コース)に入らずに在野のままだった高学歴者はみんな「夜間部」と呼ばれるようになった。
就職できず入り口でつまずいた彼を置き去りにし私一人で働くわけにはいかない。
彼は今度は用意周到に準備してきた。
ある日、夜間明けに部屋に戻ってくると、彼がなぜか出勤せず待っていた。
「先輩!親の周りに異変が起きたらしい。みんな撤退しようとしている。先輩のところにも来るかもしれないからひとまずここを撤退しよう」「あの本を読むだけの集まりが問題になったらしい」
我が家に帰ると、妻は私が工場から引き揚げてきたと知って喜んだ。
さらに孫鶴圭 - Wikipediaが検挙されたことは数日後周囲から知らされた
私と彼は相談していたので、しばらくソウルを離れることにした。周囲が言うように事態が収まるまで2,3か月はようするに違いない。
妻に相談するとまったく知らない場所に置きより何かあったらすぐ連絡できるものがいるところにしたらという。
「馬山に友達がいるの。その人の弟も文章を書いて本を読むのが好きな中学の国語の先生だから、知らない場所でも心細くないはずよ。」
私は夜行列車で南に向かった。